杉山流の鍼書は数多く残されています。その中でも『杉山流三部書』と呼ばれる医書があります。『医学の大概集』『医学節要集』『選鍼三要集』の三書です。
中でのこの『医学節要集』には、杉山流医学の根幹となる生理学が記されています。杉山流医術を理解するためにも、学んでおくべき医学と言えるでしょう。
Contents
先天のこと

※画像は『医学節要集』京都大学付属図書館より引用させていただきました。
※以下に書き下し文、次いで足立のコメントと原文を紹介。
※現代文に訳さないのは経文の本意を損なう可能性があるためです。口語訳は各自の世界観でお願いします。
『医学節要集』 先天のこと
書き下し文・『医学節要集』 先天のこと
夫れ人の身に先天の元氣と云うことあり。則ち腎間動氣也。これを先天の元氣と云うことは人の身、未だ生ぜず、五臓六腑具らざる先に禀(うく)る元氣なる故、是れを先天の元氣と云う。
易に先天、後天と云うこと有り。伏羲の易を先天と云い、文王の易を後天と云う。先天の易は河図より出でたり。河図と云うものは五行初めて生ずる次第を顕わす也。
五行の生ずる次第は天一水を生じ、地二火を生じ、天三木を生じ、地四金を生じ、天五土を生ず。地六水を成し、天七火を成し、地八木を成し、天九金を成し、地十土を成す。
斯くの如く次第して五行の生ずるに最初に生ずるは水なり。是れ天地四方全く具わらざる以前の事なる故、是れを先天と云う。
『霊枢』経脈篇に曰く、人初めて生ずるに先ず此の精を為すと云り。人の生るること、父の一滴の水氣、母の胎内に入りて、此の水氣根元と成りて、漸々に五臓六腑、一身五体生じて堅まる也。此の水氣は直に腎間の動氣にて則ち先天の元氣也。
人の五臓六腑未だ生ぜざる以前、最初に水生ずる故、天地と人と一理なるを以て是れを先天の元氣と云う。人の身に限らず惣じて鳥獣魚虫の類までも生ずる初めは皆な水也。能く攷(かんが)うべし。
此の腎間の動氣は腹にては臍の下氣海丹田の所なり。
故に越人の曰く、腎間の動氣は臍の下に有りて、十二経の根本、人の命綱なりと『難経』に見えたり。
又『内経』刺禁論に曰く、七節の傍らに小心ありと云えり。其の七節の傍らとは、脊骨の下の端より上へ七つ目の節の傍ら也。大椎より是れを算(かぞえ)る時は十四の椎の傍らに当る。これ腎間の動氣のつどい発する所なり。
然るに何れの書にも腎間の動氣を躍り動く所の動氣なりと論じたり。
然れども、腎間の動氣を臍の下に於いて診るに分明に見えがたき人もあるものなり。然る時は何を以てか腎間の動氣を知らん。
爰(ここ)を以て案ずるに、腎間の動氣を動き躍る動氣とのみにては、其の道理盡きざるなり。
何んとなれば生々子の『赤水玄珠』に腎間の動氣を論じて曰く、動は生元陽の動也とあり。此の意を考るに、動くと陽は一体なり。然る則(とき)は腎間の動氣は人の生ける陽氣なり。其の生ける陽氣は則ち腎中に有る故に一身中の陽の根本は腎中の陽氣なり。
前に言う如く、腎間の動氣の事は生々子の輩に至るまでは古人も是れを見分けること成り難し。
故に腎間の動氣を候うこと詳らかに知るといえども、口伝なれば分明には伝えがたし。然れども大体臍の下に於いて腎間の動氣を医師の手を以て診るに、先ず医師の氣を鎮め其の候う手と心を一体にして考る則(とき)は知るべし。
さて腎間の動氣は腎中の陽氣にして、人の生ける根本なり。故に其の腎中の陽氣を云うに、譬えば燈台に燈火有るが如し。
燈火あるが如しとは譬えば、真中に火燭在る時は其の座敷明らかなり。油尠(すくな)くなる則は燈火自ら微(かすか)なり。微なる則は其の座敷隅々より暗し。油竭て燈火滅(きゆ)る則は其の座敷皆な以て暗し。
案ずるに病人も亦た斯くの如し。腎の臓の陽氣不足せざる則は惣身光(つや)有りて、手足自ら涌(あたたか)也。陽氣不足する者は惣身光失て、腹も空虚になるべし。故に死症に及ぶものは先手足より寒(ひゆ)るなり。案ずるに油不足して燈火微(かすか)なる時はその座敷隅々より暗しと云も亦た病人の腎の陽氣不足して手足より寒ると云も同意なり。
『難経』一の難に曰く、寸口の脈を採りて生死を識り最も寸口の脈絶する則(とき)は死すると云う。何を以て言うとなれば、寸口の脈の有り所は手の太陰肺経の流るる所にして五臓六腑諸々の経絡の氣の聚まりつたう所なるが故に寸口の脈を取りて生死を識る。
又、寸口の脈絶する則(とき)は死すると云う。然れども六脈有りて死すること有り。是れを案ずるに食する所の水穀の氣暫くは保つ者なり。故に六脈あり。
然れども元腎間の動氣竭きる所以にして死する也。
是れを以て攷るに、譬えば草木などを根を剪りて水に挿す則(とき)は花瓶の裏(うち)にて開くことあり。是れ水氣を受けて須臾(しばらく)は保つといえども終には枯る。是れ根なきの故なり。
人も亦た斯くの如く食物の穀氣暫くは保つが故に、六脈有りといえども終には死す。是れ腎間の動氣竭きる故なり。其の陽氣竭きると云うは則ち草木に根の無きが如し。
又、『難経』八の難に曰く、寸口の脈平なりといえども、腎間の動氣竭きる時は死すと云えり。然る時は縦令(たとえ)寸口の脈絶すといえども、腎間の動氣竭きざる則は療治叶うと見えたり。
茲(ここ)を以て考えるに、油有りて燈火不意に滅(きゆ)ることあり。滅(きゆ)るといえども余所の火を以て是れを燈(とも)すときは復た故の如く燈火煽(さかん)なり。
寸口の脈絶すといえども、腎間の動氣竭きざる則は必ず死すと云い難し。燈火油竭きて滅(きゆ)る則は余所の火を以て燈すといえども叶はず。人も亦た此(かく)の如し。腎の陽氣竭きる則は療治叶わずして死すべし。
案ずるに、腎間の動氣を腎の臓の陽氣と云うことは陰中の陽のある意なり。何んとなれば、周易に坎の卦は水なり。則ち坎中連と云いて、上下の卦(爻)は陰にして離れて有り。中は則ち陽にして連なる。是れ陰中の陽に非ずや。
茲(ここ)を以て案ずるに、腎の臓の性は水にして陰也。然る則(とき)は腎間の動氣を腎の臓の陽氣と云うことは、其の理 博(ひろく)して明らかなり。
又『難経』に曰く、腎間の動氣は臍の下に在りて、人の性命十二経の根本なりと云いしは、天一水を生じるの道理なり。凡そ此の腎間の動氣のことは医道の口伝なり。
生命を理解するということ
“生命を理解する”ということは、医学にとっては必須のことです。
当会の講座で常々いうことですが、「医学として治療を行うには、まず生理学が必要だ。」「生理学が基盤となって、その上に病理学が成立する」「病理学に基づいた治療であるからこそ医学といえる。」「それは西洋医学も東洋医学も同じことだ」ということです。
そして東洋医学の特徴として「複数の生理学を包括した医学」であることが挙げられます。
古来より伝統医学においても、生命を理解するための論議が為されてきました。例えば、宋代に発展した学問もその一つといえましょう。その学問的基盤を受けて、金元医学や明医学が形成されたのではないか、と考えます。
その金元医学・明医学を積極的に取り入れた流派のひとつがこの杉山流です。
先天の氣を理解しているか?
さて、本章「先天のこと」では、先天の氣に関する情報が記されています。鍼灸の教育では、先天の氣については、“生まれ持った生命力”であり“腎に貯蔵されている”程度のことしか教わっていないのではないでしょうか?
本章では「霊枢経脈篇に曰く、人初めて生ずるに先ず此の精を為すと云えり。」と、霊枢の一節を挙げます。
「人の生るること、父の一滴の水氣、母の胎内に入りて此の水氣根元と成りて、漸々に五臓六腑一身五体生じて堅まる也。」
「此の水氣は直に腎間の動氣にて則ち先天の元氣也。」と、根源を辿っていくと「父の水氣(精子)」という言葉を用いて、生命の発現を表現しています。
もちろん“生命の発現”そのものは、卵子に精子が出会い遺伝子的に融合することですが、「父の水氣」に限定したのは、水氣≒腎氣に着目したかったからなのでしょう。
とはいえ「先天の氣」を「腎間動氣」という言葉で表現したことには注目すべきでしょう。「腎間動氣」は『難経』八難に登場します。『難経』八難では、腎間動氣のことを「此五臓六腑之本、十二経脈之根、呼吸之門、三焦之原、一名守邪之神。」と示しています。これを以て一つの生理学を成立させたわけです。
また『難経』一難の記載と対照して、八難を説明している意図にも読み取るべきものがあるでしょう。
腎中に蔵される一陽
本章では「先天の氣=腎間動氣」を「腎中の陽氣」として言い表しています。
しかし“腎中の”とはいえ、“陽氣”としてしまうと、前述した「水氣」と矛盾する言葉にもみえますね。しかし、水中の陽であるが故に、陰中に陽を包括した在り様こそが“生命”の本質を表しているようでもあります。
これを易の卦「坎(坎中連)」で以て表現しています。二陰の中にある一陽こそが、この「腎間動氣」として示しています。
さらに生々子(孫一奎)の言葉を借りて、腎中の陽氣を説く内容も興味深いものがあります。「…動は生元陽の動也とあり。此の意を考えるに、動くと陽とは一体なり。然るときは腎間の動氣は人の生るる陽氣なり。」
このように“陽”の躍動する力を以て、生命の発現・生長する力を表現しているのです。
しかしここでさらに矛盾が生じてきます。それは“陽が動を表すならば、その力・存在の現れる様は明確で診ることも容易いのではないか?”ということです。
腎間動氣をどのように診ればよいか?
「腎間動氣」が先天の氣であり、生命力そのものであるならば、この腎間動氣を診ることさえできれば、その人の寿命や予後は手に取るようにわかるはずです。
しかし臨床家ならばわかりますように、ことはそう簡単なものではありません。
腎間動氣を診る部位として、「刺禁論に曰く七節の傍に小心ありと云えり。其の七節の傍らとは脊骨の下の端より上へ七つ目の節の傍也。大椎より是れを算える時は十四の椎の傍らに当る。」とあり、この部位は即ち“命門穴”になります。
言うまでもなく、命門穴の傍らには腎兪穴が存在します。
他にも「此の腎間の動氣は、腹にては臍の下、氣海丹田の所なり。」ともあります。
つまり腰部において「命門(腎兪の間)」、腹部において「氣海・丹田」が腎間動氣を診る診候部として挙げられています。
しかし、前述のようにこの二処を診れば、その人の生命力(寿命や予後なども含めて)が分かるのか?というとそうではありません。
本文にある「腎間の動氣を臍の下に於いて診るに分明に見えがたき人もあるものなり。然る時は何を以てか腎間の動氣を知らん。」ということです。
では、これらの情報は誤りか?というと、そうでもありません。
その理がやはり「腎中の陽氣」ということです。生命の根源たる先天の氣(一陽)は、腎(二陰)中から外に出ることはありません。しかし外に出ずとも、その陽の力は外に自然とにじみ出るものです。その様子を燭台の灯火に譬えているのも非常にわかりやすいですね。但し、現代の電灯・LEDに慣れてしまい、夜の暗闇を知らない人にとってはイメージしにくいかもしれません。
鍼道五経会 足立繁久
先天のこと ≫ 後天のこと ≫ 腹の見様のこと ≫ 食物胃腑へ受け消化道理のこと
鍼道五経会 足立繁久
原文 『醫學節要集』先天之事
■原文 『醫學節要集』先天之事
夫人の身に先天の元氣と云ことあり、則腎間動氣也。これを先天の元氣と云ことは人の身未だ生ぜず、五臓六腑具らざる先に禀る元氣なる故是を先天の元氣と云。
易に先天後天と云こと有。伏羲の易を先天と云ひ、文王の易を後天と云ふ。先天の易は河圖より出たり。河圖と云ものは五行初て生ずる次第を顕す也。
五行の生ずる次第は天一水を生じ地二火を生じ天三木を生じ地四金を生じ天五土を生ず。地六水を成し天七火を成し地八木を成し天九金を成し地十土を成す。
斯の如く次第して五行の生ずるに最初に生ずるは水なり。是天地四方全く具らざる以前の事なる故是を先天と云。
靈樞經脉篇に曰く、人初めて生ずるに先此精を爲と云り。人の生るゝこと父の一滴の水氣母の胎内に入て此水氣根元と成て漸々に五臓六腑一身五體生じて堅る也。此水氣は直に腎間の動氣にて則先天の元氣也。
人の五臓六腑未だ生ぜざる以前最初に水生ずる故天地と人と一理なるを以て是を先天の元氣と云。人の身に限らず惣じて鳥獸魚蟲の類までも生ずる初めは皆水也。能攷ふべし。
此腎間の動氣は腹にては臍の下氣海丹田の所なり。故に越人の曰く腎間の動氣は臍の下に有て十二經の根本人の命綱なりと難經に見たり。
又内經刺禁論に曰く七節の傍に小心ありと云り。其七節の傍とは脊骨の下の端より上ヱ七つ目の節の傍也。大椎より是を算る時は十四の椎の傍に當る。これ腎間の動氣のつどひ發する所なり。
然るに何れの書にも腎間の動氣を躍動く所の動氣なりと論じたり。然れども腎間の動氣を臍の下に於て診るに分明に見えがたき人もあるものなり。然る時は何を以てか腎間の動氣を知らん。爰を以て案ずるに腎間の動氣を動き躍る動氣とのみにては、其道理盡ざるなり。何んとなれば生々子の赤水玄珠に腎間の動氣を論じて曰く、動は生元陽の動也とあり。此意を考るに動くと陽は一體なり。然る則は腎間の動氣は人の生る陽氣なり。其生る陽氣は則腎中に有故に一身中の陽の根本は腎中の陽氣なり。
前に言如く、腎間の動氣の事は生々子の輩に至るまでは古人も是を見分けること成難し。
故に腎間の動氣を候ふこと詳かに知といへども口傳なれば分明には傳へがたし。然れども大體臍の下に於て腎間の動氣を醫師の手を以て診るに、先醫師の氣を鎭め其候ふ手と心を一體にして考る則は知るべし。
さて腎間の動氣は腎中の陽氣にして、人の生る根本なり。故に其腎中の陽氣を云に、譬へば燈臺に燈火有が如し。燈火あるが如しとは譬へば、眞中に火燭在時は其座敷明かなり。油尠くなる則は燈火自ら微なり。微なる則は其座敷隅々より暗し。油竭て燈火滅る則は其座敷皆以て暗し。
案ずるに病人も亦斯の如し。腎の臓の陽氣不足せざる則は惣身光有て手足自ら涌也。陽氣不足する者は惣身光失て、腹も空虚になるへし。故に死症に及ぶものは先手足より寒るなり。案ずるに油不足して燈火微なる時はその座敷隅々より暗しと云も亦病人の腎の陽氣不足して手足より寒ると云も同意なり。
難經一の難に曰く、寸口の脉を採て生死を識最も寸口の脉絶する則は死すると云。何を以て言うとなれば寸口の脉の有所は手の太陰肺經の流るゝ所にして五臓六腑諸の經絡の氣の聚りつたふ所なるが故に寸口の脉を取て生死を識。又寸口の脉絶する則は死すると云。然れども六脉有て死すること有。是を案ずるに食する所の水穀の氣暫くは保つ者なり。故に六脉あり。然れども元腎間の動氣竭る所以にして死する也。
是を以て攷るに、譬へば草木などを根を剪て水に挿則は花瓶の裏にて開くことあり。是水氣を受て須臾は保つといへども終には枯る。是根なきの故なり。人も亦斯の如く食物の穀氣暫くは保つが故に六脉有といへども終には死す。是腎間の動氣竭る故なり。其陽氣竭ると云は則ち草木に根の無が如し。
又難經八の難に曰く、寸口の脉平なりといへども、腎間の動氣竭る時は死すと云り。然る時は縱令寸口の脉絶すといへども腎間の動氣竭ざる則は療治叶ふと見へたり。
茲を以て考るに油有て燈火不意に滅ることあり。滅るといへども餘所の火を以て是を燈すときは復故の如く燈火煽なり。
寸口の脉絶すといへども腎間の動氣竭ざる則は必ず死すと云難し。燈火油竭て滅る則は餘所の火を以て燈すといへども叶はず。人も亦此の如し。腎の陽氣竭る則は療治叶はずして死すべし。
案ずるに腎間の動氣を腎の臓の陽氣と云ことは陰中の陽のある意なり。何んとなれば、周易に坎の卦は水なり。則坎中連と云て、上下の卦は陰にして離れて有。中は則陽にして連る。是陰中の陽に非すや。茲を以て案ずるに腎の臓の性は水にして陰也。然る則は腎間の動氣を腎の臓の陽氣と云ことは其理博して明かなり。
又難經に曰く、腎間の動氣は臍の下に在て、人の性命十二經の根本なりと云しは、天一水を生じるの道理なり。凡そ此腎間の動氣のことは醫道の口傳なり。
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