Contents
日本の腹診術を見直す
改めて腹診を学ぶべく、日本腹診の要訣を収集した『診病奇侅』について紹介します。腹診は日本で発展した診察技術です。実に多くの医家たちが腹診についての教えを残しています。
まずは『診病奇侅』の序文から読んでいきましょう。
※画像は『診病奇侅』京都大学付属図書館より引用させていただきました。
※以下に書き下し文、次いで足立のコメントと原文を紹介。
※現代文に訳さないのは経文の本意を損なう可能性があるためです。口語訳は各自の世界観でお願いします。
『診病奇侅』の序文
書き下し文・診病奇侅 序文
皇国候腹の訣、古聖診法の外に於いて、門径を別に闢き、実に望聞問切を与えて、相い表裏を以て足る。蓋し是れ二百年前、名医の発悟する所、而して後人、其の説を推演して稍(やや)繁する。余、嘗て戢孴して編と為し、以て日用に資する。茲(ここ)に煩を除き要を存し、類して之に次いずる。子弟を俾(にら)み尋繹するにおいて易にす、其の四診の正法に非ざるを以て、故に“奇侅”を以て名とする。抑(そもそも)余また竊(ひそかに)一を得る無きこと能わず。然るに秀庵が謂う所の、口伝を以て(継承)すべし、書を以て伝ずるは不可なりというは、此れ其の敢えて孱入(さんにゅう)せざる所以也。
天保癸卯菊月(1843年9月)、三松拙者(多紀元堅)、存誠薬室(の号)において題す。
※多紀元堅は三松、存誠薬室などの号があるという。多紀元堅の書には『存誠薬室方鑑』とその号を冠した方書がある。
腹診の秘を伝える『診病奇侅』の名の意味
「以其非四診正法、故以奇侅名焉。」
四診とは「望聞問切」であり、本文では四診を正法と定義し、本書で伝える技術技術を四診に属さないものとしている。(腹診は切診に含まれるのではないか?とも思うのであるが…)故に“正”に対して“奇”という文字を用いている。加えて“侅”の字は「並みではない」の意を持つ字である。
正法ではないながらも並々ならぬ術を伝える診法書との意であろう。
本文には秀庵先生の言葉「可以口傳、不可以書傳」を紹介している(「秀庵」とは、おそらくは香川秀庵のことであろう)。「術を伝えるに、書ではなく、口伝をもって伝えるべきであろう」そのココロは、「不敢孱入」ためである。
様々な解釈があるが、一つには教えを受ける側の心構えの問題であると解釈する。
いつの時代も学ぶ姿勢の問題とはあるもので、師からの教えを一分二分しか受け取れないか、八分九分を心に刻み込むのか、または十分から十二分と発展させることができるのか…
他にも口伝を受けるに値する人物を育てる教育システムの重要性なども含まれるであろう。
著者、多紀元堅の略歴
『診病奇侅』(医道の日本社・発刊)には著者の多紀元堅についての情報が記されている。(「各種の診法と本書」石原保秀識より)。
多紀元堅、通称安叔、字は亦柔、茞庭と号す。一号三松。多紀桂山(元簡)の次男である。
幼より家学恢弘の志があり、天保二年、医学所の講師となり、六年奥詰に挙げられ、七年侍医に任じ、法眼に叙せられた。次いで法印に進んで、楽真院と号し、後楽春院と改めた。学識該博、治療亦精妙を以て聞こえ、古島学古、喜多村香城の二家と共に、当時の三名医と称せられた。
安政四年二月十四日歿、享年六十有二歳である。
著書には素問紹識、傷寒論述義、傷寒広要、金匱要略述義、名医彙論、雑病広要、女科広要、薬治通義、時還読我書、同続篇、診病奇侅等がある。
■原文
多紀元堅、通稱安叔、字は亦柔、茞庭と號す。一號三松。多紀桂山(元簡)の次男である。幼より家學恢弘の志があり、天保二年醫學所の講師となり、六年奥詰に擧げられ、七年侍醫に任じ、法眼に叙せられた。次で法印に進んで、樂眞院と號し、後樂春院と改めた。學識該博、治療亦精妙を以て聞え、古島學古、喜多村香城の二家と共に、當時の三名醫と稱せられた。安政四年二月十四日歿、享年六十有二歳である。著書には素問紹識、傷寒論述義、傷寒廣要、金匱要略述義、名醫彙論、雜病廣要、女科廣要、藥治通義、時還讀我書、同續篇、診病奇侅等がある。
同書「各種の診法と本書」石原保秀識より抜粋
元堅の父、多紀元簡もまた高名な医家である。日本医学史において多紀氏は知っておくべき名家である。詳しくは専門家の情報を参考にされたし。
また上記に挙げられる「古島学古、喜多村香城の二家」とは、古島尚質(宝素)、喜多村直寛(栲窓)の医家のことである。
次に『診病奇侅』叙説について触れてみよう。
鍼道五経会 足立繁久
原文 診病奇侅 序文
■原文 診病奇侅 序文
皇國候腹之訣、於古聖診法之外、別闢門徑、實與望聞問切、足以相表裏、盖是二百年前、名醫之所發悟、而後人推演其説稍緐、余嘗戢孴爲編、以資日用、茲除煩存要、類而次之、俾子弟易于尋繹、以其非四診正法、故以奇侅名焉。抑余亦竊不能無一得、然秀菴所謂可以口傳、不可以書傳者、此其所以不敢孱入也。
天保癸卯菊月、三松拙者、題于存誠藥室
腹診術の概論・叙説
この章では腹診の基本・概論について記されているが、基本と侮ること勿れ。丁寧に読み解くことで学び得ることが多いものだ。まずは本文を読んでみよう。
※画像は『診病奇侅』京都大学付属図書館より引用させていただきました。
※以下に書き下し文、次いで足立のコメントと原文を紹介。
※現代文に訳さないのは経文の本意を損なう可能性があるためです。口語訳は各自の世界観でお願いします。
『診病奇侅』の叙説書き下し文
書き下し文・診病奇侅 叙説
東都 三松拙者類次
○胸腹は、五臓六腑の宮城、一身資養の根本、陰陽氣血の発源、内傷外感の由る所にして、古より数多の診法を設けたるも、此の臓腑を知るべきためなれば、胸腹を診するより甚だ親切なるはなし。(対時 ※1)
○外病は脈にて知り、内病は腹にて知るということ、誠に然り。腹は病の本なれば、腹をこころみざる医師は、自由成り兼ぬるものなり。乃至(ないし)は、一年二年にも、腹の厚薄虚実によって、たしかに知れるものなり(白竹 ※2)
○診腹の訣、其の據(より)とするところは、『内経』にては刺禁論、『難経』にては八難・十六難の三篇なり。其の外の篇にもあれども、此の三篇を以て、腹部定むべし。さて『内経』『難経』何にて論ずるぞといえば、先ず最初に平人の常を論じて、次に病変を論ずるなり。『難経』に、離経の脈を論ずるにも、平人の脈を論じて、次に離経を論ぜしなり。(玄悦 ※3)
○療治を巧者にせんと思わば、先ず腹診に心を用うべし。死生を分ち、病の軽重を手近く考え知るは、腹診にまさるものなし。其の腹診を詳らかにせんと思わば無病の腹を知るべし。無病の腹より、之を推して朝夕工夫勘弁せば、必ず其の精当を得べし。怠るべからず。(南陽 ※4)
○凡そ腹診の教えたるや、其の平不平を知るを要とし、病邪の細微を察するに至りては、診者の自得に在りとす。況んや積聚癥瘕、水腫鼓脹の如きは、病形根を堅くし、元氣暗に虚し、正邪相い離れて、腹診には虚を現わさざる者多し。是の症、脈に憑て可治の病なり。然るを腹象に泥んで、駿薬を用うる時は、虚々の戒めを侵す事あり。(対時)
○外感の病は、腹は頼みがたき者なり。傷寒などは邪氣の病なれば、いかほど腹が能くとも、死するものなり。去りながら、傷寒も腹に潤いあって、元氣強きものは、熱は劇しくても醒やすし。元氣弱く、陰分衰え、虚火の亢りたるものは、邪熱と併せて、死症になりやすきものぞ。内傷の病は、腹を第一として考うべし。病症いかほど重くても、腹のよきうちは死なぬものぞ。(良務 ※5)
○内傷の病、腹に滞りのなき事はなし。腹は臓腑の居所なり。故に腹にあらわれずと云うことはなき子細なり。既に病のあらわれざる先より、其の身も覚えず、いつとなく腹に滞り痞え出来て、以後に病証はあらわるるものぞ。故に無病の人にても、腹を考えて、はや合点して、大病さし出づべしとことはり知る也。
※1:対時;『腹診書』、対時、名は(堀井)元仙、其の書は寛保二年に刻す。
※2:白竹:白竹子(その姓氏を佚す。其の書も亦た題名なし)
※3:玄悦:久野玄悦(『診腹口訣』)、または橘玄悦(その書、題名なし)
※4:南陽:原南陽(『医事小言』より)
※5:良務:高邨良務(『腹診秘傳』宝暦中の人)
腹診の基本スペック
上記の「叙説」は少ない文章ながらも、各医家が腹診に対する理解や運用法についてまとめられている。病態と診法の適不適が伝えられている点は臨床家としては学ぶべき情報であろう。
詳しくは当会講座にて解説したので、本記事では略す。
本記事で参考にした『診病奇侅』について
本記事では、医道の日本社 刊の『診病奇侅』を主に参考にさせていただいている。医道の日本社刊の『診病奇侅』については、医道の日本社から発刊された『診病奇侅』に次のような説明がある。
…「……本書は九折堂山田椿庭、其他諸名家の𦾔藏本(森枳園書入本)を底本とし、同じく調元堂若尾某の𦾔藏本、帝國書館本(津山某𦾔藏)、並に畏友大塚敬節、木村長人兩氏愛藏の漢釋松井本等を參照すると共に、尚其疑點に就ては、原本たる腹診書(堀元仙)、一本堂行餘醫言(香川修庵)、醫療手引草(烏巢道人)、内證診法(浅井南溟)、和田腹診錄、及、蕉窓雑話(和田東郭)、臺州腹診錄(萩野臺州)、療治茶談(津田玄仙)、醫事小言(原南陽)、腹證奇覧翼(和久田寅)等に就て、潛越ながら若干之を補訂したのであるが、所謂此底本は、有名なる森枳園先生が嘗て同家々傳の秘本に依って、界欄上に書入れを行われて居る所の珍本の寫である。其事は本書の末尾(第九十三頁)に於ける同先生の記入に依って明瞭であるが、尚臓腑の部位を知り易からしめんが爲には、矢張り同先生の附載された「臓腑部位(第九十五頁)があり、更に味岡三伯の「診腹秘傳」(第百一頁)も添へられて居るのである。診病奇侅の終りに、多紀先生附載の「五雲子腹診法」のあることは、申す迄も無い所である。」……(「各種の診法と本書」石原保秀識より)。‥‥‥‥
同書「各種の診法と本書」石原保秀識より抜粋
とあり、山田椿庭(山田業広)の蔵本を底本としているようである。
この版本には(上記にもあるように)「五雲子腹診法」が付記されている点がありがたい。
松井本について
『診病奇侅』には版によって違いがみられる。一目でわかる違いとしては、和文か漢文かの違いであろう。漢文体の『診病奇侅』は、明治期に刊行されたものである。その理由として、同書「各種の診法と本書」石原保秀識よりには以下のような説明がある。
「…なお、いわゆる松井静子の漢訳本は、我国に於いて特に発達せるこれらの方法(腹診)を、清韓の医にも伝えんがために行われたもので、明治十一(1878年)及二十一年(1888年)、清国に於いて刊行された所のものである。……
(原文:…尚所謂松井靜子の漢譯本は、我國に於て特に發達せる之等の方法を、淸韓の醫にも傳へんが爲に行はれたもので、明治十一及二十一年、淸國に於て刊行された所のものである。‥‥‥‥)」
と、このように説明されている。
「爲に……」と、やはり記載内容に補足があることが説明されており、その内容が文中にある「引、松井本」と付記されている条文である。
鍼道五経会 足立繁久
原文 診病奇侅 敍説
■原文 診病奇侅 敍説
東都 三松拙者類次
○胸腹は、五藏六府の宮城、一身資養の根本、陰陽氣血の發源、内傷外感の所由にして、古より數多の診法を設けたるも、此藏府を知るべきためなれば、胸腹を診するより甚親切なるはなし。(對時)
○外病は脈にて知、内病は腹にて知るといふこと、誠に然り。腹は病の本なれば、腹をこゝろみざる醫師は、自由成兼ぬるものなり。乃至は、一年二年にも、腹の厚薄虚實によつて、たしかに知れるものなり(白竹)
○診腹の訣、其據とするところは、内經にては刺禁論、難經にては八難十六難の三篇なり。其外の篇にもあれども、此三篇を以て、腹部定むべし。さて内經難經何にて論ずるぞといへば、先最初に平人の常を論じて、次に病變を論ずるなり。難經に、離經の脈を論ずるにも、平人の脈を論じて、次に離經を論ぜしなり。(玄悦)
○療治を巧者にせんと思はば、先ず腹診に心を用ゆべし。死生を分ち、病の輕重を手近く考へ知るは、腹診にまさるものなし。其腹診を詳にせんと思はゞ無病の腹を知るべし。無病の腹より、之を推して朝夕工夫勘辨せば、必ず其精當を得べし。怠るべからず。(南陽)
○凡腹診の教たるや、其平不平を知るを要とし、病邪の細微を察するに至ては、診者の自得に在りとす。況や積聚癥瘕、水腫鼓脹の如きは、病形根を堅し、元氣暗に虚し、正邪相離て、腹診には虚を不現者多し。是症脈に憑て可治の病なり。然を腹象に泥で、駿藥を用ゆる時は、虚々の戒を侵す事あり。(對時)
○外感の病は、腹は頼みがたき者なり。傷寒などは邪氣の病なれば、いかほど腹能くとも、死するものなり。去ながら、傷寒も腹に潤あつて、元氣强きものは、熱劇くても醒やすし。元氣弱く、陰分衰へ、虚火の亢りたるものは、邪熱と併せて、死症になりやすきものぞ。内傷の病は、腹を第一として、可考。病症いかほど重くても、腹のよきうちは死なぬものぞ。。(良務)
○内傷の病、腹に滯のなき事はなし。腹は藏府の居所なり。故に腹にあらはれずと云ふことはなき子細なり。既に病のあらはれざる先より、其身も不覚、いつとなく、腹に滯り痞へ出来て、以後に病證はあらはるゝものぞ。故に無病の人にても、腹を考へて、はや合點して、大病さし出づべしとことはり知る也。