『按腹図解』序文より

按腹図解から学ぶこと

『按腹図解』とは、文政十年(1827年)に大阪浪速の太田武経(晋齊)によって著された按摩書です。とりわけ興味を引いたのは「按腹」という技法に焦点を当てている点です。他にも文中に数多くの経穴名が登場することも興味深いものがあります。按摩術もまた経絡・経穴をみて施術していたことがわかります。他にも江戸後期における疾病観が伝わる内容も記されています。

按腹図解の序文

※画像は『按腹図解』京都大学付属図書館より引用させていただきました。
※本文は盛文堂 漢方醫書領布會 発行の『按腹圖解』から引用していますので、京都大学付属図書館のものとは若干の違いがあります。

※以下に書き下し文、次いで足立のコメントと原文を紹介。
※現代文に訳さないのは経文の本意を損なう可能性があるためです。口語訳は各自の世界観でお願いします。

『按腹図解』の序文

書き下し文・按腹図解 序

千盤破(ちはやぶる)神代に大已貴命(おほなむちのみこと)少彦名命(すくなひこなのみこと)と力を戮(あわ)せ心を一にして天下(あめのした)を経営(おさめ)たまひ、復た顕見(うつしき)蒼生(あおいもくさ)また畜産(けもの)などの為に、其の病を療(おさ)むる方(みち)を定させ給(たま)へり。しかと瑞籬(みづがき)の久しき世々を経て久米の岩橋中絶えしまま(※1)、後瀬山(のちせやま ※2)後の世に其の術伝わらず。時世移りて金刺宮(※3)の御代に言佐敝(ことさえく)百済国より五経博士、暦博士、医道博士、採薬師等を始めて召し給ひしより、樛木の弥継嗣(いやつぎつぎ)に朝庭よりも人を唐土に遣し凡百の技芸を学習させたまふの故由は代々の史に見へたり。我医道も又唐土より伝へしにこそ、然るれば導引按蹻の術も同じく伝来しにや有ん。
又は皇国にて発明せし人有しに母やあらん。三栗の(※4)中昔の頃その術の世に行れし証は、『栄花の物語』に腹とりの女ということが見えたり、されど此の物語に七百歳余往古の事なれば、其の技は伊香保の沼のいかなりしや知るべからず。
又、彼の邦にも最上代には専ら行れしよしは、医籍の親と崇る『内経』という書に見えたり。されど彼処にもいつから廃れしとしられて後世の医籍には絶見へず。然るに我が大御国(おおみくに)に玉匣(たまくしげ)二百年あまりこなた誠に安国の安穏(やすらか)に科戸(しなど)の風の荒振(あらふれ)綿津見(わたつみ)の波の騒動(さわぎ)も絶果て治たまひ福(さきわい)給へる。御世の御蔭に隠れて天下の蒼生(あおいもくさ)尊(たかき)も卑も甚(いと)静なる世を楽しむ此の御時を得て、萬(よろず)の廃れたるが興らざるもなく、千々の絶えたるか継がれぬも將(はた)あらざめる程に我が医道も又しかなり。是に因りて其の道に精しき書も、技に委しき人も其の名聞ゆる野辺の蔓林(かずらはやし)の木葉と世に乏しからず。
誠に此の道全備(そなわれり)と謂うべし。さるを橿実(かしのみ)の独り此の導引按蹻の術のみ古衣をうち捨て、真木柱、誰取り立つる人も無かりしに、葦垣の近き年頃内日指(うちびさす)都の医士、香河氏、賀川氏の二人より勝れて我医道を石上(いそのかみ)古きに復(かえ)れり、其の医論(あげつらい)の除波(なごり)此の術(わざ)に及せり。故に世の人、二子を以て此の術を再興祖(またおこせるおや)と思へり。
されども著書をみれば香河氏は療病の末助(すえのたすけ)とし、賀川氏は養妊(こうます)の本務(むね)とす。その旨意(むね)、甚(いと)齟齬(たがえ)る而已ならず、共に岩淵の深理(ふかきことわり)を極得しにあらねば其の末流(すえながれ)を汲徒(くむひとびと)をや。
又、空蝉の世に此の技を業(なり)とする人多くは盲人(めしい)寡婦(やもめ)或いは流落家(はふれひと)貧学(まずしきもの)医生輩(まなびのともがら)、此の技を以て糊口(よわたり)の資(たつき)とするに過ず。是に因りて此の術をするを倭文手纒(しづたまき)甚(いと)卑しめりさる故、識見人(よきひと)は此の術(わざ)をしも耻(はぢ)且つ悪(にく)む事にはなりにけり。おのれ將(はた)初学(ういまなび)の程は世人と同じく此の術を卑しみしが齢三十歳の頃、重き病にかかり、右往左往(とやかく)持扱(もてあつかい)しに、些許(つゆばかり)の験(しるし)もなく、烏珠(ぬばたま)の夜に日に添いて痛くなやましく、今は玉緒(たまのお)も絶えなんと思いしに、最(いとも)恐惶(かしこき)両神(ふたかみ)の靈(みたま)の恩頼にやよりけん。不意(ゆくりなく)この術を思い得たりしまま、衣手(ころもで)の一向(ひたすら)に自ら試(ここみ)しに如此(さばかり)の劇疾(やまい)も残雪(のこれる)の春の日に中りて消ゆるが如く、苅萱(かるかや)のみだれ心地なん頓に癒(さわやぎ)しかば、始めて此の術にかかる奇効(くすきいさお)あるを識り得しより、飛騨工(ひだく)うつ墨縄の一すじに思い起こして夜に日に心を研くこと三歳(みとせ)許(ばかり)、始めて其の大旨(おおむね)を得るに似たり。
されば、是れを世の病客(やまいひと)に試むるに其の験(しるし)勇名(いさな)取り響きの声に応うるが如し。此のことを知り聞き伝えて遠近の人々、是を乞い是れを学ぶ人、璞(あらたま)の月に日にいと多(さわ)なれどいかがはせん。
此の術は施(なす)も教(おしゆる)も急にすべき技ならねば、一日に幾人をかは療せんさるから、是を書にかき著し図をさへ添て徧く世の人にも此の掲焉(やさしき)術(わざ)を告げ知らせ將(はた)天下(あめのした)諸人(もろびと)のいたく疾病(やまい)に苦痛を和(なご)め、婦女子までにも容易(たはやすく)此の術を教諭(さと)しなば、上は雑豆臘(さにつらう ※5)君と親につかふるに至り深く、中は福草(さきくさ ※4)の身をやしない健やかにして長生し、下は可愛子孫(まなこなすこまご)を慈養(いつくしみいかす)便(よすが)ともならば彼の天地(あめつち)の化育(めぐみ)を賛(たすくる)と謂いし片端(かたはし)ともならでやはとなむかくいふは。

文政十年(1827年)二月十五日 押照浪速人 太田武経

※1…「久米の岩橋」とは、大阪府にある岩橋山に現在にも残る石造物。その伝承は、役小角が一言主神を使役し大和葛城山と金峯山をつなごうとしたが、完成途中のままになっている。この途中のままの状態を“久米の岩橋中絶えし”として序文の言葉に用いられている。
※2…「後瀬山」おそらくは福井県小浜市の後瀬山城のことか。「後瀬山は『万葉集』の歌枕となった名山である……街道を通じて若狭に入ってきた都の洗練された文化は後瀬山城に集い、若狭に文芸の花を開かせた。」(日本遺産ポータルサイト;後瀬山城跡より)
※3…「金刺宮」とは磯城嶋金刺宮であろう。第29代欽明天皇が都である。
※4…「三栗の」「さきくさ」はともに“中”にかかる枕詞。「さきくさ」は「福草」ではなく「三枝」が通例らしい。
※5…「さにつらう」、赤く照り映えるの意。本文では「雑豆臘(さにつらう)」と当てている。

雅な序文から伝わる太田武齊の意

序文は和文を主体とし、日本の神話から日本の歴史・風俗に関する知識をふんだんにちりばめて序文が記されています。太田氏が按摩という仕事に於いて相応の教養を要する、という意志・心意気を感じるようでもあります。変体仮名(崩し字)で記し発刊したこともその趣意の表われでしょうか。

久米の岩橋をみに…

余談ながら文中に登場する「久米の岩橋」とは、大阪府にある岩橋山に現在にも残る石造物のことです。『按腹図解』をみてちょっと興味が湧いたので、実際に「久米の岩橋」をみに岩橋山に足を伸ばしてみました。

葛城二十八宿修験 岩橋山行所 岩橋山にある久米の岩橋
写真:岩橋山山頂付近にある“久米の岩橋”。葛城二十八宿修験、岩橋山行所にある。
中絶えし久米の岩橋
写真:横からみた岩橋。中絶えし岩橋のようすがよくわかる。

その「久米の岩橋」にまつわる伝承は、役小角が一言主神を使役し、大和葛城山と金峯山をつなぐ橋を造らせた…という内容のもの。この「久米の岩橋」、古来より有名であったようで、多くの和歌にとり上げられています。

葛城や久米路にわたす岩橋のなかなかにても歸りぬるかな。(後撰、九八六)
岩橋の夜の契りも絶えぬべし明くる侘しき葛城の神 (拾遺、一二〇一)
岩橋を夜夜だにも渡らばや絶え間やおかむ葛城の神 (狭衣物語)
中絶ゆる葛城山の岩橋はふみ見ることもかたくぞありける (後拾遺、七五八)
葛城や久米路に渡す岩橋の絶えにし中となりや果てなむ (新古今、一四〇五)
……

井出至氏「石橋と岩橋」より(『萬葉』第四十九號,昭和三十八年十月)

このことからも分かるように、太田氏は医学のみならず、神話や詩歌・歌集なども嗜んでいたと推察することができます。

鍼道五経会 足立繁久

原文 診病奇侅 按腹圖觧序

■原文 按腹圖觧序
千盤破神代に大已貴命少彦名命と力を戮勢心を一にして天下を經營たま飛復顕見蒼生また畜産などの為に其病を療むる方を定させ給へり。しかと瑞籬の久しき世々を經て久米の岩橋中絶しまヽ後瀬山後の世に其術傳らず。時世移りて金刺宮の御代に言佐敝百濟國より五經博士暦博士醫道博士採藥師等を始て召給ひしより樛木の弥継嗣に朝庭よりも人を唐土に遣し凡百の技藝を學習させたまふの故由は代々の史に見へたり。我醫道も又唐土より傳へしにこそ然るれば導引按蹻の術も同じく傳来しにや有ん。又は皇國にて發明せし人有しに母やあらん三栗の中昔の頃其術の世に行れし證は榮花の物語に腹とりの女といふことか見えたり、されど此物語に七百歳餘往古の事なれば其技は伊香保の沼のいかなりしや知るべからず。又彼邦にも最上代には専ら行れしよしは醫籍の親と崇る内經といふ書に見えたり。されど彼處にもいつから廢れしとしられて後世の醫籍には絶見へず。然るに我大御國に玉匣二百年まりこなた誠に安國の安穩に科戸の風の荒振綿津見の波の騒動も絶果て治たまひ福給へる。御世の御蔭に隱れて天下の蒼生尊も卑も甚靜なる世を樂しむ此御時を得て萬の廢たるが興ざるも那久千々の絶たるか繼れぬも將あらざめる程に我醫道も又しかなり。是に因て其道に精しき書も、技に委しき人も其名聞ゆる野邊の蔓林の木葉と世に乏しからず。誠に此道全備と謂べしさるを橿實の獨此導引按蹻の術のみ古衣をうち捨て真木柱誰取立る人も無りしに葦垣の近き年頃内日指都の醫士香河氏賀川氏の二人世り勝れて我醫道を石上古きに復れり其醫論の除波此術に及せり。故に世人二子を以て此術再興祖と思へり。されども著書をみれば香河氏は療病之末助とし、賀川氏は養妊之本務とす。その旨意甚齟齬る而已ならず、共に岩淵の深理を極得しにあらねば其末流を汲徒をや。
又空蝉の世に此技を業とする人多くは盲人寡婦或は流落家貧學醫生輩此技を以て糊口の資とするに過ず。是に因て此術をするを倭文手纒甚卑しめりさる故識見人は此術をしも耻且悪む事にはなりにけり。於のれ將初學の程は世人と同じく此術を卑しみしが齢三十歳の頃重病にかヽり右往左往持扱しに些許の驗もなく、烏珠の夜に日に添て痛なやまし久、今は玉緒も絶なんと思ひしに最恐惶両神の靈の恩頼にやよりけん。不意この術を思得たりしまゝ衣手の一向に自試しに如此の劇疾も残雪の春日に中て消が如く、苅萱のみだれ心地なん頓に癒しかば、始て此術にかゝる奇効あるを識得しより、飛騨工うつ墨縄の一すぢに思起して夜に日に心を研くこと三歳許、始て其大旨を得るに似たり。
されば、是を世の病客に試るに其驗勇名取響の聲に應るが如し。此ことを知り聞傳へて遠近の人〻、是を乞ひ是を學人、璞の月に日にいと多なれどいかゞはせん。此術は施も教も急にすべき技ならねば、一日に幾人をかは療せんさるから、是を書にかき著し圖をさへ添て徧く世の人にも此掲焉術を告知らせ將天下諸人のいたく疾病に苦痛を和め、婦女子までにも容易此術を教諭しなば上は雜豆臘君と親につかふるに至深く中は福草の身をやしなひ健やかにして長生し、下は可愛子孫を慈養便ともならば彼天地の化育を賛と謂し片端ともならでやはとなむかくいふは

文政十年二月十五日 押照浪速人 太田武經

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