『診病奇侅』の動氣通説について その1

『診病奇侅』の動氣通説について

本記事では『診病奇侅』の動氣通説について紹介しています。動氣とは腹診の際にみられる脈動のこと。これを動悸とみるか動氣とみるかで、その診断は変わります。その背景には、術者がもつ人体観・生命観が左右するのです。


※画像は『診病奇侅』京都大学付属図書館より引用させていただきました。
※本記事は医道の日本社 刊の『診病奇侅』を主に参考にしています。

※以下に書き下し文、次いで足立のコメントと原文を紹介。
※現代文に訳さないのは経文の本意を損なう可能性があるためです。口語訳は各自の世界観でお願いします。

『診病奇侅』の動氣通説

書き下し文・診病奇侅 動氣通説

△(引、松井本)秘伝に云く、診腹、須らく先ず邪氣及び元氣の動を分別すべし。之を按じて浮而して強き者は邪氣也。沈而して強く、勇にして圓き者は元氣也。(秘事)

○古伝に曰く、腹を候うに、手に応じ動あるは、大抵邪氣の動と知るべし。或いは鳩尾下、或いは右の脇、或いは左の脇を、手を以て按する時、手に応じて動ずるなり。
此の動ずる処、今日有りて明日止み、又他の処動ずるか、又動氣すきと止むかなどするは、此れを邪氣の離れたると知るべし。此の時に至り、元氣を補うの治法を専らとすべし。若し又手を以て按す時に、上下ともに性体なきように、くさくさと柔に成りて、動氣の止むは、最早邪氣は離れたりといえども、元氣の脱したる証なり。是れ必ず不可治なり。
とかく病人の腹を見る時に、上下左右に動揺する邪氣有りや否やを候い定めて、邪氣手に応ぜば、何れの処にありやと知り定めて、さて重ねて腹を見る時に、其の邪氣の処を替えたるか、但だ退きたるか、又は彌動氣つよくなりたるかと、心に徹して、覚え定むべし。退きて動氣の止むは、勿論、邪氣の離れたるなり。左の動右へ易わるか、右の動左へ易わるかするも、邪氣の離れたるなり。此れ邪氣の離れに依りて、死生吉凶を定むるなり。(南溟)

○(森立夫引、中虚)病人の動氣、一時に沈伏するものあり。是れ亦た概して以て死と期すること勿れ。或いは邪氣消除し、或いは元氣快復して、ついに動氣いづるものなり。(立夫曰く、按ずるにこの動氣は家伝に謂う所の腎間の動氣のことなり。南溟の邪氣の動とは自ずから別なり)

腹部の動、無病の人はあるかなきかと云う位のものなり。知り兼ねるものと覚う可し。どかどかとする動氣の知り易きは凶と為す。動氣も平人の脈候と同じ、一息の間に、四動半乃至五動を吉と為す。一息の中に二動、又は二動半、至りて遅きも、此れ元陽の虚なり。附子肉桂を用うる場なり。若し其の人虚にあらざれば、腫氣の患あるべし。(中虚)

○(森立夫引、中虚)呼吸一息に四動、四動半、乃至五動を、陰陽平和無病の平人とす。病といえども害なし。
又、外形無病なりといえども、かの道氣の動に、太過不及あるは、病者は必ず危うく恙無きものも必ず疾む。
又云く、四動より五動までは、無病平人とすといえども、皮膚の厚薄、動氣の浮沈・滑濇・有力無力について、寒熱虚実あるべし。

○(同上)動氣一息二動三動半まで、元陽の虚とす。腫氣出来るものなり、心を付けるべし。
○(同上)虚人の動氣なきものは、命久しからず、細数も亦た危しといえども、有力は可治。ただ此れ腎間動氣について心をつけよ。死裏に生を求め、生前に死を断つるの妙法たり。其の中ただ須らく治法有り。診脈の理と同じく工夫を加えよ。
○(同上)動氣一息五、六度は風邪、七度は病危し、八度は難治。
○(同上)春夏は陽氣浮びて動氣数也、腹もへるものなり。秋冬は陽氣沈んで動氣も沈伏し、腹もふっくりとなる者なり。是れ造化の常なり。之に反する者は逆と為す。
○(同上)動氣・病氣を見定めて、いかように病むというとも、動氣を第一とし、動氣の太過不及と平和とによって、病の難易を論ぜよ。

○幾万人診腹するに、先ずは右に動氣はなきものなり。千萬人の中、天性うまれつき右に動氣ある人は苦しからず。是れは反関脈と同じことなり。其の中動氣ありて害無きは、急なる傷食・痰症・喘息・傷寒の表証に、右に動氣あるものなり。是れ変見と云うものにて、傷寒裏証にはなきなり。右(上記)の四証、動氣即時右にありといえども、翌日診するときは、左に位するものなり。しかるに、今日も明日も右に動氣あるは、あしきこと知るべし。
さて平人の動氣に、極虚人と大実人との動氣も知れ難きものなり。子細は極虚人は元氣虚脱して、動氣出現するに無力、動氣ありといえども知り難し、大実人は皮膚堅厚にて、動氣沈墜して知れ難きなり。この両者は、脈状形色を察して、吉凶を決すべし。(中虚)

○動氣沈伏して見えざるものあり。殊に婦人痞氣・疝氣などに此れの如きことあり。是れ邪氣の為に沈伏すると見えたり。(中虚)

○動氣上脘あたり、左肋の辺、胃経通りに数々見るるは、腎中の火散乱なり。陽虚としるべし。平生氣のなやみ、又怒つよき人、諸事苦労する人に多し。(中虚)
○婦人奉公人なぞに情欲不遂ものは、動氣数ならずして、却て沈んで遅きものなり。(中虚)

腹診における動氣の平脈

中虚先生の言葉より
「腹部の動、無病の人はあるかなきかと云う位のものなり。知り兼ねるものと覚う可し。どかどかとする動氣の知り易きは凶と為す。動氣も平人の脈候と同じ、一息の間に、四動半乃至五動を吉と為す。」

腹中動・動氣の平脈について記しています。とくに「動氣も平人の脈候と同じ」という言葉が印象的ですね。
動氣の説明をみると必ずしも平人の脈候(寸口脈)と同じとは言い切れないところはありますが、動氣に関しても「脈位」「脈力」「脈状」「脈数」の要素について説明されています。

ただ寸口脈とは異なる条件で“動氣の平脈”とされている点にも注目すべきです。
それはなぜなのか?
寸口脈と腹中動氣の根本的な違いを理解しておく必要があります。

邪氣の離れで治療の機を判断する

南溟先生の言葉より
「手に応じ動あるは、大抵邪氣の動と知るべし。或いは鳩尾下、或いは右の脇、或いは左の脇を、手を以て按する時、手に応じて動ずるなり。此の動ずる処、今日有りて明日止み、又他の処動ずるか、又動氣すきと止むかなどするは、此れを邪氣の離れたると知るべし。……」

この言葉から、腹部動氣は邪氣の存在を示していることが分かります。その部位によって病を判断する。これも脈位と同じ。
そしてまた動氣は状況によって変化します。南溟先生は日によって腹中動氣が変化する例を挙げておられます。このような変化を「邪氣の離れ」として評価し、治療の機として提示しています。

しかしこのような動氣の変化、すなわち邪氣の離れにも順逆があり、逆証の場合は「元氣の脱」として危証であることを示しています。

道氣とは?

中虚先生の言葉に「道氣」という言葉が登場します。

この道氣とは『意仲玄奥』の「分位診候」の項において次のように記されています。

是れ陰陽水火の根源也。道気とは何ぞ。
易の上繋辞に曰く、「一陰一陽之謂道」といえり。言う心はかの太極の一動一静にして、陰を生じ陽を生ずるや。是れ天命の流行也。易の蒙引(『易経蒙引』)に曰く、「蓋し道は陰陽を離れずして而も亦た陰陽に雑らず。乃ち太極の謂い也」。原病式(『素問玄機原病式』)に曰く、寒類諸病上下の云々の註に「一陰一陽、之を道と謂う。偏陰偏陽之を疾と謂う。陰陽以て平らかなるときは則ち和す、而して偏なれば則ち疾む」と、しかればかの太極の一動一静より其の道理にかなうときは、陰陽を生じ、五行を生じて萬事出づ。もし其の道を失うときは陰陽偏勝して動静常無く、造化の機、息(やむ)ときは疾病をなす。道気、沖和にして我の元気を助る、陰陽平和也。さればかの陰陽の機発運動、平和無疾なるものを指して道気と云う也

■原文
是れ陰陽水火の根源也。道気とは何ぞ。易の上繋辞に曰、一陰一陽之謂道といへり言心はかの太極の一動一静に乄陰を生し陽を生ずるや。是れ天命の流行也。易の蒙引に曰、盖道不離乎陰陽して而も亦不雑陰陽。乃太極之謂也。原病式曰、寒類諸病上下云々註。一陰一陽之謂道、偏陰偏陽之謂疾。陰陽以平則和、而偏則疾、としかればかの太極の一動一静より其道理にかなふときは陰陽を生し五行を生じて萬事出つ。もし其道を失ふときは陰陽偏勝して動静無常。造化の機、息ときは疾病をなす。道気沖和に乄助我元気、陰陽平和也。さればかの陰陽の機発運動、平和無疾なるものを指乄道気と云也。

(『日本腹診の源流 意仲玄奥の世界』著者 小曽戸洋 監修 長野仁、宿野孝、大浦慈観(共編)※敬称略、六然社発行 より引用)

陰陽・水火が絶妙な調和を実現している状態を指して道氣といるようです。説明文の中に「沖和」という言葉が登場しますが、これもまた同様の意味とみてよいでしょう。

「沖和」とは『老子』や『列子』などに説かれている言葉です。

『老子』四十二章「道生一、一生二、二生三、三生萬物。萬物負陰而抱陽、沖氣以爲和。」
(道は一を生じ、一は二を生じ、三は万物を生ず。万物は陰を負いて陽を抱く。冲氣は以て和と為す。)

『列子』天端「沖和氣者爲人、故天地含精萬物化生、推此言之、則陰陽氣偏交會而氣和、氣和而爲人生、人生則有所倚而立也。」
(冲和の氣は人を為す、故に天地は精を含み、万物を化生す。此れを推して之を言えば則ち陰陽の氣、偏交会して氣和する。氣和し而して人生ずると為す。人生ずれば則ち倚りて立つ所ある也。)

とあります。どちらも陰陽の調和と、生命を司る造化の妙を示唆する文であります。

動氣の根本は?

中虚先生の言葉より
「動氣上脘あたり、左肋の辺、胃経通りに数々見るるは、腎中の火散乱なり。陽虚としるべし。平生氣のなやみ、又怒つよき人、諸事苦労する人に多し。」
「婦人奉公人なぞに情欲不遂ものは、動氣数ならずして、却て沈んで遅きものなり。」

この教えには、腹中動氣が「腎中の火が散乱」することで起こる現象だといいます。文中には「陽虚」と判断するとしていますが、安易に「陽虚」と判断すべきではないといえます。
まず、根本的な原因として“陰虚”が挙げられます。“腎陰による腎陽(元陽)の制御”を失うことで「腎中の火が散乱」する、このような機序がイメージしやすいでしょう。
とはいえ「陽虚」によって「腎中の火が散乱」する病理もあります。李東垣が提唱する陰火病態がこれに相当するでしょう。

本文に例として挙げられているケースとして「平生氣のなやみ」「怒りつよき人、諸事苦労する人に多し」とあるように、肝鬱気滞の証に類するケースも“動氣”が起こるとしています。しかし“動氣=肝鬱気滞”と安易にみるべきではないでしょう。
その機序を考えるならば、過度の(もしくは長期間にわたる)肝氣発揚が腎に負荷をかけ、それによって動氣が起こる経緯などが推測できます。
本質的には動氣の本体は腎氣であり、肝氣が関与するのは“動氣の脈位”である、と考えるべきではないでしょうか。

鍼道五経会 足立繁久

原文 診病奇侅 動氣通説

■原文 診病奇侅 動氣通説

△(引、松井本)秘傳云、診腹須先分別邪氣及元氣之動、按之浮而强者、邪氣也。沈而强、勇而圓者元氣也。(秘事)

○古傳曰、腹を候ふに、手に應じ動あるは、大抵邪氣の動と知るべし。或は鳩尾下、或は右の脇、或は左の脇を、手を以て按する時、應手動ずるなり。此動ずる處、今日有て明日止み、又他の處動ずるか、又動氣すきと止かなどするは、此を邪氣の離たると知べし。此時に至り、元氣を補ふの治法を専とすべし。若又手を以て按す時に、上下ともに性體なきやうに、くさ〱と柔に成て、動氣の止は、最早邪氣は離れたりといへども、元氣の脱したる證なり。是必ず不可治、とかく病人の腹を見る時に、上下左右に動搖する邪氣有や否やを候ひ定めて、邪氣手に應ぜば、何れの處にありやと知定て、さて重て腹を見る時に、其邪氣處を替へたるか、但退きたるか、又は彌動氣つよくなりたるかと、心に徹して、覺え定むべし。退て動氣の止は、勿論、邪氣の離れたるなり。左の動右へ易るか、右の動左へ易るかするも、邪氣の離れたるなり。此邪氣の離に依て、死生吉凶を定むるなり。(南溟)

○(森立夫引、中虚)病人の動氣、一時に沈伏するものあり。是亦槩して勿以死與期、或は邪氣消除し、或は元氣快復して、つひに動氣いづるものなり。(立夫曰、按ずるにこの動氣は家傳所謂腎間の動氣のことなり。南溟の邪氣の動とは自ら別なり)

○腹部の動、無病人は、あるかなきかと云位のものなり。知兼るものと可覺、どか〱とする動氣の易知は爲凶、動氣も平人の脈候と同じ、一息の間に、四動半乃至五動を爲吉。一息の中二動、又は二動半、至て遲も、此元陽の虚なり。附子肉桂を用る場なり。若其人虚にあらざれば、腫氣の患あるべし。(中虚)

○(森立夫引、中虚)呼吸一息に四動、四動半、乃至五動を、陰陽平和无病の平人とす。病といへども害なし。又外形無病なりといへども、かの道氣の動に、太過不及あるは、病者は必ず危く無恙ものも必ず疾む。又云、四動より五動までは、无病平人とすといへども、皮膚の厚薄、動氣の浮沈滑濇有力無力について、寒熱虚實あるべし。

○(同上)動氣一息二動三動半まで、元陽の虚とす。腫氣出來るものなり、可付心。
○(同上)虚人の動氣なきものは、命不久、細數も亦危しといへども、有力は可治、たゞ此腎間動氣について心をつけよ。死裏に求生、生前に斷死の妙法たり。其中たゞ須有治法、診脈の理と同じく工夫を加へよ。
○(同上)動氣一息五、六度は風邪、七度は病危し、八度は難治。
○(同上)春夏は陽氣浮て動氣數也、腹もへるものなり。秋冬は陽氣沈んで動氣も沈伏し、腹もふつくりとなる者なり。是造化の常なり。反之者は爲逆。
○(同上)動氣病氣を見定て、いかやうに病むといふとも、動氣を第一とし、動氣の太過不及と平和とによつて、病の難易を論せよ。

○幾萬人診腹するに、先は右に動氣はなきものなり。千萬人の中、天性うまれつき右に動氣ある人は不苦。是は反關脈と同じことなり。其中動氣ありて無害は、急なる傷食痰症喘息傷寒の表證に、右に動氣あるものなり。是變見と云ふものにて、傷寒裏證にはなきなり。右の四證、動氣即時右にありといへども、翌日診するときは、左に位するものなり。しかるに、今日も明日も右に動氣あるは、あしきこと可知。さて平人の動氣に、極虚人と大實人との動氣難知ものなり。子細は極虚人は元氣虚脱して、動氣出現するに無力、動氣ありといへども知り難し、大實人は皮膚堅厚にて、動氣沈墜して難知なり。この兩者は、脈状形色を察して、吉凶を決すべし。(中虚)

○動氣沈伏して不見ものあり。殊に婦人痞氣疝氣などに如此ことあり。是邪氣の爲に沈伏すると見えたり。(中虚)

○動氣上脘あたり、左肋の邊、胃經通りに數々見るゝは、腎中の火散亂なり。陽虚としるべし。平生氣のなやみ、又怒つよき人、諸事苦勞する人に多し。(中虚)
○婦人奉公人なぞに情欲不遂ものは、動氣數ならずして、却て沈で遲きものなり。(中虚)

○動氣左に在は妨なし。臍下より右について動氣の升者は難治。右に動氣盛なるときは、左も彌盛なり。臍中動甚者は、火動の症なり。(壽安)(○饗庭演して曰、左は陽右は陰なるゆゑに、陽分の左は治しやすく、陰分の右は治しがたし。痞積も吉凶部位其理同じ)

△(引、松井本)診右乳下、右者屬陰、雖其動微、陰虚火動、肌肉羸痩者、或産後血暈者、或患黃胖者、往々有動應手者。(春長)

○腹に動氣あるものは、積あるなり。虚里の動の外、動はみな病なり。病甚しきは、あらはるゝ病甚しからずといへども、能くうかゞへばあるものなり。(烏巢)

○動氣右へまはつて强く、心下鳩尾までも動氣强きは、眞陰絶して、陽火の衝逆甚しき故なり。必ず死す。(玄悦)

○動氣うたざる腹あり、是は陽氣なきに似たれども、太過の腹合にして、中に實すれば、外に動氣をかくす腹なり。又無淫の人、或は頓死するものに動のかくるゝことあるなり。(白竹)

○動氣不足の者あり惡候なり。氣口と俱に微細なるは最も惡し。(白竹)

○動氣鳩尾へ升てうつことあり、是氣口の懸絶の脈の如し、根絶て火のたちぎえたる意なり。必ず死す。それともに臍中へかよひて動あることあり。是は鳩尾と神闕とを按じて知る。手法に口訣あり。(白竹)

○動氣左の天樞にあるは尋常なり。右へまはりて居るは、脾胃と云、痰と云、溼と云ふ。うかゞひあれども死症に及ぶときも、亦右の天樞へ動氣まはるなり。右は命門火旺之分なれば、水盡て火亢の表なり。(白竹)

○大病後に、腹中これと云凝も手に當らずして、臍の上下より鳩尾まで動あるは、元氣衰、相火の散亂するなり。死證に屬す。(淺井)

△(引、松井本)動氣者、一息四動、沈而圓且勇者、爲佳。根本之氣堅强、而上部之動沈且强者、太過也。根本之氣和、動氣浮洪、而上部之動緊强者、不足也。根本之動氣、和而堅强、而上部之動氣、强而無勇者、亦太過之候也。如是者元氣不足也。是陰水減。邪氣爍元氣、而元氣上汎故也。(秘事)

○肝腎の虚火亢りて、虚里動にて診候するなどは、所謂靴を隔てゝ痒を掻と云ふものなり。水分の亢るを以て診すべし。(東郭 ○水分動のこと、後に自ら條あり。相參すべし。)

△(引、松井本)動氣一旦亢者、異于平生之動氣、腹底隱々難知者實也、爲佳。氣質厚實者、其動難應手也。(東郭)

△(同上)凡心下脇下動氣在者、氣與水火相搏而煽動也。氣逆則生火、火生則引水、水聚則又醸火、以相煽動、故動築也。(東郭)

○總て腹部に動氣しまらぬは恐るべし。浮散の動氣は虚に屬す。亢實の動氣は溼熱に屬す。微細の動氣は陽虚に屬す。總て腹中の動氣を知ることを得れば、治術の室に入なり。病人動氣腹中になきものは、必ず膻中に入てあり、其危症なり。動は常人膻中にあり、水分に出店あり。病甚しきものは、一寸づゝ上る。危き者は胸中へ冲るなる。(東郭)

○根元の動は、平人臍中にむつくりとして、亢らず靜すぎず、常に安置す。又水分に其餘光あるものなり。此二處動なき者は危し。(東郭)

○脈に熱不見して外候に熱症あり。寒劑を投ずるに疑惑することあり。(松井本には腹熱不見外候有熱證欲投寒劑、云々)其時は水分臍等の動亢は熱なり。又手脈盛にして、外候に寒症あり。疑しくば、動氣の手脈より靜なるは、溫藥を用うべし。(東郭)

△(引、松井本)腹部第二行之動、近迫於任脈者、可爲二行之動看。唯水分之動、與二行之動、響於任脈者、可能辨別其眞假。(東郭)

○胸に動ありて、下に動の根なきものは必死す。(東郭 ○衆疾痘疹と參看せよ)

○左右及臍下の動氣高者、上へ動氣上る者必死。此にて生死を決するなり。賁豚の動氣は小腹より起こるなり。(東郭)

○三脘凝滯、築々動悸、按之痛者宿食也。輕者消導之、重者下之。中脘盤結、動悸彈指者、食毒也。久病不食、中脘及臍左傍動高者、胃氣欲絶也。動在臍上者、腎氣上逆也。(已及於此、非桂枝所能及、宜速用附子、又聞和田氏用丹地黃能得効、從症宜用。)(森立夫曰、丹地黃、蓋謂牡丹皮地黄)在臍左傍者惡血也。在臍中者爲至劇、兼之爲病者難治。若餘症總順者則猶可及、動在心下及三脘之左傍、而細數築々然、上及左肋者、蚘蟲也。(臺州)

○人陰氣衰れば、陽氣亢ぶりて、動氣鳩尾の下までさし上るものぞ。故に陰虚火動之症に、動氣不亢もの一人もなし。脾胃虚の診も、中氣弱き故に運行たらずして、邪氣集りて、臍の廻り、臍の上に動氣つよきものなり。(良務)

○動氣の上を手を以て按すに、病甚しきものは、是胃氣の弱より起ることなり。必ず大事をなすべし。病積も其通なり。(饗庭 ○玄仙同。又曰、此に瀉がつくと、其死三日を出ず。又南陽曰、長病の人、動悸へ手をあてゝも痛堪がたきは極虚なり、難治なり。)

○諸病胸腹の動つよきものは、灸なり難し、損ありて益なし。(饗庭)

○腹に陽虚の動あり。陰虚の動あり。此二の見わけは、腹を按ずるに、第一腹のよわ〱動氣も弱く、右の一偏ことさら腹の弱き者を陽虚の腹と云なり。又陰虚の腹は、そうたい腹に潤なく、燥て動氣も、虚勞の脈の細數になるが如く、動氣も亦細數にして、せはしくうつものなり。左の一偏とりわけ潤少くなつて、之をなづるに醫の指稍へごそ〱するあんばいもあり。是を陰虚の腹と云。(饗庭)

○すべて動氣の診に心得ありい。一のこゝろ得は、動氣に潤のあるとなきとの二を候ひ知ること、是心得なり。動氣毬をつく如くにびん〱と指をはじき、ひゞき强き動氣あり。是やがて元氣盡んとして邪氣主人となる徴なり。必死の徴と心得べし。又動氣つよけれども、動氣に全體つやありてゆるみのあるは、縦其病人大病なりとも治療の場合あるものなり。必死に至るとも、治療の間はありと知べし。手の六脈を診するに、意思欣々不可名狀と云は、胃氣の緩脈を云なり。其緩脈も潤あるの脈なり。動氣の候ひかたも、此理を以て推して知べし。(饗庭)

○すべて動氣の善惡を知る捷徑は、脈理を以て動氣の上に推て考へる。是良法なり。(饗庭)

○病人脈はよきやうにして死する者亦多し。元氣竭たる故なり。さるに因て、何ほど脈惡にても、腹の動氣胃氣あつて潤へば、存の外死せざるものも亦多し。宜く精察すべし。(饗庭)
(森立夫曰、家傳所云探道氣中之病氣、探病氣中之道氣、而以決生死、貞吉凶是也。)

○何ほど脈よくても、急變あるは、動氣に必ず子細あることなれば、長病大病に臨では、動氣の善惡を察すること肝要なり。(玄仙)

○すべて傷寒時疫外邪の類は、腹診あてになりがたきものなり。動氣いかほどよくても、急にとりつめ死するもの多し。動氣のあてになると云は、虚勞勞欬を首として、其外長病身者の診察に肝要なりと知るべし。(饗庭)

○動氣を以て、それ〲の虚實を知る法、動氣の上へ手を下し按すに、はりあひもなく、軟なるは、是虚なり。此に反して按すこゝろ、むつくりと强きは實なり。(饗庭)

○すべて、腹に動氣の强き病人、ふと瀉がついたことならば、難治の症と心得、その旨を病家へことはり云て療治すべし。(玄仙)

△(引、松井本)有蛔虫處、動氣啄々、動中又動、熟按之、心下以下及臍左傍處、有小細塊(楓亭)

△(同上)宮女無虚候、而臍下之動上逆者、是淫慾之火也。(萩原)

△(同上)動氣有無根者、診之臍之上下左右、一處有動、而臍中無動、是曰無根動氣、爲死證、以元氣分散也。診腹法、以臍中之動氣爲君火。(久野)

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