『診病奇侅』の臍中について

『診病奇侅』臍中について

本記事では『診病奇侅』の臍中の項を紹介します。臍は経穴としての名は神闕。この名からも実に重要な部位であることがわかります。本章をみる「臍の離れ」「臍の抜け」「臍の切れ(臍切)」など、実に腹診において重要な部位であることがわかります。
それでは『診病奇侅』本文を読んでいきましょう。


※画像は『診病奇侅』京都大学付属図書館より引用させていただきました。

※以下に書き下し文、次いで足立のコメントと原文を紹介。
※現代文に訳さないのは経文の本意を損なう可能性があるためです。口語訳は各自の世界観でお願いします。

『診病奇侅』の臍中

書き下し文・診病奇侅 臍中

△(引、松井本)人の寿相、臍を相(うらなう)て知るべき也。之を疾くするに(臍の)浅深(をみる)、臍を按して察すべき也。故に診腹の要、臍を以てを先と為す。蓋し人の臍あるは、猶お天の北辰あるが如し也。故に名を天枢と曰い、又の名を神闕と曰う。
伝に曰う、天枢の上は、天氣これを主る。天枢の下は、地氣これが主る。氣交の分、人氣は之に従う。三才の統べる所、之を診することを要と為す。豈に亦た宜しからずや。

夫れ臍の凹みたる也、是れ神氣の穴、保生のと為す。環中幽深、輪廓平整、徐々に之を按して有力、其の氣の手に応ずる者は、内に神氣の守りある也(公豊按する、之を按じて有力なる者と、之を按じて牢堅なる者と、相い似て同じからず。宜しく熟察すべし也。牢堅なる者は癥瘕、或いは結実、或いは痛む者、燥屎の候あり)。若し軟柔にして纊の如く、之を按じて其の氣の応ぜざる者は、其の守り常を失う也。突出して凸なるは、氣勢が外に在る者、其の守りは固からざる也。弱りて泥の如くにまで至る者、命期は必ず遠からず、何ぞ永く天年を保つを得ん!?(公豊按する、若し臍が病に因りて突出する者は、是れ必ず膚は鼓脹覃を服す、石瘕の致す所。未だ其の変を見ずと雖も、其の疾の往々にして易治ならざることを知るべし也。)。(陽山)

△(引、松井本)古人、臍中の動を以て、君火の応と為す、其の平穏たるや、以て氣を候うべし、不以て動を候うべからず。惟だ其の変に遭い、而して後に以て動を候うべし。而して浅深を知る也。
禀氣虚弱の人、或いは節嗇を知らず、情に徇い慾を縦いままにするときは、則ち臍中に動ある者、日を引きて是れ二氣平ならず。真陰不足の候也。
腎氣有余の人、或いは精を愛し慾を慎むときは、則ち泄を施すとも、亦た唯だ翌日には動ある已(のみ)。
『難経』に謂う当に臍に動氣あるときは、則ち脾氣不足する者也。臍は中焦の候を立つ、亦た審らかにせずんばあるべからず也。(公豊按する、傷寒の邪が陽明に在る者、平人吃傷飲食する者も、或いは臍中に動有り。妊娠するも亦た或いは臍中に動有る也。)

[腎を診る]

腎間動氣なる者、右の三指を密排し、左の三指、臍間に安ずるを以てす。和緩有力、一息二至、臍を遶り充実する者、腎氣の足る也。一息五六至は熱に属する。手の下虚冷し、其の動沈微なる者は、命門の大虚也。手の下熱燥して潤ず、其の動細数、上は中脘に支える者、陰虚の動也。(積聚有るの人、或いは寸口は細数ならず、而して診するに此れに於いて決する者あり、宜しく詳らかに審すべし。)之を按じて分散する者、一止する者、原氣虚敗の候。
吐血・欬血、動甚しく而して中脘に溢れる者は不治。愈えると雖も而して復発する。一切の卒病、諸脈絶すると雖も而して臍温なるは、其の動未だ絶せざる者なり甦有り。(無名氏)

○臍の中深く、動氣大いに底に在て、氣口の脈と同位なるは実なり。臍浅くして亦た浮くようなるは根の絶ちはなるる虚なり。(白竹)

○凡そ諸病ともに神闕の脈を見るべし。実証は指を強く按して見れば、脈ふわつかず底にしっくりと小さくして応ずるものなり。攻下の剤を与うること、此の脈にて考うべし。此の脈の宜しきは、大抵の下剤を与えても、格別のことなし。
虚人は浮んでふわふわとするなり。実人と相い反す。神闕の脈、水分の動、氣口の脈、皆な診(うかが)い様同じことなり。指の腹にて診するなり。水分の動も、診ねばならず。(東郭)

○診腹、先ずは臍を診すべし。臍中を按じてしっかりと力の有るは無病の人なり。按じて力無きは、難治の症なり。之を按じて無力、指を乾泥に入れるが如き者は、難治。(壽安)

禀虚の人、房に入るときは、二三日臍中に動氣あり。腎氣有余の人は、翌日までも動氣あるもの間あり。(同上)(森立夫曰、三伯同)

○腹の肝心のめつけどころは、臍のぬけるとぬけぬとで、吉凶があるなり。ぬくると云うは、臍のわきの氣がぬけて、臍が離れてつままるるようになる。臍のまわりが、手のはいるようにある。こうなれば、間もなく死ぬるものなり。臍のまわりこりてかたきも、脾胃の虚なり。ぬけたは勿論、ぬけずかたからず、大抵に氣のあるがよいぞ。(烏巢)

○臍を按じて、中へくくり入りて、上皮ばかり動きて、下の不動はよき臍なり。臍の底まで按じて動くはあしし。常に臍にくくりある人はあれども、中のしまりなく、くろぐろとするもの多し。しまりたること、菓の蒂の如くなるべし。(中虚)

臍のきるるは不治、しかし、わきへ引て見よ。落ればかたよるものぞ。両方とも落るものではないぞ、片々落るものなり。(白竹)

○臍を上より下へ按して見、下より上へ按して見、左より右へ、右より左へ按して見るに、常は臍はどちらへも不動。然れども氣分弱きことあれば、片一方よわきができるなり。左より右へ按せば、右の方へ行き易きは、左の臍の切れたぞ。又、右より左へ按して、左の方へ行き易きは、右の臍の切れたぞ。是を“臍切”と云うぞ。上下も此の例なり。(南溟)

○元氣の虚実を候うは臍にあり。臍に手をあて推し見るに、こたえのなき臍あり。是れ元氣の虚なり。表を推しても裡でも力あるは、元氣の実なり。
如し臍を推して力ある内に凝りて堅き物あるは、力のあるには非ず。是れは氣合のふさがる故なり。其の症は大病後にあることなり。或いは痢病などに別けて臍の凝りあるものなり。夫れは実とは云はれず、病なり。かりそめな病氣にても、積聚の類あれば、臍が凝りたがるものなり。氣塞がり結ぼれるゆえなり。時によりて聚まるも、其の邪去るときは臍の凝ることもなくなるなり。併(しか)し大病後に凝るは悪なり。表を候いて裡まで推しても力なきは、元氣の不足なり。(南溟)

○臍とは、五臓に通じ而して真神往来するの門なり。故に之を神闕と名づく、則ち腎に対当すること南北極の如し、是れ也。凡そ臍は、深大にして堅固なり。左右上下、之を挑して動せず。輪廓の約束する者、是れ真神の安全なるを為す、倘(もし)大病ありて猶お治せざるが如きは、但だ暴疾にして此の例に非ず。(臺州)

○平人の臍はしっかりとして、上下左右より推せども動かず。是れ氣血充溢する故なり。高年になると自然と動くようなるなり。是れ精氣の衰る故なり。
又、臍の廻りに煙管のがんくび程の牢き輪郭あり。此れ輪郭の剛柔盈蝕に因りて、虚実を弁ずるなり。
さて腎氣盛んなるものは、輪郭剛盈なり、壮実とす、無病の人とす。たとえ大病たりとも、無難に治すなり。
又、輪郭蝕してあるか、或いは無きあり、是れ臍のきるるなり。氣血耗虚の致す所なり。病人は死遠からずと覚悟すべし。又、無病の人たりとも、是れ有るものは命長からずと思うべし。
故に神闕の強弱、輪郭の盈蝕は腎氣の虚実によるなり。又、古より臍は十四椎に対すといえり。彌(いよいよ)神闕の本、腎の臓にかかること知るべし。是れ以て大病の死生を決するは神闕を的とするなり。
別して水腫脹満等の証は、腹皮引きはりて居る故、それにつれて、神闕もひっつるなり。是を以て臍が動くやら動かぬやら、知れぬなり。然らば何を以て断ずるぞと云うに、かの輪郭の有無にて決するなり。然るときは、萬に一も失わぬなり。且つ臍は李を容るるを好しとすと云えり。寿相とす。又、小にして浅き者は夭相とす。是れ人相家の一看法なり。心得べし。
又、臍中は動なきものなり。然るに動ある者は、五臓の敗れなり。輪郭并びに腎間の動と見合せて死生を決すべし。(南溟)(○此こに「臍中は動なし」といえるは穏ならず。前に欵(しる)す諸説従うべしに似たり。)

△(引、松井本)臍の浅小なる者は、是れ短命を尽くさず。只だ堅固にて動移せざる者を以て吉と為す。四十歳以上の者、或いは動移す、右に推すときは則ち右に移す。病人、此の如くなるときは、則ち必ず死す。年高にして此の如くなる者は害無し。是れ精氣の衰えなり、順序を以ての故也。臍の輪廓は、腹皮相い聚まりて輪と為す。小酒杯の底の如く廓を為す。其の輪廓の堅固なる者は、真元氣の強き也。通常、輪は独り堅く、輪廓全きにして臍の動移せざる者、真元氣全き也。大病を患うと雖も死なず。(楓亭)

△(同上)腹の左右、腹筋緊実なる者、必ず空軟なり。是れ空軟に非ず、腹筋緊実にして臍深き故に然る也。(別本淺井書)

臍を診ることの大事

『鍼道秘訣集』三焦腑之大事では、臍そのものを三焦の腑としています。『鍼道秘訣集』にある表現として「臍、即ち一身のくくりとす。」とあります。
この臍を「一身の括り」とする観方は、中虚先生の言葉「臍を按じて、中へくくり入て、上皮ばかり動きて、下の不動はよき臍なり。…(略)…しまりたること、菓の蒂の如くなるべし。」の影響を受けているのでしょうか。その由来は不明ですが、いずれにせよ近しい生命観であるといえるでしょう。

臍中動氣の平脈

東郭先生の言葉に「…実証は指を強く按して見れば、脈ふわつかず底にしっくりと小さくして応ずるものなり。」とあるように、実証における動氣は「しっくりと小さくして応ずる」ものであり、対して「虚人は浮んでふわふわとする」と、寸口脈とは少し異なる虚実と脈状の関係を示しています。
しかしこれも動氣の理を考えると、さほど難しいものではないと思われます。

「神闕の脈、水分の動、氣口の脈、皆な診(うかが)い様同じことなり。指の腹にて診するなり。」とあることから、脈を診る手立てとしては基本的に同じといえるでしょう。

房事の後の動氣

「禀虚の人、房に入るときは、二三日臍中に動氣あり。腎氣有余の人は、翌日までも動氣あるもの間あり。」という寿安先生の言葉は実に興味深いですね。その観察力はさすがだと思います。

「禀虚の人」とは腎虚の人を示します。元々が腎虚の人が房事を行うことで、数日にわたって臍中(または臍周)に動氣が残るといいます。腎精・腎水が消費されることで、命門相火を制御できなくなり、動氣が亢ぶるのでしょう。
禀虚の人が一度の房事で動氣が現れる、ということは、禀氣正常の人でも房事過多となればそのようになるということでしょう。

臍のぬけ…とは?

烏巣道人の言葉「……臍のぬけるとぬけぬとで、吉凶があるなり。ぬくると云うは、臍のわきの氣がぬけて、臍が離れてつままるるようになる。臍のまわりが、手のはいるようにある。」という言葉が印象的です。
このように臍が体幹・腹部より分離したようになるということは、大きな元氣の“離れ”としてみても良いのではないでしょうか。

この言葉は下にある中虚先生の言葉「臍を按じて、中へくくり入りて、上皮ばかり動きて、下の不動はよき臍なり。」に通ずるものがあります。

臍切ということ

白竹子の言葉より
「臍のきるるは不治、しかし、わきへ引て見よ。落ればかたよるものぞ。両方とも落るものではないぞ、片々落るものなり。」

前述の「臍の抜け」といい「臍の切れ」といい、古来の日本腹診では実に臍を重視していたことがわかります。臍の名は神闕であるため、重要診察部位となることは不思議なことではありません。

「臍の抜け」は大きな氣の離れであり、「臍の切れ」は「氣分の弱きこと」(南溟先生)を示します。
また白竹子先生の言葉を借りると「両方とも落るものではないぞ、片々落るものなり。」という点からも、氣の弱りの偏りを診ている法であるといえるでしょう。

胸上 ≪ 心下中脘水分 ≪ 臍中 ≫ 小腹その1 ≫  小腹その2腹中行

鍼道五経会 足立繁久

原文 診病奇侅 臍中

■原文 診病奇侅 臍中

△(引、松井本)人之壽相、相臍可知也。疾之淺深、按臍可察也。故診腹之要、以臍爲先、盖人之有臍、猶天之有北辰也。故名曰天樞、又名曰神闕。傳曰、天樞之上、天氣主之。天樞之下、地氣主之。氣交之分、人氣從之、三才之所統、診之爲要。豈不亦宜乎。夫臍之凹也、是神氣之穴、爲保生之根。環中幽深、輪廓平整、徐々按之有力、其氣應手者、内有神氣之守也(公豐按、按之有力者、與按之牢堅者、相似而不同、宜熟察也。牢堅者癥瘕、或結實、或痛者、有燥屎之候)。若軟柔如纊、按之其氣不應者、其守失常也。突出而凸、氣勢在外者、其守不固也。至于弱如泥者、命期必不遠、何得永保天年乎(公豐按、若臍因病突出者、是必膚服鼓脹覃、石瘕之所致、雖未見其變、可知其疾往々不易治也。)。(陽山)

△(引、松井本)古人以臍中之動、爲君火之應、其平穩也。可以候氣、不可以候動、惟遭其變、而後可以候動、而知淺深也。禀氣虚弱之人、或不知節嗇、徇情縱慾、則臍中有動者引日是二氣不平、眞陰不足之候也。腎氣有餘之人、或愛精愼慾、則施泄、亦唯翌日有動已矣。難經謂當臍有動氣、則脾氣不足者也。臍立中焦之候、亦不可不審也。(公豐按、傷寒邪在陽明者、與平人吃傷飲食者、或臍中有動、妊娠亦或臍中有動也。)

診腎

腎間動氣者、密排右之三指、左之三指、以安臍間、和緩有力、一息二至、遶臍充實者、腎氣之足也。一息五六至屬熱。手下虚冷、其動沈微者、命門之大虚也。手下熱燥不潤、其動細數、上支中脘者、陰虚之動也。(有積聚之人、或有寸口不細數、而診決于此者、宜詳審焉。)按之分散者、一止者、原氣虚敗之候。吐血欬血動甚而溢中脘者不治。雖愈而復發、一切卒病、諸脈雖絶而臍溫、其動未絶者有甦。(無名氏)

○臍の中深く、動氣大底に在て、氣口の脈と同位なるは實なり。臍淺くして亦浮くやうなるは根の絶ちはなるヽ虚なり。(白竹)

○凡諸病ともに神闕の脈を見るべし。實證は指を强く按して見れば、脈ふはつかず底にしつくりと小さくして應ずるものなり。攻下の劑を與ふること、此脈にて可考。此脈宜きは、大抵の下劑を與へても、格別のことなし。虚人は浮んでふは〱とするなり。實人と相反す。神闕の脈、水分の動、氣口の脈、皆診ひ様同じことなり。指の腹にて診するなり。水分の動も、診ねばならず。(東郭)

○診腹先臍を診すべし。臍中按じてしつかりと有力は無病の人なり。按じて無力は、難治の症なり。按之無力、如入指乾泥者、難治。(壽安)

○禀虚の人、房に入るときは、二三日臍中に動氣あり。腎氣有餘の人は、翌日までも動氣あるもの間あり。(同上)(森立夫曰、三伯同)

○腹の肝心のめつけどころは、臍のぬけるとぬけぬとで、吉凶があるなり。ぬくると云は、臍のわきの氣がぬけて、臍が離れてつまゝるゝやうになる。臍のまはりが、手のはいるやうにある。かうなれば、間もなく死ぬるものなり。臍のまはりこりてかたきも、脾胃の虚なり。ぬけたは勿論、ぬけずかたからず、大抵に氣のあるがよいぞ。(烏巢)

○臍を按じて、中へくゝり入て、上皮ばかり動きて、下の不動はよき臍なり。臍の底まで按じて動くはあしゝ。常に臍にくゝりある人はあれども、中のしまりなく、くろ〲とするもの多し。しまりたること、菓の蔕の如くなるべし。(中虚)

○臍のきるゝは不治、しかし、わきへ引て見よ。落ればかたよるものぞ。兩方とも落るものではないぞ、片々落るものなり。(白竹)

○臍を上より下へ按して見、下より上へ按して見、自左右へ自右左へ按して見るに、常は臍はどちらへも不動。然ども氣分弱きことあれば、片一方よわきができるなり。自左右へ按せば、右の方へ行易きは、左の臍の切れたぞ。又自右左へ按して、左の方へ行易きは、右の臍の切れたぞ。是を臍切と云ぞ。上下も此例なり。(南溟)

○元氣の虚實を候ふは臍にあり。臍に手をあて推見るに、こたへのなき臍あり。是元氣の虚なり。表を推ても裡でも力あるは、元氣の實なり。如臍を推て力ある内に凝て堅き物あるは、力のあるには非ず。是は氣合のふさがる故なり。其症は大病後にあることなり。或は痢病などに別て臍の凝あるものなり。夫は實とは云はれず、病なり。かりそめな病氣にても、積聚の類あれば、臍が凝りたがるものなり。氣塞り結ぼれるゆゑなり。時によりて聚るも、其邪去るときは臍の凝ることもなくなるなり。併し大病後に凝るは惡なり。表を候ひて裡まで推ても力なきは、元氣の不足なり。(南溟)

○臍者、通五藏而眞神往來之門なり。故名之神闕、則對當于腎南北極、是也。凡臍者、深大而堅固、左右上下、挑之不動、輪廓約束者、是爲眞神安全、倘有大病猶不治、但暴疾非此例。(臺州)

○平人の臍はしつかりとして、上下左右より推せども動かず。是氣血充溢する故なり。高年になると自然と動くやうなるなり。是精氣の衰る故なり。又臍の廻りに煙管のがんくび程の牢き輪郭あり。此輪郭の剛柔盈蝕に因て、虚實を辨ずるなり。さて腎氣盛なるものは、輪郭剛盈なり、壯實とす、無病の人とす。たとへ大病たりとも、無難に治すなり。又輪郭蝕してあるか、或は無あり、是臍のきるゝなり。氣血耗虚の所致なり。病人は死不遠と覺悟すべし。又無病の人たりとも、是有るものは命不長と思べし。故に神闕の强弱、輪郭の盈蝕は腎氣の虚實によるなり。又古より臍は十四椎に對すといへり。彌神闕の本、腎の藏にかヽること知べし。是以大病の死生を決するは神闕を的とするなり。別して水腫脹滿等の證は、腹皮引はりて居る故、それにつれて、神闕もひつゝるなり。是以臍が動くやら、動かぬやら、知れぬなり。然ば何を以て斷ずるぞと云に、かの輪郭の有無にて決するなり。然るときは、萬不失一なり。且臍は李を容るゝを好とすと云へり。壽相とす。又小而淺者は夭相とす。是人相家の一看法なり。心得べし。又臍中は動なきものなり。然るに動ある者は、五藏敗なり。輪郭幷に腎間の動と見合て死生を決すべし。(南溟)(○此に臍中は動なしといへるは穩ならず。前欵諸説可從に似たり。)

△(引、松井本)臍淺小者、不盡是短命、只以堅固不動移者爲吉、四十歳以上者、或動移、右推則右移、病人如此、則必死。年高而如此者、無害、是精氣衰以順序故也。臍之輪廓者、腹皮相聚爲輪、如小酒杯之底、爲廓、其輪廓堅固者、眞元氣强也。通常輪獨堅、輪廓全而臍不動移者、眞元氣全也。雖患大病不死。(楓亭)

△(同上)腹之左右、腹筋緊實者、必空軟、是非空軟、腹筋緊實而臍深故然也。(別本淺井書)

 

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