『診病奇侅』の水分について
本記事では『診病奇侅』水分の項を紹介します。水分は臍上・神闕の上に位置する経穴でもあります。
水分穴といえば、任脈上の経穴になりますが、重要な腹診部位として認められます。それだけに治療の要所にもなり得る部位として理解することができるでしょう。
それでは『診病奇侅』の水分の章を読んでいきましょう。
※画像は『診病奇侅』京都大学付属図書館より引用させていただきました。
※以下に書き下し文、次いで足立のコメントと原文を紹介。
※現代文に訳さないのは経文の本意を損なう可能性があるためです。口語訳は各自の世界観でお願いします。
『診病奇侅』の水分
書き下し文・診病奇侅 水分
[脾胃を診る]
四十四難に曰く、太倉下口を幽門と為す、大腸小腸会して闌門と為す…云々。是れ皆な幽陰に伝送し、闌を分け物を化する。輸は臍下一二寸の分に当たる、名を下脘水分と曰う、胃氣の行る所也。故に此の分間(にて)脾胃の盛衰を診ると云う。
臍上充実して之を按じて有力なる者は、脾胃健実の候。
臍上柔虚、之を按じて無力なる者は、脾胃虚損の候(其の人、溏泄多し)、臍上虚満して嚢水を按ずるが如き者は、胃氣下陥す。(其の人小便不利す ○無名氏)
○水分は陰陽分別の処なれば、表裏の開闔、寒熱往来の機、みな水分にあることなり。此の処そこにこだわりある人は、前に久しく痢病を患いたることあるぞ。
又、今日に至りても痢を病む人には、必ず水分こだわること疑いなし。水穀分利の処なれば、即ち水分とこそ名けたれ。(白竹)
○心下の水氣を見るは、水分の動を指にて診し、指を擧るときの模様に氣を付べし。(東郭)
○水分の動と云う者は、何故に動ずるかなれば、所謂命門の相火炎上と云う者が、きっとちがいないことなり。命門の火亢ると、腎氣弱くなる。乃ち腎氣丸はこの動を鎮まるものなり。(東郭)
△(引、松井本)水分に動の有る者、肝腎の虚火を為す、肝腎相い通ずる故也。宜しく三黄加石膏、或いは麦門加石膏、黃連の剤(を與うべし)、則ち其の動は静まるべし也。
水分の動を治するに二つ有り。
地黃・薯蕷・牡丹皮の類、(もしも)効の無き者は、是れ世俗に謂う所の臍帯絶なり。
其の動、築々として臍底に起こり、臍随する。動に此の候の有る者は多くは不治。是れ其の一也。
実証なる者、其の動は外表に在り、而して裏底には在らず。是れ其の二也。此れ皆な微妙にして深遠、宜しく細やかに之を察すべし。
若し草々にして診過するときは、則ち分別を易せざる也。
又、茯苓に宜しき者有るときは、其の動は散漫、建中湯の拘攣と同じき状なり。昔者に一官医あり、能く臍中の動を診る。其の説に云く、有病の動を知らんと欲せば、宜しく先ず無病の人を診て而して知らん。無病にして腎氣の強き者、之を重按して尚お動の無きが如し。
極虚の者、其の動は浮泛して知り易し、其の状は齊わず、能く此に於いて熟察するときは、則ち病者の死期を知るべき也。今、水分の動を診ることも亦た然り矣。
其の齊わざる者を察するに、左に在りては、則ち其の左脈も亦た此れの如し。然るに病人能く行歩するに堪えず、其の脈も此れの如し、而して無害なる者、或いは有るなり。(東郭)
△(引、松井本)水分の動亢ぶり、而して当に地黄剤を与うべからざる者あり。此の動を察するに法有り。又、更に須らく諸証、眼色脈舌を参えるべし。
夫れ天禀厚強の人、偶(たまたま)下元虚して虚火の動ずる者、疫症に罹り(罹るときは)、医の耳目は専ら天禀の強厚に在りて、下元の虚を察せず、大柴胡湯等を用いて、則ち頺然として委頓す。是れ誤まり也。所謂、色を視るに目を以てせず、声を聴くに耳を以てせず、是れ也。(東郭)
○邪氣退いて後(○“邪氣の離れ”ということ動氣の條に出せり)、下脘・水分の地、細く筋張りたる後に、肉と皮と別れたるが如くにして、按して手を上ぐれば、皮の手に著いて挙ぐるが如く、肌膚乾きて潤いなきは、老人なれば、十日の内外に必死と知るべし。小児の腹の此の如くなるは、三五日を過ぎずして死するなり。(南溟)
○水分の動に異風あるは、氣を労する候なり。房に入るも小腸しまり水分動ず。その動ずること労心よりはひびくなり。遺精の診も同じ。或いは曰く、水分の左、或いは左右、或いは右脱する者は、必ず遺精をなす。水分ぬけて、臍の下弱くして遺精をなすもあり。(南溟)
○水分の動、だんだん上へ上り、本の処にはかげ計は死に近しとす。又、本の処にかげ有りて、動氣氣海へ引っつきうつも亦た死証なり。(南溟)
○諸病、水分の動氣つよくするときは、先ず其の動氣を静かにするに非ざれば、其の病治し難し。其の動を鎮むるは、生地黄より善しなるはなし。すべて動氣、表に浮くものは虚に属す。腹の底に沈むは実に属す。(饗庭)
○水分の動氣を診するに、常の動氣よりは、なんぞ異なることありて、むらにうつは、畢竟、其の人、氣に苦労するより起れる処の病なりと知るべし。肝鬱の処剤に心を付くるべし。すべて労心甚しきものは、水分の動亢ぶり、或いは動氣につまづく氣味あり。是れを労心の動と云う。(饗庭)
△(引、松井本)臍上水分に動の有る者、将に脚氣腫満を発すべし。(浅井)
水分とは陰陽を分ける処
「水分は陰陽分別之處なれば、表裏の開闔、寒熱往來の機、みな水分にあることなり。此處そこにこだはりある人は、前久痢病を患たることあるぞ。又今日に至りても痢を病む人には、必ず水分こだはること疑なし。水穀分利の處なれば、即水分とこそ名けたれ。(白竹)」
この白竹子の言葉は水分という地を理解するのに、非常に分かりやすいです。また水を分ける(水穀分離・清濁秘別)を分けるという機能からみて、「下痢」という病症が例として挙げられているのでしょう。
水分の動氣
「水分の動と云者は、何故に動ずるかなれば、所謂命門の相火炎上と云者が、きつとちがひないことなり。命門の火亢ると、腎氣弱くなる。」
和田東郭の言葉「命門の相火炎上」が動氣の原因とする説は、非常に的を得ていると思われます。しかし続く言葉には「命門の火亢ると、腎氣弱くなる」とあり、一見すると、彼の説は矛盾を孕んでいるようにもみえます。
動氣の源は腎氣命門の火であります。動氣が亢ぶるということは、その源である腎氣を消費し続けることになります。故に「命門の火亢ると、腎氣弱くなる」のです。また腎氣丸を服用することで、腎氣を立て直し、相火を制御する力を回復させます。その結果として「腎氣丸はこの動を鎭るものなり。」とあるのでしょう。
また和田東郭は、昔日の官医の言葉を借りてこのように残しています。
「其説云、欲知有病之動、宜先診無病之人而知焉。無病而腎氣强者、重按之尚如無動。」
無病の人、腎氣の強い人は、そのお腹を深く按じても、その動氣は簡単に見つかるものでなく、無きが如しというものなのです。これは「水分の動」に限らず、臍下の動がまさにそのような存在であるといいます。動氣の平脈を知っておくことは大事なことであります。
水分を性質を考えると
本章冒頭文にもあるように、水分は脾胃を診る部位であります。しかし、その位置からみて小腸の反応を診ることも不可ではありません。このように考えると本書「動氣通説」にある「動は常人膻中にあり、水分に出店あり。」という和田東郭の言葉も否ではないといえるのかもしれません。
また前述したように、腎間動氣の異常が現れる部位でもあり、先天後天、そして君火相火ともに関与する可能性のある部位といえるのかもしれませんね。
動氣通説その3 ≪ 胸上 ≪ 心下 ≪ 中脘 ≪ 水分 ≫ 臍中 ≫ 小腹その1 ≫ 小腹その2
鍼道五経会 足立繁久
原文 診病奇侅 水分
■原文 診病奇侅 水分
[診脾胃]
四十四難曰、太倉下口爲幽門、大腸小腸會爲闌門云々。是皆傳送幽陰、分闌化物。輸當臍下一二寸之分、名曰下脘水分、胃氣之所行也。故此分間診脾胃之盛衰云。臍上充實按之有力者、脾胃健實之候。臍上柔虚、按之無力者、脾胃虚損之候(其人多溏泄)、臍上虚滿如按嚢水者、胃氣下陷。(其人小便不利 ○無名氏)
○水分は陰陽分別之處なれば、表裏の開闔、寒熱往來の機、みな水分にあることなり。此處そこにこだはりある人は、前久痢病を患たることあるぞ。又今日に至りても痢を病む人には、必ず水分こだはること疑なし。水穀分利の處なれば、即水分とこそ名けたれ。(白竹)
○心下の水氣を見るは、水分の動を指にて診し、指を擧るときの模様に氣を付べし。(東郭)
○水分の動と云者は、何故に動ずるかなれば、所謂命門の相火炎上と云者が、きつとちがひないことなり。命門の火亢ると、腎氣弱くなる。乃腎氣丸はこの動を鎭るものなり。(東郭)
△(引、松井本)水分有動者、爲肝腎之虚火、肝腎相通故也。宜三黃加石、或麥門加石膏、黃連之劑、則其動可靜也。治水分之動有二。地黃薯蕷牡丹皮之類、無効者、是世俗所謂臍帶絶也。其動築々起於臍底、臍隨、動有此候者多不治。是其一也。實證者、其動在外表、而不在裏底、是其二也。此皆微妙深遠、宜細察之。若草々診過、則不易分別也。又有宜茯苓者、其動散漫、與建中湯之拘攣同狀。昔者有一官醫、能診臍中之動、其説云、欲知有病之動、宜先診無病之人而知焉。無病而腎氣强者、重按之尚如無動。極虚者、其動浮泛易知、其狀不齊、能熟察於此、則可知病者之死期也。今診水分之動亦然矣。察其不齊者、在左、則其左脈亦如此。然病人能堪行歩、其脈如此、而無害者、或有焉。(東郭)
△(引、松井本)水分之動亢、而有不當與地黃劑者、察此動有法、又更須參諸證、眼色脈舌。夫天禀厚强之人、偶下元虚、而虚火動者、罹疫症、醫之耳目、専在於天禀之强厚、而不察下元之虚、用大柴胡湯等、則頺委頓、是誤也。所謂視色不以目、聽聲不以耳、是也。(東郭)
○邪氣退て後(○邪氣の離といふこと動氣の條に出せり)、下脘水分の地細く筋張たる後に、肉と皮と別れたるが如にして、按して手を上ぐれば、皮手に著て擧るが如く、肌膚乾きて潤なきは、老人なれば、十日の内外に必死と可知。小兒の腹如此なるは、三五日を不過して死なり。(南溟)
○水分の動に異風あるは、氣を勞する候なり。房に入るも小腸しまり水分動ず。その動ずること勞心よりはひゞくなり。遺精の診も同じ。或曰、水分の左或は左右、或は右脱する者は、必ず遺精をなす。水分ぬけて、臍の下弱くして遺精をなすもあり。(南溟)
○水分の動、だん〲上へ上り、本の處にはかげ計は死に近しとす。又本の處にかげ有て、動氣氣海へ引つきうつも亦死證なり。(南溟)
○諸病水分の動氣つよくするときは、先其動氣を靜かにするに非ざれば、其病治し難し。其動をしづむるは、生地黄より善なるはなし。すべて動氣表に浮ものは虚に屬す。腹の底に沈は實に屬す(饗庭)
○水分の動氣を診するに、常の動氣よりは、なんぞ異なることありてむらにうつは、畢竟其人氣に苦勞するより起れる處の病なり、と知るべし。肝欝の處劑に心を付べし。すべて勞心甚しきものは、水分の動亢り、或は動氣につまづく氣味あり。是を勞心の動と云。(饗庭)
△(引、松井本)臍上水分有動者、將發脚氣腫滿。(淺井)