『医学節要集』の記事、「腹の見ようのこと」について、前半tの後半に分けて紹介します。「腹の見ようのこと」とは、文字通り“腹診”について記されています。杉山流ではどのような腹診法が用いられていたのか?これもまた興味津々です。
腹の見様のこと・前半

※画像は『医学節要集』京都大学付属図書館より引用させていただきました。
※以下に書き下し文、次いで足立のコメントと原文を紹介。
※現代文に訳さないのは経文の本意を損なう可能性があるためです。口語訳は各自の世界観でお願いします。
『医学節要集』 腹の見ようのこと・前半
書き下し文・『医学節要集』 腹の見ようのこと
『内経』に曰く、夫れ人に五臓とは肝心脾肺腎なり。然るに此の肝心脾肺腎の五臓の中(うち)、何れの臓なりとも大過不及無き則(とき)は平人也。平人と云うは則ち病無き人の事なり。若し何れの臓なりとも大過するか或は不及する則(とき)はすなわち病有る人のこと也。其の大過と云うは、其の臓に邪氣盛んなる事也。不及とは其の臓の不足する事也。
経に曰く、五臓各々主る所、腹を以て是れを定むるに、臍を中央にして其の所を定むるが故に、臍の左は肝の臓の主り、臍の上は心の臓の主り、臍の右は肺の臓の主り、臍の下は腎の臓の主り、臍の中央は脾の主り。
故に臍の左、恒(つね)に動氣在りて是れを按(お)せば塊有るものは、肝の臓に邪氣在りと知るべし。
臍の上、常に動氣在りて其の所に塊在るものは、心の臓に病あり。
臍の右、常に動氣在りて塊在るものは、肺の臓に病あり。
臍の下、常に動氣強く塊在るものは、腎の臓に病あり。
極めて臍の中、常に動氣強きものは脾の臓に病在りと知べし。
惣じて左の腹に病在るものは大様(おおよう)大過と意(こころ)得べし。何んとなれば、夫れ人は南に向うもの也。故に人の左は東也。東は春を主りて陽を生ず故に大過とす。
右の腹に病在る者を不及とす。何んとなれば夫れ人は南に向うもの也。故に右は西也。西は秋を主て陰を生ず。故に不及とす。
古書に春は陽を生ず故に春初めて萬物生ずるとあり。何んとなれば草木は芽を出し花開て蟲獸の類までも冬三月穴して春發生の氣を受て咸(みな)其の穴を出る也。春は純ら陽盛んにして浮かみ升るが故に斯くの如し。
又曰く、秋は陰純らにして陽は降りて地中に入り、草木の花葉悉く落ち、鳥獣の類皆な秋の陰氣を禀て悉く毛隕(おち)るなり。是れ皆な『難経』の意(こころ)也。其の外諸書に見えたり。
又曰く、それ人の身に陰中に陽あり陽中に陰ありと云えり。何んとなれば周易に於て坎の卦は水にして陰なり。故に上下の爻は離れて陰の卦なり。中は陽にして連なる離の卦は火にして陽なり。故に上下の爻は陽中の陰と云うものなり。
故に人の身にも陰中に陽、陽中に陰ありと知るべし。是の故に左は純ら陽也といえども復中に陰あり。何んとなれば動く所を陽とし静なるものを陰とすと云えり。
然る則は左の手は陽なれば勝ちて動くことを得べきことなれども働くこと右に及ばず。是れ所謂、陽中に陰有るに非ずや。右は極めて陰たりといえども復た中に陽あり。此の故は静かなるものを陰とすと云えり。右の手は陰なれば静なるべきことなり。然れども働くこと左に勝れり。是れ所謂、陰中に陽有と知へし。足も亦た斯くの如し。
氣は陽、血は陰たりと雖も血病は左、氣病は右にあり。是れ所謂、陰中に陽病、陽中に陰病有りと云うもの也。
惣じて陰陽の事は数多有りと雖も略して是れを記さず。類を以て推して識るべし。斯くの如く源を知りてその後腹を候うべし。
前半は五臓と陰陽について
杉山流腹診の基本について記されているのでしょうか。腹部には五臓の反応が現れる仕組みを『難経』十六難の理を以て記されているようです。腹部の中央を臍とし、臍を中心に上下左右(南北東西)の五方に区分し、その五方に五臓を配当する腹診配当です。
また、上下の設定は天地という絶対的な存在のおかげでゆらぐことはありませんが、左右の設定はなかなか確定できないものがあります。そのため「夫れ人は南に向うもの也。故に人の左は東也。…(略)…故に右は西也。」として、「南面」を基準に、東西=左右を決定しています。この南面セオリーは「聖人南面而立」(『素問』陰陽離合論第八)、「聖人南面而聴天下嚮明而治。」(『周易』説卦伝)に基づきます。
他にも、左右・太過不及・坎離…といった言葉で説明されていますが、陰陽の範疇を出るものではありません。
鍼道五経会 足立繁久
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鍼道五経会 足立繁久
原文 『醫學節要集』腹の見様之事
■原文 『醫學節要集』腹の見様之事
内經に曰く、夫人に五臓とは肝心脾肺腎なり。然るに此肝心脾肺腎の五臓の中、何れの臓なりとも大過不及無則は平人也。平人と云は則病無人の事なり。若何れの臓なりとも大過するか或は不及する則はすなはち病有人のこと也。其大過と云は其臓に邪氣盛なる事也。不及とは其臓の不足する事也。
經に曰く、五臓各主る所腹を以て是を定むるに臍を中央にして其所を定むるが故に臍の左は肝の臓の主り、臍の上は心の臓の主り、臍の右は肺の臓の主り、臍の下は腎の臓の主り、臍の中央は脾の主り。
故に臍の左恒に動氣在て是を按ば塊有ものは肝の臓に邪氣在と知べし。臍の上常に動氣在て其所に塊在ものは心の臓に病あり。臍の右常に動氣在て塊在ものは肺の臓に病あり。臍の下常に動氣强く塊在ものは腎の臓に病あり。極めて臍の中常に動氣强きものは脾の臓に病在と知べし。
惣じて左の腹に病在るものは大様大過と意得べし。何んとなれば夫人は南に向もの也。故に人の左は東也。東は春を主て陽を生ず故に大過とす。右の腹に病在る者を不及とす。何んとなれば夫人は南に向もの也。故に右は西也。西は秋を主て陰を生ず。故に不及とす。
古書に春は陽を生す故に春初て萬物生ずるとあり。何んとなれば草木は芽を出し花開け蟲獸の類までも冬三月穴して春發生の氣を受て咸其穴を出る也。春は純ら陽盛にして浮み升るが故に斯の如し。又曰く秋は陰純らにして陽は降て地中に入草木の花葉悉く落鳥獸の類皆秋の陰氣を禀て悉く毛隕るなり。是皆難經の意也。其外諸書に見えたり。
又曰くそれ人の身に陰中に陽あり陽中に陰ありと云へり。何んとなれば周易に於て坎の卦は水にして陰なり。故に上下の爻は離れて陰の卦なり。中は陽にして連る離の卦は火にして陽なり。故に上下の爻は陽中の陰と云ものなり。故に人の身にも陰中に陽陽中に陰ありと知べし。是故に左は純ら陽也といへども復中に陰あり。何んとなれば動く所を陽とし靜なるものを陰とすと云り。
然る則は左の手は陽なれば勝ちて動くことを得べきことなれども働くこと右に及ばず。是所謂陽中に陰有るに非ずや。右は極て陰たりといへども復中に陽あり。此故は靜かなるものを陰とすと云り。右の手は陰なれば靜なるべきことなり。然れども働くこと左に勝れり。是所謂陰中に陽有と知へし。足も亦斯の如し。
氣は陽血は陰たりと雖𪜈血病は左氣病は右にあり。是所謂陰中に陽病陽中に陰病有と云もの也。
惣じて陰陽の事は数多有と雖𪜈略して是を記さず。類を以て推て識べし。斯の如く源を知てその後腹を候ふべし。
一醫師病人を臨で腹を候ふに先左の手を以て病人の中脘の所に安呼吸四五息が間を候ひ、其後臍下氣海の所に安呼吸四五息の間是を候ふ。上下の釣合を見て元氣の强き弱きを攷ふへし。惣じて腹に見所數多有と雖𪜈畧して此を記さず。案ずるに醫師の手を以て腹の中を診るに手意に輕重あり。如んとなれば皮めに輕く押ては衛氣を候ひ重く押ては榮氣を候ふ故に輕重ありと云へり。是脉に浮中沈ある意なり。
傳に曰く、腹を候ふて生死を識事八箇條あり。
一には左右の肋の下より塊指出鳩尾端兜の𩋙の如し。二には中脘の上手を以て是を押に碁石の如くなる物數多あり。三には臍下より動氣衝升りて左右を分たず胸の裏に亂入なり。四には臍の廻り崖離れする者あり。五には臍の中より氣海の邊に塊指出る者あり。六には惣じて腹の中を診るに羅にて大豆を裹めるが如し。七には臍下氣海の邊に筆の管の如くなる塊見ゆるなり。八には左右とも大横の穴の上の通り期門の所極めて陷く手を以て是を押すに滑にして力なく大横の下五樞の穴の邊極めて陥く手を以て押に力なし。此の如くなる者は終には死すと云り。
凡そ此八箇條を以て考る則は生死を見ること數多有と雖𪜈推て識るべし。
又傳に曰く、左右の髀樞足の腨内手の尺部肉脫るものは必ず死すこと遠からすと云り。此の如くなることを辨て醫師たる人腹を候ふ則は必す道に至るべしと傳に云り。
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