目次
鍼道五経会の足立です。
東洋医学でも重視されるバイオリズム
先日の「医書五経」講義では“平旦(明け方)”を主テーマにして、時間と人体の関わりを勉強しました。
東洋医学は一般に知られているよりも はるかに時間・周期(いわゆるバイオリズム)を重要視した医学であるということを再認識しました。
時間と人体の関わりをひも解く上では“脈”がカギのひとつとなる…と考えています。
一難経脉営衛周天度数の図(『鍥王氏秘伝図註八十一難経評林捷径統宗』難経古註集成3 東洋医学研究会 発行 より引用させていただきました)
経脈・絡脈・奇経八脈・脈診…と、特に鍼灸医学は脈に縁が深い分野です。細かい視点でみると、鍼灸は“脈の流れを調整する治術”でもあるからです。
となると、脈をみる上で重要なのは“脈の流れを知ること”になるわけです。
この点について書かれている記述は『素問』『霊枢』『難経』の中で至る所に見受けられます。
一難経脉営衛度数の図 十二経脈と時間の対応はいわゆる子午流注としても応用される。時間と経脈の相応は如環無端に近しいともいえる。(『図註八十一難経』難経古註集成2 東洋医学研究会 発行 より引用させていただきました)
ですが、この記事では時間と流れについてのフォーカスを当ててみます。
『素問』では平人気象論第十八、『霊枢』五十營篇第十五、『難経』一難・二十三難が参考になりました。
(もちろん他の論篇も大いに参考になりますが、上の3つに絞ります。)
霊枢の中にあるバイオリズム-時間と呼吸と氣の流れ-
『霊枢』五十營篇の文を以下に引用します。
「黄帝曰く、余、五十營を聞かん、奈何に?
岐伯答えて曰く、天は二十八宿を周る。宿は三十六分。人の氣は行(めぐ)ること一周千八分。日の行(めぐ)りは二十八宿。人の経脈は上下左右前後に二十八脈。周身すること十六丈二尺、以て二十八宿に應ず。漏水の下ること百刻、以て昼夜を分かつ。故に人一呼に脈再動し、氣行くこと三寸。一吸に脈また再動し、氣行くこと三寸。呼吸定息、氣行くこと六寸。十息で氣行くこと六尺、日の行りは二分。二百七十息、氣行くこと十六丈二尺。氣行中に交わり通じ、身に於いて一周す。水下ること二刻、日に行くこと二十五分。(※甲乙経では二十分有奇、太素では二十分。とある。)五百四十息、氣の行くこと身を再周する。水の下ること四刻。日の行くこと四十分。二千七百息で、氣の行くこと身に於いて十周、水の下ること二十刻。日の行り五宿二十分。一萬三千五百息で、氣の行くこと身に於いて五十營す。水の下ること百刻。日の行りは二十八宿。漏水は皆盡きる。脈終する。所謂、交わり通ずる者、一数に並び行くなり。故に五十營に備わる。天地の壽を盡すすを得、凡そ行くこと八百一十丈なり。」
最初にある二十八脈とは、十二経が左右2経ずつあるので24脈。さらに任督両蹻(任脈・督脈・陰蹻脉・陽蹻脉)の4脈を足して28脈としています。(『難経』二十三難より)
この二十八脈と二十八宿とが相い応じている…という天人相応の考え方です。
水時計の絵図(『運気論諺解』東方会 発行 より引用 より引用させていただきました)“漏水”、“水の下る”など言葉は時を測る水時計のことを指す。
二十八宿は中国の天文学の言葉ですが、ここでの詳しい説明は割愛させていただきまして、人体内の時間と流れについてさらに絞ります。
天の運行(地球の自転)つまり昼夜のサイクルと、人体のバイオリズムには何らかの関係があると示唆されているのですが、ここで引き合いに出されているのが、経脈というルートです。
ルートの長さはあらかじめ(凡そですが)設定されています。十二正経に任督両蹻を含めた二十八脈です。これが“距離”に当ります。
そして“呼吸”という目安を使って一呼吸につき“六寸”進むとしています。速度が6寸/息となるわけです。この辺の話は算数の速度=距離÷時間と同じです。
『霊枢』『難経』では、一日(24時間・100刻)で行う呼吸数を13,500息に設定されています。また、一日で氣が脈内を進む距離も設定されています。それが810丈という数値です。(五十營篇を確認のこと)
…と、ここまで読んでもあまり面白みのない話と思われるかもしれませんね。
なので現代の私たちに分かりやすいように計算し直してみましょう。
現代の時間に換算してみると分かりやすくなる!…かも
一日を100刻と定めていますが、一刻はどれほどの時間なのでしょうか?
24時間=1440分なので、100刻で割ると…「1刻=14.4分」となります。
2刻は2倍して28.8分です。(五十營篇の下線部にある)二刻の条件を挙げますと…
「呼吸は270息、氣の行りは16丈2尺、ちょうど身体を一周する」のが二刻です。
(読みやすいようにあえて漢数字を不使用としています。)
28.8分で二十八脈を一周するということは、置鍼時間に使えるのではないか!?と考え、一時期は約28分を置鍼時間にした時もありました。(今採用している置鍼時間は28分よりも少ないですが…)
また「100刻で13500息」の条件設定から、1刻(14.4分)に135息という呼吸ペースが計算できます。
135息を1刻で割ると135÷14.4=9.375息(/分)となり、現代の1分あたりの呼吸数(成人で12~16回/分 ネット調べ)と比較すると、ややゆったりした呼吸になります。
でも、一分間に12~16回って、けっこうあわただしい呼吸数ですね。ひと呼吸に3.75~5秒って…。
それでは素霊難でいうところの呼吸の長さを計算してみましょう。
1分(60秒)あたりの呼吸数は9.375回なので、
一呼吸あたりの時間は6.4秒になります。
ざっと区分すると、呼気に3秒、吸気に3秒。閏(うるう)の概念を入れて呼気と吸気の間に0.4秒といったところでしょうか。(アバウトな見かたですみません…)
でもこれも腹式呼吸などに比べるとまだ早いペースの呼吸といえるかもしれません。
医者(鍼灸師)は病まず
ここで『素問』平人気象論の言葉を見てみましょう。
「黄帝問うて曰く、平人とは如何なるものか?
岐伯対て曰く、人は一呼に脈は再動し、一吸に脈はまた再動する。呼吸定息、脈五動、閏するに太息を以てす。命じて平人と曰う。平人なる者、病まざる也。常に不病を以て、病人を調う。医は病まず。故に病人の為に平息し、以てこれを調するを法と為す。」
とあるように、「医不病」医は病まず…なのです。
その不病のための条件が“呼吸”であるというのも、まさに治未病の世界です。
呼吸が乱れると、氣の行(めぐ)りが乱れる。
氣の行りが乱れると、経脈が乱れる。
経脈が乱れると、臓腑も不調となり、外邪も侵入しやすくなり、気水血にも偏りが生じやすくなる。
・・・と、このようなストーリーは容易に想像できますね。
この呼吸と経脈の流れは、あくまでも理想論でありまして、現実はそうはいきません。
…と、そんな話が『霊枢』營衛生會篇第十八にあります。
氣の行(めぐ)りは年齢によってペースが変わるのです。
少壮の人の昼瞑せざる者は何の氣によるものか?
岐伯答えて曰く、壮者の氣血は盛んで、その肌肉は滑らかであり、氣道通ずる、營衛の行りその常を失わず。故に昼精にして夜瞑する。
老者は氣血が衰え、その肌肉が枯れ、氣道が渋り、五臓の氣は相い搏つ、その營気は衰え少なくなり衛氣は内伐する。故に昼に精ならず、夜に瞑せず(眠れず)。」
これは壮年期と老年期の生理について記されている文です。年齢によって氣が行るペースが変わるのです。
この文からイメージできるのは、さながら“周回遅れのランナー”です。
なので、昼夜のリズムも逆転し、眠るべき時に眠れず、起きている時にシャンとできない…という状況に陥ってしまいます。
この経脈の周回遅れとなってしまったような状態を、いかに鍼灸で経脈の流れをリセットできるか!?
このように考えると鍼灸という技はものすごく繊細な感覚を有しつつも、壮大な世界観の中に含まれる医術だというのが分かります。
結論は“上守機”
そして結論ですが・・・以上のように細かい数字を挙げていきましたが、
最終的に行きつく言葉は「上守機」だと思います。
数字や時間は観かたを変えれば“目安”であり“手がかり”であり、もしくは“段階”といったところでしょうか。
それらを踏まえた上で“形”ではなく“機”を大事とすること。
これが鍼を用い、脈の流れを調整する上で大切なことではないでしょうか。