死脈を考える 6 陰陽不測これを神と謂う

鍼道五経会の足立です。

東洋医学独特の診察法に脈診があります。

脈診は中国医学、インド医学、またアラブ医学にも行われたようですが、
脈診法の豊富さ、その発展は今の日本に伝わる鍼灸医学の誇るべき点ともいえるのではないでしょうか。

脈に神有るを貴ぶ 脈貴有神

さて、その脈診の歴史を中国医学にたどっていきますと
「脈に神有るを貴ぶ(脈貴有神)」という言葉があります。

これは李東垣の言葉だとされていますが「脈に神が有る」とは一体どういう意味なのでしょう。

写真は東垣十書のひとつ『此事難治』(王好古 著)には脉當有神の章

「脈、当に神有るべし。」
この章では脈中に力有る状態を神有りとしているが、脈有力であれば神あり、脈無力であればの神なし…と単純にみて良いものか…。

神とはなにか?

前回の「死脈を考える5」でも少し触れましたが、
中国医学でいう神とは(現代日本人が想像するような)信仰する神ではありません。

私としては易経や素問にある言葉「陰陽不測之謂神」(『素問』天元紀大論六十六、『易経』 繋辞伝)
ここで言われている神が、「脈に神あるを貴ぶ」の神に近いのではないかと考えています。

陰陽 測られずこれを神と謂う。

陰陽の働きは人智を超えたものがあり不測にして霊妙なるものです。
生命もこの測りがたき陰陽のはたらきによるものです。

現に高度生殖医療においても、あれだけの条件をそろえた胚盤胞移植の成功率が100%にはなりません。
人の命の誕生、そして死にもまだまだ測りがたい要素があるのだと思います。

「自然界や宇宙における陰と陽、互いの働きとその結果は人智を越えた予測しきるものではない。これを神というのだ。」
個人的にはこのように解釈しています。

中国古典の中における同様の表現を集めてみました。『荀子』の一節です。

『荀子』 天論篇第十七
列星随旋、日月遞炤、四時代御、陰陽大化、風雨博旋、萬物各得其和以生、各得其養以成、不見其事、而見其功、夫是之謂神。
遞:互いに、かわる、テイ、ダイ
(足立意訳)
天に連なる星々は随い廻り、日月は交互に明るく照らし、四時(春夏秋冬)は交代し訪れる。
陰陽は大いに化し、風雨は遍く広く施され、萬物はその陰陽の氣の和を得ることで生育し、その滋養を得ることで成長する。その事(働き)は目に見えないが、それによる結果は見える。これを神と謂うのだ。

天地の営みには、ある一定の法則があるとともに、形や表層の知識を超えたはたらきをも包括した存在である。

このように感じられますね。
また『管子』にもこのような一節が残されています。

『管子』内業第四十八
一物能化謂之神、一事能変謂之智、化不易氣、変不易智、惟執一之君子能此乎。執一不失、能君萬物。君子使物、不為物使。得一之理。
(足立意訳)
物、一にして能く化す、之を神と謂う。
事、一にして能く変ず、之を智と謂う。
不易の氣を化するも、不易の智が変ずるも惟(ただ)一を執る、これ君子能く此れを為す
一を執りて失わず、能く萬物に君たり。君子は物を使い、物の使いと為らず。一の理を得たり。

さらには『水穂伝(みずほのつたえ)』附言の一節です。

『水穂伝』附言天地の間に眼に見えざるの火水(ひみつ)あり。是を火水(かみ)といふ、水火(いき)ともいふ、神と唱ふるは躰にして、水火(いき)と唱ふるは用なり。陰陽(いき)と陰陽(いき)と與(くみ)て万物を産むなり。
人の胎内に火水あり。これを霊水火といふ、氣といふ。魂と唱ふるは躰にして、息と唱ふるは用なり。息と息と與(くみ)て言(ものい)い、氣と氣と與て、人を産む。…

陰と陽はつまり水と火、日と月、自己と他者、正と邪…対立しあう存在は様々にありますが、それらが背くことなく協調してはたらき存在できること。
その変化の妙を、そして生々流転する本質を神と呼んだ。

(水と油の対比もありますが、それはまたその内に…)

このように思える各書のお言葉です。

そして神という言葉は『素問』『霊枢』にも頻出しています。
上述の神の意に近いものでは『霊枢』の言葉でしょうか。

『霊枢』本神第八「…両精相搏謂之神。」
『霊枢』決氣第三十「両神相搏、合而成形、常先身生、是謂精。」
『霊枢』平人絶穀第三十二「胃満則腸虚、腸満則胃虚、更虚更満、故氣得上下、五臓安定、血脈和利、精神乃居、故神者水穀之精氣也。」

人の命でみると父母の精が合して新たな生命を生む。
新たな生命が神であり、新たに生を授かることそのものが神である。
その神を禀けて、生命はその器である体を形成します。
しかしその体を維持するには、人は水穀の精をもってしなければいけません。
その精そのものが神である、とこのようなストーリーが連想される霊枢の各フレーズです。

では脈に有るべき神とは何か?

神をみるのが本来の診法

神とは生命の力であり、それがもし感じられるものだとすれば、光であり、輝きや存在感でしょう。
このように書くと宗教的と思う人もいるかもしれません。

しかし、この力や光・輝きを私たち鍼灸師は診察技法に取り入れています。

すなわち“四診”です。

脈診は脈そのものから胃氣そして神の存在を見極める診法です。
脈に生命力が存在しているか否か?

それを見極める指標として脈力があり、また脈状としての和緩があり、胃氣があります。
脈力、和緩、胃氣の三要素について端的に表現したのが、曲直瀬道三や永田徳本の胃氣を診る脈診でしょう。

そして神を診る診法としては他にも望診や舌診があります。

望診の中でも色艶をみる法があります。
艶、すなわち輝きがあれば吉。輝きがなければ凶なのです。

春~夏の頃の植物をみればその艶、輝きが分かるはずです。

写真:初夏蕃秀に入った時期のポプラの葉、実物は写真よりも葉がピカピカ光っていた。

ちなみに神=輝きとして、その有神をみるのに、人間以外の生き物を観察することが良い訓練になります。

蝉の生死を見分ける望診「昆活とは生命力を感じること」

また、望診のひとつに眼をみる法がありますが、
これもまた「目は五臓の精華があらわれる」場所ですから、
眼力がある、即ち眼神をみているのです。

なぜ面部や目の色をみると神に通ずるのか?については別記事『各診法の違いー脈診と腹診と望診ー』を参照のこと

また、舌診においても色や潤いをみますが、
そもそも舌は心の苗であります。心とは神を蔵する存在ですので、舌を通じて心神をみると考えることも不可ではないのです。
舌診では、舌体の色・形や舌上の苔をみますが、その現われる変化の影に隠れた神をみているといってもいいでしょう。

これは脈診もまた同じ。
脈は心に通じており、脈形や脈状として現れる表面上の変化から、その裏にある神のゆらぎを観ようとしているのが脈診の本質なのかもしれませんね。

そうはいっても、普段からどの治療、どの患者さんにもおいて、その形の向こうにある神をみているわけではありません。理想論であり、私としてはまだまだ精進が必要です。

 

繰り返しになりますが、陰陽不測の神なる霊妙な働きが失われたとき、その状態を命という現象においては死という…死脈考としてはこのようなまとめになりますね。

 

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