遠足 大阪史跡めぐり by 蒼流庵易学講座

久しぶりのフィールドワーク

先日の日曜日(11月20日)は久しぶりに遠足に行ってきました。当会主催ではなく、濱口昭宏先生(先生のブログ『蒼流庵随想』はコチラ)の蒼流庵易学講座が開催される遠足なので、「鍼灸師の遠足」ではなく「易学学習者の遠足」ではありましたが、十二分に鍼灸師の学びにもなる内容でした。
ですので、ちょっとだけレポート記事にして紹介します。

まずは易学供養塔から

天王寺区は元三大師堂を訪問。乾門をくぐっての参拝。
この易学供養塔(下写真)には随所に易学にまつわる工夫がなされている。
五輪塔の奥「易學先師先覺合祀供養塔」とあるその下には陽爻陰爻から成る八卦および長女・中女・長男・少(男)の文字がみられ通好みのデザインである。


写真:易学供養塔(易學先師先覺合祀供養塔)

また手前の石灯籠にも八卦が刻まれ柱部分の内側には「與天地合其徳(天地と其の徳を合す)」そしてこのアングルでは見えないが反対の石灯籠にも「與日月合其明(日月と其の明を合す)」と刻まれている。
この言葉は易の文言伝の言葉であり、「夫大人者、與天地合其徳、與日月合其明、與四時合其序、與鬼神合其吉凶。」とある文からの引用であろう。

また石碑の右横に建てられた弥勒菩薩像は紀藤元之介先生にまつわるもので、その「弥勒菩薩像勧請記」には「弥勒菩薩を勧請し奉る者は○因縁不思議に催ほされ○さねさし相模の小野に零れたる、○藤氏の裔○一粒の藤の実○木藤源治なり。……(○部分は欠けたためか確認できない箇所)」と刻まれている(下写真の左右)

 
写真:紀藤元之介 先生ゆかりの弥勒菩薩像。実はこの弥勒菩薩像のお膝元にも八卦が刻まれている。


写真:供養塔に手を合わせる蒼流庵 庵主 濱口先生

濱口先生は日本各地の易学者・医家の墓所を掃苔するキャリアも長く、その墓所・史蹟を訪問する際の準備・お作法にも学ぶべきものがある。

整骨新書の各務文献先生の墓所

各務文献先生の墓所です。墓所のある浄春寺入口にはこのように各務先生の業績を讃える「二百回忌刻文」がある。

濱口先生のご説明では
「当時、解剖するにも幕府の許可が必要であった。しかしそれも年に二体のみのごく限られたものであった。切羽詰まった各務先生は先生の妻と二人でこっそりと刑場から死体を運び解剖を行った。」
「各務先生もすごいがその奥さんもスゴイ!」
「華岡青洲の妻も有名だが、各務文献の妻の医学への貢献度は素晴らしいものだ!」と絶賛しておられた。

この記事をここまで読んだ人は、ぜひ「各務文献の妻」で検索してみていただきたい。さらに各務文献の妻・奥さんの凄さを改めて知ることだろう。


写真:各務文献のお墓。帰一堂は文献の号

二百回忌刻文にあったが、幕府には無許可で死体を持ち出し解剖したが、その献体をもとに「等身大の木骨」を作成、「弟子達をして按撫せしめ、活術に資した」とのこと。

また、この木骨(人体模型)は二体あり、その一体を「文政己卯年、幕府医学館に献納した」とある。この時、ナイショで死体を回収した件に関して、御上からのお咎めは無かったことを願う。

もちろん各務文献は人体模型だけでなく書によっても人体の構造を記し伝えている。『整骨新書』の絵図をみるだけでも各務先生の精緻な仕事ぶりをうかがい知ることができるだろう。

田能村竹田先生のお墓と石碑


写真:田能村竹田の石碑を説明する濱口先生

(手前のお墓をみて)「竹田先生ではないですよ」と、まず我々に助言。たいていの人はお墓の刻文をみて“竹田先生”と呼んでしまうはず。

麻田剛立先生は医学だけではなく天文学の第一人者!


写真:麻田剛立 先生のお墓

麻田剛立 先生は医学を学ぶも天文学の世界でも有名な方とのこと、濱口先生のご説明を聞いて、麻田先生の業績の規模の大きさにビックリ!
「月のクレーターにその名を残している」とのこと。Wikipediaでみると月にある「豊かの海」の北端には“アサダ”と命名されたクレーターがあるという。
しかも麻田剛立はケプラー第三法則を独自に発見したともある!なんとも優秀・頭脳明晰な方なのだ…と手を合わせたのであった。

北村友松子のお墓にはなんと○○○が眠っている!

次なるは太平寺である。太平寺といえば“十三参り”や北山不動明王で有名なお寺。
しかし医学の方面でみても、大物といえる医家が眠っておられる。その医家が北山寿安(北山友松子)である。


写真:北山寿安が入定したという石室がこの不動明王像の下にある

この不動明王像の背中には以下の言葉が刻まれているという。

等身石像
尓生前是誰
吾死後是尓
截断死和生
尓吾空也耳
北山友松子 竝題

なんとも意味深い言葉である。しかし凄いのはここからである。北山友松子は死の間際に明王像の下にある石室にこもり鐘を叩き読経したという。やがてその鐘を叩く音も聞こえなくなった…。
北山友松子は即身仏として、今も病気平愈に訪れる人々を見守っている。

ちなみにお薬の町で有名な道修町(どしょうまち)の歴史にも北山寿安はその中心人物となっている(※諸説あり)

岡本一抱の○○のお墓

次なるは齢延寺である。ここには岡本為竹の墓所がある。

岡本一抱といえば、古典派鍼灸師ならばその名を知っている人も多いだろう。とくに江戸期の文献を読む人であれば何度もその名を目に耳にしているはず。

『難経本義諺解』『素問諺解』『臓腑経絡詳解』『奇経八脈詳解(経穴密語集)』『鍼灸抜萃大成』『万病回春病因指南』『広益本草大成(和語本草綱目)』『方意弁義』『医学三臓辨解』…等々、当会でもテキストや引用資料で大いにお世話になっている。

さて、この齢延寺にある墓所はそんな岡本為竹一抱子先生の息子さんとお孫さんのお墓である。


写真:左が法橋 岡本為竹墓、右が尚古斎岡本為竹墓

息子(養子)岡本為竹(為竹は代々継がれる名)は父一抱と同じく法橋の位を授かっている(左墓)。孫、尚古齊の方の為竹は法橋の位を授かっていないのか、法橋の文字はみられない(右墓)

後日、濱口先生から「岡本一抱子が初代為竹ではない」ことをご指摘をいただく。
一抱子は(御家の事情で)二代目か三代目であるという。となると息子の為竹は三代目か四代目、孫の為竹が四代目か五代目になる(ちょっとややこしい?)
詳しくは「岡本一抱を求めて」(著者 濱口昭宏)を参照のこと。数少ない岡本一抱資料で非常に重厚な調査結果による論文である。


写真:お墓の側面、脱落が激しいが、一抱の名が確認できた

側面(写真)には「岡本氏大阪人祖考一抱・・・」と刻まれている。濱口先生いわく「祖考とは死んだ父や祖父のことです」。岡本為竹一抱の子孫であることを示している。

最後に藤沢東畡先生のお墓にマイル


写真:藤澤東畡 先生のお墓には誰かが先にお参りしたのであろう。白いお花が供えられていた。

藤澤東畡 先生は大阪を代表する教育者である。大阪で漢学塾「泊園書院」を開き、多くの優秀な人物を輩出したとのこと。学問だけでなく、実業界や政治にも関わる人物を育てたとの濱口先生のお話を聴き、大阪の歴史を支えた人物なのであろうと往時に想いを馳せつつ、とても立派な齢延寺を眺めていた。

以上が蒼流庵易学講座主催の遠足「易学供養塔および史蹟を巡る遠足」である。
この後は参加者みんなでランチをいただき、歓談しながら楽しいひと時を過ごすのだが、この遠足はまだ序章に過ぎないことになるのだ…。

延長戦のようすは次の記事『遠足 大阪史跡めぐり エクストライニング』にて。

鍼道五経会 足立繁久

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