原南陽の医学(5)『叢桂亭医事小言』より

原南陽の医学観

前回「医学4」では「傷寒論医学の基盤となる気の動き」について詳述されていた。今回の「医学5」は産科に及ぶ。妊娠・出産の道理、そして世界に誇るべき江戸期の産科学の発展などについても紹介されている。


※『叢桂亭医事小言』(「近世漢方医学書集成 18」名著出版 発刊)より引用させていただきました。
※以下に現代仮名書き下し文、次いで足立のコメントと原文を紹介。
※現代文に訳さないのは経文の本意を損なう可能性があるためです。口語訳は各自の世界観でお願いします。

医学 『叢桂亭医事小言』より

腹候叢桂亭医事小言 巻之一 原南陽先生 口授

医学(医学4より続き)

天地陰陽の道、生育を以て大なりとす。故に産婦の治法を知るを専要とすべし。孫思邈『千金方(備急千金要方)』に婦人科を始めに設けたるは此の意なり。生育のことは天地自然の事にて病に非ず。人事の入るべきことには非ざれども、難産に至りては病にて其の法を得ざれば死す。皆な是れ養護宜しきを失し、或いは多慾にて胎を偏に成し、或いは執作度(はたらき)を失ひ仆撲躓倒(ころぶ)などにて横産するも有り。鳥獣は交わるに時あり。人は交わるに度無し。犬猫の類は已に胎を受れば再び牡を近かづけず。その上、卵生被膜生じれば四肢の支へなき故に難産無し。又、多慾なれば、産後血熱多く①血暈などし、此の血熱、日を経て解せず。或いは風冷などに侵されて咳嗽を加え、終に労瘵の状に至るものを蓐労と名づけ難治とす。其の倒逆の生じるは自然に受胎の事にて順産になすの術なし。子がえりと云うは虚妄の説なり。是れは産前腹候して順逆は預めに知らるべきなり。

子玄子(賀川玄悦)の腹候せらるるを見たるに百中なり。胎の腹内にある形を明らかに解すれば、見はづしの無きはず也。子玄子一たび出でて千古の惑いを解きて、天下始めて産乳の理を知ることを得たり。人事の大要是の学ぶには『産論并びに翼(産論と産論翼)』の二書なり。手術二十二ありて回生鉤胞の二術に至りては筆墨に明らかにすること能わず。故に翼(産論翼)にも此の二術を載せざるは禁秘したるのみに非ず。未熟にて人を誤り害をなすことを恐る。此の二術をしらずんば起死することならず。
子玄子は産論に小傳あり。その神奇の事は今讃するに及ばず。其の術の始めを語らるるを聞くに、この時より此の事を考えつけて此の術は始めたりと、一々に奇異なること人意の表に出づ。只だ文字の無き人故に其の事皆な俗事より発すれども、暗に紅毛の説に符合するは天の告ぐるに子玄子を以てせるか。その頃は紅毛学、今のようには行われざる時なり。
又、常に語らく往時は寒窶(びんぼう)にて古銅鉄器を買いて生とす。殆(ほとほと)窮せり。仍りて按摩を取り世を渡るに隣店に難産あり。急に作意にて術をもうけて之を救う。是を斯道の始とす。四十余歳の時なりと。
夫より十四五年の間に天下に名を振るい、一家の祖と仰かれたり。その時より一貫町に住せる故に、又他に移るべからずとてその処に隠居す。
性任侠なることは東門の序文に見ゆ。極めて世の物体(もったい)なるを悪む。或る時、一富商の婦、産後血暈して数名医を迎えるに甦(さ)めず。雪中に子玄子を延(まね)くにより、常には紫の被風(ひふ)を着しはなし、目貫の短刀にて駕籠にて出られけるが、その日には銀拵えの太刀作朱鞘の大小を帯し草鞋をはき、その門に至れば幾つも駕籠をならべ供も大勢居るたり。やがて玄関にしりうたげし(踞げし)高く呼びて「湯を一つ呉られよ足を洗たし。上工の医者は駕籠には乗れども治法は知らず。賀川玄悦は草鞋に乗りて来れども指が一本ちゃっとさわれば立どころに治す」と、満座の時師の並み居るところを思ふ侭(まま)に亢言すれども、一言の返答するものなし。産室に入りて禁暈術を行い房より出でて「各々御太儀、暈をば玄悦療してござる。是からは各々の手に宜しきほどなるべし。今より帰らんと欲す。夫れとも又悪くしたらば早く迎えをつかわされよ」と玄関の真中にて草鞋をはき傍若無人なること皆な此の類也。
九、十月の頃、毎朝袖なし羽織無刀にて藜杖(れいじょう)をつき島原へ出る辺の貧民の籬落(りらく)の間を閑行す。児童、未だ寒衣を着ず街頭に遊戯するを見て、六條へ人を遣わし綿衣を幾つも求め、翌朝件の児童に着せて廻る。是れを楽しみとす。
又、宅の向いの寺門に野乞食居る寒中に至れば、夜々に粥を煮、鍋のまま熱に乗じてその処に持たせて、一人も残さずに施す。故に是を知って乞食ども群居せり。
さて此の術、二代目子啓子までは異端の治法とそしられて、堂上に用ゆることなかりけるに、当代に至りて恭しく御医に擢(ぬきんで)られ今は雲上に行わる。(賀川玄悦は1700-1777年、養子の賀川玄迪は1739-1779年を生没年とする。)
その精しきはその門に謁して学ぶべし。手術は常に熟せざれば用をなさず。さて唐にて産を論じたるは別けて臆説にて杜撰多し。本邦にては中條帯刀と云う人、婦人の療治に名あり。世に中條流と云う。その処、至りて迂達の事あり。薬方は世に多く用ゆるに効験ありと云う。
中古戦国の時、産婦と金創を一様に見なして同方を用たること、この中條流のみに非ず。昔時、吉益流、浅見駿河守が家方、江州 鷹見甚左衛門など皆な戦場より仕覚えたる事と見ゆ。紅毛人の産を論したるは皆な実地にかけてその図全く子玄子の説と符合す。回生などには奇器も多し。仍りて思うに腑分けと受胎の事などを論ずるは紅毛を第一とす。腑分けは一二度も見るべし。内景を知りて格別理会することあり。
今は民人、太平の時に生れて干戈を見ざること二百年故に文運大いに開けて古に通ぜざる。異国の文字も読みて自由に通用する事になり諸々名家輩出せり。暇あらば学び問べし。

唐にて腑分けのことは前漢、王莽が時に粤巂(越巂・えつすい)の蛮夷任貴、亦た大守枚根を殺す。翟義(てきぎ)が党の王孫慶を捕える。莽(王莽)は大医、尚方をして巧屠と共に之を刳剝せしむ。五臓を量度し、竹筵を以てその脈を導き、終始する所を知る。云く、以て病を治すべし(『漢書』王莽傳)とあり、分量などを見るは唐の空理を好む学風より出でて無益の事なり。内景を見るの意、その所には非ず。
さて産乳の事に通ぜざれば経閉と姙者を弁すること能わず。大病に仕立ること多し。孕候を知らざるに属す頃、一婦嫁して後、経行来たらず、父母以為(おもえらく)娠なりと。一医をして診せしむ。飲食乏しく心気衰敗すれども悪阻なりとして省みず、漸く微しく寒熱を発し咳嗽して瘵疾になりてけり。是れ全く孕候を詳らかにせざる故なり。その候は悉く腹診にあり。詳には娠者の治法にかたるべし。然れども産乳の事は賀川家に従いて学ぶにしくはなし。

脈診で最も重要なのは胃の気

「医学」の章もいよいよクライマックス。婦人科である。
本文では孫思邈の『千金要方』を引き合いに出している。原南陽が指摘するとおり『千金要方』は婦人科から始まる。他の医書、とくに病症別に構成している書の多くは中風門から始まることが多い。
これは「風為百病之長(風邪は百病万病の長)」という病理観からきているのであろう。一方『千金要方』は中風から始めずに、なぜ婦人科から始まるのか?『千金要方』本文にも記載はあるが、生老病死(仏教用語)という仏教的な影響もあるのでは?という考え方が個人的にはしっくりくる。

人の情欲というもの

さて本文には産後ケアに関する内容も記されている。産後の体調不良の一因となるのが、産前の不養生である。
この産前不養生の一つによく挙げられるのが、虚労や妊婦の七情不和である。このことは多くの産科医書にも記され、現代にも通ずるものである。

しかし当時に戒められていた七情不和の要因には興味深いものがある。妊娠時の性交(房事)を戒める記述が非常に多い点である。性交時に情欲は火を生じさせるという病理観がある。
下線部①の前文にもそれを指摘する部分がある。「鳥獣は交わるに時あり。人は交わるに度無し」「犬猫の類(たぐい)はすでに胎を受れば再び牡(おす)を近かづけず」

・動物には発情期(繁殖期)があるが、万物の霊長を自称する人間はひっきりなしに交わっている。
・動物は一旦、妊娠すると(育児期間中も)メスはオスを寄せ付けない。

この発情期・繁殖期の観点から人体の発生学を(もちろん東医的に)考え理解することが大事である。ヒト以外の動物と共通する点、共通しない点(むしろヒト固有の特徴)などを整理することで、人体の生理・病理を理解するヒントになる。

このようにみると下線部①「多慾なれば、産後血熱多く…」もまた単なる情欲・性欲ではないことも自ずと分かる。性欲も含めることはもちろんだが、ヒト固有の複雑な思考・悩み・心労もこれに含まれる。
この手のはなしは尽きないが、臨床に繋がる詳しい話は講座【生老病死を学ぶ】の鍼灸婦人科にてしばしば紹介している。

産科学といえば中條流

中条帯刀なる人物が紹介されている。中条帯刀は豊臣の家臣であり、彼を祖とする婦人科に長けた流派が中条流(中條流)である。とはいえ、本文に書かれているように金瘡治療と一様に見なしていたとあり、主に外科的な療法であったようである。調べると主に堕胎を行う術でもあったようで、現代の産婦人科のイメージとは異なる。
「中条流」という薬もあったようだ。ちなみに今も市販されている中将湯とは別モノのようである。

賀川玄悦という医家

産科の話から賀川玄悦(1700-1777年、号は子玄子)の名が記されている。賀川玄悦の名を知る鍼灸師は少ないが、逆子治療を行う鍼灸師ならば彼に敬意を表するべきであろう。
なぜなら世界(※東洋)で初めて逆子という現象・概念を発見するに至った人物だからである。詳しくは『産論』(1765年 賀川玄悦)の巻一を読まれたし。(当会ではちょうど先月の講座【生老病死を学ぶ】にて紹介した)
また彼と同時期に、西洋にてはウィリアム・スメリー(1697-1763年)が逆子について発表している。どちらが先に逆子について発表したのか詳しくは知らないが、両者の発見はそれまで助けられなかった多くの母子たち救ったことであろう。

また賀川玄悦のサクセスストーリー、および彼の人となりについてのエピソードが紹介されている。
お偉方に対しては反骨心あふれる一面あり、また子ども達や貧しい人々に施しを与える慈善家としての一面あり、ただ医書を読むだけではうかがい知れないものがある。

鍼道五経会 足立繁久

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原文 醫學 『叢桂亭医事小言』より

■原文 醫學

醫學(醫學4より続き)

天地陰陽之道、生育を以て大なりとす。故に産婦の治法を知るを専要とすへし。孫思邈千金方に婦人科を始めに設けたるは此意なり。生育のヿは天地自然の事にて病に非す。人事の入へきヿには非され𪜈難産に至りては病にて其法を得されは死す。皆是養護宜しきを失し、或は多慾にて胎を偏に成し、或は執作度(はたらき)を失ひ仆撲躓倒(ころぶ)なとにて横産するも有り。鳥獣は交るに時あり。人は交るに無度。犬猫の類已に胎を受れは再び牡を近かつけす。其上卵生被膜生は四支の支へなき故に難産無し。又多慾なれは産後血熱多く血暈なとし、此血熱日を經て不解、或は風冷なとに侵されて咳嗽を加へ終に勞瘵の状に至るものを蓐勞と名け難治とす。其倒逆生は自然に受胎の事にて順産になすの術なし。子かへりと云は虚妄の説なり。是は産前腹候して順逆は預めに知らるへきなり。子玄子の腹候せらるゝを見たるに百中なり。胎の腹内にある形を明に解すれは見はつしの無きはづ也。子玄子一たひ出て千古の惑を解て天下始て産乳の理を知るヿを得たり。人事の大要是の學ふには産論并翼の二書なり。手術二十二ありて回生鉤胞の二術に至りては筆墨に明にするヿ不能故に翼にも此二術を載せさるは禁秘したるのみに非す。未熟にて人を誤り害をなすヿを恐る。此二術をしらずんば起死ヿならす。子玄子は産論に小傳あり。その神奇の事は今讃するに及はす。其術の始を語らるゝを聞にこの時より此事を考つけて此術は始たりと一〃に奇異なるヿ人意の表に出つ。只文字の無き人故に其事皆俗事より發すれ𪜈暗に紅毛の説に符合するは天の告るに子玄子を以てせる欤。其頃は紅毛學、今のやうには行われさる時なり。
又常に語らく往時は寒窶(とんほう)にて古銅鐵器を買て生とす。殆と窮せり仍て按摩を取り世を渡るに隣店に難産あり、急に作意にて術をまうけて救之。是を斯道の始とす。四十餘歳の時なりと。夫より十四五年の間に天下に名を振ひ一家の祖と仰かれたり。其時より一貫町に住せる故に又他に移るへからすとて其處に隠居す。性任侠なるヿは東門の序文に見ゆ。極めて世の物體なるを惡む。或時一冨商の婦産後血暈して數名醫を迎るに不甦。雪中に子玄子を延くにより常には紫の被風(ひふ)を着しはなし目貫の短刀にて駕籠にて出られけるか其日には銀拵の太刀作朱鞘の大小を帯し草鞋をはき、其門に至れは幾つも駕籠をならへ供も大勢居るたり。やかて玄関にしりうたけし髙く呼て湯を一つ呉られよ足を洗たし上工の醫者は駕籠には乗れ𪜈治法は知らす。賀川玄悦は草鞋に乗りて來れ𪜈指が一本ちやつとさわれは立ところに治すと満座の時師の並居ところを思ふ儘に亢言すれ𪜈一言の返答するものなし。産室に入て禁暈術を行ひ房より出て、各御太儀暈をは玄悦療してこさる。是からは各の手に宜きほとなるへし。今より歸んと欲す。夫とも又惡くしたらは早く迎をつかわされよと玄関の真中にて草鞋をはき傍若無人なるヿ皆此類也。九十月の頃、毎朝袖なし羽織無刀にて藜杖(れいじょう)をつき島原へ出る邊の貧民の籬落(りらく)の間を閑行す。兒童未着寒衣、街頭に遊戯するを見て六條へ人を遣し綿衣を幾つも求め、翌朝件の兒童に着せて廻る。是を樂とす。又宅の向の寺門に野乞食居る寒中に至れは夜〃に粥を煮、鍋のまヽ熱に乘して其處に持たせて一人も不残に施す。故に是を知つて乞食共群居せり。
さて此術二代目子啓子まては異端の治法とそしられて、堂上に用ゆるヿなかりけるに、當代に至りて恭く御醫に擢(ぬきんで)られ今は雲上に行わる。其精きは其門に謁して學ふへし。手術は常に熟せされは用をなさす。さて唐にて産を論たるは別て臆説にて杜選多し。本邦にては中條帯刀と云人、婦人の療治に名あり。世に中條流と云。其處至て迂達の事あり。藥方は世に多く用ゆるに効驗ありと云。中古戰國の時、産婦と金創を一様に見なして同方を用たるヿ、此中條流のみに非す。昔時吉益流淺見駿河守か家方江州鷹見甚左衛門なと皆戦場より仕覺たる事と見ゆ。紅毛人の産を論したるは皆實地にかけて其圖全く子玄子の説と符合す。回生なとには奇器も多し。仍て思ふに腑わけと受胎の事なとを論するは紅毛を第一とす。腑わけは一二度も見るへし。内景を知りて格別理會するヿあり。今は民人太平の時に生れて干戈を見さるヿ二百年故に文運大に開けて古に通せさる。異國の文字も讀みて自由に通用する事になり諸名家輩出せり。暇あらは學ひ問へし。唐にて腑わけのヿは前漢王莽か時に粤巂の蠻夷任貴亦殺大守枚根翟義黨王孫慶捕得莽使大醫尚方與巧屠共刳剝之、量度五臓以竹筵導其脉知所終始云可以治病とあり、分量なとを見るは唐の空理を好む學風より出て無益の事なり。内景を見るの意、其所には非す。さて産乳の事に通せされは經閉と姙者を辨するヿ不能。大病に仕立るヿ多し。孕候を知らさるに屬す頃一婦嫁して後經行不來、父母以為娠なりと、一醫をして診せしむ。飲食乏心氣衰敗すれ𪜈惡阻なりとして不省、漸微寒熱を發し咳嗽して瘵疾になりてけり。是全孕候を不詳故へなり。其候悉く腹診にあり。詳には娠者の治法にかたるへし。然れ𪜈産乳の事は賀川家に従て學にしくはなし。

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