『奇経八脈攷』その3 陽維脈について

陰維と陽維は身を維絡する脈

前回は陰維に関する内容でした。難経にある表現「身を維絡」する脈としての維脈が分かりやすい説明でありました。今回の陽維の説明はどうでしょうか。陰維と対比しながら読むと陽維の本質理解につながると思います。


※『奇経八脈攷』(『重刊本草綱目』内に収録)京都大学付属図書館より引用させていただきました
※下記の黄色枠部分が『奇経八脈攷』の書き下し文、記事末青枠内に原文を引用しています。

書き下し文・陽維脈

陽維は諸陽の会に起きる、其の脈は足太陽金門穴に発す①、足外踝の下一寸五分に在り。外踝を上ること七寸、足少陽に陽交に於いて会し、陽維の郄と為す〔外踝の上七寸に在り、斜めに二陽の間に属す〕、膝外廉を循り、髀厭を上り、少腹の側に抵り、足少陽と居髎〔章門の下八寸、監骨上の陥中に在り〕に於いて会す。
脇肋を循り、斜めに肘上に上り、手陽明手足太陽に臂臑〔肘上七寸、両筋の鏬(※1)陥中、肩髃の下一寸に在り〕に於いて会す。肩前を過ぎて、手少陽と臑会、天髎〔臑会は肩の前廉、肩端を去ること三寸宛宛中に在り。天髎は鈌盆中、上の毖骨の際、陥なる中央に在り〕に於いて会す。却って手足少陽足陽明、肩井〔肩上の陥中、鈌盆の上 大骨前一寸五分に在り〕に於いて会す②
肩後に入り、手太陽陽蹻と臑兪〔肩後大骨の下、胛上廉の陥中に在り〕に於いて会す。上りて耳後を循り、手足少陽に風池〔耳後髪際の陥中に在り〕に於いて会す。脳空〔承靈の後一寸半、玉枕骨を夾みて下の陥中に在り〕、承靈〔正營の後、一寸半〕、正營〔目窓の後一寸〕、目窓〔臨泣の後一寸〕、臨泣〔瞳人の直上、髪際を入ること五分の陥中に在り〕に上り、額に下り手足少陽陽明の五脈と陽白〔眉の上一寸、直に瞳人と相い対す〕に於いて会す、頭を循り、耳に入り、上りて本神に至り而して本神に止む〔本神は目上に直たり、髪際中に入る〕
凡て三十二穴。

※1罅:罅…「すきま」とする書有り

表現の差は陰陽維脈のヒント

下線部①「陽維は諸陽の会に起きる、其の脈は足太陽金門穴に発す。」と始まります。
陽維が起きる部位は「諸陽の会」、対する陰維のそれは「諸陰の交」です。
「会する」と「交わる」この両者の表現の差も陰陽の性質を表現しているようでもあります。

また陰維は所発と郄が同じ築賓とされ、陽維の場合は所発は金門、郄は陽交。この違いもまた陰陽の氣、衛気と営気との違いも含め考慮する必要があると思います。

また第1回の「八脈」では以下のように陽維は外踝、陰維は内踝との関連性がそれぞれ記されています。

陽維は諸陽の会に起き、外踝由り而して衛分に上行す。
陰維は諸陰の交に起き、内踝由り而して營分に上行す。

■原文「陽維起於諸陽之會、由外踝而上行於衛分、陰維起於諸陰之交、由内踝而上行於營分。」

『奇経八脈攷』八脈より

陰陽維脈は踝、陰陽蹻脈は跟と奇経の四脈が四末と関係しているのも何か意味がありそうです。
関連記事として『陽蹻脈-陽蹻脈の流注から生命観へ-』を紹介したいと思います。

ちなみに、衛氣と営氣に関する記述は古典上、意外と少ないように感じます。もちろん衛氣と営氣の性質や機能は詳細に記されていますが、両者の関係性は「営氣と衛氣は相い随う(栄衛相随)」といった程度で、どこでどのように…といった記載はなかなか見つかりません。

しかし、一身の綱維であり一身を維絡するという陰陽維脈といった表現、なにより維脈は二十八脈にカウントされていません。このことは『霊枢』脈度に記される大経隧について、また『難経』二十三難の脈長の構成をみるに明らかです。

さて、以上の情報を肯定的に考察するならば、陰維陽維の脈や督脈などを理解することで、衛氣営氣の関係をより深く理解することの手掛かりになるかと思われます。

肩井と胃経の関係

下線部②では肩井に関する記述です。
肩井は本経を足少陽胆経としますが、肩井に於いて手少陽三焦経、足陽明胃経、陽維脈に会すると李時珍は記しています。

肩井に会する各経の記述について、主だった鍼灸書をみてみましょう。
『鍼灸甲乙経』(晋代 皇甫謐)や『十四経発揮』(元代 滑伯仁)では手足少陽経と陽維の会する穴としており、胃経との交会については触れていません。

「肩井、在肩上陥者中、缺盆上、大骨前、手足少陽、陽維之會。…」
『鍼灸甲乙経』の巻三 肩凡二十六穴第十三より

「肩井、見足少陽経。手足少陽陽維之會。」
『十四経発揮』巻中 手少陽三焦経穴歌より

※【補足】但し手少陽三焦の流注としては「…過秉風肩井、下入鈌盆、復由足陽明之外、而交会于膻中…(書き下し文:…秉風、肩井を過ぎて下りて鈌盆に入り、復た足陽明の外より而して膻中において交会する)」とあり、少陽三焦経の流れ(少陽胆経)が肩井を経て、缺盆(足陽明胃経のエリア)に流れていくことを示唆している。

しかし明代に入ると情報が変わります。『鍼灸聚英』(明代 1529年 高武)『鍼灸大成』(明代 1601年 楊継洲)では共に「肩井にて手足少陽、足陽明経、陽維脈と会する」と記されています。それどころか「連入五臓」とあり、“(これら四脈が)連ねて五臓に入る”といったとても重要な穴処となっています。

「肩井(一名膊井)、肩上陥中、缺盆上、大骨前一寸半、以三指按取、當中指下陥中、手足少陽、足陽明、陽維之會、連入五藏。…」
『鍼灸聚英』巻一 足少陽経脈穴より

「肩井(一名膊井)、肩上陥中、缺盆上、大骨前一寸半、以三指按取、當中指下陥中、手足少陽、足陽明、陽維之會、連入五藏。…」
『鍼灸大成』巻七 足少陽胆経より

しかし同じ年代では『鍼灸大全』(明代 1465~1521年 徐鳳)ではこの記載は見られず、それ以前の金元代の『子午流注鍼経』(1153年頃 閻明広)『扁鵲神應鍼灸玉龍経』(1329年より約40年以前 王国瑞)『針経指南』(1196~1280年 竇漢卿)でも同様にみられません。
※金元明代における各鍼灸書の成立年代は『浦山きか,鍼灸歌賦の押韻について,東北大學中國語學文學論集 (16), 167-194, 2011-11-30』を参考にさせていただきました。

余談ながら…『扁鵲神應鍼灸玉龍経』には「肩井…此の穴に五臓の真氣が聚まる、補するに宜しからず、灸するに宜しからず…。」とあり、足陽明経との関連は記載していませんが、五臓の氣との関係について言及しています。

「肩井、在肩端上、缺盆尽処、直針寸半停針。此穴五臓真氣聚、不宜補、不宜灸。停針、氣虚人多暈乱、急瀉之三里。應支溝穴。」
『扁鵲神應鍼灸玉龍経』臂痛より

念のためもう少し調べてみましょう。宋代の『鍼灸資生経』(1180-1195年 王執中)では肩井と足陽明経との交会関係について触れられています。
「肩井の二穴、一名を膊井という。…「只 五分 鍼すべし」と『甲乙経』に云う。此れは膊井の脈である。足陽明の会である。乃ち五臓の氣に連なり入る。…」とあり、肩井と足陽明経の交会関係は宋代に遡ることができます。

では同じく宋代の『銅人腧穴鍼灸図経』(1027年 王維一)はどうでしょうか。
「肩井の二穴…手足少陽、陽維の会…」として、肩井と足陽明経との交会関係については記されていません。

「肩井二穴。一名膊井。在肩上陷(明堂此有 中二字)、缺盆上大骨前寸半、以三指按取之、當中指下陷中。『甲乙経』云、只可針五分。此髆井脈。足陽明之會、乃連入五臓氣。若刺深、則令人悶倒不識人。即速須三里下氣。先補後瀉、須臾平復如故。凡鍼肩井、皆以三里下其氣、大良、灸七壮。…明(明堂か)云、針四分、先補而後瀉、特不宜灸。針不得深、深即令人悶。若婦人胎落後微損。手足弱者、針肩井立差。灸乃勝針、日灸七壮、止一百。若針肩井、必三里下氣、如不灸三里、即撥氣上灸七壮。」
『鍼灸資生経』巻一 肩髆部左右二十六穴より

「肩井二穴。在肩上陷解中、缺盆上、大骨前。手足少陽、陽維之會。」
『銅人腧穴鍼灸図経』巻上 足少陽胆経より

このようにみると一つの可能性として、肩井に於いて手足少陽経に加え足陽明経そして陽維脈の四脈交会が指摘され、さらに肩井は五藏の氣が聚まる穴処として認識されるのは宋代の頃だとみても良いのではないでしょうか。
そして李時珍は肩井を足陽明との交会穴としての概念を採用しているといえます。
「肩井と足陽明経」に関する初出文献は何なのか?これ以上は明確にはできませんが、肩井の運用にも幅が出る情報であるといえるでしょう。

鍼道五経会 足立繁久

■原文 陽維脉

陽維起於諸陽之會、其脉発於足太陽金門穴、在足外踝下一寸五分。上外踝七寸會足少陽於陽交、為陽維之郄〔在外踝上七寸、斜属二陽之間〕、循膝外廉、上髀厭、抵少腹側、會足少陽於居髎〔在章門下八寸、監骨上陥中〕
循脇肋、斜上肘上、會手陽明手足太陽於臂臑〔在肘上七寸、両筋鏬陥中、肩髃下一寸〕。過肩前、與手少陽會於臑会、天髎〔臑会在肩前廉、去肩端三寸宛宛中。天髎在鈌盆中、上毖骨際、陥中央〕却會手足少陽足陽明於肩井〔在肩上陥中、鈌盆上大骨前一寸五分〕
入肩後、會手太陽陽蹻於臑兪〔在肩後大骨下胛上廉陥中〕。上循耳後、會手足少陽於風池〔在耳後髪際陥中〕。上脳空〔承霊後一寸半、夾玉枕骨下陥中〕承靈〔正營後一寸半〕正營〔目窓後一寸〕目窓〔臨泣後一寸〕臨泣〔在瞳人直上、入髪際五分陥中〕下額與手足少陽陽明五脉會於陽白〔眉上一寸、直瞳人相対〕、循頭、入耳、上至本神而止〔本神直目上入髪際中〕。
凡三十二穴。

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