陰維脈 経穴密語集より

諸々の陰経を維持する、それが陰維脈

手持ちの蔵書『経穴密語集』を基に書き下し文を紹介していきたい。基本的には『奇経八脈詳解』と『経穴密語集』は同内容の書であると認識している次第である。


※データ画像の紹介は引き続き京都大学貴重資料デジタルアーカイブから引用させていただいた。
※手持ちの蔵書資料『経穴密語集』を基に書き下し文を以下に紹介。

経穴密語集 陰維脉

陰維脉
丁徳用が曰く、陰維は諸陰を維絡す。
○陰維は脛股の内を循り、胸腹面部の陰位に周行して諸陰を維持す。故に陰維は諸陰経の綱維とす。
○維脉の義、右(前述)の陽維の條に詳らかなり。

二十八難に曰く、陰維は諸陰の交に起こる也。

陰維脉は諸々陰経の交會する所に起こり行く。其の起きる所の行度は下の文に載せる。伯仁李瀕の説を以って知らんぬべし。

滑伯仁、難経本義に曰く、陰維の郄を築賓 此れ陰維脉の発する所の郄穴なり。郄の註は前に見えたり。○築賓は足少陰の本穴、内踝の上五寸にあり と曰う。足太陰と腹哀 大横 腹哀は日月の下、一寸五分に在り。大横は腹哀の下三寸に在り。両穴、俱に足太陰の本穴なり。

又、足大陰 厥陰と府舎期門 府舎は足太陰の本穴、腹哀の下三寸に在り。期門は足厥陰の本穴、不容の傍ら各一寸五分に在り に會し、又 任脉と天突 廉泉 天突は結喉の下一寸宛々たる中、廉泉は頷の下、結喉の上に在り。両穴俱に任脉の本穴なり に會す。此れ陰維の諸陰の交に起こるなり。

以上は此れ陰維脉の諸々陰経の交會する所に起きると云う者、此の如くと也、
○十四経に此れ陰維脉の氣の発する所、凡て十二穴。按ずるに伯仁の説 詳らかなり雖も、述べる所の陰維の行度、其の穴の次序 順ならざるに似たり。故に李瀕湖此れが行度を詳らかにし、其の穴の次序を正す。尤も明白にして盡せり。

李時珍が曰く、陰維は諸陰の交に起きる。其の脉 足少陰築賓の穴に発す。陰維の郄と為す 本より穴法の細註ありと雖も、皆右(上記)の伯仁の説に、余が細註する所と同じ。故に今これを除きて復った贅せず 上りて内廉を循り、上行して小腹に入り、足太陰厥陰少陰陽明に府舎に於いて會し 築賓より足少陰腎経と並びて上行し、会陰の傍に行きて斜めに足太陰の府舎穴に會す 上りて足太陰に大横腹哀に於いて會し 府舎より直ちに大横腹哀に上行す 脇肋を循りて足厥陰に期門に於いて會し、胸膈に上りて咽を侠み、任脉と天突 廉泉に於いて會し 腹哀より直ちに上行して足太陰経の食竇 周榮の次に行き、斜めに任脉の天突に會し、天突より任脉に並びて廉泉に上工す 上りて頂前に至りて而して終わる 上りて頂前とは、蓋し李氏の発明か。按ずるに陽維の脉、顔に下り、陽白に會するときは則ち何ぞ陰維獨り面部に行らざることあらんや。故に時珍、深くこの旨に達して、廉泉より上りて面を循りて至りて自然に散布して終わる者とす。

凡て一十四穴 今 李氏の述べる所の穴は實(まこと)に凡て一十二穴ありて、伯仁氏の述べる数える所の者と同じ。然るに茲(ここ)に一十四穴と云うは、築賓 府舎 大横 腹哀 期門 天突 廉泉、凡て七穴これを誤り数えて二七一十四穴とする者ならん。然れども其の天突 廉泉各一穴たるときは二七と数うる者は甚だ非なり。只、伯仁氏の説を以って得たりとす。
○或る人問う、陽維脉は盡く手足六陽の経に會す。何ぞ陰維の行く所、獨り足の三陰と合して、手の三陰経に會せざるや?
曰く、手の三陰の脉は皆、胸膺に横行す。陰維脉の期門より天突 廉泉に上行する者は彼の手の三陰に交貫するときは則ち此れ手足六陰と合して、諸陰の脉を維絡する者なり。足の三陰の會穴ありて、手の三陰の會穴なきに因りて、手の三陰に合することなしと云うは誤り也。

陰維為病

二十九難に曰く、陰維の病為る、心痛を苦しむ。

陰維は營を主る。營は陰血として裏に属す。陰維病むときは則ち邪氣營血に在り。血は心の主る所。故に心痛を苦しむ。凡そ陽維の病は寒熱して表に在り。陰維の病は心痛して裏に在る也。
張潔古が曰く、營は陰と為し、裏を主る。陰維、邪を受け病と為せば、裏に在り。故に心痛を苦しむ。
○滑伯仁の曰く、陰維は諸陰を行きて營を主る。營は血と為し、血は心に属す。故に心痛を苦しむ也。
○王文潔が曰く、陰維は血 内に行く。今 病を受けるときは則ち血は心を營すること能わずして、心痛を苦しむ。其の病、裏に在りて表に在らざる者、又此れの如し。

又、曰く、陰陽 自ら相い維すること能わざるときは則ち悵然として志を失うこと 云々

此れ陰維の病也。悵然は恍惚として志を失う貌。内 精神の病なり。陰維は諸陰の脉を維絡す。凡そ陽は外を主り、陰は内を主る。故に陰維 病みて諸陰の脉を維持すること能わざるときは則ち内 精神に祛(つたなく)して悵然恍惚として志を失う。志を失うとは精神恍々(ほれぼれ)として正意なきことを云う也。

刺腰痛論曰く、飛陽の脉 人をして腰痛せしむ。痛の上怫怫然として甚しきときは則ち悲しみ以て恐る。

飛陽は足太陽の絡穴。外踝の上七寸に在り。別れて足少陰に走る者なり。飛陽の脉とは陰維脉の発する所、築賓の穴なり。蓋し陰維は足少陰に並ぶ、築賓も少陰の穴なり。故に足太陽の絡穴別れて、足少陰に走る所の飛陽の脉と云う。此れ即ち陰維の脉なり。これが腰痛せしむるや、痛の上怫然たり。病甚しきときは則ち陰邪 陽を犯して神 薄(せまる)。故に妄りに悲しみ妄りに恐る。
[怫々] 類註に痛む状、噴慎の如し也。痛の卒暴なるを云う也。

飛陽の脉を刺す 腰痛此れの如き者は飛陽の脉に鍼刺す 内踝の上五寸少陰の前、陰維との會に在り 此れ飛陽の脉の穴所を云う。即ち築賓の穴なり。築賓は少陰と陰維の會する陰維の郄なり。
[少陰の前] 築賓は復溜 交信の前にあれば也。
○或る人問う、陰維脉、何を以って 人をして腰痛せしむ(令人腰痛)?
曰く、諸々の腰痛は少陰腎経に属(あずか)る。陰維の脉は専ら足少陰の行に並べばなり。

張潔古が曰く、陰維の病為(た)る、心痛を苦しむ、治は三陰之交に在り。 盡く三陰の脉、交會の穴輸を以って陰維の病を鍼治す 太陰証 以下は内治を云う 則ち理中湯 陰維は諸陰の交りに起こる。故に三陰の証は陰維に属る。若し太陰心痛の証は理中湯に用いるの義なり。下は之に倣え。 少陰証は四逆湯、厥陰証は則ち當歸四逆湯、呉茱萸湯。

李時珍が曰く、潔古 獨り三陰温裏の薬を以って之を治す。則ち寒、三陰に中る者に宜し。而して三陰熱厥して痛を作すに未だ備わらざるに似たり。蓋し陰維の脉、三陰に交りて行くと雖も、實は任脉と同じく帰す。故に心痛 多く 少陰厥陰に属す。任脉の氣 上衝して然り。暴痛 無熱、久痛 無寒、これを按じて少し止む者を虚と為す。按じ近づくべからざる者を實と為す。凡そ寒痛に少陰及び任脉を兼ねる者は四逆湯、厥陰を兼ねる者を當歸四逆湯、太陰を兼ねる者を理中湯これを主る。凡そ熱痛に少陰及び任脉を兼ねる者は金鈴散、延胡索丸。厥陰を兼ねる者は失笑散、太陰を兼ねる者は承気湯これを主る。若し營血 内に傷れ夫の任衝手厥陰を兼ねる者は則ち四物養營湯、妙香散の類に宜し。病に因りて之を薬す。此の如くなるときは則ち陰陽虚實、庶(こいねがわくば)其れ差(たがわ)ざらん。

王叔和が曰く、陰維の脉を診し得て 下の文に謂う寸口の脉、少陽従(よ)り云々の者。此れ陰維の脉なり 沈大にして實なる者は胸中痛 陰維は期門より胸を循りて天突に行けばなり 脇下支満 陰維の腹哀期門に行く者、脇下に近し 心痛を苦しむ。其の脉貫珠の如き者は男子は両の脇下實し腰中痛む 陰維は足少陰に並ぶ。足少陰は腰痛を主れば也 女子は陰中痛みて瘡状の有る如し。 陰維は少陰に並びて陰股に上り、会陰を侠みて小腹に行く故に痛むこと此れの如し。

又、曰く、寸口の脉、少陽従(よ)り厥陰に至る、是(これ)陰維の脉也。 是も亦 陰維の病脉也。診法、後の圖にして之を察せよ (ややもすれば)、癲癇僵仆羊鳴を苦しむ。又、僵仆失音肌肉痺癢を苦しむ。時に應じて自発汗出、悪風し、身洗々然たり。 洗々は音、璽。皮毛凄凔悪寒の貌。

瀕湖が曰く、王叔和 癲癇を以って陰維陽維に属す。霊枢経に癲癇を以って陰蹻陽蹻に属す。二説の義異にして旨同じ。
陽維は外踝に由りて上り陽分を循りて肩肘に至り耳額を歴(へ)て、衛分諸陽の會に終わる。
陰維は内踝に由りて上り陰分を循りて脇に上り咽に至り、營分諸陰の交に行く。
陽蹻は跟中に起こり外踝を循り股外に於いて上行し脇肋肩體に至りて一身の左右を行りて目の内眥に終わる。
陰蹻は跟中に起こり内踝を循り股内陰器を行り一身の左右に行き咽喉に至り、任脉に會して目の内眥に終わる。
邪、陰維陰蹻に在るときは則ち癲を発す。邪、陽維陽蹻に在るときは則ち癇を発す。癇は動じて陽に属す。陽脉これを主る。癲は静にして陰に属す。陰脉これを主る。大抵、二疾當に之を四脉の穴に取りて其の陰陽を分かつべし而已(のみ)と。四脉は陰維 陽維 陰蹻 陽蹻を指す也。癲癇の病、皆 逆厥に生ず。此の四脉は盡く上行の者たるを以っての故に癲癇の症、此の四脉に属す。
按ずるに李氏、癲を以って陰とし、癇を以って陽とするの義、恐らくは経旨に合せざる者か。癲は静かに癇は動くと云うときは則ち癲は和に云う“クッチ”、癇は狂症とするに似たり。霊枢癲狂篇に論ずる所を見るに癲癇、本(もと)一症俱に和に云うクッチ也。其の動静の別あることなし。此れ蓋し知者の一失か。

ミステリアス感の少ない陰維脈

陽維脈と対になる陰維脈であるが、陽維のようなミステリアス感は少ないように思う。
陰維の流注には不明瞭さが感じられない点がその理由である。

それもそのはず、陰維は「営分を上行し」「一身の裏を主る」という役割を担い、陰に深く関与するからである。

陽維脈の“つかみどころの無さ”は、衛気という陽中の陽、無形の最たる存在と関与する点に根ざしていた。
見えない、触れ得ない、なにより読めない…という陽炎のような性質が見え隠れしていたのだ。

しかし、陰維はそうではない。故に陰維の流注表現も至ってシンプルである。

諸陰の交と諸陽の会との違い

陰維は【諸陰の交】から起こる。経穴でいうと築賓に相当し、滑伯仁・李時珍の両医家は“陰維の郄”としている。

ちなみにこの両維脈が起こる部位表現も陰陽のテイストが含まれている。
陰維は諸陰の交であり、陽維は諸陽の会である。
諸陰の交には、交わるという表現から有形のニュアンスが感じられ、諸陽の会には会するという無形のようなフワッとしたニュアンスが感じられる。
同じような表現を穴名で思い出す人も多いだろう、三陰交と三陽絡である。

このように陰陽という文字には性質や機能などが込められている。漢字文化圏に育った日本人はこのことを理解できるため、大きなアドバンテージと言えるだろう。

陰維の流注ポイント

陰維の流注で注目しておくべきポイントとして脇肋を挙げよう。

陽維と陰維はともに脇肋を循る。
衛気と深い関係にある陽維と営血と関与する陰維が接近する部位が脇肋である。
陰維は「期門」と明確に指定されているが、陽維の場合は「居髎の上」としかヒントが記されていない。この点も陰陽の特性を示す表現である。

ちなみに期門穴であるが、足太陰経・足厥陰経と陰維の交会穴としてみると、血分の深い層にまで鍼効が届くこともイメージしやすい。傷寒論に記される熱入血室も然りである。

陰維と会陰

もう一つ、興味深い点は会陰である。
陰維が会陰と関与する説を岡本氏は頻りに唱えている。しかし、李時珍も滑伯仁も会陰については言及していないようである。岡本氏がこうまで会陰と陰維との関与に言及したのかは大いに気になる所である。

もし陰維も会陰付近を通るならば、会陰に関与する脈は任督衝の三脈、少陰大絡、陰維となる。このような人体観も非常に興味深いところであろう。

陰維の終着点はどこ?

陰維の流注に関しては不明な点がある。やはり維脈はミステリアスな存在なのだ。
それは陰維の終着点が判然としないことである。李時珍、滑伯仁の両医家で意見は大きく異なる。

滑伯仁は「天突 廉泉にて任脈と会す」で終わるも、
李時珍は「咽を挟み、頂前に至り終わる」としている。
秦越人『難経』に至っては「諸陰の交に起こる」としか記されていない。

ちなみに陽維脈も『難経』においては「諸陽の会に起こる」の記述のみである。
そのくせ、陽維陰維ともに病むと「悵然として志を失う」といった重い精神疾患様の状態に陥るという。
この病症は両維脈の存在意義を理解するためのヒントとなると思うが、これに関しては又の機会に紹介しよう。

難経では「諸陰の交に起こる」としか言及されなかった陰維が、
明代の李時珍の頃には「…小腹に入り、脇肋、咽、そして頂前に至る」という陰維の概念が広がっている。

岡本一抱は「陽維の陽白と陰維の頂前とが対応している」という立場をとるが、
両者は機能的に異なるため、部位的に対応関係にある必要はないと個人的には考える。

とは言うものの、念のため岡本氏の意見を尊重し「陰維と陰蹻を対比」「陽維と陰維と対比」させて考察してみよう。

陰維は〔築賓に起こり郄とし、そこから小腹、脇肋、胸膈、咽、天突・廉泉、頂前〕
陰蹻は〔然谷に起こり照海を循り、交信を郄とし、胸裏、咽嚨、目の内眥〕

今一つピンとこない陰維と陰蹻の対比である。
では陽維と陰維を対比させるとなにかイメージできるだろうか?

陽維は〔金門に起こり、陽交を郄とし、そして少腹の側、脇肋、肩、風池…陽白、そして本神〕
陰維は〔築賓に起こり郄とし、そこから小腹、脇肋、胸膈、咽、天突・廉泉、そして頂前〕

以上の対比はそれなりに流行区域をイメージはしやすくはなるだろう。
両維脈の機能を明らかになるのは病症の考察であろう。しかし、これに関しては後日にまた言葉にしてみたいと思う。

 

鍼道五経会 足立繁久

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