『傷寒論』序文の原文と書き下し文

張仲景の苦言

「傷寒卒病論集」いわゆる『傷寒論』の序文を紹介します。この『傷寒論』の序文は古典文献の序文の中でもよく知られたものだと思います。なぜ現代でもよく知られているのか?その理由の一つに張仲景の苦言が記されているからだと思います。

建安(196-220年)の頃でも、当時の医を嘆く言葉が列挙されています。

「信じられん!まったく今の医ときたら、医薬方術を精しく究めようともしない…(怪當、今居世之士、曽不留神醫藥、精究方術…)」といった、若い世代を愁う言葉から始まり、終盤にも以下のような苦言が列挙されます。

「まったく今の医ときたら、医経の本旨を究めようとはせず、テクニックばかりにはしって…(觀今之醫、不念思求經旨、以演其㪽知。各承家技、終始順舊。)」
「病を診るにしても、やれインフォームドコンセントだの、やれ共感だのと口先の言葉ばかり…(省疾問病、務在口給)」
「診察をしたかと思えば、アッという間に終わってすぐに処方しているが、本当に分かっているのか怪しいものだ…(相對斯須、便處湯藥)」
「脈を診ているようにみえて、正しく寸関尺を診ておるのか?さらに跌陽・少陰の脈を診ているのか?(按寸不及尺、握手不及足)
「脈診において脈と呼吸の関係を分かっていないのであろう。五十至に至る前に脈診を終えている始末…(動數發息、不満五十)」
「これでは小さな穴から覗き見て天を知ろうとするようなもの…(所謂窺管而已)」

と、相当フラストレーションが貯まっているような苦言の羅列です。しかし、これがまた真実を付いているのです。今も昔も優れた医術・医学・医療そして医道の継承というものは難しいことを言い表しているようでもあります。


※『傷寒論』京都大学付属図書館より引用させていただきました。

※以下に書き下し文、次いで足立のコメントと原文を紹介。
※現代文に訳さないのは経文の本意を損なう可能性があるためです。口語訳は各自の世界観でお願いします。

書き下し文 傷寒卒病論集

■書き下し文 傷寒卒病論集

論に曰く、余、越人の虢(かく)に入るの診、斉候の色を望むるを覧(み)る毎に、未だ甞て慨然としてその才の秀でたるを歎ぜずんばあらざる也。怪しむべし、当今居世の士、曽て神を医薬に留め、方術を精究し、上は以て君親の疾を療せんとし、下は以て貧賤の厄を救い、中は以て身を保ち長全し、以てその生を養わず。但だ栄勢を競逐し、踵を権豪に企て、孜孜汲汲として、惟だ名利に是れ務む。その末を崇飾し、その本を忽棄し、その外を華とし、而してその内を悴す。皮これ存せずば、毛 将(は)た安んぞ附かんや。

卒然として邪風の氣に遭い、非常の疾に嬰(かか)り、患及び禍い至り、而して方(まさ)に震慄す。志を降し節を屈し、巫祝を欽望し、窮を告ぐれば天に帰し、手を束ねて敗を受け、百年の寿命を賚(たまわ)り、至貴の重器を持ちて、凡医に委付し、その措く所を恣(ほしいまま)にする。
咄嗟(ああ)嗚呼(ああ)、厥(その)身已(すで)に斃れ、神明は消滅し、変じて異物と為り、重泉に幽潜し、徒らに啼泣を為す。痛ましいかな、世を挙げて昏迷し、能く覚悟する莫し。その命を惜しまず、是の若(ごと)く生を軽んず。彼、何ぞ栄勢これを云わんや。
而かも進みては人を愛し人を知ること能わず、退きては身を愛し己を知ること能わず。災いに遇いて禍に値(あ)い、身を厄地に居する。蒙蒙昧昧として、惷なること遊魂の若し、哀しきかな。
趨世の士、浮華を馳競し、根本を固せず、軀を忘れ、物に徇(したが)い、危うきこと冰谷の若くにして、是に於いて至れる也。

余が宗族、素(もと)多し、向(さき)に二百に余る。建安紀年以来、猶(なお)未だ十稔(十年)ならざるに、その死亡したる者、三分有二、傷寒は十に其七居る。往昔の淪喪に感じ、横夭の救い莫きに傷み、乃ち勤めて古訓を求め、博く衆方を采(と)り、素問・九巻・八十一難・陰陽大論・胎臚薬録、并びに平脈弁証を撰用し、傷寒雑病論合十六巻を為す。未だ盡く諸病を愈すこと能わずと雖も、庶(こいねがわく)ば以て病を見て源を知る可し。若し能く余が集める所を尋ねば、思い半ばに過ぎん。

夫れ天は五行を布き、以て萬類を運らす。人は五常を禀け、以て五臓有り。経絡府兪、陰陽会通し、玄冥幽微にして、変化すること極め難し。才髙く識妙なるに非ざる自(よ)りは、豈に能くその理致を探らんや。
上古には神農・黄帝・岐伯・伯高・雷公・少兪・少師・仲文が有り、中世に長桑君・扁鵲有り、漢に公乗陽慶及び倉公有り。此れを下りて以て往くも、未だこれを聞かざる也。

今の医を観るに、経旨を思求し、以てその知る所を演(の)ぶるを念(おも)わず。各々家技を承け、終始旧に順ずる。疾を省み病を問い、務め口給に在り。相対するに斯須(ししゅ)にして、便(たちま)ち湯薬を処する。寸を按して尺に及ばず、手を握りて足に及ばず。人迎跌陽、三部を参(まじ)えず、動数発息、五十に満たず。短期なれば未だ決診すること知らず、九候するを曽(すなわち)髣髴すること無し。明堂・闕庭、盡く見察せず、所謂(いわゆる)管より窺うのみ。夫れ死を視て生を別たんと欲するは。実に難しきと為す。孔子が云う、生れながらにして之を知る者は上。学ぶは則ち之に亜(つ)ぐ、多聞博識は知の次なり。
余、宿(つと)に方術を尚(たっと)ぶ、請う斯の語を事とせん。

(本序文の最後に「漢長沙守、南陽、張機著」の九文字が記される版もある)

人の生は医しだい

以上の序文では如何に医学を大事としているか、がよく伝わってきます。
その身を失うのも、寿命を全うさせるのも“医”によるのです。救える命もあれば、医の無知により損なう命もあります。

これは鍼灸師であっても同じことです。私たちは人の体に鍼をして治療していますが、ひと鍼打つごとに補鍼であっても瀉鍼であっても、人の氣が動きます。それがもし誤治であれば、補鍼であっても、人の氣は無駄に使われることになるのです。
では、無駄に氣を消費消耗させないようにはどうすればいいのか?
正しく鍼治を理解し、正しく生理学・病理学を理解することです。

医の務めに上中下あり

この章では医の在り方について厳しくも真摯に説かれている…そんな印象を強く受けます。

例えば「上は以て君親の疾を療せんとし、下は以て貧賤の厄を救い、中は以て身を保ち長全し、以てその生を養わず。(曽不……上以療君親之疾、下以救貧賤之厄、中以保身長全、以養其生)。」との一節があります。
この一節から「上医は国を医し、中医は人を医し、…(上医医国、中医医人……)」との言葉を連想させます。

上は国や組織を導くトップの人から、下は広く民衆までを病苦から救うことが医の務めであると明言しています(本文では、今の医はそれができていない!と苦言を呈していますが)。
しかし、この「上」と「下」に対して「中」に位置する医の務めも意義深いです。医たる者は“自身の体・健康も病から守り、長生を養うべきである”と訴えています。『素問』にある医不病の言葉に通じると思います。
もちろん、この「中」には自分自身だけでなく身内・親族も含まれることでしょう。

次の段落に「而して進んで人を愛し人を知ること能わず、退いて身を愛し己を知ること能わず(而進不能愛人知人、退不能愛身知己)」とあります。どちらかといえば患者を対象とした言葉のようでもありますが、やはり同様に命を守ること(養生や医学)の重要性を説く強くメッセージとして読み取ることができます。

というのも、本序文には張氏の氏族にまつわる有名なエピソードが記されています。

もともと張氏の氏族は200人以上いたのですが、十年も経たないうちにその大半(三分の二)を失ったとあります。中でも傷寒に罹り亡くなったのが、その70%とのこと。(元々いた200人の2/3が亡くなったのが133人として、その7割が93名。士族の約半分は傷寒病で失ったようです)
この事件に大いに心を痛めた張仲景は博く衆方を採用しつつ、『素問』『霊枢』『難経』『陰陽大論』『胎臚薬録』『平脈弁証』を基に『傷寒雑病論』を著したのです。

流行り病、傷寒によって多数の親族を亡くした張仲景は、当時の医学の不備、医療者の治療に対する姿勢、患者の無知…などなどを改革すべく『傷寒雑病論』を編纂した…と、序文からはこのようなドラマを連想します。

この張仲景の偉業がなければ、今の東洋医学はどうなっていたか?想像もつかないことです。現代の我々は謹み敬意を以て学ぶべきでしょう。

張仲景の言葉は予言のように

「雖未能盡愈諸病、庻可以見病知源。若能尋余㪽集、思過半矣。」
「すべての病を愈することはできないまでも、以て病を見て源(病因・病理)を知るべし。余の集めたる所を尋ねれば、思い半ばに過ぎん。」
一見したところ、とても謙遜した言葉のようにもみえます。

「上工者十全九、中工者十全八、下工者十全六」という基準でみると「思過半矣」とは、ちょっと謙虚に過ぎるような気もします。

しかし漢代以降の歴史をみると、傷寒以外の疫病の蔓延により、仲景方では救えない事態もありました。その結果として、金元医学や温病学など、医学の発展が起こったわけです。

しかし各時代における新しい医学の基盤となっているのは、傷寒論医学であることは否定できない事実でもあります。となると「若し能く余の集める所を尋ねれば、思い半ばに過ぎん」との言葉は、時代を経て予言のように実現している…と、解釈することができるのではないでしょうか。

鍼道五経会 足立繁久

傷寒卒病論集 ≫ 弁脈法 第一

原文 傷寒卒病論集

■原文 傷寒卒病論集

論曰、余毎覧越人入虢之診、望齊候之色、未甞不慨然歎其才秀也。怪當今居世之士、曽不留神醫藥、精究方術、上以療君親之疾、下以救貧賤之厄、中以保身長全、以養其生。但競逐榮勢、企踵權豪、孜孜汲汲、惟名利是務。崇飾其末、忽棄其本、華其外、而悴其内、皮之不存、毛将安附焉。
卒然遭邪風之氣、嬰非常之疾、患及禍至、而方震慄。降志屈節、欽望巫祝、告窮歸天、束手受敗、賚百年之壽命、持至貴之重器、委付凡醫、恣其㪽措。咄嗟嗚呼、厥身已斃、神明消滅、變為異物、幽潜重泉、徒為啼泣、痛夫。擧世昏迷、莫能覺悟。不措其命、若是軽生。彼何榮勢之云哉。
而進不能愛人知人、退不能愛身知己。遇災値禍、身居厄地。蒙蒙昧昧、惷若遊魂、哀乎。
趨世之士、馳競浮華、不固根本、忘軀徇物。危若冰谷、至於是也。
余宗族素多、向餘二百。建安紀年以来、猶未十稔、其死亡者、三分有二。傷寒十居其七、感往昔之淪䘮、傷横夭之莫救、乃勤求古訓、博采衆方、撰用素問、九巻、八十一難、陰陽大論、胎臚藥録、并平脉辨證、為傷寒雜病論合十六巻。雖未能盡愈諸病、庻可以見病知源。若能尋余㪽集、思過半矣。
夫天布五行、以運萬類。人禀五常、以有五藏。経絡府兪、陰陽會通、玄冥幽微、變化難極。自非才髙識妙、豈能探其理致哉。
上古有神農黄帝岐伯伯高雷公少兪少師仲文、中世有長桑君扁鵲、漢有公乘陽慶及倉公。下此以往、未之聞也。
觀今之醫、不念思求經旨、以演其㪽知。各承家技、終始順舊。省疾問病、務在口給。相對斯須、便處湯藥。按寸不及尺、握手不及足。人迎跌陽、三部不參、動數發息、不満五十。短期未知決診、九候曽無髣髴。明堂闕庭、盡不見察。㪽謂窺管而已。夫欲視死別生。實為難矣。孔子云、生而知之者上、學則亞之、多聞博識、知之次也。余宿尚方術、請事斯語。

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