難経十二難・脈の内外で臓氣をみる

難経 十二難のみどころ

前の十一難では五臓の無氣(気が尽きること)について、その脈診法に記されていました。今回の十二難も同じく五臓の氣の絶に関する内容です。
どのように臓氣の絶という情報を得て、そして鍼治にどのように活用するのか?十二難ではこのような視点で読むと良いでしょう。


※『難経評林』京都大学付属図書館より引用させていただきました。
※以下に書き下し文、次いで足立のコメントと原文を紹介。
※現代文に訳さないのは経文の本意を損なう可能性があるためです。口語訳は各自の世界観でお願いします。

難経 十二難の書き下し文

書き下し文・難経十二難

十二難に曰く、経に言う、
五臓の脈、已に内に於いて絶するに、鍼を用いる者、反て其の外を実す。
五臓の脈、已に外に於いて絶するに、鍼を用いる者、反て其の内を実す。
内外の絶、何を以て之を別たん。

然り。
五臓の脈、已に内に於いて絶する者、腎肝の氣、已に内に於いて絶する也。
而して医は反て其の心肺を補す。
五臓の脈、已に外に於いて絶する者、其の心肺の脈已に外に於いて絶する也。
而して医は反て其の腎肝を補す。

陽絶に陰を補う、陰絶に陽を補うは、是れ実を実し虚を虚すると謂う。不足を損じて有余を益す、此れの如くにして死する者は、医之を殺するのみ。

五臓の気を診る脈法いろいろ

臓氣を診る脈法は四難、五難や十一難で紹介されました。四難と五難は脈位を指標とし(四難は脈状も加わります)、十一難では脈数を指標とした臓氣脈診でした。
両難を併せみると、脈位と脈数のどちらでも臓氣を診ることが可能であるといえます。
とはいえ脈位と脈数とでは、病態の深刻度合いに差が出るのでは?と個人的には思うところです。

特に前の十一難にある言葉「五臓の無氣」「氣盡(氣尽)」という言葉からは、五難の菽法脈診で診るレベルとは異なるような趣きを感じます。この十二難も同様に「氣絶」という言葉が用いられています。「氣が絶する」とはいえ、治法について言及している時点でなんらかの手立てが残されているのかもしれません。
末文にある「このようにして亡くなった人は医が患者を殺したのだ(如此死者、醫殺之耳。)」とあるように、避けられた死であることを訴えています。

となると五臓の氣の絶は「五臓の氣が絶えた」のではなく、例えば「五臓から氣の供給が絶えた(五臓の氣は枯渇していない)」や「五臓の氣の絶・尽(盡)・無氣」にもいくつかの段階・可治不可治があるかも…と柔軟に考察すべきなのかもしれません。

そして十二難における臓気を診る指標は、十一難に記されているような脈数ではありません。ヒントとなるのは内外という言葉です。

内外をどう考える?

五臓を内外に分ける臓腑観は四難にありました。四難は脾を中州として、心肺を陽に肝腎を陰に区分していました。
ちなみに三十二難では膈を境にして、膈上に心肺を配している臓腑観もありますが、いったん置いておきましょう。

(三十二難の膈を境として心肺と肝腎に分ける。この意図は営衛を論ずることにある。栄衛の流行に膈が関与する可能性を考慮す可し。)

内外の区分を脈診に置き換えると「寸尺」とするか「浮沈」とするか…考察のしどころです。寸尺の概念は二難で説明され、浮沈の概念は四難で説明されました。また続く五難・六難は脈の浮沈を軸に展開されています。

特に六難では浮沈と虚実(脈位と脈力)を組み合わせた脈診法が提示されており、この十二難で説く虚実やその先にある「臓気の絶」を診るには繋がりがあるようにも読めます。

内外を尺寸とみる派

『難経評林』十二難の註では、心肺を寸部、肝腎を尺部に配当させた脈診法を記されています。

…所謂(いわゆる)内外の絶は、何を以て其の内為る外為るの絶する所を別つや?
然り、五臓の人に在るは、心肺は上に居り其の脈は寸部に於いて見われる、是(これ)之を外と謂う也。陽也。
腎肝は下に居り其の脈は尺部に於いて見われる、是之を内と謂う也、陰也。…

■原文……所謂内外之絶、何以別。其為内為外之所絶乎。
然、五藏在人、心肺居上其脉見於寸部、是之謂外也。陽也。腎肝居下其脉見於尺部、是之謂内也、陰也。…

『評林難経』より引用

このように尺寸を内外と変換している(のに近しい内容は)三難にみられます。外関内格および内関外格です。
外関内格は陰乗の脈で、内関外格は陽乗の脈として記され、外(寸口)と内(尺中)が互いに拒みそむく脈理です。
なるほど三難を読むと、確かに『評林難経』の内外⇒尺寸もありかも…とも思ってしまいます。

 内外を浮沈とする派

上記のように外内を寸尺とし「脈の寸尺を軸に五臓の氣を診る派」として『難経評林』(王文潔)を紹介しました。

他にも外内を浮沈で以って「脈の浮沈を軸に五臓の氣を診る派」もあります。調べた中では『難経本義諺解』(岡本一抱)『難経本義大鈔』(森本玄閑)『難経鉄鑑』(廣岡蘇仙)(※それぞれ原文引用は記事末に紹介)などがいます。

余談ながら『難経本義』を基にしている岡本氏、森本氏が共に「外内を浮沈」と解釈するのに対して、『難経本義』の滑伯仁が内外の解釈に力点を置いていないというのも面白い話です。(『難経本義』も記事末に紹介)

いずれにせよ臓気を診る脈診にも実に多様な脈診、または応用法があることが分かります。ちなみに内外を膈上膈下と対応させている註釈書も多くみられます『難経集註』『晞范句解八十一難経』『黄帝八十一難経纂図句解』がこれにあたります。

実実虚虚の戒め

上記のように「脈の内外」の解釈は医家によって多様ですが、この「実実虚虚」に関する解釈は意見は共通しています。
「実実虚虚(実を実し虚を虚する)」とは「不足を損じて有余を益す(損不足益有餘)」であり、これは病を確実に悪化させる手です。

この実実虚虚への戒めは最終章・八十一難に登場します。
このせいもあってか『難経古義』ではこの十二難が本来の八十一難であると順番を変えています。

滑伯仁や森本玄閑らは、『霊枢』第一の九鍼十二原、および第三篇の小鍼解の話に通ずると指摘しています。
九鍼十二原第一にはこのような一節があります。
「五藏の氣、已に内に於いて絶するに、鍼を用いる者、反ってその外を實すれば、これを重竭と謂う。……五藏の氣、已に外に於いて絶するに、鍼を用いる者、反ってその内を實すれば、これを厥逆と謂う。」とあり、また小鍼解第三にはその解説を記載しています。

九鍼十二原にはその前文に「凡そ将に鍼を用いんとするは、必ず先ず脈を診て、氣の劇易を視て、乃ち以って治すべき也。(凡将用鍼、必先診脈、視氣之劇易、乃可以治也。)」とありますが、具体的な診脈の法が記されていません。
小鍼解第三にはこの解説として「脈口の氣、外に絶して至らず」および「脈口の氣、内に絶して至らず」として脈法に関して触れているようですが、具体的な運用法については曖昧なままに終わります。
この難経十二難では脈法に関して一歩進んで具体的な運用法を示しているようでもあります。

各医家の説・引用文

▶引用文『難経本義』(滑伯仁)

『霊枢』第一篇(九鍼十二原)曰、凡そ将に鍼を用いんとせば必ず先ず脈を診し氣の劇易を視て乃ち以て治すべし。又、第三篇(小鍼解)に曰く、所謂(いわゆる)五臓の氣已に内に絶すとは、脈口の氣が内に絶して至らず。反て其の外の病処と陽経の合とを取りて、鍼を留めて以て陽氣を致すこと有り。陽氣至るときは則ち内は重ねて竭きる、重竭するときは則ち死する。其の死する也、氣以て動ずること無し故に静なり。
所謂(いわゆる)五臓の氣已に外に絶する者は、脈口の氣が外に絶して至らず、反て其の四末の輸を取り、鍼を留めて以て其の陰氣を致すこと有り、陰氣至るときは則ち陽氣反て入る。入るときは則ち逆す。逆するときは則ち死する也。其の死する也、陰氣有余なり、故に躁する。此れ霊枢には脈口の内外を以て陰陽を言う也。越人は心肺肝腎の内外を以て陰陽を別つ、其の理も亦た是に由る也。
紀氏謂、此篇言、鍼按…。…

■原文……靈樞第一篇曰、凡将用鍼必先診脉視氣之劇易乃可以治。又第三篇曰所謂五藏之氣已絶於内者脉口氣内絶不至。反取其外之病處與陽經之合、有留鍼以致陽氣。陽氣至則内重竭、重竭則死矣。其死也、無氣以動故靜。所謂五藏之氣已絶于外者、脉口氣外絶不至、反取其四末之輸、有留鍼以致其陰氣、陰氣至則陽氣反入、入則逆。逆則死矣。其死也、陰氣有餘、故躁。此靈樞以脉口内外言陰陽也。越人以心肺肝腎内外別陰陽、其理亦由是也。
紀氏謂、此篇言、鍼按…。

『難経本義』十二難註より引用

▶引用文『難経鉄鑑』(廣岡蘇仙)

…人の五臓、心肺は上に在りて外と為し陽と為す。腎肝は下に居りて内と為し陰と為す。
六難は陰陽の虚実を論ず。此こには陰陽の偏絶を述ぶる。絶すとは虚よりも劇し。脈を診するに之を浮べて絶無なる者は陽脈外に絶す也。之を沈めて絶無なる者は陰脈内に絶する也。是れ陰陽の偏絶を為す。能く治するときは則ち其の人當に活くべし。若し内外陰陽の共に絶するときは則ち死す。………

■原文……人之五藏心肺在上、為外為陽。腎肝居下、為内為陰。六難論陰陽之虚實。此述陰陽之偏絶。絶者劇於虚焉。診脉浮之絶無者、陽脉絶于外也。沈之絶無者、陰脉絶于内也。是為陰陽之偏絶。能治則其人當活。若内外陰陽共絶則死。……

『難経鉄鑑』十二難註より引用

▶引用文『難経本義諺解』(岡本一抱)

…凡そ鍼を用いる者は氣口の脉を以て陰陽の虚實を定めて補写を致す。五藏の脉已に内に於いて絶すとは、氣口の脉を候うに、指を軽く浮かべては實して能く存し、指をを重く按しては微弱にして絶するに似たり。此れ陰虚陽實、陽を写し陰を補いて可なり。然るに鍼を用いる者、誤りて反て其の外の陽分を補い實するが故に陽益々實して陰彌(いよいよ)虚す。…

『難経本義諺解』十二難註より引用

▶引用文『難経本義大鈔』(森本玄閑)

愚按ずるに此の篇、『霊枢』には脈口の内外を以て陰陽を言う。軽手にて外と為し陽と為す。重手にて内と為し陰と為す。越人は心肺の脈を以て外と為し陽と為す、肝腎の脈を内と為し陰と為す。是の義、異にして理は同じ。故に本義に曰く、其の理も亦た是に由ると也。
馬氏註して、十二原篇を云う、此の節を按ずるに、脈口の氣、内に絶して至らざるを以て陰虚と為す。理は當に陰を補うべし、即ち臓を補う。脈口の氣、外に絶して至らず、理は當に陽を補うべし、即ち腑を補う。難経には、寸口の心肺を以て外と為し陽と為す、尺の腎肝を内と為し陰と為す。乃ち秦越人の臆説にして小鍼解の本意に非ざる也。
或る人の曰く、予、謹しみて案ずるに『霊枢』の謂う所の脈口の内外は、即ち浮沈の義也。難経の心肺腎肝の内外も亦た浮沈の義也。四難に云う心肺は俱に浮、腎肝は俱に沈云々。然るときは則ち詞は異なりて理は固(まこと)に同じ。故に滑氏の曰く其の理も亦た是に由ると也。馬氏は未だ此の理を知らず以て言う者は之を索強する也。…

■原文……愚按此篇、霊樞以脉口内外、言陰陽。輕手為陽為外為陽。重手為内為陰。越人以心肺之脉為外為陽、肝腎之脉為内為陰。是義異而理同。故本義曰、其理亦由是也。
馬氏註、十二原篇云、按此節以脉口氣内絶不至為陰虚。理當補陰、即補藏。脉口氣外絶不至、理當補陽、即補府。難經以寸口之心肺為外為陽、尺之腎肝為内為陰。乃秦越人之臆説而非小鍼解之本意也。
或曰、予謹案霊樞所謂脉口之内外者、即浮沈之義也。難經心肺腎肝之内外亦浮沈之義也。四難云心肺俱浮、腎肝俱沈云々。然則詞異而理固同。故滑氏曰其理亦由是也。馬氏未知此理以而言者索強之也。

『難経本義大鈔』十二難註より引用

鍼道五経会 足立繁久

難経 十一難 ≪ 難経 十二難 ≫ 難経 十三難

原文 難経 十二難

■原文 難経 十二難

十二難曰、経言、五藏脉已絶於内、用鍼者、反實其外。五藏脉已絶於外、用鍼者、反實其内。内外之絶、何以別之。

然。
五藏脉已絶於内者、腎肝氣已絶於内也。
而醫反補其心肺。
五藏脉已絶於外者、其心肺脉已絶於外也。
而醫反補其腎肝。

陽絶補陰、陰絶補陽。是謂實實虚虚。損不足益有餘、如此死者、醫殺之耳。

 

おすすめ記事

  • Pocket
  • LINEで送る
  • このエントリーをはてなブックマークに追加

コメントを残す




Menu

HOME

TOP