難経三十九難では原気を通じて原穴の意義を学ぶ

難経 三十九難のみどころ

この三十九難もエキサイティングな内容が記されている。

三十六難三十九難を丁寧に読むことで、原気の定義を絞ることができる。原気の定義が明確になれば原穴がいかに特殊な経穴であるか?が明らかになる。
この原穴の特殊性を意識するようになれば、原穴の臨床応用が大きく変わってくるハズである。
まずは本文を丁寧に読んでみよう。


※『難経達言』京都大学付属図書館より引用させていただきました。
※以下に書き下し文、次いで足立のコメントと原文を紹介。
※現代文に訳さないのは経文の本意を損なう可能性があるためです。口語訳は各自の世界観でお願いします。

難経 三十九難の書き下し文

書き下し文・三十九難

三十九難に曰く、経に言う、腑に五有り、臓に六有る者は何ぞ也?

然り。
六腑とは正に五腑有る也。
然れども、五臓に亦た六臓有る者は腎に両臓有るを謂う也。
其の左を腎と為し、右を命門と為す。
命門とは精神の舎る所を謂う也。
男子は以て精を藏し、女子は以て胞に繋ぐ。其の氣は腎と通ずる
故に臓に六有りと言う也。

腑に五有る者は何ぞ也?
然り。
五臓に各々一腑、三焦も亦是(またこれ)一腑。然して、五臓に属せず。
故に腑に五有りと言うなり。

命門の機能のおさらい

前の三十八難と同様、臓腑の数を問うことで、命門の機能について説いている。しかし内容としては三十六難の続編ともいうべき難である。
本難では五臓六腑ではなく、六臓五腑として臓に肝心脾肺腎に命門を加えている。
命門は臓に入る理由は三十六難に示された通り、腎の左右をそれぞれ腎と命門とする故である。
また臓の数としてカウントしつつも、器官としてではなく機能としてみることも三十六難に言及した通りである。

とくに命門の機能として重要なのは「精と神を舎す所」である。この「諸精神を舎す所」とは生殖機能として新たな生命を宿す所の意味を持つ。
三十六難では「諸神精」であるが、本三十九難では「諸精神」となっており、【神(火)と精(水)】が【精(水)と神(火)】と交錯する様を表現しているのではないか?と個人的には考察(期待?)している。
生命の誕生には火と水の交わりが必要不可欠だからだ。

原穴とは特殊な経穴

三十六難では命門とは「原気に繋がる所」と示されていた。しかし本難では「その気は腎に通ずる」と明記されている。
【原気-命門-腎気】といった関係となる。これは非常に重要な情報である。
原気は腎気と密接な関係にある、このことは原穴の理解を深める重要なヒントとなる。原穴と他の経穴とはどのように違うのか?
この答えの一つが原気にある。

三十六難と三十九難の文脈から、原気と腎気はほぼ同義のようにみえる。
それを前提として考えると、原穴とは原気との関わりが深い経穴である。(六十六難に曰く、原穴は三焦の行く所、気の留止する所。三焦は原気の別使である。)
そして原気とは腎気と通ずる。

しかし通常、経脈は胃気との関わりが深い。営気は脈内を行く気であり、水穀の清気である。営衛ともに水穀に由来する気であり、言い換えれば胃気に由るものである。

となれば、原穴とは原気(≒腎気)と胃気との両気から供給を受ける特殊部位であると言える。

二元的な気の生命観

原穴は原気(腎気)が留止する所である。この前提によると、経脈は胃気をベースとしつつも、原穴という要所で腎気の供給を受けている。

この胃気と腎気の二元的な生命観は、すでに難経八難において示している。
八難においては、胃の気ベースの生命観と原気すなわち腎気ベースの生命観とが並列して存在・機能していることを明らかにしている。
この『難経』で説く二元的な気の生命観は金元四大家のひとり李東垣が大いに採用しており、陰火学説を提唱している。(※『陰火学説を素霊難および脈診の観点から考察する』中医臨床 165号(Vol.42-No.2)参照のこと)

繰り返すが、本難を通じて明確に意識すべきは、胃気と原気(≒腎気)は異なる系統・システムであることだ。
前に述べたように、胃気は水穀精微に由来するものであり、原気は命門に繋がり、三十六難三十九難にて示唆されるように父母より禀ける先天の気である。
両者はそもそもの成り立ち・由来が異なるものであり、直接的に補填・補充し合うものではないが、相互に扶ける可能性を持つ。
その扶持・扶助の機序として、いかに原穴を機能させるか?が重要になるであろう。
すなわち胃気と原気(≒腎気)の両システムをつなぐ存在を解することが、三十六難三十九難の知識を臨床応用するためには必須の条件となる。

両システムをつなぐ存在としてもう一つ重要なファクターが在る。三焦である。
前三十八難にある「原気の別使」とは非常に示唆的な表現である。

鍼道五経会 足立繁久

難経 三十八難 ≪ 難経 三十九難 ≫ 難経 四十難

原文 難経 三十九難

■原文 難経 三十九難

三十九難曰、経言、府有五藏有六者、何也。

然。
六府者、正有五府也。
然、五藏亦有六藏者、謂腎有両藏也。其左為腎、右為命門。
命門者、謂精神之所舎也。男子以藏精、女子以繋胞。其氣與腎通。故言藏有六也。

府有五者何也。
然。五藏各一府、三焦亦是一府。
然、不屬於五藏。
故言府有五焉。

『難経達言』では三焦命門の特殊性を示唆

「三焦はふたつの胃のようでもあるが五腑に属さず孤倉なり」と言い、三焦が水穀の道路であることを指摘しつつも、三焦の特殊性を暗に示している。
さらに、「初原の海に対する先天の臓」も「別氣の街に対する後天の腑」も共に五臓五腑には無し、と断言した上で、命門三焦のそれぞれ一臓一腑が、他(正規?)の五臓五腑とは一線を画する特殊な存在であることを明示している。

『難経達言』(高宮貞)

内に在りて外に待つを臓と曰う。外に在りて内に輸(いたす)を腑と曰う。
命門は固より右にして居るに非ず、その腎を左に生ずる為なり。
我が腎の間に俱にして、己れが臓を以て而して称せず。
双に因るときは則ち両なり。独を以てすれば奇なり。
亦(また)三焦は猶お両胃のごとしに五腑の孤倉なり。
己が有に非ずと雖もその存を喪(ほろび)なば、内に待つを被むりて而して外なり。
外に輸せしめ而して内なり。
内なる者、臓に於いて蔵たる者也。
外なる者、腑に於いて府たる者也。
初原の海、庸(いずくんぞ)先天の臓有らざることを知らん。
別氣の街、亦た後天の腑無きこと能うこと弗し。
命門三焦一臓一腑、将に五臓五腑に於いて無同ならんとす。
越人の経を釈く也、諄諄ならざれば則ち足らず。
累語煩言、道を碎きて繽紛を為すが如きに非ず。

■原文
在内而待乎外曰藏。在外而輸乎内曰府。
命門非固右焉而居、為其生腎於左。
俱乎我腎之間、不以己藏而稱、因雙則両以獨而奇。
亦三焦猶両胃?為五府之孤倉。雖非己有不喪其存、被待乎内而外。
令輸乎外而内。
内焉者藏焉於藏者也。外焉者府焉於府者也。
初原之海庸知不有先天之藏。別氣之街亦弗能無後天之府。
命門三焦一藏一府、将無同於五藏五府。
越人之釋経也、不諄諄則不足。非如累語煩言碎道而為繽紛。

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