目次
難経 六十六難のみどころ
六十六難は原穴について詳しく記されている。原穴は五臓六腑の診察や治療に用いられ、臨床では非常に有用性の高い経穴の一つである。
『だからこそ、ここは原穴の性質を根本的に理解し直す必要があるのではないか!?』と、強く自省の念を感じさせられたのが六十六難を学んだ感想である。
まずは六十六難本文を読みすすめてみよう。
※『難経本義』京都大学付属図書館より引用させていただきました。
※以下に書き下し文、次いで足立のコメントと原文を紹介。
※現代文に訳さないのは経文の本意を損なう可能性があるためです。口語訳は各自の世界観でお願いします。
難経 六十六難の書き下し文
書き下し文・六十六難
六十六難に曰く、経に言う。肺の原は太淵に出づる。心の原は太陵に出づる。肝の原は太衝に出づる。脾の原は太白に出づる。腎の原は太谿に出づる、少陰の原は兊骨に出づる。
胆の原は丘墟に出づる。胃の原は衝陽に出づる。三焦の原は陽池に出づる。膀胱の原は京骨に出づる。大腸の原は合谷に出づる。小腸の原は腕骨に出づる。
十二経は皆、兪を以て原と為す者は何ぞ也?
然り。
五藏の兪は三焦の行く所。氣の留止する所なり。
三焦の行く所の兪を原と為す者は何ぞ也?
然り。
臍下、腎間の動氣は、人の生命也。十二経の根本也。故に名を原と曰う。
三焦とは原氣の別使也。三氣の通行を主り、五臓六腑を経歴す。原とは三焦の尊号也。
故に止まる所を輙(すなわち)原と為す。五臓六腑に病有る者は皆その原を取る也。
なぜ原穴は五臓六腑の診断治療に用いるのか?
原穴は「五臓六腑に病ある者は皆その原を取る也」(『霊枢』九鍼十二原、六十六難)とあるが、なぜ五臓六腑と原穴との関係が深いのか?を考える必要がある。
臓腑に関係の深い経穴は、原穴だけではない。他にも背兪・募穴がある(六十七難)。ではそれらと原穴とはどのような違いがあるのか?
原穴と臓腑との関係は「腎間動氣は五臓六腑の本」である点と、「原気の別使」である三焦の「行く所」が「五臓の兪」であり、「(その三焦の)気が留止する所」である。
三十六難では「命門≒腎間動氣」である主旨を記した。この命門・腎間動氣は原気に繋がる存在であり、その原気の別使たる存在が三焦である。そしてこの三焦は「三気の通行を主り、五臓六腑を経歴」する。故に『霊枢』『難経』では“五臓六腑に病ある場合は原穴を取る”とするのだ。
しかし「臓腑の疾病に原穴が有用である」と、この情報が本難の考察ポイントではない。
原穴が特殊ポイントであるかを理解すべし
「原気とは腎間動気である(腎間動氣は人の生命也、十二経の根本也、故に名を原と曰う。)」
この理を明言している点が六十六難の主旨の一つである。
まず我々が明確にすべき点は、水穀の氣と原氣、胃気と腎気の役割りを整理することである。
基本に立ち返ろう。
経脈の内外を流れる氣は営気と衛気である。これら営衛は水穀の清気と悍気である。水穀の気に由来するということは、胃気をベースとしていることに他ならない。そして原気とは腎間動気(≒腎気)であり、水穀に由る気ではない。これを先天の気として我々学んでいる。
つまり原穴は腎間動気に根ざす原気が関与する経穴なのである。この点こそ鍼灸師が注目すべき重要ポイント!であろう。
経脈の内外を行く気は胃気ベースである。しかし原穴が特殊な存在とはいえ、原穴も経脈上にある腧穴である。そして原穴とは原気(≒腎気)が深く関わる。
つまり原穴の特殊性とは胃気と腎気の両気が関与するという点なのである。
原とは三焦の尊号、そのココロとは?
原穴とは営衛原の三気が関わる特殊ポイントである。この身体観・経穴観を明確にしておく必要がある。
この営衛原の三気を通行させる機能をもつのが三焦である。本難の主役は原穴であり、この三焦であるのだ。
三焦は三十一難にあるように水穀の道路であり、胃気由来の営衛の産生に直接関与する。それでいて三焦は原気の別使であると本難において明文化している。この衛気・営気・原気の三気に関与する存在が三焦であり原穴なのだ。
この三焦の氣の行く所が原穴である、と本難では明記している。
筆者、扁鵲は原穴の特殊性・重要性をよほど伝えたかったのであろう。原穴が三焦の氣が行く所であるだけでなく、臍下・腎間動氣、人の生命、十二経の根本という言葉で、繰り返し生命観を投入している。
これは難経八難を振り返ると、さらに実感できることである。八難にいわく腎間動氣とは「生気の原」「五臓六腑の本」「十二経脈の根」「呼吸の門」「三焦の原」「守邪の神」である。
特にここでは「三焦之原」という言葉に着目したい。
つまり腎間動氣は「三焦の原」たる存在であり、三焦とは「原氣の別使」である。
そして三焦の氣が留止する所が原穴なのだ。原穴は五臓六腑に病があればその応は原穴に現れるというが、臓腑のさらに奥にある腎間動氣の派出する経穴こそが原穴なのである。
このようにみると同じ臓腑の氣の輸する背兪穴や臓腑の氣の聚まる募穴と比較しても、原穴はまるで異質な存在であるということが理解できる。
とはいえ、理解すべき考察すべき課題も残されている。それは営衛と原気との関係である。本難では三気通行という抽象的な表現で片づけられているが、この言葉を鵜呑みにしてしまうわけにはいかない。『難経』の身体観において、三気通行という言葉には大いに矛盾(の可能性)を秘めた表現でもあるのだ。
この点についてはすでに三十八難について見解を述べている。
鍼灸師個々が衛気・営気・原気について理解を深めておき、確固たる身体観・生命観を構築し続けることが肝要である!と思わされる難である。
鍼道五経会 足立繁久
難経 六十五難 ≪ 難経 六十六難 ≫ 難経 六十七難
原文 難経 六十六難
■原文 難経 六十六難
六十六難曰、経言肺之原出于太淵。心之原出于太陵。肝之原出于太衝。脾之原出于太白。腎之原出于太谿、少陰之原出于兊骨。
膽之原出于丘墟。胃之原出于衝陽。三焦之原出于陽池。膀胱之原出于京骨。大腸之原出于合谷。小腸之原出于腕骨。
十二経皆以兪為原者、何也。
然。
五藏兪者、三焦之所行。氣之所留止也。
三焦所行之兪為原者何也。
然。
臍下腎間動氣者、人之生命也。十二経之根本也。故名曰原。三焦者原氣之別使也。主通行三氣、経歴於五藏六府。原者三焦之尊號也。故所止輙為原。五藏六府之有病者、皆取其原也。
各医家たちの六十六難註文
以下に各医家の原穴論を付記しておく。
『難経本義』曰く、原気は警蹕のごとし
滑伯仁が説く原気と営衛の関係は独特である。特に三気通行のプロセスは「水穀の清気悍気(営衛)は原気と通行して上焦すなわち全身に通達する」という。原とは三焦の尊号である、この言葉の解説を「(経脈の気に対して原気は)警蹕(けいひつ)の如し」と譬えている。この表現は実に面白くイメージしやすい。
『難経本義』(滑伯仁)
十二経に皆な兪を以て原と為す者、十二経の兪、皆な三焦の行く所、氣の留止する所の處に係るを以て也。
三焦の行く所の兪を原と為す者、臍下腎間の動氣は乃つ人の生命十二経の根本、三焦則ち原氣の別使と為すを以て、上中下の三氣を通行し、五臓六腑を経歴することを主る也。
三氣を通行するとは、即ち紀氏の謂う所の下焦真元の氣を禀く、即ち原氣なり。
中焦に於いて上達して、中焦は水穀精悍の氣を受けて、化して栄衛の氣と為り、真元の氣と通行して上焦に達する也。
原を三焦の尊号と為す所以にして、止る所を輙(すなわち)原と為すことは、猶お警蹕の至る所を行在所と称するがごとき也。
五臓六腑の病有る者、皆な是に於いてこれを取る、宜なるかな。……
■原文
十二経皆以兪為原者、以十二経之兪皆係三焦所行、氣所留止之處也。
三焦所行之兪為原者、以齊下腎間動氣乃人之生命十二経之根本、三焦則為原氣之別使。主通行上中下之三氣、経歴於五藏六府也。
通行三氣、即紀氏所謂下焦禀眞元之氣、即原氣也。
上達至於中焦。中焦受水穀精悍之氣、化為榮衛之氣、與眞元之氣通行達於上焦也。
所以原為三焦之尊號、而所止輙(すなわち)為原、猶警蹕所至、稱行在所也。
五藏六府之有病者、皆於是而取之、宜哉。
『難経或問』では先天と後天の融合を説く
「(陰経において)兪穴は土性をもつ故に脾胃の気、後天の気が発する所である。後天の気の現れる所は、必ず腎間動気すなわち原気、先天の気もまたともに現われる。」という。
「一体一用、先天と後天の二気が相い合して源委(本末)をなす」という。原気と営衛、言い換えれば腎気と胃気が合する点が原穴であり、二気一体となることで、源委・本末つまり「気の終始する所」として三焦の機能がはたらくのだという。
『難経或問』(古林見宜)
或る人問うて曰く、六十六難に曰く、二経皆な兪を以て原と為す。夫れ陽経は別に原穴有りて、兪を以て原と為すの説無し。
何を以て十二経に皆な兪を以て原と為すと言うや?
対て曰く、善き哉問い也。
皆の一字は当に意味有るべし。
蓋し言う心は、已上十二経の中に皆な兪穴を以て原穴と為る者有り。其の理は何ぞやと也。
十二経の盡くが兪を以て原と為すと言うの意には非ず。
故に下文の答えの辞に、五臓の兪は三焦の行く所、氣の留止する所と言う也。而して六腑の兪を兼ね言わず。
是れに知らんぬ。五臓の兪は通じて原と名づくべし、而して六腑の兪は原と名づくべからざる也。
原と名づくべからずと雖も、然れども原氣の変見は無かるべからざるなり。
夫れ臓腑の兪穴は咸(みな)土に属す、而して脾胃後天の氣これを主る。
後天の氣、発見(はつげん)する所は、必ず腎間先天の氣も亦た俱に見わる。一体一用、二氣相い合して源委と為す也。
●(吁?)二氣を治するは則ち臓腑百骸皆な安んず。二氣乱れるときは則ち臓腑百骸皆な病む。
故に五臓六腑に病む者は、皆なその原を取りて之を調う。不亦宜乎(なんと宜しきことか)。
曰く、三焦の行く所の兪を原と為す者、何ぞや?
此の兪の字、栄兪の兪か?。然らずや?
曰く、この兪とは栄兪の兪を指すに非ず、空穴総名の兪也。
蓋し憶うに三焦の行く所の穴、臓腑皆な名づけて原と為す者とは何ぞや?
独り五臓に於いて兪を以て原と為すことを問うに非ず。故に下文に、凡そ十二経俱に原と名づくるの所以の義を答う、𤼭卒に看過すること勿れ。
■原文
或問曰、六十六難曰、十二経皆以兪為原。夫陽經別有原穴而無以兪為原之説。何以言十二経皆以兪為原乎。
對曰、善哉問也。
皆一字當有意味、蓋言已上十二経之中皆有以兪穴為原穴者、其理何乎也。
非言十二経盡以兪為原之意矣。故下文答辭言、五藏兪者三焦之所行氣之所畱止也。而不兼言六府兪。
是知五藏兪者、可通名原、而六府兪者不可名原也。
雖不可名原、然原氣之變見不可無焉。
夫藏府之兪穴者咸屬土、而脾胃後天之氣主之。
後天之氣發見之所者、必腎間先天之氣亦俱見。一體一用、二氣相合而為源委也。
●(吁?)二氣治則藏府百骸皆安。二氣亂則藏府百骸皆病。
故五藏六府有病者、皆取其原而調之。不亦宜乎。
曰、三焦所行之兪為原者、何也。此兪字、榮兪之兪乎。不然乎。
曰、此兪者非指榮兪之兪、空穴總名之兪也。
蓋憶三焦所行之穴、藏府皆名為原者、何乎。
非獨問於五藏以兪為原。故下文答凡十二経俱所以名原之義、勿𤼭卒看過焉。
『難経古義』は二気にして一つ、一氣にして二つを説く
「(原とは)三焦の尊号である。その所以は何かといえば、臍下腎間の動氣、人の性命、十二経の根本である」
原穴は三焦の行く所。氣の留止する所であるが、その三焦の気は腎間動気に根ざすという。
なにより「腎間において伏蔵している場合は原氣といい、動氣といい」そして「一身に潜行黙運するときは三焦という」との機能と位・部位によって名称が異なるという。
「二氣にして一つ、一氣にして二つ」この働き、もしくは現象そのものを原といい、三焦の尊号たる所以であるという。
二つにして一つであるという観点は、原気と三焦をこのように言い表している。
原気(腎間動気)は「その氣の位する所を以て言い」、三焦のことを「その氣の遊行するを以て言う」とし、部位(位)と機能の違いを指している。
『難経古義』(加藤俊丈・滕萬卿)
この一節は具(つぶ)さに言う、原穴は一身の至要を為すと。然るに十二経は皆な兪を以て原と為す(十二経皆以兪為原)の言い、未だ後学の疑いを免れざるに似たり。
何となれば、六腑は既已(すで)に兪の外に原あれば、則ち未だ必ずしも兪を以て原と為さざるなり。
然るにその言これの如きなる者は、蓋し陽経は兪従(よ)り過ぎて原と為してそれを五行に配する。亦た兪原俱(とも)に木なれば則ち二穴は治を同じくす。然りと雖も六腑は既已(すで)に兪の外に原あり。故に答辞独り五臓の兪、三焦の行く所を言いて、六府を言わざる者は、各々別に原あり。夫れ三焦の尊たる者の所以は何ぞ?臍下腎間の動氣、人の性命、十二経の根本也、云々の数語に一大関係あり。
蓋し腎間に於いて含蓄すれば則ち原氣と曰い、動氣と曰う。
一身に於いて潜行黙運すれば則ち三焦なり。
二氣にして一つ、一氣にして二つなる者は所謂(いわゆる)原とは三焦の尊号なり。且つ上焦は霧の如し、中焦は漚の如し、下焦は瀆の如し。故に三氣を通行し、五臓六腑を経歴すると云う。所謂(いわゆる)三氣とは宗営衛を言う也。
これに由りてこれを観れば、則ち三焦とは一身遊行の氣にして、内は臓腑従(よ)り外は四肢百骸に逮(およ)びて至らざる所無し。
故に曰く、五臓六腑に病有る者は、皆な十二経の諸原を取れと、云く、重ねて按ずるに前篇に三焦の主治、膻中、臍傍、臍下を取る。この篇、手足の原穴を以て、三焦の主治と為す。彼と此れ同じからざるが如し。一つは則ちその氣の位する所を以て言う。一つは則ちその氣の遊行するを以て言う。竝(なら)び行きて相悖(背反)せざる者なり。腎間動氣の説は、第三十遍に詳らかなり。
■原文
此一節具言原穴為一身之至要。然十二経皆以兪為原之言、似未免後学之疑。
何者、六府既已兪外有原、則未必以兪為原。
然其言如是者、蓋陽経者従兪過為原、而其配五行。亦兪原俱木、則知二穴同治。雖然六府既已兪外有原。故答辭獨言五藏之兪、三焦之所行、而不言六府者、各別有原。夫三焦之所以尊者何。齊下腎間動氣、人之性命、十二経之根本也、云云數語、一大関係。
蓋含蓄於腎間則曰原氣、曰動氣。潜行黙運於一身、則三焦。二氣而一、一氣而二者所謂原者三焦之尊號也。且上焦如霧、中焦如漚、下焦如瀆。故云通行三氣、経歴五藏六府、所謂三氣者、言宗営衛也。由是観之、則三焦者一身遊行之氣、而内従藏府外逮四肢百骸無所不至焉。
故曰五藏六府之有病者、皆取十二経諸原。云重按前篇三焦主治取膻中齋傍齋下、此篇以手足原穴、為三焦之主治。彼此如不同。一則以其氣所位言。一則以其氣遊行言。竝行不相悖者也。腎間動氣之説、詳第三十遍。