目次
難経 八十難のみどころ
八十難が難経鍼法の最終回となる。
本難では「左手」の重要性が再び説かれている。七十八難の内容と合わせて読みたいところである。
※画像は『難経鉄鑑』難経古注集成5(東洋医学研究会 発行)より引用させていただきました。(画像にリンク先はありません)
※以下に書き下し文、次いで足立のコメントと原文を紹介。
※現代文に訳さないのは経文の本意を損なう可能性があるためです。口語訳は各自の世界観でお願いします。
難経 八十難の書き下し文
書き下し文・難経八十難
八十難に曰く、経に言う、見ること有りて如(しこうして)入る、見ること有りて如(しこうして)出だすとは、何の謂い也?
然り。
所謂(いわゆる)有見如入とは、左手に気の来たり至るを見て、乃ち鍼を内れることを謂う。鍼を入りて気の尽きるを見て乃ち鍼を出だす。
是れ「有見如入」「有見如出」と謂う也。
七十八難と八十難の関係
左手を強調する鍼法という点では七十八難鍼法とつながる。
七十八難鍼法の特徴として、呼吸に依らない鍼法が第一に挙げられる。
七十八難鍼法は一見すると「厭按」「弾而之努」「爪而之下」という左手のマニュアル的な仕事に目を奪われがちである。しかし、これらは手段(刺法マニュアル)の一つに過ぎず、本来の目的は「氣が来たり至るを察知すること」であり、その指標となるのが「動脈の状の如し」である。
つまり八十難は七十八難の続きとしても読むこともできる。
従って左手の役割りは「氣の至り」をよむこと…であるが、それだけでは短慮というもの。
七十八難がみている氣は呼吸に依らない氣である。となれば、両難の鍼法が見すえている氣が自ずと明白になるだろう。まさに『難経』の鍼法に関する記述の最後を飾るのにふさわしい鍼法であるといえよう。
八十難における気が尽きる(氣盡)とは???
左手の指下にみる氣の来至は、前述したように“呼吸に依らない氣”をみている。左手の仕事は“この氣の来至”をコントロールすることでもある。
しかし気になるのは「氣の尽きる(氣盡)を見て、乃ち鍼を出す」である。
『氣の尽きるとはどういうことだろうか?』と疑問に感じる人は多いのではないだろうか。
もしこの“氣”が正氣であれば、その正氣が尽きてしまうのはマズイことである。となれば、氣盡を待って鍼を出す、すなわち抜鍼の目安とする氣盡についてよくよく考え理解する必要がある。筆者が考えるに、氣盡の解釈は一つではなく、いくつかの解釈ができる。
①正邪でみた場合の氣盡
②衛氣でみた場合の氣盡
③営衛でみた場合の氣盡
①は穴処における正氣と邪氣の相争である。これはイメージしやすいのではないだろうか。
②は衛氣を主体としてみた場合の“氣盡”である。本難に説く鍼法はまず左手にて衛氣をコントロールするものである。この衛氣を鍼刺によって動かすのであるが、その動きのピークを過ぎたときが“氣盡”である。
②をさらに衛氣と営氣という二氣でみた場合の“氣盡”が③にあたる。
すなわち二氣の交流のピークを過ぎたときが氣盡である。
このイメージは『難経或問』にて古林見宜先生が分かりやすく表現してくれている。「亡盡」ではなく「極盡」であるという。まさしくである。また③は営衛の観点における氣盡としたが、七十八難の刺法の延長としてみれば、別の二氣における氣盡という解釈もまた可能である。
八十難に関する各注釈書のご意見
それでは恒例の歴代の医家たち(一部であるが)はどのように八十難を説いているのであろうか?各難経系注釈書をみてみよう。
滑伯仁が説く八十難の本義
所謂(いわゆる)有見如入(見ること有りて如(しこう)して入る)と云う、下に當に「有見如出(見ること有りて如して出す)の四字」を欠くべし。
“如”の読みは若而(而の若(ごと)し)。
孟子の書に道を望みて而して未だこれを見ざるが而(ごと)し。
而の読みは如の如し。蓋し通用する也。
○有見而入出(見ること有りて入出す)とは謂ゆる左手に穴を按して氣の来至を待ちて乃ち鍼を下す。
鍼入れてその氣の応尽を候いて而して鍼を出だす也。
■原文
所謂有見如入、下當欠有見如出四字、如讀若而孟子書望道而未之見而讀若如蓋通用也。
○有見而入出者謂左手按穴待氣来至乃下針。針入候其氣應盡而出針也。
王文潔が『難経評林』にて説く八十難の解
此に、鍼の出入には必ずその氣の已に至るか已に尽きるかを見、而して後に出し入るるべきを論ずる也。
経に言う「有所見而入鍼(見る所有りて鍼を入れる)」、「必有所見而出鍼(必ず見る所有りて鍼を出だす)」とは何ぞ也?
然り、所謂(いわゆる)見るとは、その氣の已至已尽(既に至る既に尽きる)を見ることに過ぎざるのみ。
方とはその始め也、先ず左手で以て鍼する所、栄兪の処を厭按し、弾じて之を努す、爪して之を下す。
必ずその氣の至るを得ること動脈の状の如し。乃ち従いて鍼を納れる。
是、これを「有見而入」と謂う也。
其の終わりに及ぶ也、その既に補して実し、既に瀉して虚し、氣既に尽きることを候い、乃ち鍼を出すなり。
是、これを「有見而出」と謂う也。
■原文
此論鍼之出入必見其氣之已至已盡、而後可出可入也。
經言有所見而入鍼、必有所見而出鍼、何也。
然所謂見者、不過見其氣已至已盡耳。
方其始也、先以左手厭按所鍼榮腧之處、弾而努之、爪而下之。必得其氣至如動脉之状。乃従而納鍼焉。
是之謂有見而入也。
及其終也、候其已補而實、已瀉而虚、氣已盡矣。乃出鍼焉。
是之謂有見而出也。
(素問鍼解篇)にて岐伯曰く、実を刺すは須らく其れを虚さしめるべしとは、鍼を留めて陰氣隆(さかん)に至らば乃ち鍼を去る也。
虚を刺すは須らく其れを実さしめるべしとは、陽氣隆(さかん)に至り鍼下熱すれば、乃ち鍼を去る也。
又曰く、此れを刺して氣が至らざれば、其(鍼)の数を問うこと無く之を刺せ、而して氣が至れば乃ち之を去りて復た鍼する勿れ。
■原文
岐伯曰、刺実須其虚者、留針陰氣隆至乃去針也。
刺虚須其実者陽氣、隆至針下熱、乃去針也。
又曰、刺之而氣不至、無問其数刺之、而氣至乃去之勿復針。
名古屋玄医が説く八十難の註
『難経註疏』(1679年)は名古屋玄医による難経系注釈書である。
難経七十八難では簡素な註文であったのに対して、本難の註文は饒舌である。その趣旨としては左手にて催気を行い、気の至るを得、それに乗じて鍼刺を行う。鍼を内(い)れて後、久しく留めて気を求め、その気の応が落ち着いた後に抜鍼するのだが、鍼先に得た気は出してはいけない…という補鍼の手法を解説している。
この難には補法を言う也。
左手、穴を按じて、指に鼓動するときは則ち気を得ること有り。即ちこれに乗じて鍼を内れる。
鍼入れて久しく気を求めて、気の応が尽きて後に鍼を出だすときは則ち求め得る所の気は穴に於いて出すこと無き也。
この如くするときは則ち補法を得る也。
滑氏が曰う、所謂有見如入(見ること有りて入るの如し)は、当に下の「有見如出」の四字を欠くべし、
如は読みて、而の若し。孟子の言う、道を望むこと未だ之を見ざるが而(ごと)し。而を読みて如しの若し。蓋し通用する也。。
■原文
此難言補法也。左手按穴鼓動乎指、則有得氣。即乗之内針。針入久求氣而氣應盡而後出針則所求得之氣無出於穴也。如此則得補法也。
滑氏曰、所謂有見如入下當欠有見如出四字、如讀若而孟子言望道而未之見而讀若如蓋通用也。
古林見宜が説く八十難釈
『難経或問』(1715年)にて 古林見宜は八十難鍼法は「補瀉の二法を兼ねて論ずる」としている。鍼をする場合、通常は経気を対象として鍼刺するはずである。故に左手で以て「厭按」「弾努」「爪下」を行う。そうすることで氣(経気)の至りを促すのであるが、それを感知するのが左手の仕事である。
そして鍼下の気(鍼尖の気)の来たるをやはり左手でみる(おそらくは刺し手の右手でもみる)。この一連の流れを八十難で説いているのだ…という主旨であろうか。
或る人問いて曰く、八十難曰く、有見如入(見るること有りて入る如し)、有見如出(見るること有り)者、左手に気見わるる氣来り至りて乃ち鍼を内れ、鍼入りて見るる氣の盡きて乃ち鍼を出すを謂う。
蓋し見る氣の盡きて乃ち鍼を出すを謂う。此の法、惟だ瀉の一法を言いて、補法を言わざるや?
若し補法を言わば、當に氣充ちて乃ち鍼を出だすと言うべきに、何故に補法を兼ね言わざるや?
対て曰く、然らず。是れ亦た補瀉の二法を兼ねて論ず。
蓋し此の盡の字、亡盡の盡に非ざる也、極盡の盡也。
その鍼下の氣、十分に来たり盡きて、乃ち鍼を出す也。
夫れ鍼治するとは、全て経氣に在り。故に左手を用い、その穴所を厭按、弾努し、
或いは爪してこれを下し、見るる氣、来たり至りて、乃ち鍼を内れる。
鍼入れて鍼下に見るる氣十分に来たり盡きて、以て瀉する可き者は瀉し、以て補す可き者は補して、乃ち鍼を出す也。
是れ経に謂う所の、有見如入、有見如出なり。吾子、盡の一字を執りて通ぜず、當に再び思うべし。
■原文
或問曰、八十難曰、有見如入、有見如出者、謂左手見氣来至乃内鍼、鍼入見氣盡乃出鍼。
蓋謂見氣盡乃出鍼、此法惟言瀉一法、而不言補法乎、若言補法、當言氣充乃出鍼。何故不兼言補法乎。
對曰、不然、是亦兼論補瀉之二法。蓋此盡字非亡盡之盡也、極盡之盡也。
其鍼下之氣、十分来盡乃出鍼也。
夫鍼治者、全在経氣、故用左手厭按弾努於其穴所、或爪而下之、見氣来至、乃内鍼。
鍼入而鍼下見氣十分来盡、以可瀉者瀉、以可補者補、乃出鍼也。
是経所謂、有見如入、有見如出也。吾子執盡一字、而不通、當再思焉。
滕萬卿が説く八十難の義
『難経古義』
なるほど『難経古義』(1760年) 加藤俊丈こと滕萬卿は八十難鍼法を補鍼として講じている。
鍼術はそもそも瀉が得意であり、補は難度が高い。それに瀉鍼については既に七十八難にて詳述している。故にこの難においては補鍼の技術とその繊細さについて解説しているのだ、と述べています。
此れ前節(七十八難)を承けて再び補法出入の鍼を言う。
前に謂う所の補は唯だ鍼を内れるを謂いて、未だ出鍼(鍼を出だす)を言わず。
故に経言を挙げて、再びその義を謂うことこの如し。
所謂(いわゆる)左手に氣に見る者は前に既に縷縷としてこれを尽くせり。その鍼を下し得る所の氣の至尽を候う。
而して鍼を出だす者は、此れに至りて乃ち之を言う。
若し夫れ寫なれは、上文に既に言う、動じて之を伸ばすと。則ち何ぞ其の氣の至りて尽きるを見ることを待たんや。
蓋し鍼法これを補うを難と為す。
故に王燾、虞摶の輩をして、有寫無補(鍼に瀉ありて補無し)の疑を発しせしむ。
且つ此の篇、補の一法に於いて、丁寧に反覆して止まざるは、其の難を以ての故のみ。
寫に於いては則ち之を略す。其の易を以ての故のみ。
此の一節、旧本第八十篇に出づ、其の文義を詳らかにするに全と前段とを互いに相発す。故に一篇に聯(連ねる)。
■原文
此承前節(七十八難)再言補法出入之鍼。前所謂補者唯謂内鍼而未言出鍼。故擧経言、再謂其義如此。
所謂左手見氣者前既縷縷盡之。候其鍼下所得之氣至盡、而出鍼者、至此乃言之。
若夫寫者、上文既言、動而伸之。則何待其、見氣至盡乎。
蓋鍼法補之為難。
故令王燾虞摶輩、發有寫無補之疑。且此篇於補一法、丁寧反覆不止者、以其難故爾。於寫則略之、以其易故爾。
此一節出於𦾔本第八十篇、詳其文義全與前段互相發。故聯一篇。
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廣岡蘇仙が説く八十難の義
『難経鉄鑑』の説で注目すべきは「指下の気」と「鍼下の気」とを分けて説いている点である。
七十八難では指下の気を説いているとし、本八十難では鍼下の気を説いていると記している。
『難経鉄鑑』七十八難
前篇には鍼下の気を形容し、此の篇には手下の氣を形容す。有見(見ること有る)とは上篇の若得若失(得るが若く失うが若し)の意。
乃ち氣の至りを見て而して鍼を入れ、氣の尽きるを見て鍼を出だすを言う也。
■原文
前篇形容乎、針下之氣、此篇形容於手下之氣。有見者上篇、若得若失之意。乃言見氣之至而入針、見氣之盡而出針也。
前篇は終に若有若無を略する。此の篇は初め有見如出を略する。此れ省文の法にして、共に缼文に非ざる也。
有見如入とは、此れ左手にて致す所の氣を候いて鍼を入れる也。有見如出とは、手下に得る所の氣盡を候いて、鍼を出だす也。
蓋し手下の氣盡とは、鍼を留めること勿れ。氣盡きて鍼を留めるときは則ち却て過無きを誅するに至る也。
問うて曰く、本文に鍼入れて氣の盡きるを見ると言うは、鍼下の氣に非ざるや?
答えて曰く、前篇には鍼下の氣に牢濡有りて而して補瀉すべきを謂う也。
此の篇には手下の氣に来尽有りて而して出内すべきを謂う也。
氣至りて鍼を入れ、氣尽きて鍼を出だす。
(鍼の)出入は皆な氣に随う。若し氣に随わざれば則ち徒らに良肉を傷り、治に於いては益無き也。
本文は惟だ出内を言いて補瀉を言わず、則ち鍼下の氣に非ざるや、明らかなり。
■原文
前篇終略若有若無。此篇初略有見如出。此省文之法、共非缼也。
有見如入者、此候左手所致之氣、而入針也。有見如出者、候手下所得之氣盡、而出針也。
蓋手下之氣盡者勿留針。氣盡而留針則却至誅無過也。
問曰、本文言針入見氣盡者、非針下之氣歟。
答曰、前篇謂針下之氣、有牢濡而可補瀉也。此篇謂手下之氣、有来盡而可出内也。氣至而入針、氣盡而出針。
出入皆隨氣。若不隨於氣、則徒傷良肉、無益於治也。
本文惟言出内而不言補瀉、則非針下之氣也、明矣。
(是謂、有見如入、有見如出也。を指して)問いに合して文を結ぶ。
此れ経脈・病・鍼治等の候は、皆な氣を知ることを以て主と為して、其の形に拘らず。諸家の言に逈(はる)かに異にす。
故に氣を見るを以て、之を巻末に掲げるなり。
抑々、太公望は蓍亀(メドハギ・亀卜)を以て腐艸枯骨と為して旗鼓の毀折を避けず(※)。其の言、城の氣は死灰の如し、城の氣は出でて東にすると言うは、蓋し吉凶の形迹に拘らず、神武の徳を以て氣機に通達すれば也。
(※『論衡』(王充 著)巻二十四 卜筮篇にある逸話。「…周武王伐紂卜筮之逆、占曰大凶。太公推蓍蹈龜而曰、枯骨死草何知而凶。夫卜筮兆數非吉凶誤也。…」太公望が軍師として紂王反乱軍に従軍した際に、この反乱を占ったところ大凶と出た。それに憶する見方を鼓舞し謀反の正当性を示す=謀反の罪悪感を払拭するために発した言葉)
■原文
合問結文。此經脉病鍼治等候、皆以知氣為主而不拘其形。逈異諸家之言。故以見氣、掲之巻末矣。
抑太公望以蓍龜為腐艸枯骨而不避旗鼓之毀折。其言城之氣如死灰、城之氣出而東者、蓋不拘吉凶之形迹、以神武之徳、通達氣機也。
以上、各医家の七十六難註を付記したが、まだまだ難経注釈書は他にもある。
鍼道五経会 足立繁久
難経 七十九難 ≪ 難経 八十難 ≫ 難経 八十一難
原文 難経 八十難
■原文 難経 八十難
八十難曰、經言、有見如入、有見如出者、何謂也。
然。
所謂有見如入者、謂左手見氣来至、乃内針。針入見氣盡、乃出針。是謂、有見如入、有見如出也。