温病を学ぶ
新型コロナ感染症(COVID-19)の蔓延から、温病学を学びなおす必要を感じました。温病学派といえば、葉桂(葉天士:1667~1746年)の『温熱論』や呉鞠通(呉瑭:1758~1836年)の『温病條辨』がよく知られています。ですが、まずは呉有性(呉又可:1500年代後半~1600年代中盤※生没年に諸説あり)が著した『瘟疫論』から学んでいきましょう。
瘟疫論の背景
呉有性は江蘇州(今の蘇州)の人、『瘟疫論』を著したのは1642年だとされています。
その背景として前年(1641年)には疫病が蔓延したとされています。
或いは闔門伝染するも始発するの際、時師、誤りて傷寒の法を以て之を治す。未だ嘗てその殆からざるを見ざる也。
或いは病家、誤りて七日で自ずと愈ゆべし、爾からざれば十四日に必ず瘳(いえる)と聴き、因りて治を失して、期に及ばず死する者有り。
『瘟疫論標註』醒醫六書瘟疫論引より
1641年に山東省、浙江省、河北省、江蘇省、安徽省とかなり広い範囲にわたって疫病が蔓延したとあります。
しかし、傷寒論処方をもってしても効果は一向に見られなかったと記されています。傷寒論処方は外邪性疾患に対する処方として信頼と実績のある法でした。しかしその結果から呉有性は新たな医学の構築を要すると判断したのでしょう。
もう少し時代背景をみてみましょう。
この時代は数十年にわたる大規模な戦乱、飢饉が起こっていました。いわゆる明清交替(明王朝から清王朝への移行)です。しかし残っている記録からは、戦争と食糧難とパンデミックが一度に繰り返して起こっています。その災害規模は現代日本人には想像を絶するものだといえます。
医学の歴史としては、戦乱をきっかけに発展した医学という点では金元医学を彷彿させるものがあります。
まずは『瘟疫論』の呉有性による序を見てみましょう。
(序文のみ写真は『瘟疫論発揮』京都大学付属図書館より引用させていただきました。)
以下に『瘟疫論』の原序を書き下しにしたものを蒼枠内に紹介します。
『瘟疫論』原序
夫れ瘟疫の病為(た)る、風に非ず、暑に非ず、湿に非ず。乃ち天地の間、別に一種の異氣に感ずる所。其の傳に九有り。
此れ疫を治するの緊要関節なり。
奈何せん。古自り今までに、従(よ)りて未だ発明する者有らず。仲景の傷寒論有りと雖も、然れども其の法、太陽より始まり、或いは陽明に傳え、或いは少陽に傳え、或いは三陽を竟に自ら胃に傳う。
蓋し風寒に外感するが為にして、設けての故に其の傳法と瘟疫、自ずから是逈(はる)かに別なり。嗣後これを論ずる者、紛紛として数十家を止まず。皆、傷寒を以て辭を為る。其の瘟疫の症にして甚だ之を略す。是を以て醫を業とする者、記す所誦する所、連篇累牘 俱に傷寒に係る。其の症を臨むに及びて悉く瘟疫を見わす。其の眞の傷寒を求むるに、百に一二無し。屠龍の藝、成り難しと雖も施す所無く、未だ鹿を指して馬と為ることを免れずを知らず。
余、初め按ずるに、諸家咸(みな)春夏秋 皆是(みなこれ)温病にして傷寒は必ず冬時に在りと謂う。然るに、歴年これを較ぶるに、瘟疫は四時皆有り。傷寒に究むるに及んで、厳寒に至る毎に、頭疼身痛、悪寒無汗発熱、總べて太陽症に似て、六七日に至りて治を失するも有り。未だ嘗て経に傳える毎に発散の剤を用い 一汗して解せず。間(まま)薬せざるも自ずと解する者有り。並びに未だ嘗て失汗に因りて以て発黄 譫語 狂乱 胎刺等の症を致さずに因りて、此れ皆 感冒 膚浅の病にして眞傷寒に非ざる也。
傷寒感冒、均しく風寒に係る。軽重の殊なること無くんばあらず。究竟、感冒 多く居て、傷寒は希に有り。況や瘟疫と傷寒、感受に霄壤の隔たり有り。今、鹿馬の分かつ攸(ところ)、益々 傷寒 世に絶えて少なき所を見る。仲景、傷寒を以て急病と為し、倉卒の治を失すれば、多く生を傷るを致す。因りて論を立て、以て天下後世を濟う。心を用いること仁を謂うべし。
然れども傷寒と瘟疫、均しく急病也。病の少なき者を以て、尚諄諄として世に告ぐ。温疫の傷寒より多きことに至りては百倍なるに、安(いずくん)ぞ忍びて反って置きて論すること勿き。或いは温疫の症、仲景 原(もと)別に方論有り、歴年既に久しく、兵火に煙没すと謂う。即ち傷寒論は乃ち散亡の餘と稱す。王叔和、方を立て論を造り、謬して全書と稱す。温疫の論、未だ必ずしも散亡を由らざる也、明らけし。
崇禎辛巳、疫氣流行、山東浙江省、南北両直(隷)、感ずる者尤も多し。五六月に至りて益々甚し。或いは闔門 傳染するに至る始めて発するの際、時節誤りて傷寒の法を以て之を治す。未だ嘗て其の殆からざるを見ざる也。
或いは、病家 誤りて、七日にして當に自ら癒えるべし、爾らざれば十四日に必ず瘳(いえる)と云うことを聴き、因りて治を失す。期に及ばずして死する者有り。
或いは妄りに峻剤を用い、攻補の叙を失し而して死する者有り。
或いは醫家の見解到らず、心疑胆祛し、急病を以て緩薬を用いるに、即ち其の害を受けずと雖も、然れども遷延して而して死を致す。比比(どれもこれも))皆 是なり。感ずる所の軽き者は尚(なお)僥倖を獲て、感ずるの重き者は更に加うるに治を失す。
枉死するもの勝(あげ)て計(かぞえ)ず。嗟乎、古法を守りて、今病に合わず、今病を以て古書を簡(えら)ぶ。原(もと)明論無くんばあらず。是を以て剤を投じて効かずんば、醫者 傍徨として措くこと無く、病者 日に危篤に近し、病 愈(いよいよ)急なれば薬を投ずること愈(いよいよ)乱る。病に死せずして乃ち醫に死す。醫に死せざれば、乃ち聖経遺亡に死す也。吁(ああ)千載以来、何ぞ生民の不幸なること此の如き。余の固陋と雖も心を静にして理を窮めて、其の感ずる所の氣、入る所の門、受ける所の處、及び其の傳變の體、平日用いる所の歴験の方法を格(ただ)して、詳らかに左(下記)に述し、以て高明の者の之を正すを俟つ。
時に崇禎正壬午仲秋 姑蘇洞庭の呉有性 淡淡齋に書す。
傷寒とは異なる病因・病理をもつ瘟疫という病を呉有性は提示しています。
当時を想像すると従来の診断も治療も全く効かない…となると、その苦労や心的ダメージは計り知れないものがあったと想像します。以上の序文内容からも、当時の医家も患者も大いに混迷しパニックに陥っていた様子を窺い知ることができます。
注目すべきは、この序の冒頭にある「傳に九あり(九伝)」という言葉です。これは「瘟疫の病伝に9種あり」という意の言葉で、呉有性は従来の外感病とは全く異なる病機をこの書『瘟疫論』で提唱しています。
九伝について詳しくは下巻にて触れられています。まず上巻から読み進めていきましょう。
鍼道五経会 足立繁久