第43章 妄投寒涼薬論【瘟疫論】より

これまでのあらすじ

前回は、外邪性の熱病に対し、補剤を盲目的に使ってはならない!という非常に重要な内容でした。
今回は寒涼薬の使用に関する注意事項です。

冒頭は瘧病と瘟疫の病型の違いに関する説明から始まります。


(写真・文章ともに四庫醫學叢書『瘟疫論』上海古籍出版社 より引用させていただきました。)

第43章 妄投寒涼薬論

妄投寒涼薬論

疫邪、膜原に結し衛氣と併するに因りて晝夜発熱し、五更に稍減じ、日晡益々甚し。
これと癉瘧と相い類する。
癉瘧は熱短く、時を過ぎれば、失うが如く、明日期に至りて、復熱す。
今、瘟疫は熱長く、十二時の中、首尾相い接す。
寅卯の間、乃ちその熱の首尾なり。
即ち二時、餘焔清せず、日夜発熱すに似たり。
且つその時也、邪、膜原に結し、氣併して熱と為す。

胃、本(もと)病無し、誤りて寒涼を用い、妄りに生氣を伐する、これその誤る者の一なり。
邪、胃に傳するに及び、煩渇し、口燥き、舌乾き、胎刺、氣噴すること火の如し、心腹痞満して、午後に潮熱する、これ應(まさ)に下すべきの證なり。

若し大剤の芩連梔栢(黄芩、黄連、山梔子、黄柏)を用い、専ら清熱に務めれば、竟(つい)に熱は自成すること能わざるを知らず。
その熱は皆 邪、胃家に在るに由りて、正氣を阻礙し、鬱して通ぜず。火も亦、留止し、積火が熱と成る。
但、火と熱を知りて、邪に因りて火熱を為すことを知らず。
智者は必ず承気を投じて、その邪を逐去し、氣が行り、火泄して、熱自ずから已る。
若し、概して寒涼を用いば、何ぞ湯を揚げて沸を止めると異らん。
毎に今の醫を見るに、好みて黄連解毒湯、黄連瀉心湯を用いる。
蓋し、素問の熱の勝つ所に淫すれば、治するに寒涼を以てすると云う、以為(おもえらく)聖人の言、必ず我を欺かず。
况や熱病に寒薬を用いる、最もこれ捷径なり。又、何ぞ疑わん乎。

熱甚しきに遇う毎に、反て大黄の能く泄して元氣を損なうと指し、黄連の熱を清して且つ元氣を傷らず、更に下泄の患い無く、且つ病家に疑慮の有ること無きを得て、これを守りて以て良法と為す。
これに由りて、凡そ熱證に遇えば、大剤これを與へ、二三銭にて已(い)えざれば、増して四五銭に至る。
熱また已えざれば、晝夜連進して、その病轉(ますます)劇し。
これに至りて技は窮し、力も竭きて、反して事理當然と謂う。

又、等の日久しくして腹皮の背に貼くごとく有るを見るに、乃ち調胃承気の證也、况や痞満無し。蓋し敢えて承気を議せず、唯だ寒涼を類聚し、専ら清熱に務む。
又、思うに寒涼の最たる者は、黄連に如(し)くは莫(な)し。
因りて再びこれを倍して、日に危篤に近づく。
邪有りて、除かれず、耽誤して死に至る。
猶、黄連を服して幾両に至れども、熱を清すること能わずを、薬の到らざるには非ずと言うが如し。
或いは不治の證と言い、或いは病者の数也と言いて、他日、凡そこの證に遇えば、毎毎これの如し。
父母妻子と雖も、この法を以てこれを毒するに過ぎず。

蓋し、黄連は苦にして性滞、寒にして氣燥なるは大黄と均しく寒薬と為す。大黄は走りて守らず、黄連は守りては知らず。
一燥一潤、一通一塞、相い去ること甚だ遠きことを知らず。

且つ疫邪は首尾、通行を以て治と為す。
若し黄連を用いば反って閉塞の害を招き、邪毒、何に由りて以て泄せん。病根、何に由りて以て抜かん。
既に病原を知らず、烏(いずくんぞ)能く以て疾を愈さんや。

問うて曰く、間(まま)黄連を進みて効を得る者有るは、何ぞ也?
曰く、その人の正氣素(もと)より勝ち、又 受ける所の邪本(もと)微なるに因りて、これ薬せずして自ずから愈えるの證なり。
醫者、悞て温補を投じ、轉(ますます)補いて轉鬱し、轉鬱して轉熱す。
これ三分の客熱を以て、轉じて七分の本熱を加える也。
客熱とは、客邪の鬱する所に因る正分の熱なり。
これ黄連の愈するべきに非ず。
本熱とは、誤りて温補を投ずるに因りて、正氣轉鬱し、反て熱極を致す。
故に続けて煩渇、不眠、譫語する等の證を加える。
これ正分の熱に非ず。乃ち庸醫の分外の熱を添造したものなり。
因りて、黄連を投ず、ここに於いて煩渇、不眠、譫語等の證、頓ろに去る。
これを要するに黄連、但 七分の邪無き本熱を清去すべし。又、熱減ずるに因りて、正氣即ち回り、存する所、三分の邪有るの客熱、氣行りて即ち已む。

醫者、解せずして、遂に以為(おもえらく)黄連、効を得るとす。
他日、これに籍りて概して客熱を治するときは則ち効無きなり。
又、昔効ありて今効あらずを以って、その病原の本(もと)重し、薬の到らずに非ずと疑う也。
執迷して悟らず、害する所、更に勝て計すべからず。

問うて曰く、間、未だ温補の誤りを経ずして、黄連を進めて疾愈える者は何ぞ也?

曰く、凡そ元氣が病に勝つは易治と為し、病 元氣に勝つは難治と為す。
元氣が病に勝つ者は、治を誤ると雖も、未だ必ずしも皆死せず。
病、元氣に勝つ者は、稍も誤れば、未だ死さざる者有らず。
これその人の元氣、素より勝ち、感ずる所の邪、本より微なる。これ以って正氣有餘すれば、足りて以って病に勝つ也。
少しく黄連を與えると雖も、正氣を抑鬱すること能わず。
これを小逆と為す。
正氣猶勝つを以って、疾幸いにして愈える也。
醫者、解せず。
竊(ひそか)に自ら功を邀(もと)め、他日に設し邪氣が勝つ者に遇えば、邪を導くに非ざれば、その疾を瘳(いや)すこと能わず。
誤りて黄連を投じて、反て閉塞の害を招く。未だ危うからざる者有らず。

瘟疫による熱病の本体は、膜原や裏(陽明腑)にあります。
ただ表層の熱をターゲットに寒涼薬を連投しても、それも的外れなこと。
さらに寒涼薬・清熱を空しく続けている内に、正気は確実に消耗していくのです。

愚者はそれに気づかず、ただ表面上の火や熱に気を取られて、消火活動を行います。
しかし、熱源・火の元は表層にはないので、消した端から再燃してしまいます。

それを譬えて“沸騰を止めようとしてお鍋を持ち上げている様だ”と表わしています。
沸騰を止めるには、火を消せばいいのです。
お鍋を持ち上げた所で、火は消えていません。
両手も塞がってしまい、次に打つ手がなくなってしまいます。

智者は承気湯を用い、陽明腑を駆邪するのだと記しています。
そうすると、気が行り、火は泄して、熱は自然と消退するであろう…と説いています。

後半は黄連を主体とした清熱の連用について警鐘を鳴らす内容です。
問答形式の文章を2例挙げていますが、どちらも黄連を清熱薬の代表として、病理、薬理の理解を促す内容となっています。

特に一つ目の問答では、医者の誤治により補剤を服用したために発生する熱について詳解されています。

前医が温補したために黄連が効いたのですよ…と。

前医の誤治を含めて、熱を客熱と本熱に分け、邪による熱と誤治によって生じる熱を分類しています。
この客熱と本熱を鑑別して、変証・壊証を治療する…診断の水準としてはかなりハイレベルだと思います。

第42章【妄投補剤論】≪ 第43章【妄投寒涼薬論】≫ 第44章【大便】

おすすめ記事

  • Pocket
  • LINEで送る
  • このエントリーをはてなブックマークに追加

コメントを残す




Menu

HOME

TOP