葉天士の『幼科要略』その14 痘について

これまでのあらすじ

前回は痧疹について学びました。その痧疹に章にて、痘との鑑別点が触れられていましたが、本章ではその痘瘡について学びます。
痧疹も痘瘡も共に、熱病後に皮膚に発疹が現れるという病型を持ちます。しかし、その本質的な病態病理は全く異なります。ぜひ痘瘡(天然痘)の病理を知っておきましょう!

…とは言うものの、天然痘は1980年にWHOにより根絶宣言がなされた病です。よって現在ではお目にかかることはありません。
ですので、天然痘の病理と治法を(しかも東医的に)勉強しようという人はいないでしょう。
私は縁あって痘瘡について調べる機会があり、この2年ほど痘瘡について(流し読み程度ではありますが)調べましたが、その病理を知っておくことは、やはり有益な学びとなるだろうと考えています。

天然痘の発症経過については、多くの人が未知であろうと思われます。『誰でも出切る天然痘の診断』では丘疹、疱疹、膿疱、痂皮の各ステージの写真が掲載されています。併せて見ることで『幼科要略』本文の内容をイメージしやすくなると思われます。


以下に書き下し文(黄色枠)と原文(青枠)を記載します。
『幼科要略』は『温熱湿熱集論』福建科学技術出版社および『葉天士医学全書』山西科学技術出版社を参考および引用しています。
※本記事「痘」に関する書き下し文は他の章と比べて誤まりが多いと思われます。何卒、御容赦のほどとお気づきの方はご指導をお願いいたします。

書き下し文・痘

痘を論ずるに首(はじめ)は銭仲陽、陳文中の二家を推す。
銭氏は寒涼を用い、陳氏は温熱を用いる。(両者が)相違すること確乎(確固)たり。
朱丹渓の祖は銭氏にして陳氏に非ず。
毒を分解し、中を和し、表を安んずるを要と為す。犀角地黄湯を以て主方と為す。世を挙げて之を宗(もと)とする、敢えて異議する莫(な)し。
後の万氏は脾胃を以て主と為し、魏氏は保元を以て主と為す。皆、二家に従(よ)りて脱化す。
費建中(費啓泰)の『救偏』は悉く石膏、大黄を以てし、胡氏は輒(たやす)く汗下を投ず。
松江東地では、多くは秦鏡明を宗とし。京口江寧では、咸(みな)管橓『保赤(保赤全書)』を推す。
吾(われ)翁仲仁『金鏡録』に悉く遵(したが)いて蘇らせる。家喩戸暁(世間で知らぬ者無し)と謂うべき者、其の長ずるは看に在りて、治に在らず。看法の清確なる、前知の巧妙を以てす可きこと有り。後の翟氏、聶氏は、氣血盈虧、解毒化毒を以て深め、銭氏、陳氏の底蘊を分晰闡揚し、諸家を超出す。
太だ多くを分別するに因りて、読む者は目眩みて心憒(みだ)れる。翁仲仁の荛(柴・薪)悅口に不若(しかず)也。然るに眼目の功、須らく翁氏を宗とすべし、而して治を匯(めぐ)り講究し、諸家を参えてす可し。姑(しばらく)看法を挙げる。

大凡(おおよそ)発熱すること三日、而して後に標に見われる、是(これ)其の常なり。即ち熱勢を以て見症を参詳して、其の吉凶を定む。翁仲仁『金鏡録』は甚だ明らか、茲(ここ)に復た贅せず、其の未だ刻せざるを悉く補入す。
傷寒の邪は外より入る、痘子の熱は内より起きる。但だ時邪は引動して出る、傷寒とは両途なり。

周歳の小児、初熱すれば即ち驚搐し昏迷の状を現すこと最も多し。世俗に謂う驚(驚風)と痘(痘瘡)は最好(最高・最多)なり、此れ未だ必ずしも皆な然らざることを言う。
方書に云う、先に驚、後に痘する者は生く、先に痘し後に驚する者は死する。頻頻たる驚厥、最も多き悶痘。

蓋し痘は腎より肝に至り、心脾に至りて肺に及ぶ、裏より外に至る、深きより浅きに及ぶ。未だ発せざるの前、痘熱先にして已に内動す、目に水晶光芒の現れるは、腎熱也。
水は木を生ずる而して肝に入る。木は火を生ずる而して心に入る。火は土を生ずる而して脾に入る。土は金を生ずる而して肺に入る。
其れ先天の痘毒、至陰より以て陽に達す、全籍身中に元氣を領戴し充長し、以て化毒は漿と為す。漿は必ず濃厚、蒼老にして痂を結び始める。毒已に外泄して、元氣内に返る、斯くして変症無し。
周歳(一歳)已内は、身小さく元氣も弱なり、常に熱有りて一日即出するも、亦た順痘有り。
但だ須らく神氣の静躁、熱勢の軽重を看るべし。

点の見わる(発疹)徐徐にして出づ、既出して即ち長ずる、熱緩かに乳(哺乳・授乳)すること安きは、便ち是(これ)好症なり。
若し神氣は安にし、熱も亦た盛んならずと雖も、痘点は多からずと雖も、形(様子・様相)は呆にして色は鈍なれば、或いは頭軟足落を作し、脈は懈(ゆるみ)筋骨は束ならず、隱隱として嘆息す、或いは短氣して喘の如く、或いは嘔し或いは瀉する、是(これ)多くは悶症なり。

若し二三日の間、痘苗已に長じて、色も亦た頗る好。夜を竟に終日煩躁して止まざるは、隱處に疔を発し、及び斑を発し疹を夾む等の症を最も防ぐ(べし)。

発熱煩躁し、標点が見(あらわ)ると雖も、熱躁愈(いよいよ)加わる。細かに詢(はか)りて忽なること無く、再々兼症と参ず。六氣の鬱遏を為す者は、時に従いて氣治まる、亦た表裏に有れば両解し治す。亦た下奪する者有り、但だ下法、寒涼之に中る。必ず須らく活血理氣して、其の凝澀冰状に凝渋するを防ぐべし。

初起、必ず三次して出づる、熱止むときは則ち斉う。其の贈点亦た陸続して発出する者有り。須らく顔色の霊活なるを看(み)、生気の頃刻(しばらくの間)転機し変化するを要と為す。形を察し症を辨じて、治法用薬す。表薬にて活血疏肌する、次なるは則ち涼血解毒す。実熱に便閉する者は、微かに之を下す。
虚弱にして気祛する者は、疏解寒涼を進めることを忌む。
間(まま)虚寒なる弱稚有り、初め身より発するは大熱ならず、四肢は皆冷え、吐乳瀉乳し、痘点も長ならず、聞声悠悠として絶せんと欲す、望色は惨淡として形無く、恰も一二朝間に在り。

余、程氏の女児を見る、歳は半齢(6ヶ月)になったばかり。痘を布くこと極めて多し、痘形は軟にして、色は淡白、前症 身に迭する。近医幼科は、僉(みな)荊芥、防風、牛蒡、蝉脱、紅花、山楂肉、木通、胡荽、笋尖の属を用う。方に冩すべきと雖も而して凶危を以て示す。
延べて余が診し視るに、余の曰く、毒重く気虚す、法は不治に在り。但だ身無熱、見わる症は虚寒、癘氣表邪に因らざれば、焉んぞ表薬を用いんや?
万氏(万全・万密斎)は始終 脾胃を以て主と為すことを考るに、理中湯加丁桂を與え服するを以て、一剤にて肢暖まり嘔止む。再服して利(痢)は緩かに痘起きる。再度 人参、当帰、鹿茸を用いること二服。銭氏異功散を以て而して愈える。

凡そ痘を看るには、先ず児の体の強弱を論じ、肌色を辨ず。色白の如きは気虚多く、色蒼は血熱多し。
形象、尫羸(羸痩・痩弱)するは宿病、或いは渇乳する有り。
肌の柔白に嫰なる者は、痘必ず鮮明する。
蒼黒にして皮粗き者は、(痘の)色必ず暗晦なり。
羸痩の病質、色燥き形枯れる。
必ず須らく辨じて、期に依りて長養し、内症安和すべし。
病躯の痘を出すは、即ち常(の状態)に平して奇なること無し、亦た調理すること難し。
歌訣に云う、形体羸痩して骨は柴の如し、肌肉枯焦して神思は衰う。遍く体に鋪排すること此の痘の如し、縦(ほしいまま)に能く漿足して亦た嗟くに堪えたり。

初め見るに、腰痛み足軟して、起立すること能わざる者は死す。此れ毒の腎に伏する。
初め見るに、腹脹れ胸高く、続て喘噦の増す者は死す。
初め見るに、目睛の呆瞪(ぼんやりみつめる)、或いは暗く光無し、或いは黒白高低す、皆 緊悶の症に属する。
初め痘を見るに、煩躁して止まざるは、即ち疔癍を防ぐ。疔は必ず隠處に現れる、多くは死す。
初め痘を見るに、痘の続発せず、癍の色が深紫から漸く藍黒に変ずるは、六日の内に死す。
初め痘を見るに、紫癍漸く起きて、痘は反て隠伏す、此れの名、紫癍白悶。
初め痘を見るに、痘癍間(まま)雑えること、点墨を朱にて洒(そそ)ぐに似るが若し、必ず死す。
以上、皆(みな)初見の看法にて以て凶危を定める。

発斉して熱退いた後は、皆な諸々の悪症無し。
翁仲仁の云く、三日四日、痘出でて當に斉うべし、点(発疹)すること足心に至る、勢い方(まさ)に安静とす。
若し幼小の児を論ずるに、氣血周し易く、常に未だ三日に及ばずして発斉する者有り。年長の体となれば、四日以て外に猶お贈発する者有り、痘子(痘疹)稀少にして、数は百に盈たず、必ずしも足心に至り点せず。

(翁)仲仁の大意の謂い、発斉して安静にす、已に変症を慮ること無し。①
然るに須く痘形、痘色、是(これ)何等の呈色かを辨明すべし。
身体強壮なれば、痘は上中に属す、方に其の無慮を許する。
倘(もしも)幼小弱質なれば、或いは病後、或いは別病を帯びて後に痘を布く、未だ痘を見るべきに好く浪(ただよう)する許(ばかり)。再、冬夏の気候を以て詳らかに審す、百千を以てしても誤まり無くすべし。

今の世の用方、初め見るに宜しく解肌疏表を、通套の法とする(十六味)
荊芥(四日不用)、防風(三日不用)、前胡(三日不用)、牛蒡(四日不用)、紫草(二三日便滑なれば忌む)、木通、紅花、甘草、赤芍、天蚕、楂肉、川芍、連翹、桔梗、広皮、蝉脱(三四日不用)

方書の中、未だ点(痘瘡・発疹)の見われざるに升麻葛根湯を用う、今の人用いず。
伍氏の方法、(痘瘡)見(あらわれ)れば升麻を忌む。後人の謂う葛根の表疏も亦た忌む。
此れ軽揚升表の通套薬。若し裏症なれ、急ぎ須らく両解すべし。

伍氏の方、一二日は羌防透肌湯を用いる、今の人は用いず。其の辛温の氣の雄なるを悪む也。一二日にして壮熱氣促して、煩渇、便秘し、痘粒の発せず。翁仲仁の云く、若し風寒壅遏に非ざれば、定めて是(これ)氣虚不振なり②
愚謂う、近世の痘を布するや、毎(つね)に君相風木燥金の司令の盛んに発するは、蓋し火の不発に非ざる也。火鬱して之を発し、升陽散火是に已(終わる)。但(ただ)前症の若く裏熱甚だ重くして、脂液を煎灼すれば、苟も苦寒の下奪、佐するに以て表を升らすに非ざれば、用いること能わざる也。
費建中の方、頗る中的(的を射る)と為す。
石膏、大黄、連翹、赤芍、青皮(腹痛に用う)、山楂肉、天花粉、紫草、木通、丹皮(辛涼入血)、犀角(辛涼通血)
発斉の後に黄連を用う。
凡そ寒涼は清火解毒す、必ず活血疏暢を佐す、氣血を凝滞するを恐れる也。
実熱便秘に通用するは、涼膈散、通聖散(防風通聖散)、前胡枳殻湯、四順清涼飲。

痘四日にして発足す、伍氏は古方に遵(したが)いて、牛蒡熟末三分を用い、荸薺汁を用う、酒にて酿(醸)し炖熱にて調匀す、服用するに臨みて、生鶏冠血十余滴を刺入して與服する。毒の軽き者は即ち光潤の色を起こす、世は皆な之を宗とす。
発斉して已に四五日、涼血解毒湯を用う、伍氏は四聖飲と名く、扁鵲の原方に非ず。
生地黄、連翹、銀花、紅花、甘草、天蚕、桔梗、紫草(便滑なれば紫鉚を用う)
血熱には牡丹皮、犀角を加う。火盛んには黄連、石膏、羚羊角を加う。癍有るは金汁、元参を加う。
頭面に(発疹)起きずば川芎、鶏冠血を加え、咽喉痛には射干、元参、山豆根を加う。狂乱躁擾には地龍汁を加え、毒重く血凝るに猪尾血、冰片(竜脳香)(量は児の大小に用う)を用いる。
近世では涼血解毒には多くは地丁銀花湯を煎薬として用う。(地丁…おそらくは黄花地丁・蒲公英のことか)

凡そ痘を看るに、初起は根盤を要とし、其の痘の長綻し易し。倘(もしも)痘瘡の尖が痩せて肥ならざれば、多くは險なり。
漿と成りて後、根盤を要とするを務む、即ち(発疹漿液の状)一線に化して、紅に圏いて緊く附す(周囲組織は赤紅色で硬い)、頂は満ちて圓(円く)滚ぎる(湧き立つ)、是(これ)毒の化するを為す。
若し(痘の)頂が陥み、頂が皺みて、根盤は黯く僵(こわ)ばるは、其の毒と氣血交凝する。実なれば宜しく攻むべし、虚なれば宜しく補するべし。実火は宜しく清すべし、攻むに早きこと宜しからず。
火色の大いに赤きこと来たるを看、痘の形色湿潤なるは、方に攻め托するべし。否なるときは則ち掻擦すれば立ちどころに至る、乾きて剥げたるは毒(内に)陥いる不治なり。
虚には血虚、氣虚の分有り。血虚は熱と為し、氣虚は寒と為す。
但し虚熱と実熱は同じからず。虚熱には滋清の方薬を用う。

痘頂は氣に属し、根盤は血に属す、氣は領(う)けて血は載(の)する、毒得て煅煉することで漿と化す。④
凡そ体強にして質実する者の多くは火なり、清涼の剤を以て、火解けて漿成る。
誤りて補するときは則ち癰となる、癰なる者は壅する也。其の氣虚血弱にして、色必ず淡白、形は雄偉ならず、或いは(痘瘡の)頂陥し、或いは皮皺し、内症は則ち悪心、少食、便溏する。年少にして未だ穀食の進まざる者は、腸胃薄劣、最も虚症多し。
七日以来、元氣 事に用いて、毒に勝つこと能わず、之を外出せしむ。多くは内陥して変を致す者有り。

余、最も是の症に心を究む、之を調え手に應じて効を取る。
魏氏保元湯、聶氏参帰鹿茸湯、陳氏木香異功散。腸滑して禁ぜずには七味豆蔲丸、白朮散、理中湯を用う。多くは奇効を獲る。甚しき者は必ず三服を用う。

大凡(おおよそ)児の肌 白嫰なる者の多くは虚症なり③’、蒼黒なる者の多く実火。大概を為すと雖も、亦た至要に属す。
白嫰なるの痘を発するは、その色必ず鮮艶なり、便ち是を善症と謂うこと勿れ③。蒼黒なるの痘を発するは、色必ず晦昧、便ち許(みと)めて凶と為すこと勿れ。総じて神氣安静を以て、顔色は日に換わり、形象は漸く長じる便ち吉なり。

六七日、伍氏内托散。
生黄耆、甘草、陳皮、川芎、当帰、白糯米、防風、天蚕、皀角刺、銀花

血熱なる者には黄耆、防風、川芎、当帰を用いず。表疏する者には天蚕、角刺を去る。血熱には仍(なお)牡丹皮、地黄、紫草、連翹、羚羊角を用いる。猪尾、鶏冠、鶏鳴散は達表の薬。猪尾膏は通裏の薬。

保元湯
人参、黄耆、炙甘草。川芎、当帰を加え芎帰保元と名づく。虚寒には肉桂を加え、頂を升すには鹿茸を加う。
氣滞には正氣(正氣散か)に広皮、厚朴を加う。瀉(瀉下)には木香、肉果(肉荳蔲)を加える。質弱には坎炁(臍帯)、紫河車を加え。嘔逆には丁香、厚朴を加える。

参帰鹿茸湯
人参、当帰、鹿茸、黄耆、龍眼肉、炙甘草

木香散
人参、木香、丁香、大腹皮、桂心、青皮、訶子、半夏、甘草、前胡、赤茯苓。

異功散
人参、木香、官桂、広皮、当帰、茯苓、丁香、白朮、附子、肉桂、厚朴、半夏

豆蔲丸
肉果(肉荳蔲)、木香、砂仁、枯礬、訶子、龍骨、赤石脂

白朮散
四君子加藿香、木香。

七八九日には清涼薬を頻用す、痘の火色は既に退き、漿は透ずること能わず、或いは半漿有り、頂に箬笠の形有り、充ちて灌ぐこと能わず。今の人の多くは桑蟲漿の生用、鶏冠血の生用を用い、同じくして酒漿にて和して服する。倘(もしも)攻め起こし、少頃の後に呆滞する者には、須らく補托を用う。

伍氏の攻発薬は、老人牙、極細に煅研するを用い(?)麝香少許(ばかり)加え、毎服二三分、黒霊丹と名づく。
上、天蚕は乃ち疏表風薬、山甲は乃ち攻経隧風の薬、一味を末と為して、酒漿にて服す、獨勝散と曰う。
凡そ虫蟻は皆攻む、無血の者は氣を走らせ、有血の者は血を走らせる、飛ぶ者は升らせ、地を行く者は降ろす。
凡そ漿足は、声音唖する者妨げず、驟喘、痰升する者は大いに忌む。
翁仲仁が云う、挫喉声唖するは、漿行飽満するも亦た妨る。

蓋し痘漿は熱氣以て煉成するに因りて、必ず升騰し以て頭面に達す⑤’’。肺の位は最も高く、熱は上に蒸迫し、肺は先に損を受ける。是以て声出を揚げず。倘(もしも)喘急して扶肚抬胸するは、乃ち火毒は肺に帰する、必ず不治なり⑤’
火毒の肺に帰するに、幼科(小児科医)毎(つね)に珠子、牛黄、石膏、黄連の属を用う、多くは効かず。余は孫真人の葦莖湯、或いは仲景の葶藶大棗湯に遵(したがう・遵用)する、間(まま)効する者有り。肺氣壅遏に、苦寒直下するは、已に病む所を過ぎる、故に効無し⑤

方書に、以六七日已前の寒戦は肺熱に属す、六七日後の寒戦は氣虚に属す。六七日已前の咬牙は胃熱に属す、六七日已後の咬牙は血虚に属す。亦た定論に属す。

八九日、痒塌し、咬牙し、痘は漿を起こさず、或いは灰白、或いは涸れ、或いは癟(凹み萎む)、危険極まれり。速速に温補せよ、亦た生くるを望む可し。
翁仲仁の云う、塌陥、咬牙し、便実して声清するは猶お治するが如し。声清ければ則ち上に熱壅痰聚すること無し、便実なるときは則ち腑陽の未だ盡く泄するに至らず、温補 効を得る所以。木香散、異功散。

八九日、順痘の漿色は蒼黄なり、毒氣悉く化する。亦た垂成を云う。須らく謹みて防ぎ護持すべし。掻きて損じて膿を流し血を裂くは、倘(もしも)正氣大泄すれば、毒は虚に従(よ)りて陥る、常に不治の患有り。斯くの時は預嘱(遺言)を母に伴うを懈ること勿れ。
痂靨を乾結せしめ、肌肉完固すれば、便ち是れ全効す。若し痘已に破碎し、声の唖せざる者は、毒の陥せざる也、妨げ無し。

伍氏方は芍薬湯を用いる。
炒白芍、薏苡仁、地骨皮、銀花、百合、山薬、建蓮肉

十一二日、漸次 痂 成るの際、極めて好の症には、必ず咳嗽有り、或いは夜暮に身熱す。
世俗の幼科(小児科医)は僉(みな)毒氣の未だ盡せざると云い、苦寒(薬)を概投す、多く胃減廃食し、痘労童祛を酿成する者有り。
吾れ嘗て論ず、痘は腎藏骨髄の中 自(よ)りして、肝主筋、心主血脉、脾主肌肉、肺主皮毛なるに由りて、内より外に之く、毒は乃ち渙釋(氷解)す。
疤の収する時、真氣は裏に帰す、肺は皮毛と合す、是れ末伝を為す、その処位は高く、その体は清粛なり。前の灌脹し痂の成るに従(よ)りて、蒸迫の氣、虧を受け已に極まる、氣泄するは咳を為す矣。況や利湿下注の薬を投じて痂を結ぶや?其の上焦は已経(すでに)燥に転ず、若し毒仍(なお)留伏すれば、焉んぞ能く収靨せんや?此れ断断然也。

再度幼稚(について論ずるに)陽は常に有余し、陰は未だ充長せず。布痘の結痂に至るは、一身の脂液が大いに損ずる、其の陰氣は匱(欠乏)を告げることを知る可し。故に暮夜は陰時に属し、煩を為し熱を為す者は、正に『内経』に云う、陰虚生内熱也。

昔、西郊(に住む)呉氏の女(娘)、年甫四歳、痘は順症に系(つなが)る。幼科(小児科医)の調治、漿満し成痂の日に至りて、忽然として煩躁を発す、夜に熱して寐(ね)ず、晨(朝)には安然と起きる。
医は保元湯を用い、及び銭氏五味異功加芍薬を与え服す、熱躁は益々加わる。
又、更に一医の曰く毒氣未だ盡きず、乃ち誤補の故なり。桑蟲漿暨(および)涼解薬を用う。服用後、躁熱は甚しく、泄瀉を添える。
余を邀(招)きて之を視るに、漿痂の形色を睹(みる)、平素の起居を詢(はかる)。時日は當に午(の刻)、即ち六味地黄湯(※)を用い一服にして安んず。此れら二条、人の多くは忽(ゆるがせ)にして究めず、故に辨じて之に及ぶ。
(※『臨床指南医案』卷十 六味地黄丸 即八味去桂附。煎服名六味地黄湯。)
朝を旬(めぐり)て後に嗽す、大法は甘寒を以て津を生じ胃薬す。
蔗漿、麦門冬、沙参、緑豆皮、地骨皮、甘草、玉竹、甜杏仁
余 毒を解する薬、胃氣を傷らざるを以て主と為すを全うす。若し黄芩黄連を用いるは、必ず須らく酒制すべし。翟聶の二氏は之を辨じること詳らかなり。平和にして奇なること無し。断じて敗れざる事、三豆飲(※)の属の如し。若し金銀花の一味、本草 解毒して不寒と称すれば、余は脾胃虚弱なる者を見て、多服させ即ち瀉する。伍氏は連翹飲子を用うるも亦た平和を取る。
(※『臨床指南医案』卷十 集方 三豆飲 大黒豆、赤小豆、緑豆、甘草、水煮。)

痘毒の癰瘍となるは、熱症のうち十に七八有り、虚寒には十に二三有り。甚しきは骨に至り腐敗出づる、亦た愈る者有り。但だ外科にて火煉升薬を用いるを大いに忌む。其の診看の法、亦た瘍毒の如し、須らく陰陽を分けるべし。

痘疳は湿盛んに熱を生ず、強き者は苦寒清降を用い、苦味は能く湿を去るを以て也。若し咽を阻み食を廃すれば、以て穿腮破頬に及ぶ者は治し難し。
年長じて痘を出だすは、男女欲の火已(すで)に動ず、其の初めは即ち膝痛腰痠、咽喉窒痛して閉せんと欲する(の症状)に現れる。
苦辛寒薬、必ず効験せず。宜しく甘鹹寒にて滋水制火し、解毒を以て佐するべし。六七日来たり、痛みの勢は日に緩やか。聶氏の参麦清補方 有り。余は毎(つね)に用銭氏六味(地黄丸 or 地黄湯)加亀膠、元参、秋石(※)、効を獲る者甚だ多し。
(※秋石の資料は宮下三郎,漢薬・秋石の薬史学的研究.京都大学学術情報リポジトリより)

若し漿して肯起せずして、頻りに粘涎を吐する者は凶なり。
凡そ悪痘、凶危は瞬刻(にして来たる)。諸々の悶症の如く、三五日を過ぎずして、已に発して縮する、甚だ危は最も速し、総べて七日の内に在り。
再び(論ず)若し蒙頭、鎖喉、懸鏡、纒腰、蜘窠、蚕腫 等、十の悪症と為す。其れ袁氏の十八悪症、今の人は未だ嘗て歯及ばす。
此等の痘の如く、治の無益、徒招怨尤(治之不易。難望全生の作もあり)。更に糖沙夾斑有り、十朝に危期。
又、根枝良好にして、歳内(0歳児)幼少の児に布す、必ず八九に風波し治せず。半ば漿して毒陥の変なるは、必ず十一二四の期に於いて斃す。若し能く食する者は、十に一二は救う。

痘の八九旬日に至りて外に無漿なるときは、則ち裏毒の化せず。必ず嗆(むせる)唖し瘙痒して、痰潮して食せず、眼開く、条款するに言を盡すを以て難し、危期は速やか也。
常に忽然と連串(れんせん)して片片の痘有り。
裂水の形は松脂桃膠の外露するが如く、転眼し堆聚する、内症漸く安んじ、凶に変じ吉に転ず。
更に朝を旬(めぐり)て内外有り、乾板の涸れること焦鍋巴状の如く、毫(毛)に生氣無く、忽として地角、承漿の諸處に従り、縫は裂して臭水流れて、漸く頭額に升る、堆腫高厚すること糊瞼の若し、名を発臭と曰う、毒泄れれば即ち當に補托すべし、遅するときは則ち氣脱す。

痘瘡医学の歴史

中国における痘瘡(天然痘)の最古の記録は『肘後備急方』(葛洪)にあると言われています。

『肘後備急方』巻二 治傷寒時気温病方第十三

「此の歳、時行の病有り、仍りて瘡を発す。頭面及び身と須臾にして周匝する。(その)状は火瘡の如し。皆な白漿を戴き、随決随生、即治せず。劇しき者の多くは死す。治り瘥を得て後は、瘡瘢は紫黒なり、歳を彌(わた)りて方に此の悪毒の気は減ず。世人の云く、永徽四年に此の瘡、西従(よ)り東流して海中に遍し。…以って建武中に南陽に於いて虜を撃ちて得る所、仍りて呼ぶこと虜瘡と為す。諸医は参詳して治を作す、之を用いて効有るの方。

■原文
此歳有病、時行仍発瘡、頭面及身、須臾周匝、状如火瘡、皆戴白漿、随決随生、不即治、劇者多死。治得瘥後、瘡瘢紫黒、彌歳方減、此悪毒之気。世人云、永徽四年此瘡従西東流遍于海中。…以建武中於南陽撃虜所得、仍呼為虜瘡。諸醫参詳作治、用之有効方。」

『肘後備急方』より引用

『8~9世紀日本における天然痘流行とその影響』( 董科 著)によれば紀元476年に天然痘が中国に伝わったとされています。以降、天然痘の流行に苦しめられることになるのですが、当時の医はなんとかして命を救おうと智を絞ります。

宋代以降になると痘瘡専門の医書も記されるようになります。また小児科医書では痘瘡の章は必ずと言ってもよいほど記載されています。上記本文に挙げられている人物はそれらのホンの一端に過ぎないと言えます。とはいえ、錚々たる名が連なっておりますので宋代~明代の痘瘡医学簡略史を辿ることにもなるかと思います。

最初に登場した人物は銭仲陽(銭乙)、宋代の医家です。銭乙先生は中国医学小児科の祖と言われる人物。東洋医学の小児科を実践する人であれば、知っておくべきでしょう。彼は『小兒薬証直訣』(1119年)を記し、六味地黄丸の処方を考案されたことでも知られています。
同じく宋代の医家、陳文中も痘瘡医学において注目すべき人物です。彼は『陳氏小児痘診方論』(1253年)という痘瘡専門の医書を記しています。この書は痘瘡の病理について穢毒が五臓六腑に蓄積するという独特の病理を展開しています。これ等の医書以降、母親より経由して蓄積した毒(後代では胎毒と称する)が痘瘡の一つの病因となる説を提唱しています。
(※詳しくは拙稿『胎毒からみえてくる伝統医学の小児科(後編)胎毒医学の発展と衰退』をご参考に)

さらに明代に至り、以下のような医家名と痘瘡医書が列挙されています。
万全(万密斎)は『痘疹心法』『幼科発揮』を記し、魏直は『博愛心鑑』を記し、また費建中『救偏瑣言』、胡璟「秘伝痘疹寿嬰集」、管橓『保赤全書』、翁仲仁『秘伝痘疹金鏡録』と、名立たる医家と医書が挙げられています。
不学にしてすべての医家、医書を読んではいませんが、『小児薬証直訣』『小児痘疹方論』『幼科発揮』『博愛心鑑』を通覧したところ、時代に経て痘瘡病理が構築されていく様子が分かりました。

また、胎毒という先天的な毒が体内の奥深くに潜み、機を得て発病する…という病理が提示されています。

東医的な天然痘の病理

痘瘡医学の用語

本文中に散見する「齊・発斉」「漿足」「根盤」等の用語はおそらく痘瘡医学独自の用語のように思われます。理解が足りず上記の書き下し文にも誤りが多々あるだろうと思われますが、御容赦とお気づきの方はご指導をお願いいたします。

文脈・文意から各用語を察したところをメモしておきます。
発斉とは、発熱・諸痛などの前駆期を経て発疹が始まるのですが、痘瘡の場合は顔面部、四肢末端(掌や足心部にも)発疹がみられます。また特徴的な病態経過として「発疹は最初は平たく赤いのですが、一斉に盛り上がってきます。すべての発疹が同じ段階にあって進行していくのが特徴です。」(『痘瘡(天然痘)について 横浜市』より)とあり、発疹が一斉に盛り上がる、もしくはその直前の発疹が出揃う辺りの病態進行の目安を発斉との言葉で表現しているのではないかと推察しています。

漿足は隆起した発疹内に漿液が貯まる段階を指しているのでしょう。この水疱の段階を経て膿疱に転じます。

根盤は「膿疱期(約5日間):発疹は、皮下まで固く丸く触れる膿疱となる」(『天然痘-バイオテロ対応ホームページ-』主な臨床像より)にあるように、触ると皮下まで固く、根を下ろしているような感触を言うのだろうと推測しています。

痘瘡という病で発すべき毒

上記にも触れましたが、東洋医学では独自の天然痘の病理を構築していました。生まれ持った穢毒・病毒・伏邪が体の奥深く(命門や骨髄といった深部)に潜伏し、時行の氣の影響を受け、発動発病していまう…簡単に説明するとこのようになります。

このような伏邪の存在が機を得て発病する…という病理観は、呉有性や葉天士の伏邪病理に大きな影響を与えていると思われます。

さて一般的な外感病と比較すると、大きく異なる点は内発の病ということです。本文中にある「痘子の熱は内より起きる」との言葉の通りです。
従って、病が重篤化せずに速やかに鎮静化することも大事なのですが、期間内にうまく毒を発し切ることも重要となります。
天然痘は発症後の前駆期、発疹期、膿疱期、落屑期の日数がおおよそ決まっています。この時期に病を乗り切り、邪毒を排出することを是としたのでしょう。

発斉が一つの目安となる

それを踏まえて下線部①や②の文をみると理解しやすくなると思います。下線部①を意訳しますと「翁仲仁の大意ではこう言っている。発斉して安静にす、已に変症を慮ること無し。」
発斉とは推察するに、発疹が全身に出揃い、一斉に盛り上がる頃、膿疱期に入る前です。東医的な病理観では、この段階にまでくると一つのヤマを越えたとみるのでしょう。あとは安静にし排毒に専念すべし、他症変症に移ろう懸念はないと言っているのではないかと思われます。
本文に「発斉して熱退いた後は、皆な諸々の悪症無し」とある通りです。

そして下線部②「…壮熱氣促して、煩渇、便秘し、痘粒の発せず。翁仲仁の云く、若し風寒壅遏に非ざれば、定めて是(これ)氣虚不振なり。」
壮熱から便秘までは前駆期の病態です。順調にいけばこの後は発疹期に入るのですが「痘粒発せず」とあり痘瘡発疹が起こらない病態を示しています。
通常の発疹・皮膚症状であれば(天然痘を知らない現代人の感覚であれば)現れる発疹は少ない方が良いように感じるものです。
しかし痘瘡は排毒が重要な病です(実は小児病のほとんどは排毒を目的としています)。そのため痘瘡発疹が少ないという所見から『この子は気虚不振だな』と診断することができるのです。

繰り返しますが「壮熱」「氣促」「煩渇」「便秘」と症状が揃えば、通常の中風傷寒であれば、前症は太陽位陽明位の実証と診断されるであろうと思います。しかし痘瘡においては痘粒・発疹を発せていないという点で、正氣の働きが低下、すなわち虚しているのです。

瘡の出方でその人の虚実が分かる

痘瘡は内発病の典型であります。それ故に正氣の働きが発疹の度合いに如実に表れます。
下線部③’~③もまた然り。

③’③を意訳すると「おおよそ小児の肌の色が白嫰な者の多くは虚症です。…(略)…白嫰な児が痘瘡を発する場合、その色は必ず鮮艶ですが、これは善症ではありません。注意が必要です」となります。

発疹漿足の時期を指しているのでしょう。
色白の子は生来、気虚の質が強く天然痘などの重い病に罹ったときに発疹の色にも表れます。
通常の望診では「鮮やかで艶がある」ことは胃氣が盛んであると判定します。(『素問』脈要精微論など)しかし痘瘡の色が鮮艶であることは、正氣が病氣に負けたと診断するのでしょうか、善症ではなく凶症とみます。

これは簡単な診断に見えますが重要な鑑別法である(雖為大概、亦属至要)としています。

瘡の基部と頂部の意味

痘瘡所見を痘頂部と根盤部に区分し、氣血に配当しているようです。下線部④にある「痘頂は氣に属し、根盤は血に属す」です。

「氣は領(う)けて血は載(の)する、毒を得て煅煉することで漿と化す。」という言葉が疱瘡内の漿液が生成されるプロセスを表現しています。
この煅煉という字は、鍛錬の金へんではなく“火へん”として記している所が火熱の存在・影響力の強さを示しているようです。

続く文「凡そ体強にして質実する者の多くは“火”なり、清涼の剤を以て“火”解けて漿成る。」という言葉は端的にそれを表わしており、漿液化するには火熱が極まることを一つの条件としているのではないかと考えられます。
この“火が極まる”にも絶妙な加減が求められるようで、正氣を補しても誤治変症を招き、正氣が弱くてもダメ…といったことが続く文に記されています。

氣血が虚弱だとどうなるか?

痘瘡の外見にもその影響が現れます。痘の頂きは陥凹し、或いは皮皺する…とあり、疱瘡内に漿液が貯留する時期があるのですが、「頂陥」「皮皺」とはこの際の瘡の充填度が低いことを言っているのでしょう。
「…元氣が消費されれば毒に勝つことができず、毒を外出させようにも、多くは内陥して変症を致す者が有る。」と続く文にある通りです。

火が強すぎると…

上記④でも触れたように、痘漿というのは毒と火熱によって煅煉・煉成されます。下線部⑤’’「蓋し痘漿は熱氣以て煉成するに因りて、必ず升騰し以て頭面に達す。」です。そのため陽性熱性の強い痘瘡は頭面部や四肢末梢部に広く分布します。

しかし続く文では悪症について触れられています。下線部⑤’「火毒は肺に帰する、必ず不治なり」です。
火熱は上を攻め、肺を攻めます。なぜなら「肺の位は最も高く、熱は上に蒸迫し、肺は先に損を受ける」からです。
しかし、火熱火毒があまり強いと、あっという間に危険な状態に陥ります。
なぜなら肺は嬌臓であり、火熱に弱いのです。肺は燥を悪み、辛金(肺)は火熱に剋傷されるという肺の弱点がこの病理の背景にあります。

このような状態になると葉天士は不治と断じていますが、それを知らない世俗の医は「珠子(珍珠?)、牛黄、石膏、黄連」といった清熱薬を使用します。しかしこれら清熱薬は多くの場合、その効果はみられません。
その理由が記されているのが下線部⑤「肺氣壅遏に、苦寒直下するは已に病む所を過ぎる、故に効無し。」です。

肺氣の壅遏とは、火毒が肺藏を攻めて肺に鬱火鬱熱してしまっている病態です。苦寒直下とは清熱薬にて病勢を下降させることを言い表しているのでしょう。しかし、広く上焦気分に熱が分布する段階はとうに過ぎ、肺藏に病位が侵攻していることを示唆しいています。

このことを「孫真人の葦莖湯、或いは仲景の葶藶大棗湯を用いると功を奏する場合がある」との言葉で伝えているのではないでしょうか。

葶藶大棗瀉肺湯、千金葦莖湯は共に『金匱要略』に記されています。

『金匱要略』

肺痿肺癰欬嗽上氣病編
11)肺癰喘不得臥、葶藶大棗瀉肺湯主之。
〔葶藶大棗瀉肺湯方 葶藶(熬令黄色搗丸如弾丸大)、大棗(十二枚)〕

20)『千金』葦莖湯 治欬有微熱、煩満、胸中甲錯、是為肺癰。
葦莖(二升)、薏苡仁(半升)、桃仁(五十枚)、瓜瓣(半升)
右(上記)四味、以水一斗、先煮葦莖得五升、去滓、内諸薬、煮取二升、服一升、再服、當吐如膿。

21)肺癰胸満脹、一身面目浮腫、鼻塞清涕出、不聞香臭酸辛、欬逆上氣、喘鳴迫塞、葶藶大棗瀉肺湯主之。

痰飲欬嗽病編
27)支飲不得息、葶藶大棗瀉肺湯主之

 

肺癰とは肺藏に熱が鬱してしまい膿血を吐出するような病を云います。葉天士風に言うのなら肺藏の血分熱と表現しても良いのではないでしょうか。
この肺癰の治療に用いられるのが、葶藶大棗瀉肺湯や葦莖湯です。本文にある「火毒は肺に帰する」病態に用いてしばしば効果ありというのも理解できるかと思います。

今の時代、天然痘を勉強することに意味はあるのか?

現代日本に生きる鍼灸師にとって、痘瘡(天然痘)を勉強するような機会はまず無いことでしょう。バイオテロ等の可能性もゼロではない…という一抹の不安もありますが…。

それはさておき『天然痘を勉強することに意義はあるのか?』と問われるならば、私は「意義は有る」と答えるでしょう。
なぜなら我々東洋医学を実践する者にとって、学ぶべきは「治し方」ではないのです。
東洋医学的または伝統医学な鍼灸で治療する際に必要なのは、その医学における病理観・人体観・生命観です。

現代日本人がなぜ伝統鍼灸での治療に迷いを感じるのか?
それは伝統医学における人体観・生命観を構築できていないからだと私は考えています。

未熟な人体観の上に、自信に満ちた治療観を築きあげることはさぞ難しいことでしょう。
だから東医的な治療に対して不安になり揺らぎ、懐疑的・否定的になるのです。

しかし一つ一つ病理観を理解し積み上げることで基盤がしっかりすれば、揺らぐことはなくなり否定的になることはありません。
そのためには今在る病を理解するだけでは足りません。今は失われた病を学ぶことで、現代の知識だけでは得られない病理観をさらに積み重ねることができます。これによって伝統医学としての人体観・生命観をしっかりと構築することができるだと私は思うのです。

鍼道五経会 足立繁久

■原文・痘

論痘首推銭仲陽、陳文中二家、銭用寒涼、陳用温熱、確乎相左。丹渓祖銭非陳、分解毒、和中、安表為要、以犀角地黄湯為主方、挙世宗之、莫敢異議。後之万氏以脾胃為主、魏氏以保元為主、皆従二家脱化。費建中『救偏』、悉以石膏、大黄、胡氏輒投汗下。松江東地、多宗秦鏡明。京口江寧、咸推管橓『保赤』。吾蘇悉遵翁仲仁『金鏡録』。可謂家喩戸暁者、其長在看、不在乎治。看法清確、有可以前知之巧妙。後之翟氏、聶氏、深以氣血盈虧、解毒化毒、分晰闡揚銭、陳底蘊、超出諸家。因分別太多、読者目眩心憒、不若翁仲仁芻荛(薪・柴)悅口也。然眼目之功、須宗翁氏、而匯治講究、参之諸家可矣。姑挙看法。

大凡発熱三日、而後見標、是其常。即以熱勢参詳見症、定其吉凶。翁仲仁『金鏡録』甚明、茲不復贅、其未刻悉補入。
傷寒邪由外入、痘子熱従内起、但時邪引動而出、與傷寒両途。

周歳小兒、初熱即現驚搐昏迷之状最多。世俗謂驚痘最好、此言未必皆然。方書云、先驚後痘者生、先痘後驚者死。頻頻驚厥、最多悶痘。蓋痘由腎至肝、至心脾及肺、自裏至外、自深及浅。未発之前、痘熱先已内動、目現水晶光芒、腎熱也。水生木而入肝、木生火而入心、火生土而入脾、土生金而入肺。其先天痘毒、従至陰以達陽、全籍身中元氣領戴充長、以化毒為漿、漿必濃厚蒼老而始結痂。毒已外泄、元氣内返、斯無変症。周歳已内、身小元弱、常有熱一日即出、亦有順痘、但須看神氣静躁、熱勢軽重。見点徐徐而出、既出即長、熱緩安乳、便是好症。若神氣雖安、熱亦不盛、痘点雖不多、形呆色鈍、或作頭軟足落、脉懈不束筋骨、隱隱嘆息、或短氣如喘、或嘔或瀉、是多悶症。

若二三日間、痘苗已長、色亦頗好、竟夜終日煩躁不止、最防隱處発疔、及発斑夾疹等症。

発熱煩躁、標点雖見、熱躁愈加。細詢無忽、再参兼症。為六氣鬱遏者、従時氣治。亦有表裏両解治、亦有下奪者、但下法、寒涼之中。必須活血理氣、防其凝澀冰状。

初起必三次而出、熱止則齊、其贈点亦有陆(陸)続発出者、須看顔色霊活、生気頃刻転機変化為要。察形辨症、治法用薬、表薬活血疏肌、次則涼血解毒。実熱便閉者、微下之。
虚弱気祛者、忌進疏解寒涼。
間有虚寒弱稚、初発身不大熱、四肢皆冷、吐乳瀉乳、痘点不長、聞声悠悠欲絶、望色惨淡無形、恰在一二朝間。

余見程氏女、年甫半齢、布痘極多、痘形軟、色淡白、前症迭身。近地幼科、僉用荊、防、蒡、蝉、紅花、楂肉、木通、胡荽、笋尖之属。方雖冩而示以凶危。
延余診視、余曰、毒重気虚、法在不治。但身無熱、見症虚寒、不因癘氣表邪、焉用表薬?
考萬氏始終以脾胃為主、以理中湯加丁桂與服。一剤肢暖嘔止。再服利緩痘起。再用参、帰、鹿茸二服。以銭氏異功散而愈。

凡看痘、先論兒体強弱、辨肌色。如色白多気虚、色蒼多血熱。形象尫羸有宿病或渇乳。肌柔白嫰者、痘必鮮明。蒼黒皮粗者、色必暗晦。羸痩病質、色燥形枯。必須辨、依期長養、内症安和。
病躯出痘、即平常無奇、亦難調理。
歌訣云、形体羸痩骨如柴、肌肉枯焦神思衰。遍体鋪排如此痘、縦能漿足亦堪嗟。

初見、腰痛足軟、不能起立者死。此毒伏于腎。
初見、腹脹胸高、続増喘噦者死。
初見、目睛呆瞪、或暗無光、或黒白高低、皆属緊悶症。
初見痘、煩躁不止、即防疔癍、疔必現于隠處、多死。
初見痘、痘不続発、癍色深紫、漸変藍黒、六日内死。
初見痘、紫癍漸起、痘反隠伏、此名紫癍白悶。
初見痘、痘癍間雑、若似洒朱点墨、必死。
以上皆論初見看法以定凶危。発齊熱退後、皆無諸悪症。
翁仲仁云、三日四日、痘出當齊、点至足心、勢方安静。若論幼小之兒、氣血易周、常有未及三日而発齊者。年長之体、四日以外猶有贈発者。痘子稀少、数不盈百、不必点至足心。
仲仁大意、謂発齊安静、已無慮変症。然須辨明痘形、痘色、是何等呈色。身体強壮、痘属上中、方可許其無慮。倘幼小弱質、或病後、或帯別病而後布痘、未可見痘好浪許。再以冬夏気候審詳、可以百千無誤。

今世用方、初見宜解肌疏表、通套法(十六味)
荊芥(四日不用)、防風(三日不用)、前胡(三日不用)、牛蒡(四日不用)、紫草(二三日便滑忌)、木通、紅花、甘草、赤芍、天虫(蚕?)、楂肉、川芍、連翹、桔梗、広皮、蝉脱(三四日不用)
方書中、未見点用升麻葛根湯、今人不用。
伍氏方法、見忌升麻。後人謂葛根表疏亦忌。
此軽揚升表通套薬。若裏症、急須両解。
伍氏方、一二日用羌防透肌湯、今人不用、悪其辛温氣雄也。
一二日壮熱氣促、煩渇便秘、痘粒不発。
翁仲仁云、若非風寒壅遏、定是氣虚不振。
愚謂、近世布痘、毎盛発于君相風木燥金司令、蓋非火不発也。火鬱発之、升陽散火是已。但前症若裏熱甚重、煎灼脂液、苟非苦寒下奪佐以升表、不能用也。
費建中方、頗為中的。
石膏、大黄、連翹、赤芍、青皮(腹痛用)、楂肉、花粉、紫草、木通、丹皮(辛涼入血)、犀角(辛涼通血)
発齊後用黄連。
凡寒涼清火解毒、必佐活血疏暢、恐凝滞氣血也。
実熱便秘通用、涼膈、通聖、前胡枳殻湯、四順清涼飲。

痘四日発足、伍氏遵古方、用牛蒡熟末三分、用荸薺汁、酒酿(醸)炖熱調匀、臨服、刺入生鶏冠血十余滴與服。毒軽者即起光潤之色、世皆宗之。
発齊已四五日、用涼血解毒湯、伍氏名四聖飲、非扁鵲原方。
生地、連翹、銀花、紅花、甘草、天蚕、桔梗、紫草(便滑用紫鉚)
血熱加丹皮、犀角。火盛加黄連、石膏、羚羊角。有癍加金汁、元参。
頭面不起加川芎、鶏冠血。咽喉痛加射干、元参、山豆根。狂乱躁擾加地龍汁。毒重血凝加猪尾血、冰片(量兒大小用)
近世涼血解毒多用地丁、銀花湯煎薬。

凡看痘、初起要根盤、其痘易長綻。倘尖痩不肥、多險。
成漿後、務要根盤、即化一綫、圏紅緊附、頂満滚圓、是為毒化。
若頂陥、頂皺、根盤黯僵、其毒與氣血交凝。實宜攻、虚宜補。
實火宜清、攻不宜早。
看来火色大赤、痘形色湿潤、方可攻托。否則掻擦立至、乾剥毒陥不治。
虚有血虚、氣虚之分。血虚為熱、氣虚為寒。
但虚熱與實熱不同。虚熱用滋清方薬。

痘頂属氣、根盤属血、氣領血載、毒得煅煉化漿。
凡体強質實者多火、以清涼之剤、火解漿成。誤補則癰、癰者壅也。其氣虚血弱、色必淡白、形不雄偉、或頂陥、或皮皺、内症則悪心、少食、便溏。年少未進穀食者、腸胃薄劣、最多虚症。
七日以来、元氣用事、不能勝毒、使之外出、多有内陥致変者。
余最究心是症、調之應手取効。魏氏保元湯、聶氏参帰鹿茸湯、陳氏木香異功散。腸滑不禁、用七味豆蔲丸、白朮散、理中湯、多獲奇効、甚者必用三服。

大凡兒肌白嫰者多虚症、蒼黒者多實火。雖為大概、亦属至要。白嫰発痘、色必鮮艶、勿謂便是善症。蒼黒発痘、色必晦昧、勿便許為凶。総以神氣安静、顔色日換、形象漸長便吉。

六七日、伍氏内托散。
生黄芪、甘草、陳皮、川芎、當歸、白糯米、防風、天虫、角刺、銀花

血熱者不用芪、防、芎、帰。表疏者去天虫、角刺。血熱仍用丹皮、地黄、紫草、連翹、羚羊角。猪尾、鶏冠、鶏鳴散、達表之薬、猪尾膏、通裏之薬。

保元湯
人参、黄芪、炙草。加川芎、當歸、名芎帰保元。虚寒加肉桂。升頂加鹿茸。
氣滞、正氣加広皮、厚朴。瀉加木香、肉果。質弱加坎炁、河車。嘔逆加丁香、厚朴。

参帰鹿茸湯、人参、当帰、鹿茸、黄芪、龍眼肉、炙草

木香散、人参、木香、丁香、大腹皮、桂心、青皮、訶子、半夏、甘草、前胡、赤茯。

異功散、人参、木香、官桂、広皮、当帰、茯苓、丁香、白朮、附子、肉桂、厚朴、半夏

豆蔲丸、肉果、木香、砂仁、枯礬、訶子、龍骨、赤石脂

白朮散、四君子加藿香、木香。

七八九日、頻用清涼、痘火色既退、漿不能透、或有半漿、頂有箬笠之形、不克充灌。今人多用桑蟲漿生用、鶏冠血生用、同酒漿和服。倘攻起、少頃後呆滞者、須用補托。

伍氏攻発薬、用老人牙煅研極細、加麝香少許、毎服二三分、名黒霊丹。
上、天虫乃疏表風薬、山甲乃攻経隧風薬、一味為末、酒漿服、曰獨勝散。
凡虫蟻皆攻、無血者走氣、有血者走血、飛者升、地行者降。凡漿足、声音唖者不妨、驟喘痰升者大忌。
翁仲仁云、挫喉声唖、漿行飽満亦妨。蓋痘漿因熱氣以煉成、必升騰以達頭面。肺位最高、熱上蒸迫、肺先受損、是以声出不揚。倘喘急扶肚抬胸、乃火毒帰肺、必不治矣。
火毒帰肺、幼科毎用珠子、牛黄、膏、連之属、多不効。余遵孫真人葦莖湯、或仲景葶藶大棗湯、間有効者。肺氣壅遏、苦寒直下、已過病所、故無効。

方書以六七日已前寒戦属肺熱、六七日後寒戦属氣虚、六七日已前咬牙属胃熱、六七日已後咬牙属血虚、亦属定論。

八九日、痒塌咬牙、痘不起漿、或灰白、或涸、或癟、危険極矣。速速温補、亦可望生。
翁仲仁云、塌陥咬牙、便實声清猶可治。声清則上無熱壅痰聚、便實則腑陽未至盡泄、所以温補得効耳。木香散、異功散。

八九日、順痘漿色蒼黄、毒氣悉化、亦云垂成、須緊(謹?)防護持。掻損流膿裂血、倘正氣大泄、毒従虚陥、常有不治之患。斯時預嘱伴母勿懈、使痂靨乾結、肌肉完固、便是全効。若痘已破碎、声不唖者、毒不陥也、無妨。

伍氏方用芍薬湯、炒白芍、苡仁、地骨皮、銀花、百合、山薬、建蓮

十一二日、漸次成痂之際、極好之症、必有咳嗽、或夜暮身熱。世俗幼科、僉云毒氣未盡、概投苦寒、多有胃減廃食、酿成痘労童祛者、。吾嘗論痘自腎藏骨髄之中、由肝主筋、心主血脉、脾主肌肉、肺主皮毛、従内之外、毒乃渙釋。収疤之時、真氣帰裏、肺合皮毛、是為末傳、處位高、体清粛。従前灌脹成痂、蒸迫之氣、受虧已極、氣泄為咳矣。況投利湿下注薬而結痂、其上焦已経轉燥、若毒仍留伏、焉能収靨?此断断然也。
再度幼稚、陽常有餘、陰未充長。布痘至于結痂、一身脂液大損、其陰氣告匱可知。故暮夜属陰時、為煩為熱者、正『内経』云、陰虚生内熱也。

昔西郊呉氏女、年甫四歳、痘系順症。幼科調治、至漿満成痂之日、忽発煩躁、夜熱不寐、晨起安然。
医用保元、及銭氏五味異功加芍薬與服、熱躁益加。
又更一医、曰毒氣未盡、乃誤補之故、用桑虫漿暨涼解薬、服後躁熱甚、而添泄瀉。
邀余視之、睹漿痂形色、詢平素起居。時日當午、即用六味地黄湯一服而安。此二条、人多忽而不究、故辨及之。
旬朝後嗽、大法以甘寒生津胃薬。
蔗漿、麦冬、沙参、緑豆皮、地骨皮、甘草、玉竹、甜杏仁
解餘毒薬、全以不傷胃氣為主。若用芩連、必須酒制。翟聶二氏辨之詳矣。平和無奇、断不敗事、如三豆飲之属。若金銀花一味、本草称解毒不寒、餘見脾胃虚弱者、多服即瀉。伍氏用連翹飲子、亦取平和。

痘毒癰瘍、熱症十有七八、虚寒十有二三。甚至骨出腐敗、亦有愈者。但外科大忌用火煉升薬。其診看之法、亦如瘍毒、須分陰陽耳。

痘疳湿盛生熱、強者用苦寒清降、以苦能去湿也。若阻咽廃食、以及穿腮破頬者難治。
年長出痘、男女欲火已動、其初即現膝痛腰痠、咽喉窒痛欲閉。
苦辛寒薬、必不効験。宜甘鹹寒、滋水制火、佐以解毒。六七日来、痛勢日緩。聶氏有参麦清補方。余毎用銭氏六味、加亀膠、元参、秋石、獲効者甚多。

若漿不肯起、頻吐粘涎者凶。
凡悪痘、凶危瞬刻。如諸悶症、不過三五日、已発而縮、甚危最速、総在七日内。
再若蒙頭、鎖喉、懸鏡、纒腰、蜘窠、蚕腫等、為十悪症。其袁氏十八悪症、今人未嘗歯及。
如此等痘、治之無益、徒招怨尤。更有糖沙夾斑、十朝危期。
又根枝良好、布于歳内幼少之兒、必八九風波不治。半漿毒陥之変、必斃于十一二四之期。若能食者、十救一二。

痘至八九旬日外無漿、則裏毒不化。必嗆唖瘙痒、痰潮不食、眼開、条款難以盡言、危期速矣。常有忽然連串片片之痘、裂水形如松脂桃膠外露、轉眼堆聚、内症漸安、変凶轉吉。更有旬朝内外、乾板涸如焦鍋巴状、毫無生氣、忽従地角、承漿諸處、裂縫流臭水、漸升頭額、堆腫高厚若糊瞼、名曰発臭、毒泄即當補托、遅則氣脱。

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