邪正一源 その1『切脈一葦』下巻より

邪正一源…邪気と正気の関係は?

邪正一源、いよいよこの章に入りました。本章「邪正一源」は私が『切脈一葦』に注目したきっかけとなった章です。

ちなみに、邪正一如(じゃしょういちにょ)という言葉があります。
この邪正一如は、仏教用語のひとつで天台宗・日蓮宗・時宗・臨済宗などにおける経典や高僧の御言葉にその言葉が見られます。(※)
鍼灸部門においてはやはり多賀法印流の医書に邪正一如という言葉が使われています。多賀法印流は多賀大社(滋賀県多賀町)にて伝えられた医術として知られています。邪正一如や多賀法印流医術についてはまたの機会に詳しく紹介したいと思います。

内容を見る限り、本章「邪正一源」と「邪正一如」とは、その趣旨が異なるようでもあります(もちろん読み手によってでしょうが)。
とはいえ臨床で脈診を自在に使いこなすには本章の理解は重要です。ぜひ最後まで読んでみてください。


『切脈一葦』京都大学付属図書館より引用させていただきました。
※下記の青枠部分が『切脈一葦』原文の書き下し文になります。

邪正一源

傷寒論に大浮数滑動を陽脈と為し、沈濇弱遅微を陰脈と為す。陰病に陽脈を見わす者は生き、陽病に陰脈を見わす者は死す(※弁脈法)と云う。
素問に陽証を論じて、滑なるときは則ち従、濇なるときは則ち逆と云う。陰証を論じて滑なるときは則ち生き、濇なるときは則ち逆と云う(※通評虚実論第二十八のことか)はこれ皆 陽脈を尊びて陰脈を畏れるの論なり。
この文、文字平易にして読み易きに似たりと雖も文章簡古にして読み難し。
如何となれば、病証に位と変と時との別あれども、惣じてこれを陽病陰病と云う。脈状にも位と変と時との別あれども、唯 これを陽病陰病と云いて、その別を細く論ぜざるを以てなり
故にこの文を読むには、素問、霊枢、扁鵲伝、傷寒論、金匱要略等の古書に論ずる所の諸脈法を通観して活眼を開いて文字を活用して読むに非ざれば、読むこと能わざるなり。

若し一概に文面の如く文字を読みて、大浮数動滑を陽脈と定め、沈濇弱遅微を陰脈と定め、陰病に陽脈を見わす者は生くと定め、陽病に陰脈を見わす者は死すと定めるときは、脈証の位と脈証の変と脈証の時とを辨ずること能わざるなり。
これを辨ずること能わずして読むときは大浮数動滑、沈濇弱遅微に、胃氣の脈と為り 邪氣の脈と為るの差別あることを辨ずること能わず。
陰脈陽脈に、真に見われる陰脈陽脈と 仮に見われる陰脈陽脈との差別あることを辨ずること能わず。
陽脈変じて陰脈と為る者に、精氣の脱すると 邪氣の除くとの差別あることを辨ずること能わず。
陰脈変じて陽脈と為る者に、邪氣の進むと 精氣の復するとの差別あることを辨ずること能わざるなり。
これ読み易きに似たりと雖も読み難しと為る所以なり。
もしこの差別あることを知らず、文字を殺して徒らに肉眼を以て読むときは必ず文字に読まれて古人の奥旨を得ること能わず。これ文字を読むと文字に読まれるとの辨あり、

脈は胃中の陽気の流行にして平和なるときは陰陽の名あることなし。因りてこれを平脈と云う。
平脈より有余なる者を陽脈と名づけて、平脈より不足なる者を陰脈と名づくるのみ。
陰陽の別あるに非ず。唯一、動脈の消長のみなり。これを色声形の三診に合して論ずるもまた同じ。
平人より有余なる者を陽証と名づけ、平人より不足なる者を陰証と名づくるのみ。陰陽の別あるに非ず。
唯 脈色声形の消長のみなり。
病無くして陽気の有余なる者を陽気の人と云う、病無くして陽気の不足なる者を陰気の人と云う。
これ皆 禀賦の陰陽にして平人と異なることなし。故に陽気の人と雖も強きに限らず、陰気の人と雖も弱きに限らざるなり。
病無くして微大微浮微数微動微滑の類、軽き陽脈を見わす者は陽気の人の平脈なり。
病無くして微沈微濇微弱微遅微微の類、軽き陰脈を見わす者は陰気の人の平脈なり。
これまた禀賦の陰陽にして平人の平脈と異なることなし。因りてこれを胃氣の脈と云うなり。
微沈微弱の微は脈の微に非ず。平脈より少し沈、少し弱と云うことにて陰脈の軽きことを云うなり。

病有りて陽気の有余なる者を陽証の病と云う。病有りて陽気の不足なる者を陰証の病と云う。
これ皆 病人の陰陽にして陽証は邪氣の盛んなる者を指し、陰証は精氣の奪われたる者を指すなり。
病有りて微大微浮微数微動微動微滑の類、軽き陽脈を見わす者を、微邪を帯びる胃氣の脈と云う。
病有りて微沈微濇微弱微遅微微の類、軽き陰脈を見わす者を、微く虚したる胃氣の脈と云う。
倶に軽病の脈なり。

病有りて大浮数動滑の類、重き陽脈を見わす者は陽証の脈と云う、邪氣盛んなる脈と雖も胃氣ある脈なり。
病有りて沈濇弱遅微の類、重き陰脈を見わす者は陰証の脈と云う、精氣奪れたる脈と雖も胃氣ある脈なり。
精氣の奪れるは邪氣に奪れるに因りてこれまた邪氣の脈なり。
病重くして極大極浮極数極動極滑の類、極重き陽脈を見わす者を独陽の脈と云う。邪氣盛んにして胃氣なき脈なり。
病重くして極沈極濇極弱極遅極微の類、極重き陰脈を見わす者を独陰の脈と云う。精氣奪われて胃氣なき脈なり。
脈の軽重に因りて胃氣の脈と為り、胃氣ある邪氣の脈と為り、胃氣なき邪氣の脈と為ることこれの如し。
何ぞ一概に大浮数動滑沈濇弱遅微の文字を以て陰陽を論ずべけんや。

書 言を盡さず、言 意を盡さず。
軽重の位は愚筆の及ばざる所、読者当に黙して識るべし。
素問に「春の胃は微弦を平と曰い、弦多く胃少なしを肝の病と曰い、但弦にして胃無きを死と曰う」の語あり。
難経に「春の脈は微弦を平と曰い、弦多く胃の氣少なきを病と曰い、但弦にして胃の氣無きを死と曰う」に作る。
この語は分配家の説と雖も軽重の位を論じたる者なり。
読者、四時配当の説を除いて微 多 但の三字を味わうときは脈状の軽重に因りて平病死の別あることを識るべし。

大浮数動滑、沈濇弱遅微を十脈と云うは誤りなり。これは陽脈の形容字を五字、陰脈の形容字を五字挙げて、文章を作りたる者なり。
如何となれば、傷寒論に挙げる所の脈状、この十字に限らざるを以てなり。又、略して書するときは虚実の二字にても、陰陽の二字にても、滑濇の二字にても、浮沈遅数滑濇の六字にても、文章の活法にして同じことなり。
若しこの意を知らずして、書を読むときは虚実を見れば虚実に縛せられ、陰陽を見れば陰陽に縛せられ、滑濇を見れば滑濇に縛せられ、浮沈遅数滑濇を見れば浮沈遅数滑濇に縛せられ、大浮数動滑沈濇弱遅微を見れば大浮数動滑沈濇弱遅微に縛せられてこれを活用して読むこと能わず。
故に唯 脈状の文字のみを読みて、文章の大意を知ること能わざるに至る。これ活眼を開いて文字を活用して読まざるの誤りなり。

【陰陽邪正一源之圖】
〔図の註文〕は後半に続く…

病に位と変と時があるように…

「病証に位と変と時との別あれども、惣じてこれを陽病陰病と云う。脈状にも位と変と時との別あれども、唯 これを陽病陰病と云いて、その別を細く論ぜざるを以てなり。」

病(証)には病位・病変・病機があります。同じく脈にも脈位・脈変・脈機があります。(但し、当会の考えでは脈変は脈機の中に含みます。脈位や脈機については『脈診の五要素』を参照のこと)
ざっと挙げただけでも、病(証)にも脈にもこのような変動があるのです。病にせよ脈にせよ陰陽の2つに片づけて順逆吉凶を決めてしまうことは軽率短慮といえるでしょう。

例えば、大浮数動滑といった陽脈、沈濇弱遅微といった陰脈にも、胃氣の有る脈もあれば、 邪氣過多の脈があります。同じ脈状において両者の差はどのように診わけますか?と問題提議をしています。ちょっと分かりにくいでしょうか…。
分かりやすい例を挙げてみましょう。
鍼治療後の検脈にて弦脈を触知したとします。これは悪い情報でしょうか?それとも良い兆候でしょうか?
「弦脈は気実・気滞の脈だ」とばかりに、ただの文字・情報で覚えてしまうと、正しい判断はできません。中莖氏はこのようなことを指摘しています。

他にも、「陰脈陽脈に、真に見われる陰脈陽脈と 仮に見われる陰脈陽脈との差別あること」
「陽脈変じて陰脈と為る者に、精氣の脱すると 邪氣の除くとの差別あること」
「陰脈変じて陽脈と為る者に、邪氣の進むと 精氣の復するとの差別あること」といったことを脈診を通じて判断しなければならないと言っています。
これができて診断なのです。我々は脈状判定機ではありません。脈を通じて人体の内部の変動やその方向を知ることが脈診の目的なのです。

病には病を作りだす流れやストーリーがあります。この流れを観ようとせずに、文字や表面的な知識だけで判断することを、「文字を殺して徒らに肉眼を以て読むときは必ず文字に読まれて古人の奥旨を得ること能わず。」という言葉で戒めています。

平脈は陰陽平和の脈

上記の流れを受けて、脈状を安直に陰陽に分類することの戒めています。

脈は胃の氣(胃中の陽気)が流れており、本来は陰陽のバランスが和している状態です。であるなら陰・陽に偏ることはない、故に平脈というのだ!と中莖氏は言います。
この平脈を基準とした陰もしくは陽の太過不及をもって陽脈または陰脈というのだ。
文中にある「動脈の消長」という言葉は儒医として知られる中莖氏らしい脈診観です。

病脈にも段階がある

当たり前ですが、脈状とくに病脈にも段階・グレードがあります。
弦脈や滑脈、緩脈にも、平脈としての弦脈や滑脈、緩脈もあれば、病脈としての弦・滑・緩脈があります。果ては重篤な病態を示す各脈状があります。

本章では、平脈や無病の脈、平脈にも個性があること、軽症の脈、重症の脈、逆証難治不可治の脈を段階的に丁寧に説明してくれています。

病の軽重を分かれ目・ターニングポイントとして挙げられているのが「精氣の奪れるは邪氣に奪れるに因りてこれまた邪氣の脈なり。」ということなのでしょう。

決して文字に囚われぬよう…

「書を読むときは虚実を見れば虚実に縛せられ、陰陽を見れば陰陽に縛せられ、滑濇を見れば滑濇に縛せられ…」
大事なことななので、そのまま引用しました。

書を読み学ぶことはとても重要なことです。初歩の間は素直に書かれてあることを吸収し実践する必要があります。「守破離」でいう守の段階です。
しかし、鵜呑みにしすぎてもいけません。思考停止の状態に陥ってしまうからです。

「守」の第1過程で満足してしまってもいけません。「守」の段階の人が「破」「離」の段階にある人を評価・批判してもいけません。
「燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや」の言葉の通り、スズメには大鳥の視点は分からないものです。

本章で中莖氏は「文字に縛られぬ」ように戒めています。
文字に縛られ、書に縛られ、自身の知識に縛られぬよう脈を生き物(活物)として観ることが肝要です。
知識を学ぶことで道理に達する…当会の目的はここにあります。

本章「邪正一源」は前半と後半に分けます。前半はここまで、後半はコチラです。

鍼道五経会 足立繁久

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