邪正一源 その2『切脈一葦』下巻より

邪気と正気の共存により人は生きている

邪正一源を読んだ感想として「邪気と正気のせめぎ合いで病は生ずる」から
「邪気と正気が共存することで人は生きている」という風に正邪虚実観が変わりますね。

静的な病理観や人体観でみると、邪気と正気は相い争うもの(邪正相争)ですが、動的に経時的にみていくと、邪気と正気とは共存しているものです。
この観点は生老病死を学んでいくとよく理解できる生命観ではないでしょうか。

・・・と、いきなりまとめに入ってしまいましたが「邪正一源」の後半はまだまだ続きます。最後まで是非読んでください。
『切脈一葦』京都大学付属図書館より引用させていただきました。
※下記の青枠部分が『切脈一葦』原文の書き下し文になります。

邪正一源

〔図の註文〕
脈は血氣の神にして邪正の鑑なり。
故に病なき者は脈必ず正しく、病ある者は脈必ず邪なり。邪なるときは有余と為り不足と為る。
これを名づけて陽脈陰脈と云う。陽脈陰脈の名建つときは自ら軽重の位あり。これ分れて軽重極の三位と為る所以なり。
陰陽二脈は脈の統名なり。
故にこれを以て論ずるときは重病の脈状を盡すべし。
如何となれば二脈万病を貫き、一病諸脈を見わすを以てなり。陰陽二脈を以て万病の虚実を論ず、これを二脈万病を貫くと云う。
痰飲にも脚気にも一病一病に大浮数動滑沈濇弱遅微の脈を見わす。
これを一病諸脈を見わすと云う。
この図(陰陽邪正一源之圖)は脈の情を図して軽重極の三位を示すのみ。脈の形を図する者に非ざるなり。

大浮数動滑の如き陽脈は自ら上る情あり。故に上る者を陽脈の形とし、沈濇弱遅微の如き陰脈は自ら下る情あり。故に下る者を陰脈の形とす。
陽脈は大きくして浮かんで数多く勢い強くして力あり。故にその形太く図し、陰脈は小さくして沈んで数少なく勢い弱くして力なし。故に細く図す。
これ唯 情を図するのみ。決して脈の形を図する者に非ざるなり。
〔注文〕ここまで

写真【陰陽邪正一源之圖】

〔ここから本文〕
凡そ死生を論ずることは陽証陰証倶に病重き者において論ずる所なり。
又、脈を以て死生を決断することは陽脈陰脈倶に胃氣の有無を以て決断すること常例なり。
陽病の軽き者に軽き陽脈を見わす、陰病の軽き者に軽き陰脈を見わす者は死生の論あることなし。
陽病の重き者に重き陽脈を見わし、陰病の重き者に重き陰脈を見わすと雖も、胃氣ある者は死脈に非ざるなり。
陽病の重き者に独陽の脈を見わし、陰病の重き者に独陰の脈を見わす者は必死の脈なり。
陽病の軽き者に重き陽脈を見わし、陰病の軽き者に重き陰脈を見わす者は病軽しと雖も、大病に至らんと為るの兆しなり。
陽病の重き者に軽き陽脈を見わし、陰病の重き者に軽き陰脈を見わす者は病重しと雖も大病に至らざるの兆しなり。

「陰病に陽脈を見わす者は生き、陽病に陰脈を見わす者は死す」(※『傷寒論』辨脈法)とは脈と証と合わざる者の全証を挙げて論じたる者なり。
故に傷寒論に論ずる所の諸脈法に合わせて細かに論ぜざれば、必ず差うことあり。
如何となれば、傷寒論は一章一章にその主となる所を論じて数章を合わせて互いに照応して論じたる文例なるを以てなり。
又、傷寒論に論ずる所の諸脈法を論ずるには素問、霊枢、扁鵲伝を参考するに非ざれば論ずること能わず。
如何となれば傷寒論は素問、霊枢、扁鵲伝に因りて論じたるを以てなり。
若しこの章ばかりを読みて吉益為則の万病一毒と云うが如く、一言半句にてその論を盡さんとして、一概に陰病に陽脈を見わす者は生き、陽病に陰脈を見わす者は死すと、決断するは大いなる誤りなり。

陽病の軽き者に軽き陰脈を見わし、陰病の軽き者に軽き陽脈を見わす者は、唯 陽証に陰脈を兼ね、陰証に陽脈を兼ねるのみ。
未だ死生を論することなし。
陽病の軽き者に重き陰脈を見わし、陰病の軽き者に重き陽脈を見わす者は病軽しと雖も大病に至らんと為るの兆しなり。
陰病の重き者に、微大微浮微数微動微滑の類、軽き陽脈を見わす者は邪氣の脈を兼ねると雖も、胃氣実するを以て生と為ること論なし。
陰病の重き者に大浮数動滑の類、重き陽脈を見わす者は、邪氣の脈と雖も胃氣あるを以て生と為すべし。
若し陰病の重き者に極大極浮極数極動極滑の類、独陽の脈を見わす者は陽脈と雖も、胃氣なきを以て生と為すべからず。
陰病に独陽の脈を見わす者は大虚の候にして必死なり。
陽病の重き者に極沈極濇極弱極遅極微の類、独陰の脈を見わす者は、虚脱の脈の胃氣なしを以て死と為ること論なし。
陽病の重き者に沈濇弱遅微の類、重き陰脈を見わす者は虚脱の脈と雖も胃氣あるを以て生と為すべし。然るを死と為る者は邪氣に堪え難きを以てなり。
蓋し陽脈の胃氣ある者に比するときは虚実の別あり。
陽脈の胃氣あるは、脈状実して胃氣あるなり。陰脈の胃氣あるは脈状虚すると雖も尚胃氣あるなり。これ胃氣ありと雖も陽脈の胃氣ある者と同じからざる所以なり。
況や邪氣の盛んなる陽病に胃氣ありと雖も虚脱の脈を見わすに於いては何ぞ生くべきの理あらんや。これ死と決断する所以なり。

若し陽病の重き者に、微沈微濇微弱微遅微微の類、軽き陰脈を見わす者は陰脈と雖も、唯 証に比すれば微しく虚するのみ。胃氣未だ脱せざるを以て未だ死脈と為すべからず。
これ脈証の位に因りて、診法同じからざる所以なり。
蓋し陰病に陽脈を見わし、陽病に陰脈を見わす者は陰陽合病の治法に従うべし。その論、傷寒論に詳らかなり。

陽脈に浮芤細数などの陰脈あり、陰脈に沈実遅滑などの陽脈ありて、脈状の変態盡し難しと雖も、
陽病に浮芤細数などの脈を見わす者は、陽病に陰脈を見わす者なり。
陰病に沈実遅滑などの脈を見わす者は陰病に陽脈を見わす者なり。
これまた軽重極の三位を以て死生を決断すべし。

病毒に痞塞せられて仮に陰脈を見わす者あり
これは陽病に陰脈を見わす者に似たりと雖も、病毒の為す所にして陽病に陽脈を見わす者と同断なり。
病毒に痞塞せられて仮に陰病を見わして陽脈なる者あり。
これは陰病に陽脈を見わす者に似たりと雖も病毒の為す所にして、陽病に陽脈を見わす者と同断なり。

虚損の極、仮に陽脈を見わす者あり。
これは陰病に陽脈を見わす者に似たりと雖も虚損の為す所にして陰病に陰脈を見わす者と同断なり。
虚損の極、仮に陽病を見わして陰脈なる者あり。
これは陽病に陰脈を見わす者に似たりと雖も虚損の為す所にして陰病に陰脈を見わす者と同断なり。
これみな脈証の変を以て論ずる者なり。
当に軽重極の三位を以て死生を決断すべし。

蓋し陽病に陽脈を見わす者と同断なる者は、陽病の治法に従うべし。
陰病に陰脈を見わす者と同断なる者は、陰病の治法に従うべし。
陰陽合病は病毒有りて精氣脱する者なり。
病毒に痞塞せられて仮に陰病陰脈を見わす者は、病毒盛んにして精氣脱せざる者なり。
虚損の極、仮に陽病陽脈を見わす者は精氣脱して病毒なき者なり。
陽病にして脈大なる者、浮なる者、数なる者、動なる者、滑なる者、病未だ愈んと為るの候なくして、沈と為り、濇と為り、弱と為り、遅と為り、微と為る者は、精氣脱するの候なり。
陽病にして脈大なる者、浮なる者、数なる者、動なる者、滑なる者、病将に愈んとして、沈と為り、濇と為り、弱と為り、遅と為り、微と為る者は、邪氣除くの候なり。
陰病にして脈沈なる者、濇なる者、弱なる者、遅なる者、微なる者、病未だ愈んとするの候なくして、大と為り、浮と為り、数と為り、動と為り、滑と為る者は、邪氣進むの候なり。
陰病にして脈沈なる者、濇なる者、弱なる者、遅なる者、微なる者、病将に愈んとして、大と為り、浮と為り、数と為り、動と為り、滑と為る者は、精氣復するの候なり。
これまた陰病に陽脈を見わし、陽病に陰脈を見わす者に似たりと雖も、陰病に陽脈を見わし、陽病に陰脈を見わす者の例を以て論ずべからず。
これみな脈証の時を以て論ずる者なり。これを活眼を開いて文字を活用して読むと云う。
若し徒らに文字を守りて、位と変と時との差別あることを知らざるときは必ず掌を返すが如き誤りあり。読者深く心を用へん。

 

一病は諸脈をあらわす

「一病諸脈を見(あら)わす」この言葉は、その前文にあるように通り、「痰飲にも脚気にも…大浮数動滑沈濇弱遅微の脈をあらわす。」ということです。
痰飲の脈は軟脈だ、濡脈だ、滑脈だ…といった意見はありますが、湿痰でも弦脈は現れますし、結脈として現れる場合もあります。
このように実際にも一つの病症は諸脈をあらわすのです。
何度も繰り返しますが「痰飲=●脈」といったような覚え方をしないことです。大事なのは痰飲という病態を理解し、その病態が脈にどのように投影されるかを理解しようとする姿勢です。

しかも人体も病邪もともに時々刻々と変化していきます。
当然、病位も病質も病勢も変化しますので、たとえ同じ症状であったとしても脈が変わるのも当然といえるでしょう。

胃の気ある脈とは

胃の気の脈とひと口に言ってもいくつかの定説・定義があります。
「和緩を帯びる脈状」
「四時(四季)に応じた脈」
「脈と呼吸が応じている」
さらには「大ならず小ならず、数ならず遅ならず、滑ならず澀ならず、短ならず長ならず、浮沈正等なる」という脈(『脈确』清代 黄碄 著)などなどの記述があります。
他にもまだまだ平脈論を挙げることができるでしょう。

しかし、ここで中莖氏が定義している平脈論は以上の定義とは異なる切り口です。
陽脈における胃氣あり(有胃氣)と、陰脈における胃氣あり(有胃氣)とではその感触が違いますよね。(と、投げかけておいて話は続きます。)
陽脈における有胃氣は、脈状脈力が充実している要素を含めます。
しかし陰脈ではどうでしょう?
そもそも脈の充実が不足する傾向を総称して陰脈とします。そのような陰脈では“有胃氣の基準”が陽脈と同じではないのは当然ではないでしょうか。

病理に基づいて考えれば…

「証に比すれば(病理に基づいて考えれば)、強く陽症が現れている人に軽い陰脈が診られる。これは微しく虚が脈にあらわれているのだ」このような文がありますが。
このようなケースは珍しいものではないでしょう。『傷寒論』を読むとこのような“陽中に陰”といった病態は随所に記されています。
また実際の臨床でもこのような陽症の中に陰(虚)を交えた病態も多く見受けられます。

どちらを主としどちらを従とするかは術者の判断と技の傾向にあります。
とはいえ、その判断はどちらでも良いというものでもありません。いくら「山の登り方・ルートはいろいろある」とはいえ、その時の状況に応じた「正しい山の登り方」があるのです。

上の話を八綱弁証を例に挙げてみますと、陰陽(実際には病位)と虚実を軸に考えることになります。
重い陽病(これは表病とした方が分かりやすいですね)に、微しく陰脈(虚脈)が診られる…と、このような状態・証です。
これだと、八綱の表裏・虚実で説明がつきます。しかし中莖氏が伝えたいのはこれだけではないと思うのです。
それは病のベクトルすなわち病機です。
病機を視野に入れると、動的な要素(これを陰陽、具体的には内外)を加える必要があります。
変化の早い病は、八綱でいう表裏・虚実の静的な分類では捕捉しきれません。動的な観点から病を捉える軸が必要なのです。

このように考えると、邪正一源の図も理解しやすくなるでしょう。

病毒に痞塞せられて

病毒痞塞というワードはこれまで随所に登場してきました。その説明が詳解されていますね。

病毒に痞塞されることで、正気の運行が阻害されます。そのせいで仮の陰証・陰脈が現れてしまいます。
この仮の陰脈、すなわち虚脈を診て『陽病なのに虚脈が甚しい…』『これは逆証・難治だっ!!』と誤診しないように戒められています。

病毒に痞塞されて現れる陰の脈状として、微脈や濇脈や伏脈などは実際の臨床でも診られることがあります。
特に脈道、氣の流れを妨げるものとしては有形の実、すなわち瘀血や湿痰があります。また無形の実でも強烈な気滞(激痛など)で氣機が塞がれ脈道が痞塞されることで陰脈が現れる…これも往々にしてあることです。

このような病理・脈理を理解しているのと、ただ「○○脈は□□」といった思考停止の状態では現場では大きな差となるのです。
臨機応変という言葉にあるように、常を正しく理解しないことには変に対応できないものなのです。

邪正一源と邪正一如

前回と今回の冒頭でともに「邪正一如」について触れました。もとは仏教の言葉とはいいますが、医学を通して邪正一如を解する姿勢も必要だと思います。
というのも、治療とは人間理解でもあります。理解すべきは相手(患者さん)だけでなく、自分も家族も含めます。邪正一如という観念は治療家にとっても大切なものだと思います。

さて、私にとってこの邪正一如は、本記事の冒頭に書いた内容に近いものがありますが、あれが全てではありません。
人の生命を考えると正も邪も陰陽・清濁をともに包括したものであります。この点でみればが善悪不二ならぬ清濁不二ともいえるでしょう。しかし、それだけで人の生命を言い表せるものではありません。
生まれて成長し老いて死ぬまで、さらには夫婦となり子を生してという生命の営みを考える必要があります。より具体的に言うと“生まれる前から”のことも視野にいれることで、私なりの邪正一如に対する理解ができた…と思う今日この頃です。

鍼道五経会 足立

 

メモとして…邪正一如という文言に触れられている経典

読み込むことはできていませんが、今後の調べていくだろう…ということでメモ。

『大日經疏妙印鈔』… 各開立也是即善惡不二邪正一如之意也故此菩薩所入三 …
『大日經疏鈔』… 理故名法愛生善惡不二邪正一如覺休分別心故名無記心 …
『菩提心論見聞』… 實大乘意談善惡不二邪正一如也故和須密多婬而梵行等 …
『宗要柏原案立』… 女人授記一實圓經仲微邪正一如旨法華圓融極説也四味 …
『溪嵐拾葉集』… 妙法故號妙莊嚴也是則邪正一如妙理顯也當來成佛號沙 …
『溪嵐拾葉集』… 白善表也是即善惡不二邪正一如爲顯也塔婆者法界異名 …
『溪嵐拾葉集』… 本源爲體所謂善惡不二邪正一如本體也故以自性清淨法 …
『溪嵐拾葉集』… 心不説也故眞言深義思邪正一如大日織此中台佛菩薩三…
『溪嵐拾葉集』… 一凡聖同居理即 二邪正一如名字 三冥熏密益觀行 …
『溪嵐拾葉集』… 自江邊至社頭理即第二邪正一如結界自社頭至佛谷名字 …
『總持抄』… 二報業共一切善惡諸法邪正一如有不可得我有知之加之 …
『開心抄』… 焉捨焉取云云偏圓不二邪正一如故聖者即圓見偏故云復…
『雪江和尚語録』… 三玄戈甲振威八垠説甚邪正一如月中風竹一叢緑論甚眞俗二諦雪裏寒梅一朶…
『十種敕問奏對集』… 小乘見解也於善惡不二邪正一如處論什麼清淨破戒耶圓 …
『御義口傳』…善哉トハ善惡不二邪正一如也今日蓮等之類南無妙…
『御義口傳』… ノ行ヲ成ス時善惡不二邪正一如ノ南無妙法蓮華經ト禮 …
『維摩經抄』… 眞門離於分別分別既離邪正一如故無邪可捨無正可歸契 …

また捨て聖といわれた一遍上人の御言葉『別願和讃』にも邪正一如が見られます。
また仏教を思想を反映している芸道として能がありますが能の演目『山姥』にも邪正一如が用いられていますね。

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