『切脈一葦』脈状④-弦脈・緊脈・革脈・牢脈・弾石脈-

『切脈一葦』これまでの内容

1、序文
2、総目
3、脈位
4、反関
5、平脈
6、胃氣
7、脈状その1〔浮・芤・蝦遊〕
8、脈状その2〔滑・洪〕
9、脈状その3〔数・促・雀啄〕

今回のテーマは弦脈、緊脈、革脈、牢脈、そして弾石脈です。
これら弦・緊・革・牢・弾石といった脈状は脈状①・脈状②と同様に脈の力のベクトルという分類にあることに注目です。

『切脈一葦』京都大学付属図書館より引用させていただきました
※下記の青枠部分が『切脈一葦』原文の書き下し文になります。
文末にデジタル図書館へのリンクを貼付。

弦 緊 革 牢 弾石

弦は弓弦の如く力ある脈を云う。実脈の力を形容したる者なり。
滑と同類にして、滑は形を主とし、弦は力を主とするのみ。
その実は一なり。

また緊と同類にして、少し異なり。弦は太くして力あり。緊は細くして力あるの別なり。
箏弦の如く、長くして指を過ぎて力ある者を弦と為る説あり。
一條にしてこれを按せども移らず。これを挙げれば手に応じて端直なる者を弦とする説(※1)あり。
これみな弦の字を論ずるのみ。固(もと)よりこの如く脈状あることなし。

又、脈の来たること糸を二筋引くが如き者を双弦と名づける説あり。
これは陰脈弦の句を誤りて解したる者なり。
陰証脈弦と云うことにて、陰証に陽脈を見わす者を云うなり。

緊は細くして力ある脈を云う。緩の反対なり。
緩はゆるまりて和らかなるの形容なり。緊はしまりて堅くして力あるの形容なり。
傷寒論に緊を以て傷寒の脈とす。浮緊は太陽の脈なり。沈緊は太陰の脈なり。
緊去りて緩と為る者は寒邪解するの候なり。緊去らざる者は寒邪解せざるの候なり。

又、痛む所ありて痛み劇しき者、緊脈を見わすことあり。
数にして縄を切る状の如き者を緊とする説あり。転索の常無きが如き者を緊とする説あり。これ何の脈状なるや?
痴人の夢を説くよりも甚し。この説は緊の字を論ずるにも非ず。
又、何故にこの如きの脈状を緊と名づけることを知らず。この説を出す人は、医事を何と心得ているや!?誠に医門の罪人にして言下に人を殺すこと少なからず。
一説に金匱要略の「脈緊にして転索常無きが如くなる者は宿食あり(※2)」の語を引いて、脈緊にして腹状索を転ずるが如く常なき者は宿食あるの候なりと云いて、転索無常は緊脈の事に非ざることを辨じたる説ある。頗る卓見なり。

革は弦と同類にして力ある脈の形容なり。必ず浮弦にして力なき脈とすること勿(なか)れ。
金匱要略に「婦人の半産漏下、男子の亡血失精(※3)」の候とすることを以て考えるときは、浮而弦の脈の形容に用いる者なり。
後世の人、この論を見て革を虚脈とすることは誤りなり。虚証にこの脈を見(あら)わすは即ち精氣脱して実脈を見わす者なり。

牢は緊と同類にして力ある脈の形容なり。必ず沈弦の脈とすること勿れ。
傷寒の脈を牢堅と形容したるを以て考えるときは緊脈の形容字に用いたる者なり。
鼓皮を按ずるが如きものを革とする説あり。禁囚の如く深く居て実大なる者を牢とする説あり。これみな字義を論ずる者にして、脈を論ずる者に非ず。
凡そ脈の形容は浮にして弦(浮而弦)と云う。浮虚にして濇(浮虚而濇)と云うが如く二三字を以て形容するときは、革牢などの文字を用いずと雖も脈を論ずるに足らざることなし。然るを文園の徒が文章を巧みに書かんが為に珍しき文字を用いて形容したる者なり。
後世の医、これを辨ぜず。その形容する文字を一字一字に分けてみな脈の名と為りて、その脈状を細かに論じ分けたる者なり。故にその論ずる所を見るときはその脈状一字一字に明白なりと雖も固より紙上の空論にして実事に非ざれば病人の脈を診するに至りてその脈状を一字一字に診し分かつこと能わざるなり。
これみな脈の一診を以て万病を診し別かたんと欲する誤りなり。

弾石は指にて石を弾くが如く、堅くして指を弾く力の強き脈を云う。これ即ち弦脈の極みにして七死の脈の一なり。

※1:傷寒論 辨脉法に「九、…弦者状如弓弦、按之不移也。…」
素問 玉機真蔵論に 「…故其氣来耎弱軽虚而滑、端直以長、故曰弦。」とある。
※2:金匱要略 腹満寒疝宿食病に「脈緊如転索無常者、有宿食也」とある。
※3:金匱要略 血痹虚労病に「脈弦而大、弦則為減、大則為芤、減則為寒、芤則為虚、虚寒相搏、此名為革。婦人則半産漏下、男子則亡血失精」とある。

「滑は形を主とし、弦は力を主とするのみ。その実は一なり。」
この言葉には『なるほど!』と唸らされます。
「滑は形(状)であり、弦は力である」ということなのです。

中莖氏は「これ弦の字を論じるのみ」「この説は緊の字を論ずるにも非ず(論ずる以前の問題である)」「これみな字義を論ずる者にして、脈を論ずる者に非ず」と、強気な言葉を連ねています。

これも個人的には共感できる言葉です。
脈診を勉強していると、脈状という壁にぶつかります。

脈状とは文字通り、脈の形状です。それを他者に伝えるには、なにかに譬えて表現するしかないのですね。
「弦脈は弓の弦のような脈状」
「滑脈はお盆の上を珠が転がるような脈状」
「渋脈(濇脈)は竹を小刀で削るような脈状」
こんな譬え話がよく知られていますね。

しかしこれはあくまでも比喩です。
極論でいうと、この表現を選んだ本人にしか分からない感性なのです。
この問題をクリアしてその意図を理解するには、その人に近しい感性を会得する必要があるのです。
この点において昔の徒弟制度は上手く機能していたのです。
しかし現代日本では、感性も文化・経験も異なる人が文字づらだけ読んで分かろうとするのはかなり矛盾した話なのです。

しかしより重要なのは、脈状を理解することではありません。本当に理解すべきは脈状ではなく体の状態なのです。

極端にいうと、なにも脈状が分からなくても良いのです。
我々が本当に知り得たいのは脈状の向こう側、つまり体質です。

「これは滑脈だ、弦脈だ、濇脈だ」という情報は表層的なものです。
「●●のような体質があるから▪▪のような脈状が現れている。」という思考が重要なのです。
上記の内容ですと「激しい痛みがあるから緊脉を呈する」といった脈状と体質の因果関係がこれに当たります。

乱暴な表現ですが「脈状に名前を付けることはさほど重要なことではないのです」と、当会ではよく話していることでもあります。

 

鍼道五経会 足立繁久

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