脈を捨て証を取る、証を捨て脈を取る
「脈を捨てて証を取る」「証を捨てて脈を取る」という言葉があります。「脈を捨てる」とはいえ、脈診が信用できないという意味ではありません。
しばしば「脈診よりも●診の方が信用できる」などといった技術比較論、技術優劣論などの説が見受けられますが、これはあまり正しい評価ではありません。術者各自の使い勝手をもとに評価した一般でいう口コミの域を出ません。
ちなみに脈診を弁護するなら、東医的診法には望診・舌診・腹診・背候診・原穴診などがありますが、これらの診法に比較して脈診は診る要素が複雑多岐にわたります。そのため診法としては優れていますが、得られる情報を処理できる能力(脳力)を要するため、術者が十分に活用しきれない面は否めません。結果として技術優劣論が生まれるのでしょう。
この私の言葉自体も技術比較論のようではありますが…(苦笑)基本スペックは明らかに脈診が他の診法に比して群を抜いています。これは脈診の五要素を参考にしていただけるとお分かりいただけると思います。
さて、本論ではそのような単純な技術比較論ではなく、診察で得た情報を分析するための方法論を述べています。例として『傷寒論』の条文を多用していますが、この選択は正しいと思われます。動きの緩慢な慢性病ではなく、病伝・病変が早く、病勢の強い傷寒を対象とした傷寒論脈診(仲景脈診)を採用することで「脈を捨て証を取る」「証を捨てて脈を取る」の実例が分かりやすくなります。
※『切脈一葦』京都大学付属図書館より引用させていただきました
※下記の青枠部分が『切脈一葦』原文の書き下し文になります。
脈証取捨
雑病の軽き者、寒熱の証なく、虚実の候なきときは、切脈寫形の二診を論ぜず。唯 見証に随いて治することあり。
然れども、四診を参考して軽重の分を量らざるときは軽しと雖も大病に至るの兆しあることを辨ずること能わざるなり。
今、切脈寫形の二診を論ぜず、唯 見証に随いて治する者は、寒熱の証なく虚実の証なき軽病は、脈状腹状倶に論ずべき状なきを以てなり。若し論ずべき状なき者を強いて論ずるときは必ず疑惑を生じて、反て治を誤ることあり。
これ軽病は唯 平人の脈状腹状に異なるか異ならざるかを診するのみ。強いて論ぜざる所以なり。
軽病と雖も寒熱の証を見わし、虚実の候を見わす者は脈色声形を参考して、詳らかに寒熱虚実を辨じてこれを治すべし。
寒熱虚実の証、見れるときは、脈状腹状倶に必ず論ずべきの状を見わすを以てなり。
況や大病に至りて脈証に疑途ある者に於いては脈色声形を参考して、切脈と寫形とを以て決断するに非ざればこれを治すること能わざるなり。これ切脈寫形を診の第一と為る所以なり。
脈と証と合せず、或いは証と証と合せざる者はその真なる者を主とし、その仮なる者を客とすべし。
証を主とし脈を客とするときは、証を取りて脈を捨てるべし。脈を主とし証を客とするときは、脈を取りて証を捨てるべし。
又、証と証と合せざる者は、主証を取り客証を捨てるべし。
病毒ある者は仮の虚あり。病毒なき者は仮の実あり。これ脈と証と合わざる者を診するの例なり。
病毒ある者、実証にして虚脈を見わすときは仮虚の脈なり。
病毒ある者、実脈にして虚証を見わすときは仮虚の証なり。
病毒ある者、虚脈を見わし虚証を見わすと雖も形氣勃勃として、実病の情ある者は仮虚の脈証なり。
病毒なき者、虚証にして実脈を見わすときは仮実の脈なり。
病毒なき者、虚脈にして実証を見わすときは仮実の証なり。
病毒なき者、実証を見わし実証を見わすと雖も形氣沈沈として、虚病の情ある者は仮実の脈証なり。
譬えば煩熱して脈微弱なるが如く、実証に虚脈を見わす者、病毒に痞塞せられるときは証を取りて脈を捨てるべし。
精氣虚脱するときは脈を取りて証を捨てるべし。
下利して脈洪滑なるが如く、虚証に実脈を見わす者、病毒に痞塞せられるときは脈を取りて証を捨てるべし。
精氣虚脱するときは証を取りて脈を捨てるべし。
これ脈証取捨の辨なり。
蓋し病毒の有無は寫形を以て診すべし。
傷寒の毒、少陽に転じ、陽明に転じ、或いは停食気滞、或いは痰飲疝積、或いは瘀血蚘蟲などの諸病の毒、心腹に結聚する者を病毒と云う。
この病毒、脈道を塞ぐときは実証にして虚脈を見わし、或いは結促代、及び七死の脈を見わすことあり。これを仮虚の脈と云う。
この病毒、陽気を閉じて表に達すること能わざるときは実脈にして手足厥冷の証を見わし、或いは風を悪み、寒を怯えるなどの証を見わすことあり。これを仮虚の証と云う。
この病毒、陽気を閉じ、脈道を塞ぐときは、脈証倶に虚の脈証を見わすことあり。これを仮虚の脈証と云う。
この三脈証は内に必ず苦満、拘攣、実満、急痛などの実証あり。これを真の実、仮の虚と云う。
これ切脈寫形を以て決断する所なり。治法当に陰病に従うべし。
表邪の初め、寒邪表を閉じるを以て、陽気表に達すること能わず。風を悪み、寒を怯れ、手足微冷して、沈緊の脈を見わすことあり
これは病毒腹中に在る者に非ず。病毒肌表に痞塞するに因りて、脈証倶に仮に陰病を見わしたる者なり。
これまた真実仮虚の脈証なり。この脈証は病毒ありと雖も、切脈と冩形とを以て決断すべからず。
これは病発の時と表へ発すべき勢ありと雖も、発すること能わざる情と、脈浮緊なるべきに、沈緊なるとを参考して、意を以て診するの例なり。
これを意診の法と云う。
陽証は形氣勃勃として発達せんと欲するの勢ありて、眼中赤筋多く、呼吸強くして、音声高き者なり。
痛所ありて痛強く、氣閉じて栄衛壅滞する者、微細の脈を見わすことあり。或いは沈伏することあり。
これまた病毒の為す所と雖も切脈冩形を以て診すべからず。意を以て診するの例なり。
促は陽盛なるの脈なり、然れども「脈促にして手足厥冷する者は之を灸す。(※1)」遅は裏寒の脈なり。
然れども「陽明病、脈遅にして悪寒せず、身体汗出る者は大承気湯を與(与)う。(※2)」この二條は証を取りて、脈を捨てるの例なり。
若しこれを陽証の促と遅とは力あり、陰証の促と遅とは力なしと云いて分かつときは、その理なきに非ずと雖も、穿鑿(せんさく)に過ぎて、必ず診を誤ることあり。若し切脈の一診を以て論ずるときは、細かに論ずるも可なり。
今四診を参考して真仮を以て取捨するときは、促は促、遅は遅の一字にて論ずべし。これ促と遅とを挙げて力の有無を論ぜざる所以なり。
表証は汗を発すべし。
然れども、「発熱、頭痛、脈反て沈、身体疼痛する者は、四逆湯を與う。(※3)」
裏実はこれを下すべし。
然れども、陽明病脈浮虚なる者は桂枝湯を與う(※4)。
この二條は脈を取りて証を捨てるの例なり。
浮は表証の脈なり。
然れども陰虚血少なく、或いは中氣虚損の者は浮にして芤の脈を見わすことあり。
数は熱証の脈なり。
然れども虚損の甚しき者は細数の脈を見わすことあり。
この二條は証を取りて脈を捨てるの例に似たりと雖も、浮芤と熟し、細数を熟するときは虚脈の形容にして、取捨の論なく、虚病に虚脈を見わす者と同断なり。
沈細は陰証の脈なり。
然れども胸脇苦満劇しくして食を欲せず、大便鞕き者、仮に脈沈細にして微悪寒、手足冷の証を見わすことあり(※5)。
これは主証を取りて客証と脈とを捨てるの例なり。
遅は寒証の脈なり。
然れども傷寒差(いえ)て後、余熱未だ退かざる者、遅滑の脈を見わすことあり。
遅は寒証の脈と雖も、遅滑と熟するときは滑の字、主字にして、陽脈の形容なり。これは取捨の論なく、脈と証とを併せ取るの例なり。
表証にして身体疼痛する者は麻黄湯を以て汗を発すべし。
然れども脈遅にして腹勢脱する者は汗を発すべからず。
結胸の証、具える者は大陥胸湯を以てこれを下すべし。
然れども脈浮大なる者は下すべからず。
この二條は脈と証を参考して斟酌して治するの例なり。
弦は実証の脈なり。
然れども、真陰虚竭し、或いは胃氣虚脱する者、弦脈を見わすことあり。
これは証を取りて脈を捨てるの例に似たりと雖も虚脱の証に弦脈を見わす者は極虚の候にして、陰病に陰虚を見わす者と同断なり。
本弦脈を見わすべき、病毒なくして弦脈を見わす者は無根の仮実なり、
又、陰証脈弦にして腹中急痛する者は仮実に非ず。陰証にして病毒あるの候なり。
これ軽重に因りて診法同じからざる所以なり。
左の脈と右の脈と同じからず。人迎と趺陽と同じからざる者は病毒の所在、同じからざるを以てなり。
病毒、左に在れば、左脈に見われ、病毒右に在れば、右脈に見われ、病毒上に在れば、人迎に見われ、病毒下に在れば、趺陽に見わる。
これみな病毒の為す所なり。危証なき者は害あることなし。
※1、厥陰病三四九条文である。
※2、陽明病編二〇八条文のことか。陽明病編には脈遅は4、5カ所出てくる。大承気湯、桂枝湯、四逆湯の条文を参考にされたし。
※3、太陽病中編九二条文「病発熱、頭痛、脈反沈、若不差、身体疼痛、当救其裏。四逆湯方」
※4、陽明病編二四〇条文「脈実者、宜下之。脈浮虚者、宜発汗。下之與大承気湯、発汗宜桂枝湯。」
※5太陽病下一四八条 「傷寒五六日、頭汗出、微悪寒、手足冷、心下満、口不欲食、大便鞕、脈細者、此為陽微結。必有表、復有裏也。脈沈、亦在裏也。汗出、為陽微。…」
鍼灸師には理解しにくい? 脈証取捨
「脈を捨て証を取る」「証を捨て脈を取る」の実例を挙げて丁寧に説いています。
虚と実が入り混じったいわゆる虚実挟雑の証に遭遇するのは臨床においては常のことです。特に慢性病や雑病を主とする鍼灸院であれば尚のことでしょう。
虚実挟雑という状態には緩慢な病変をたどることが多いため、虚を取るか?実を取るか?と判断を迫られる局面が少ないものです。
突き詰めると、雑病を主に治療する鍼灸師が「脈を捨て証を取る」「証を捨て脈を取る」という場面に遭遇することは少ないものです。もちろんターミナルの現場やシビアな疾患を主に治療する鍼灸師は例外です。
冒頭にも書いたように、本章では主に『傷寒論』の病伝を例に挙げています。
・寒邪という障害性の強い病邪
・熱病という病変しやすい病質
・外表から内裏に侵攻していく病勢
傷寒は三陽から三陰の深い層にまで病が到達し、最終的には死に至る病態です。特に急性期と終末期の正気の盛衰と表面に現れる見証(見症)には大きなギャップが生じます。
そのため「脈証取捨」の判断に迫られる局面が出てくるのです。これは新型コロナの病態(温病・瘟疫の一形態としてみれば)でも同様であるといえるでしょう。
鍼道五経会 足立繁久