『切脈一葦』脈位

『切脈一葦』

1、序文

2、総目に続いて脈位に入ります。

写真:『切脈一葦』京都大学付属図書館所蔵 より引用

切脈一葦巻の上 常陽 中莖謙 著

■脈位
寸口は脈の顕然として見(あらわれ)る処(ところ)なり。

故に上古より今に至るまで動脈の流行を爰(ここ)に診して血氣の盛衰を候うこと、
何の時より始まると云うことを明らかにせずと雖も
古書に脈を論ずるときは必ず寸口を主とするを以て考えるときは上古の脈位なること疑いなし。寸尺は人の体より出たる者にて、
説文(※1)に「周制の寸・尺・咫(し)・尋・常の諸度量、みな人体を以て法と為す」の語あり。
素問に「尺内の両傍、則ち季脇なり(※2)」、又「尺寸」の語あり、霊枢に「尺を調える(※3)」の語あり。
これらの語を合せて考えるときは、人の体を指して尺と称すること見るべし。

尺は度量の統名なるを以てなり。
調尺(尺を調える)の尺は広く人身を指し、尺内の尺は腹を指す。
(なお)腹内と云うが如し。尺寸の尺は手を指す。寸に対するを以てなり。
寸口は尺を診する処なるを以て名づけ、
尺沢は尺より寸に、血脈を流行する処なるを以て名づけたる者なり。動脈の見われる処(ところ)多しと雖(いえど)もその著明なる者は寸口を第一とす。

人迎趺陽はこれに次ぐ者なり。人迎は常に寸口より大きく、趺陽は常に寸口より小なる者は、脈道に本末あるを以てなり。
これ仲景氏の寸口人迎趺陽を以て三部と為すと雖も、
その大ならず小ならざる所の寸口を主として、人迎趺陽を参考に備える所以なり。
虚里、少陰、臍中もまたその著明なる者なり。故にその証に因りて参考に備えることあり。

寸口は手の掌の後ろ、高骨の側に見れる動脈なり。
人迎は結喉の両傍に見われる動脈なり。結喉は喉嚨なり。頤(おとがい)の下に高く尖りたる骨を云う。
趺陽は趺の上に見れる動脈なり。足の跗の上、大指と次指との両骨の間を上へ去ること五寸、動脈手に応ずる所なり。
虚里は左の乳下に見われる動脈なり。
少陰は足の内顆の後ろ、陥かなる中に見われる動脈にして、所謂少陰の動、これなり。
臍中は所謂腎間の動これなり。
脈は血氣の盛衰を診する処にして病の所在を診する処に非ず。
故に部位を論ぜず。

「脈は血気の盛衰を診るところであって、病の所在を診るところではない」
これは至言ですね。

往々にして「脈で病気がすべて分かる」というキャッチーな言葉をみることがあります。
しかし脈の本質はこの言葉のように「血気の盛衰をみる」ことにあります。
つまり脈から得る人体の気血の偏り・アンバランスを介して、病を診断するのです。

また、脈には脈位(病位)、脈力(虚実)、脈状(病性)…など整理することで診断するための情報を得ます。
東医的な診断をするためには、東医的な生理学・病理学が必要なのです。

「診察と診断は違う」私は勉強会でよく言いますが、この違いを曖昧にしてはいけません。
「脈診=診断」ではないのです。

(ただ)動脈の見(あらわ)れる処(ところ)を以て、診脈の処と為すべし。
寸口を診するの法、三指を以て、掌後高骨の側、動脈手に応ずる処を按ず。
以って、寸口と定むべし。
脈見(あらわ)れる処(ところ)長き者は指を疎(そ)にして診し、脈見われる処短き者は指を密にして診すべし。小兒(小児)は一指を以て診すべし。
反関の者は動脈見われる処を以て寸口と定むべし。凡そ脈を候(うかが)うことは五十動を診するを以て法とす。
必ず倉卒(そうそつ=あわただしく)に看過することなかれ。(もっぱ)ら心を指下に留めて言うことなかれ。観ることなかれ。聴くことなかれ。齅(嗅)することなかれ、思うことなかれ。これ脈を診するの要訣なり。

「心を指下に留めて言うことなかれ。観ることなかれ。聴くことなかれ。臭することなかれ、思うことなかれ。」これが脈診の要訣・秘訣とのことです。

味のある言葉です。この言葉に関しては鍼灸OSAKAで少し触れています。
詳しくは当会講義でも折をみて話しましょう。

寸口は手太陰肺経の脈にして、五藏六府の死生吉凶を決する所と為し、
肺は諸氣を主る故にまた氣口と名づけ、
肺は百脈を朝せんとして脈の大会なる故にまた脈口と名づく。
その名三つあれどもその処は一つなると云うは、みな分配家の説にして空論なり。寸口は固(もと)より十二経の名も経穴の名も未だ有らざる以前の名にして経穴の名に非ざるなり。
然るを後世に至りて、経絡を分けて穴所の名を配する時に寸口の地を肺経の脈道と定めて、
経渠 太淵二穴を配したる者なり。又、氣口脈口などの名はその後 肺経の理を推して名づけたる者なり。
素問に寸口氣口の名ありて、寸関尺を分けて三部と為すの説なし。
難経に始めて寸関尺の名を立つと雖も未だ左右に藏府を分配するの説なし。晋の王叔和に至りて左右に藏府を分配するの説を出せり。
一の難は一呼吸の間に脈行くこと六寸、一日一夜に脈行くこと五十度と定めて、
二の難は尺寸を一寸九分と定めて臆見を以て空理を論じたる者なり。十八の難は三部四経の説を立つと雖も、その言は簡古にして解すべからず。
王叔和の分配を得て、粗通すと雖もこれを要するに無用の空言なり。霊枢に氣口と人迎とを以て、陰陽に配して診することあり。
これまた無用の空言なり。素問に尺寸を按すの語あれども、寸は寸口のことなり、
尺は肘の横紋より掌の根までの間を尺と云いて、
この処の堅脆滑濇を見て診法と為ることなり。又、尺内の両傍は季脇なりの語あれども、尺内は腹のことなり。
然るを分配家の徒が尺脈のことと為るは誤りなり。趺陽は趺上に見われるを以て名づけたる者なり。
然るを後世に至りて、分配家の徒が、
足陽明胃経に配して衝陽と名づけて胃氣の有無を候う処と為す者は、
寸口を五藏の氣を候う処と為るを以てなり。又、人迎を足陽明胃経に配するも、この意なり。
それ脈はみな胃氣を候うの診法なり。何ぞ人迎趺陽のみに限らんや。

中莖暘谷氏は脈を寸関尺に分配し、各部位に分けて体を診ることに対して批判する立場にあります。

そのため跌陽(衝陽穴)の脈で胃の気を診るという説に対しても
「跌陽の脈に限らず、寸口の脈でも胃の気を診ている。
人迎や跌陽に限って言うことではない!」と反論しています。

両額の動脈を上部の天と為し、両頬の動脈を上部の地と為し、耳前の動脈を上部の人と為し、
手太陰を中部の天と為し、手陽明を中部の地と為し、手少陰を中部の人と為し、
足厥陰を下部の天と為し、足少陰を下部の地と為し、足太陰を下部の人と為す者は、素問の三部九候なり。両額の動脈は、足少陽胆経の頷厭の動脈を指すなり、
両頬の動脈は足陽明胃経の地倉の動脈を指すなり。
耳前の動脈は手少陽三焦経の和髎の動脈を指すなり。
手太陰は肺経の経渠の動脈を指すなり。
手陽明は大腸経の合谷の動脈を指すなり。
手少陰は心経の神門の動脈を指すなり。
足少陰は腎経の太谿の動脈を指すなり。
足太陰は脾経の箕門の動脈を指すなり。これみな分配家の空論にして実事に用い難し。
もし能く十八箇所の動脈を診し得ると雖も、病証を論ずるに臨みて何れの動脈を主と為すべけんや。
これ一身一動脈にして別脈に非ざることを知らざるの誤りなり。魚際と尺沢との間を一尺と定めて掌後一寸九分を以て尺寸の地と為し、
前九分を寸と為し、後ろ一寸を尺と為し、寸と尺との間を関と為す。
これを三部と云う。寸は胸以上の疾を主り、関は膈より臍に至るまでの疾を主り、尺は臍以下の疾を主る。
又、医の指を浮かべて診するを浮と為し、中按して診するを中と為し、沈めて診するを沈と為す。
これを九候と云う。
浮は心肺を候い、中は脾胃を候い、沈は肝腎を候う。これ難経の三部九候にして全く分配家の空論なり。仮令(たとえば)能くこの三部九候を詳らかに診し得て、
左の寸関尺に心小腸、肝胆、腎膀胱を配し、
右の寸関尺に肺大腸、脾胃、命門三焦を配して、
以て診脈の定法と為す。これみな三部各その候を異にするの理無きことを知らざるの誤りなり。
もし三部各その候を異にすべときは反関の脈の如きは何れの処を以て三部と為さんや。
思わざるの甚しきなり。

私見ですが「動脈」という言葉は古典に登場しますが、この言葉は動脈(artery)として読むべきではありません。
現代医学を学ぶとつい自然に動脈=arteryとして脳内変換されてしまうかもしれません。
しかし、もし動脈(artery)であれば、対の静脈(vein)も用いられるはずです。

なにより、古典で伝えたい動脈は脈が動じるポイントです。
脈で何が動じるのか?
それは気血であることは言うまでもありません。

気血の動を脈を通じて診ているのです。
それは冒頭の言葉「脈は血氣の盛衰を診る」ということなのです。

さて、中莖氏は三部九候脈診についても素問であっても、難経であってもズバッ!と全否定しています。
分配家、つまり脈に体の各部を配当してみることに対して机上の空論だと断定しています。
気口九道脈診もバッサリ否定されるでしょうね…。

中莖氏の言葉を借りるなら、『切脈一葦』を推している私自身は分配家に属するといえるでしょう。脈を寸関尺に分けて診ますし、三部九候脈診も気口九道脈診も六部定位脈診も使います。

しかし、分配家(脈診配当)を否定しているからといって、『切脈一葦』のすべての説が間違っているか?というと、そうは思いません。正しいと思える点、評価すべき点があったので『切脈一葦』について書こうと思ったのです。

中莖氏の説を十分に理解するためにも分配家に対する姿勢はご覧の通り…と、頭に入れた上でこの先を読み進めていきましょう。

凡そ医を業と為る者は、みな脈を診するを以て先務としながら、
この如く決断すること能わざる脈法を以て、
闇然として人の病を診して、疑いを隠してその証を辨ぜんとす。

その危うきこと薄氷を踏むが如し。
これ何れの心なるや。これを何と言わんや、恐るべし、歎ずべし。

医を学ぶ者、深く心を用うべし。

或いは云く、寸関尺を分かつとは分配家の説なりと雖も、
寸部の脈進みて魚際へ上るもの頭中の病とし、
関部の脈に力あるものを腹中の病とし、
尺部の脈に滞りあるものを腰脚の病とし、
左右は左右を分かちて、
心を用いるときは、病人に患うる所を問わずと雖も、大概知れる者なり。

然れば則ち寸関尺の部位、全く無しと云うべからざるなり。

謙(中莖氏)曰く、これは人相家が相などを占するものと同断にして、医門に不用のことなり、
如何(いかん)となれば、頭中に病あり、或いは腹中に病あり、或いは腰脚に病ありて医に治を求める者なれば、
脈を以て頭中の病、腹中の病、腰脚の病を占するに及ばず。
病者の辞にて知れたることなり。
何ぞして脈を以て占することを竢(ま)たんや。
それ脈の用は頭中の病、腹中の病、腰脚の病ある人の脈を診して、
色声形の三診に合して、その病の陰陽、表裏、寒熱、虚実を決断するの診法なり。

病毒、頭中に在り、腹中に在り、腰脚に在るの類はみな
冩形の與(くみ)する所にして、切脈の與る所に非ざるなり。
これ病証有りて脈を診すると、脈を診して病証を占するとの辨なり。
又、脈を以て病毒の所在を占すると、脈を以て病証の陰陽表裏寒熱虚実を決断するとの辨なり。

脈の部位をもって病症の場所を候う…ということは人相家が占うことと同じだ、と断定しており医者には不要のものだとしています。
脈診は当てモノではない!ということを伝えたいのでしょう。
確かに「脈でピタリと病気が分かります!」という言葉をみるとキャッチ―で魅力的にみえるかもしれません。
ですが、ピタリと当てたところで、治療できなければ脈を診る意味は無いのと同じです。
治療のためには、脈から得られる情報を分析し、診断を行う必要があります。
そのためには脈の三要素・五要素を理解する必要があるのです。

中莖氏の言葉から学ぶべきこと・考えさせられることが多いですね。

「なぜ脈で病症を占う必要があるのだ!?」(下線部)

問診で明らかにすればいいではないか?
症状の場所くらい患者が答えてくれる。いちいち当てモノのように脈診をひけらかすものではない!と言い切っています。

実際には患者さんが意識していないレベルでの病位があるので、脈を通じて病を候い探る(占ずる)ことは必要だとは思います。
しかし、中莖氏の言うことももっともです。
望診・聞診・問診・切診を駆使して四診合参するべきである!という中莖氏の言葉は至極最もであります。

また冩形という言葉が登場しましたが、これは腹診の意味として使われている言葉です。
『扁鵲倉公列傳第四十五』に「越人之為方也。不待切脈、望色、聴聲、冩形…」にあります。
浅井正路の注釈には「医学正傳(虞摶)には古に四診の法有り、形聲色脉の四者のみ。…夫れ形診とは、その形を観て以てその病を知る也、とある。(浅井)正路の按ずるに、経に曰く、色脉形肉は相失を得ざる也。形肉は即ち尺膚也。寫は寫照の寫、審らかに尺の小大滑濇緩急、肉の堅脆を照らし視る也。…」

※1:説文解字…「周制寸尺咫尋常仞諸度量、皆以人体為法」
※2:『素問』脈要精微論…「尺内の両傍、則ち季脇なり」
※3:『霊枢』論疾診尺篇…「調其尺」とある

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