四診合断『切脉一葦』下巻

『切脉一葦』下巻に入りました。下巻のトップは四診合参です。

診察と診断は違います

当たり前の話で恐縮ですが、診察と診断は違います。ですが「脈診ですべてが分かる」という視点に立ってしまうと、診察と診断の境界線がとても曖昧になってしまいます。当然ですが東洋医学・中医学には「四診合参」という言葉があり、脈診や腹診や舌診など単一の診法で診断できるという立場をとってはいません。

「○○だけで治療ができる」という管見的思考に陥りやすい現代日本人は注意すべきでしょう。“一”に収斂できるのは、より広く博く拡張させた結果の話です。
この点は『針道秘訣集』の當流他流之異にて「我も元、他針を習うこと九流なり」と書かれているのと同様です。この九は九つとしての九なのか、陽の極数としての九かは存じませんが、いずれにしても“一つの物事”に収斂・収束させるということは、生易しいものではないのです。

中莖氏の提唱する四診合参

さて本題の四診合断(四診合参)といきましょう。まずは本文を読んでみましょう。

『切脈一葦』京都大学付属図書館より引用させていただきました
※下記の青枠部分が『切脈一葦』原文の書き下し文になります。

四診合断

脈色声形の四診は聖聖相い伝える所の診法にして、素問、霊枢、扁鵲伝、傷寒論、金匱要略に詳らかなり。熟読してその法を知るべし。
惜しい哉、仲景氏の後、寫形を唱える人無く、その法遂に廃して伝わらず。
これを以て世医専ら難経の望聞問切を以て四診と為して病証を決断するの診法と為す。
然れども寫形の法なきときは人身を按して診する者は唯 切脈の一法のみなり。
然れば則ち切脈の一診を以て病証を決断するより外なし。これ王叔和の徒が切脈の一診を以て病証と占するの法を唱える所以なり。

病証を問わずして唯 脈状を以て遅脈を嘔吐とし腹痛とし、微脈を白帯とし淋瀝とするが如く、その病証を占する者は、分配家の脈法なり。
その甚だしき者に至りては一脉に数証を配当する者あり。脈経に謂う所の浮脈を風とし虚とし嘔とし厥とし痞とし脹とするの類これなり。
嘔吐腹痛、或いは白帯淋瀝等の病証ありて、その脈状を診して浮なるときは表とし、沈なるときは裏とし、滑なるときは実とし、濇なるときは虚とするが如く、その証の陰陽表裏寒熱虚実を決断する者は古の脈法なり。
古の脈法は胃氣の盛衰を診し、分配家の脈法は病毒の見証を診す。これ雲泥の差なり。

後世の医、これを辨せず。唯 脈の一診を以て万病の見証を一証一証に何脈は嘔吐、何脈は淋瀝と云うが如く、診し分けんと欲す。
何ぞ限りある脈状を以て、限りなき見証を一証一証に占し得るべきの理あらんや。
仮令(たとえば)脈の一診を以て嘔吐腹痛などの病証を占し得ると雖も治を施すに臨みて決して益あることなし。
如何となれば、嘔吐腹痛などの病証にも皆一証一証に陰陽表裏寒熱虚実の別あるを以てなり。
故に今 治を施さんと欲する者は古の診法に従いて四診を合して決断すべし。

譬えば嘔吐腹痛を患る人ありて治を請うときは必ず先ず問診を以て病発よりの容体(容態)、飲食の多少に、便の利不利、苦しむ所の緩急を病者の問わざれば言わざる所まで詳らかに問いて、その病証病因の大概を定め置いて、その後に脈色声形の四診を以てその病証の陰陽表裏寒熱虚実を決断すべし。
脈浮にして発熱する者は表証の嘔吐腹痛なり。脈滑にして腹中毒ある者は裏証の嘔吐腹痛なり。この如くに決断して治を施すべし。これ古の診法なり。

又、脈色声形の法を以て診し難き者は意診の法を以てすることあり。邪祟、狐惑、詐病、氣癖の類は脈色声形の法に合せざる者なり。脈色声形の法に合せざる者は、その合せざる所に意を付けて診すべし。これを意診の法と云うなり。
又、脈色声形を待たずして、病証を診することあり。これはその人を見ずして、唯 その人の容体を聞きて己が学び得たる所の脈色声形の法を以て推し測りて、その病証を決断するの診法なり。
これを垣の一方の人を見るという。これを千里を出ずして決する者、至りて衆し曲に止まるべからずと云うなり。
(※「視見垣一方」「至衆不可曲止也」は『扁鵲倉公列伝』の扁鵲伝にある。)
これは脈色声形を用いずと雖もその意を以て推し測りて診する所の者は即ち脈色声形なり。然れば則ち四診の法を以て診するも四診の法を離れて診するも四診の法を推し測りて診するも皆 脈色声形の診法なり。

脈色声形を以て四診と為すと雖も色声の二診は唯 参考に備うるのみ。その主とする所の者は脈形の二診なり。
脈形の二診と雖も唯 脈を診して形を診せざるときは脈の真仮を辨すること能わず。唯 形を診して脈を診せざるときは形の真仮を辨すること能わず。
譬えば精氣虚脱して沈微の脈を見(あらわ)す者を沈微とし、病毒に痞塞せられて沈微の脈を見わす者を仮の沈微と為るが如く、脈滑数にして腹満痛する者を真の腹満痛とし、脈沈遅にして腹満痛する者を仮の腹満痛と為るが如し。
脈は形を須(もちい)て病証を決断し、形は脈を須て病証を決断することこれの如し。

然るに仲景氏の後、寫形の法 廃れてより以来、寫形を以て診すべき病毒の所在に至るまで、皆 脈の一診を以て診することに為れり。これを以て脈と形と相い須て診する所の脈法もまた遂に廃れて分配家の脈法と為る。診法の塗炭に墜ちること千有余年。これを改むる人なし。歎ずべきの甚しきなり。近世、我が朝の吉益為則(吉益東洞)、寫形の法を中興して古の如く、脈色声形 四診の法備わると雖も脈色声の三診は皆 分配家の脈色声にして古の脈色声に非ず。故に寫形の法建てると雖も参考に備え難し。これ謙(中莖暘谷)この書を著す所以なり。
又、寫形の法建てると雖も、為則一家の寫形にして、古の寫形に合わせる所あり。これまた謙が寫形一葦を著す所以なり。未だ全く古の診法を得ずと雖も脈形二葦を合わせて考えるときは粗古人の診法を見るべし。
又、為則の所謂、証を先にして脈を先にせず。腹を先にして証を先にせずと云うは、時の弊を矯直す教えにして、聖聖相い伝る所の教えに非ざるなり。必ずこの教えに固執して脈を後にすることなかれ。証は外証なり、腹は腹診なり。寫形は人身を按して診するの統名にして、その指す所広しと雖も多くは腹診のことなり。霊枢に「尺を調える」と云う、脈経の序に「形証を候う」と云うも皆 寫形のことなり。

※冩形については『冩形一葦』を詳細に調べたいところであるが、『冩形一葦』が見つからない。
『扁鵲傳正解』にも同様の記述「冩は摸冩なり。形を冩すとは、尺内を摸索して形肉の滑濇を皮上に於いて冩出するこを謂う也。今の腹診、これ也。」がある。おそらく中莖暘谷の提唱する腹診があったのであろう。

脈診と腹診の対比

寫形とは腹診のことです。中莖氏は『切脈一葦』の他にも『寫形一葦』を記しているようですが、この『寫形一葦』は失われているようですね。もし発見されたら一度は見てみたいものです。中莖氏の腹診観に興味がありますね。

さて、脈診と腹診(寫形)を対比させているのは達観だと思います。寫形という名の通り“形を寫す”診法として腹診を表現しているのです。
当会でも腹診は有形のものを診る診法として位置付けています。無形のものを診る診法が望診、特に氣を診る氣色診であり、脈診は陰陽の間にある診法という位置づけですね。
初歩の人にとっては脈診と腹診を組み合わせた「脈腹 二診合参」を推奨します。二診合参は過去にも金沢大学付属病院(東方会北陸支部さんにお招きいただきました)や全国鍼灸マッサージ協会さんの外部講義で紹介した診断法です。

限りある脈状で多様な病症を診断する矛盾

この章にも「分配家の脈法」という言葉が記されています。「脈位」の章にて分配家の脈法についてとり上げられいましたが、ここでは“脈位における分配”ではなく、“脈-病の分配・配当”として言及され、そして否定されています。

「何ぞ限りある脈状を以て、限りなき見証を一証一証に占し得るべきの理あらんや!」
例えば「弦脈は痛や瘧や拘急…などの脈」「滑脈は痰で宿食…などの脈」なんて覚えてしまうとおかしなことになります。
脈の種類は24種や28種あるなどと言いますが、せいぜい30種にも満たないバリエーションです。それに比べて病気や症状は百病や万病とも言いますし、同じ病でも個々によって発現する症状にも変化があります。このように見ると「限りある脈状と多種多様な病症を適応させることに無理がある」という指摘です。

さらに良いことが書かれていますね。
「脈の一診を以て嘔吐腹痛などの病証を占し得ると雖も治を施すに臨みて決して益あることなし。」

『ムムッ!この脈は…腹痛ですね、吐き気もありますね。』と患者さんの症状をピタリと言い当てることができたとします。
でも、いくら症状が的中したとしても、治療には何の役にも立たないと中莖氏は言います。私も同じ思いです。

「脈診は当てモノではありません」
これは脈診を指導する際によく言う言葉ですが、ピタリと的中するのは占い屋さんの仕事です。(もちろん脈占ということもしますが、目的は違います。)

治病家として大事なことは「診察を通じて情報を得る」ことです。そして診察で得られた情報から心身の状況を推し量り治療方針を立てるのが診断なのです。

仮病を見抜く意診の法

「邪祟」「狐惑」「詐病」「氣癖」の類は脈色声形の法に合せざる者なり。邪祟とは邪霊による祟り、狐惑病はいわゆる精神疾患ともいえますが、ここでは敢えて“狐憑き”としておきましょう。そして詐病は偽りの病、すなわち仮病です。

私も詐病と診断した例は数回あります。ここで書かれているように、脈診問診の情報に合わないのですね。この時に頼りとなるのは病理と脈機です。
慣れてくると脈の動きから『アッ…これは詐病の可能性ありだな。』と分かることもあります。
例えていうと「体も精神も治りたがっていない状態」なのですね。

とはいえ感覚的な表現が先に立つとあまり好ましくありませんね。ポイントは病理と術者の冷静な分析、すなわち診断なのです。
病理に基づいた診断、これが欠けてしまうと医学とは言えず、医術と呼ぶも少し怪しいものとなる可能性も出てきますね。
ただ病理や診断を知らない人から見ると、不思議な術であったり、名人芸と呼ばれる段階となるのです。まずは基盤となる診察技術と診断するための病理を習得することです。いきなり何もせずに不思議な名人の技を望んではいけません。

 

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