霊枢 五乱第三十四 の書き下し文と原文と

霊枢 五乱第三十四のみどころ

営気は脈内を行くものであり、脈に順(したが)うものである。そしてまた衛気は営気に相い随うものである。営衛相随は『難経』三十難でも説かれている。

しかし、もしこの営衛相随が破綻することが起これば、つまり衛気が営気に対して逆行すればどうなるか?その5つのパターンを挙げてそれらを五乱とし、その調整法、すなわち導氣・同精について記している。非常に興味深い篇である。


※『霊枢講義』京都大学付属図書館より引用させていただきました。
※以下に書き下し文、次いで足立のコメントと原文を紹介。
※現代文に訳さないのは経文の本意を損なう可能性があるためです。口語訳は各自の世界観でお願いします。

霊枢 五乱第三十四の書き下し文

五乱篇 書き下し文(『鍼灸甲乙経』巻六 陰陽清濁順治逆亂第四、『太素』巻十二  營衛氣 榮衛氣行、『類経』二十巻 鍼刺類 27 五亂刺 )

黄帝曰く、経脈十二なる者は、別ちて五行と為し、分つて四時と為す、何の失いて乱るるか?何を得て治むるか?
岐伯曰く、五行に序有り、四時に分有り、相順すれば則ち治まり、相逆するときは則ち乱る。

黄帝曰く、何をか相順を謂うか?
岐伯曰く、経脈十二なる者は、以て十二月に応ずる。
十二月なる者は、分ちて四時と為す。
四時なる者は、春秋冬夏。其の氣は各々異なり、営衛は相い随い(営衛相随)、陰陽已に和する、清濁相い干(おか)さず①、是の如くなるときは則ち之を順にして治まる可し。

黄帝曰く、何をか逆而して乱るると謂うか?
岐伯曰く、清氣が陰に在り、濁氣が陽に在り、営氣は脈に順じるも、衛氣は逆行す、清濁は相い干かし②、胸中に於いて乱れる、是を大悗と謂う。
故に氣、心に於いて乱れるときは則ち煩心密嘿(黙)、俛首静伏す。
肺に於いて乱れるときは則ち俛仰して喘喝し、手を接して以て呼ぶ。(『甲乙経』では接を按とする)
腸胃に於いて乱れるときは則ち霍亂す。
臂脛に於いて乱れるときは則ち四厥を為す。
頭に於いて乱れるときは則ち厥逆頭重眩仆を為す。

黄帝曰く、五乱は、之を刺すに道の有るや?
岐伯曰く、道有りて以て来たり、道有りて以て去る。審らかに其の道を知る、是を身宝と謂う。
黄帝曰く、善し。願くば其の道を聞かん。
岐伯曰く、氣の心に在る者は、之を手少陰心主の輸に取る。
氣の肺に在る者は、之を手太陰榮、足少陰輸に取る。
氣の腸胃に在る者は、之を足太陰陽明に取る、下らざる者は、之を三里に取る。
氣の頭に在る者は、之を天柱大杼に取る、知らざれば、足太陽榮輸に取る。
氣が臂足に在れば、之を取るに先ず血脈を去り、後に其の陽明少陽の榮輸を取る。

黄帝曰く、補寫すること奈何に?
岐伯曰く、徐(しず)かに入れ徐かに出だす、之を導氣と謂う。
補寫に形無し、之を同精と謂う。
是(これ)有餘不足に非ざる也、乱氣の相逆する也。
黄帝曰く、允(まこと)なる哉、その道。明らかなる哉、この論。請う之を玉版に著わし、命けて治乱と曰う也。

四時における平

下線部①「四時者、春秋冬夏、其氣各異、營衛相隨、陰陽已和、清濁不相干、如是則順之可治。」では、四時における人体の氣の動きがより具体的に記されている。

春夏秋冬では“其の氣”は各々異なる。各季節によって天地の氣が異なるのはもちろん、その氣の推移・変動に順じて人の氣も変化・順応することを言う。“其の氣”とは複数の氣を言っている。そして営衛の気を含んでいることも続く文からわかる。

営衛の気が相い随う、この言葉は『黄帝内経』だけの営衛観ではなく、『難経』(例えば三十難)にも引き継がれている。清濁はすなわち営気と衛気のことを指す。営衛は相い順い、相い干さず、といった関係にある。

この複数層の気が内外ともに変動しつつも調和していることを前提に五乱の話に入っていく。

営衛の乱れは深刻な乱れ

下線部②「清氣在陰、濁氣在陽、營氣順脈、衛氣逆行。清濁相干」
本文における清濁は営衛を現す言葉としてみてよいだろう。清は営気であり、濁は衛気であることは「営衛生会」に記されている通りである。
その前提で話が進むが、陰に在る営気は脈内を行き、呼吸定息にして六寸ずつ経脈を流れ行く。しかし剽悍滑疾の性を持つ衛気が時として、営気に逆らい行くことがある。この文では営気に比べて衛気は逆行の可能性が高いことを示唆している。
さらに清濁相干のレベルにまで発展することで「乱」という状態になる。

営衛相干とは病位としてはまだ気のレベルに過ぎず、比較的軽症のようにも思える。
しかし営衛が互いに相い干かすという病態は、単に外邪が衛気営気の分に侵攻し留まるといった病態とはまるで異なるということも認識すべできあろう。正気である営気と衛気が互いに干渉しあうという状況は極めて由々しき事態ではないだろうか。

この営衛乱れが起こる部位が心・肺・腸胃・臂脛・頭の五か所にて起こるということにも意味がある。
特に臂脛という表記、四肢や手足と書かずに臂脛と記されていることにも意味がある。
これらの部は、他の部位に比べてより衛営が相随するところであり、時に相干し得る部位でもあるのだ。これは衛気営気の性質や機能を理解する上で重要なヒントとなる。

また衛気営気はともに、時間や季節により変動する。これは本篇の冒頭にも記されている通りである。つまり営衛が相い随うことなく、清濁相干するということは、時間における人体のリズム(いわゆるバイオリズム)にも変調をきたす可能性を示唆していると読み取れる。(病症には明記されてはいないが)

病邪であれば、瀉法にて駆邪すべきであろう。虚であれば不足を補うべきであろう。
しかし衛気と営気が相干関係に陥ってしまったため、補瀉が適切な処置ではなく、両者を同調・調和させることが重要となる。

逆し相いに干渉し合い乱れてしまった氣に対し、経脈にて調和させるか、もしくは営衛の源である水穀の精から調和させるかといった視点も面白い。この視点に近しい言及しているのが張志聡である。(後の引用文を参照のこと)

導氣・同精という鍼法

本文には導氣と同精という鍼法が記されている。その鍼法の説明は至ってシンプルである。
「徐入徐出、謂之導氣」であり「補寫無形、謂之同精」とのことである。

鍼の徐疾は補瀉に直結する。このことは『霊枢』九鍼十二原小鍼解に詳しい。

『霊枢』九鍼十二原 引用

「凡そ鍼を用いる者、虚すれば則ちこれを實し、満すれば則ちこれを泄す、宛陳すれば則ちこれを除き、邪勝てば則ちこれを虚にす。
大要に曰く、徐にして疾きときは則ち實す、疾くして徐なるときは則ち虚す。
言く、實と虚は、有るが若く無きが若く。後と先を察して、亡きが若く存するが若く、虚と為し實と為し、得るが若く失うが若し。
虚實の要は、九鍼の最妙なり。」

■原文
凡用鍼者、虚則實之、満則泄之、宛陳則除之、邪勝則虚之。
大要曰、徐而疾則實、疾而徐則虚。
言實與虚、若有若無。察後與先、若亡若存、為虚為實、若得若失。
虚實之要、九鍼最妙。

『霊枢』小鍼解 引用

「徐而疾則實とは、徐ろに内れて疾く出すことを言う也。
疾而徐出則虚とは、疾く内れて徐ろに出すことを言う也。」

■原文
徐而疾則實者、言徐内而疾出也。
疾而徐出則虚者、言疾内而徐出也。

上記の内容でも分かるように、徐疾補瀉は鍼の運用の速度すなわち徐と疾の組合わせである(「刺之微在速遅者、徐疾之意也。」(小鍼解)より)。鍼の徐と疾によって動く氣は異なるとも考えられる。
この「徐入徐出」と説かれる導氣は営気寄りに効かせる鍼法のようにも感じられる。

余談ではあるが、営気・衛気を調和させるには呼吸をうまく使うのも良いだろう。この点、経に対する細かな補瀉を超えて大きく「補寫無形」とみることも可能ではないかと考えている。
個人的な考えではあるが「補寫無形、謂之同精」という言葉からは、後代に発展した内丹学の煉精化氣をつい連想してしまう。

張志聡、馬蒔、張景岳の註を参考までに引用しておこう。

『霊枢』九鍼十二原 引用

張志聡(張隠庵)曰く「徐ろに入れ徐ろに出すとは、導氣の来去也。栄衛とは精氣也。同じく水穀の精に於いて生ずる、故に之を同精と謂う。出入補瀉は有余不足を為すに非ず、乃ち乱氣の相逆を導く也。
玉師に曰く、上古の治氣は之を玉版に著わし、治血脉は、之を金匱に著わす。」

馬蒔曰く「此の言は、五乱を治するは、惟だ導氣を以てす、有余不足を補瀉する者と法を同じくせざる也。
凡そ有余する者は則ち寫法を行い、不足する者は則ち補法を行う。
今、五乱を治する者は、則ち其の鍼を徐ろに入れ徐ろに出だし、氣を導きて故に復するのみ、必ずしも補寫の形に泥定せず、其の精氣の相い同じきを以て、真の有余と不足に非ざる也。乱氣の相逆するに過ぎざるのみ、何ぞ必ず補寫を以て為さん哉。」

張景岳曰く「凡そ行鍼の補寫、皆、和緩を貴ぶ、故に當に徐ろに入れ徐ろに出だすべし。氣を導き元に復するに在るのみ。
然るに補するは、其の正氣を導き。寫するは、其の邪氣を導く。總べて其の精氣を保つに在るのみ。
故に曰く、補寫無形、謂之同精、と。
本篇の法を言うに、有余不足と為して設けるに非ず。特に乱氣相逆するを以てする。
但、宜しく導きて之を治するべきこと是れが如きのみ。
此れ帝の補寫を問うに因りて、故に復た之に及び、以て其の義を明らかにする也。」」

■原文

「徐入徐出者、導氣之来去也。榮衛者精氣也。同生於水穀之精、故謂之同精、出入補瀉。非為有餘不足、乃導亂氣之相逆也。
玉師曰、上古治氣者、著之玉版。治血脉者。著之金匱。」

「此言、治五乱者、惟以導氣、不與補瀉有餘不足者同法也。凡有餘者則行瀉法、不足者則行補法。今治五乱者、則其鍼徐入徐出、導氣復故而已、不必泥定補瀉之形、以其精氣相同、非眞有餘與不足也。不過亂氣之相逆耳、何必以補瀉為哉。」

「凡行鍼補寫、皆貴和緩、故當徐入徐出、在導氣復元而已。然補者、導其正氣。寫者、導其邪氣。總在保其精氣耳。故曰補寫無形、謂之同精、言本篇之法、非為有餘不足而設、特以亂氣相逆、但宜導治之如是耳。此因帝問補寫、故復及之、以明其義也。」

ちなみに『霊枢識』では上記、張景岳の註を採用している。

導氣については『霊枢』邪客第七十一にて再度登場する。その時までにさらに導氣に関する考察を深めておきたい。
また現状の導氣同精の理解・考察を踏まえての「東垣鍼法と陰火学説」の論考が『中医臨床』2022年6月号と9月号に掲載される予定である。興味がある方は目を通していただければ幸いである。

鍼道五経会 足立繁久

海論第三十三 ≪ 五亂第三十四 ≫ 脹論第三十五

原文 霊枢 五亂第三十四

■原文 霊枢 五亂第三十四
黄帝曰、経脈十二者、別為五行、分為四時、何失而乱?何得而治?
岐伯曰、五行有序、四時有分、相順則治、相逆則乱。黄帝曰、何謂相順?
岐伯曰、経脈十二者、以應十二月、十二月者、分為四時。四時者、春秋冬夏、其氣各異、營衛相隨、陰陽已和、清濁不相干、如是則順之可治。黄帝曰、何謂逆而乱?
岐伯曰、清氣在陰、濁氣在陽、營氣順脈、衛氣逆行。清濁相干、亂於胸中、是謂大悗。
故氣亂於心、則煩心密嘿(黙)、俛首静伏。
亂於肺則俛仰喘喝、接手以呼。亂於腸胃則霍亂。亂於臂脛則為四厥。亂於頭則為厥逆頭重眩仆。
黄帝曰、五亂者、刺之有道乎?
岐伯曰、有道以来、有道以去。審知其道、是謂身寶。黄帝曰、善。願聞其道。
岐伯曰、氣在於心者、取之手少陰心主之輸。
氣在於肺者、取之手太陰榮、足少陰輸。
氣在於腸胃、取之足太陰陽明、不下者、取之三里。
氣在於頭者、取之天柱大杼、不知、取足太陽榮輸。
氣在臂足、取之先去血脈、後取其陽明少陽之榮輸。黄帝曰、補寫奈何?
岐伯曰、徐入徐出、謂之導氣。補寫無形、謂之同精。是非有餘不足也、亂氣之相逆也。
黄帝曰、允乎哉道、明乎哉論。請著之玉版、命曰治亂也。

 

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