霊枢 小鍼解第三の書き下し文

小鍼解のあらまし

小鍼解第三では九鍼十二原の各言葉についてヒントを提示してくれている篇である。

氣に対する鍼、その心得を漠然ながらも表現してくれていると言ってよいだろう。
氣を最もよく表現している言葉が「有るがごとく無きがごとく」である。

「有るようで無い、無いようでやっぱり有る」これが氣ということなのだ。

この感覚は当然ながら患者さんには分からない。
治療する側も分からない…と、思う鍼灸師もいるだろう。

しかし、それだけに体得、体感できなくとも、せめてイメージだけでもできていないといけない。

それでも『氣なんてハッキリ分からない…』という人はいるだろう。
それで良いのだ。
氣とは見えないもの、つかめないもの。しかしそれでもやはり存在するものなのだ。
ハッキリ分からなくて良いのだ。(特殊な人は除く…かもしれない)

『霊枢講義』京都大学付属図書館より引用させていただきました。
※以下に書き下し文、次いで原文を紹介。
※現代文に訳さないのは経文の本意を損なう可能性があるためです。口語訳は各自の世界観でお願いします。

『霊枢』小鍼解第三 法人

所謂(いわゆる)易陳とは、言い易き也。難入とは、人に著し難き也。
粗守形とは、刺法を守る也。
上守神とは、人の血氣の有餘不足を守り、補寫すべき也。
神客とは、正邪共に会する也。
神とは、正氣也。客とは、邪氣也。
在門とは、邪氣と正氣の出入する所也。
未観其疾とは、先ず邪正 何経の疾と知る也。
悪知其原とは、先ず何経の病、取る處を所を知る也。
刺之微在速遅とは、徐疾の意也。
粗守関とは、四肢を守りて血氣正邪の往来を知らず也。
上守機とは、守氣を知る也。

機之動、不離其空中とは、氣の虚實を知り、鍼の徐疾を用いる也。
空中之機清浄以微とは、鍼以って氣を得て、意を密にし氣を守りて失うこと勿れ也。
其来不可逢とは、氣盛なるに補うべからざる也。
其往不可追とは、氣虚なるに寫すべからざる也。
不可掛以髪とは、氣を失い易きを言う失也。
扣之不発とは、補寫の意を知らざるを言う也。血氣已に盡きて、氣下らざる也。
知其往来とは、氣の逆順盛虚を知る也。
要與之期とは、氣の取るべきの時を知る也。
粗之闇とは、冥冥として氣の緻密を知らざる也。
妙なる哉!
上獨有之とは、盡く鍼の意を知る也。
往者為逆とは、氣の虚にして小なるを言い、小なるは逆也。
来者為順とは、形氣の平を言う、平なるは順也。
明知逆順、正行無問とは、取る所の處を知ることを言う也。
迎而奪之とは、寫也。
追而濟之とは、補也。
所謂虚則實之とは、氣口虚すれば當にこれを補うべし也。
満則泄之とは、氣口盛なれば當にこれを寫すべし也。
宛陳則除之とは、血脈を去る也。
邪勝則虚之とは、諸経に盛有る者、皆その邪を寫するを言う也。
徐而疾則實とは、徐ろに内れて疾く出すことを言う也。
疾而徐出則虚とは、疾く内れて徐ろに出すことを言う也。
言實與虚、若有若無とは、實なるは氣有り、虚なる者は氣無きを言う也。
察後與先、若亡若存とは、氣の虚實、補寫の先後を言う也。その氣の已下と常存とを察する也。
為虚與實、若得若失とは、補は佖然として得ること有るが若し也。寫すれば則ち怳然として失うこと有るが若しを言う也。
夫氣之在脈也、邪氣在上とは、邪氣の人に中るや高し、故に邪氣は上に在ることを言う也。
濁氣在中とは、言水穀は皆胃に入る、その精氣は肺に上り注ぎ、濁なるは腸胃に溜ぐ、言わく寒温不適、飲食不節、而して病は腸胃に生ず、故に命じて曰く濁氣在中と言う也。
清氣在下とは、清湿地氣の人に中る也、必ず足より始まる、故に曰く清氣在下と言う也。

鍼陥脈則邪氣出とは、これを上に取る。
鍼中脈則邪氣出とは、これを陽明の合に取る也。
鍼大深則邪氣反沈とは、浅浮の病に、深刺を欲せざるを言う也。深ければ則ち邪氣これに従いて入る、故に曰く反て沈む也。
皮肉筋脈、各有所處とは、経絡各々主る所有りを言う也。
取五脈者死とは、病、中氣不足に在り、但だ鍼を用いて盡く大いにその諸陰の脈を寫する言う也。
取三脉者とは、唯盡く三陽の氣を寫するを言い、病人をして恇然と復せざらしむる也。
奪陰者死とは、尺の五里五往を取る者を言う也。
奪陽者狂とは、正にその色を観て、その目を察し、その散微復を知るを言うなり
一其形、聴其動静とは、言上工は目に於いて五色相することを知り、尺寸、小大、緩急、滑濇を調えるを知り、以て病む所を言う也。
知其邪正とは、虚邪と正邪の風を論ずることを知る也。
右主推之、左持而御之とは、鍼を持ちて出入するを言う也。
氣至而去之とは、補寫の氣調えてこれを去ることを言う也。
調氣とは終始に在る、一とは心を持すること也。

節之交三百六十五會とは、絡脈の諸節に滲灌する者也。
所謂五藏之氣已絶於内とは、脈口の氣、内に絶して至らず、反ってその外の病處と陽経の合を取る。有鍼を留むること有りて以て陽氣を致す、陽氣至れば、則ち内に重竭す、重竭するときは則ち死す矣。
其の死する也、氣以って動ずること無く、故に静なり。
所謂五藏之氣已絶於外とは、脈口の氣、外に絶して至らず。
反てその四末の輪を取る、鍼を留むること有りて以ってその陰氣を致す。陰氣至れば、則ち陽氣反て入る、入れば則ち逆する、逆するときは則ち死する矣。その死する也、陰氣有餘す、故に躁。
その目を察す所以の者、五藏の五色をして循明ならしむ、循明なれば則ち聲章けし。聲章なる者、則ち言う聲、平生と異る也。

邪気と正気が出入りする門

「在門とは、邪氣と正氣の出入する所也」
このフレーズもまた経穴を門と見立て、邪気が侵入する門でもあり、神気が出入する門戸でもある。
この門とは経穴を連想するが、九鍼十二原では同様の存在を節としている。
しかし、本篇小鍼解では「節の会は絡脈の諸節に滲灌するもの」としている。要考察である。

鍼術の微妙は速遅にあり

鍼刺の微妙は速遅、徐疾にある。
鍼を徐(おもむろ)に入れて疾(と)く出す。疾く入れて、徐ろに出すという鍼の動きで、気の反応は変わる。
この気の動きを利用して、補瀉を行っている。

気は速く動くものに対する反応と、緩慢に動くものに対する反応は異なる。
そしてこの速遅に反応する気とは衛気・表気であることは言うまでもない。
営気にこのような性質があると逆に困るのだ。

鍼によって気を集め…集めた気をどうする?

「鍼以って氣を得て、意を密にし氣を守りて失うこと勿れ也。」
気の反応性を利用して、気を集め、又は気を疎にする。
しかし、それだけでは不足である。
気を集めただけでは、すぐに散ってしまうだろう。それを安定させるのに“意”を以ってせよという言葉が興味深い。
意を五行でみると確かになるほど…である。

イメージできなければ、何も見えてないのと同じ

「粗之闇とは、冥冥として氣の緻密を知らざる也。」
粗工は、気の性質が分かっていない。だから形から入るのだ。
しかし形だけを見ようとすれば、気などたとえ目の前に有っても分からないだろう。

文字通り「一寸先は闇」なのである。
分からないことを自覚しているならまだ良い。分かっていないことすら自覚できていないことは問題である。
迷走してしまうのは、得てしてそんなタイプだ。

鍼にて気を調和するということは…

「調氣とは終始に在り」

鍼治とはひと言でいえば“終始”に尽きる。
このような言葉は霊枢でしばしば見受けられるが、そう簡単なものではない。

経脈の終始とは?終始の解釈の一例を前篇の本輸でも触れたが、終始はまだまだ奥が深い。
終始の理解を深めるごとに、鍼道がそう簡単ではないことに愕然とするのである。

「調氣とは終始に在る、一とは心を持すること也。」
この“一とは心を持すること”に関する記載は『霊枢』終始篇第九に詳しい。実際に終始を読んで考察する度に鍼術の道の果てしなさに愕然とするが、一生かけて研鑽を続けることができることに安堵することもできる。

節の交三百六十五会とは…

一見すると、節という文字からは関節と読み取りがちになるかもしれない。
しかし、節とは関節ではないという定義は九鍼十二原第一にて述べられていた。

関節ではないなら何か?
365という数字から、まず経穴が連想される。経穴の数と天地の数は相応ずる思想だからだ。
『素問』氣穴論篇に於いても「黄帝問曰、余聞氣穴三百六十五、以應一歳。…」とある。

また「節の交三百六十五会とは、絡脈の諸節に滲灌する者なり」という文からは、
“絡脈から諸節(経穴)に滲み灌漑している”とも読み取れる。
経から絡へ、絡から経へという循環システムを指しているのでは、とも考える次第である。

原文『霊枢』小鍼解第三 法人

所謂易陳者、易言也。難入者、難著於人也。
粗守形者、守刺法也。
上守神者、守人之血氣。有餘不足、可補寫也。
神客者、正邪共會也。
神者、正氣也。客者、邪氣也。
在門者、邪氣正氣之所出入也。
未観其疾者、先知邪正何経之疾也。
悪知其原者、先知何経之病、所取之處也。
刺之微在速遅者、徐疾之意也。
粗守関者、守四肢而不知血氣正邪之往来也。
上守機者、知守氣也。機之動、不離其空中者、知氣之虚實、用鍼之徐疾也。
空中之機清浄以微者、鍼以得氣、密意守氣勿失也。
其来不可逢者、氣盛不可補也。其往不可追者、氣虚不可寫也。
不可掛以髪者、言氣易失也。
扣之不発者、言不知補寫之意也。血氣已盡、而氣不下也。
知其往来者、知氣之逆順盛虚也。要與之期者、知氣之可取之時也。
粗之闇者、冥冥不知氣之緻密也。
妙哉!上獨有之者、盡知鍼意也。
往者為逆者、言氣之虚而小、小者逆也。
来者為順者、言形氣之平、平者順也。
明知逆順、正行無問者、言知所取之處也。
迎而奪之者、寫也。
追而濟之者、補也。
所謂虚則實之者、氣口虚而當補之也。
満則泄之者、氣口盛而當寫之也。宛陳則除之者、去血脈也。
邪勝則虚之者、言諸経有盛者、皆寫其邪也。
徐而疾則實者、言徐内而疾出也。
疾而徐出則虚者、言疾内而徐出也。
言實與虚、若有若無者、言實者有氣、虚者無氣也。
察後與先、若亡若存者、言氣之虚實、補寫之先後也。察其氣之已下與常存也。
為虚與實、若得若失者、言補者佖然若有得也。寫則怳然若有失也。
夫氣之在脈也、邪氣在上者、言邪氣之中人也高、故邪氣在上也。
濁氣在中者、言水穀皆入於胃、其精氣上注於肺、濁溜於腸胃、言寒温不適、飲食不節、而病生於腸胃、故命曰濁氣在中也。
清氣在下者、言清湿地氣之中人也、必従足始、故曰清氣在下也。鍼陥脈則邪氣出者、取之上。
鍼中脈則邪氣出者、取之陽明合也。
鍼大深則邪氣反沈者、言浅浮之病、不欲深刺也。深則邪氣従之入、故曰反沈者也。
皮肉筋脈、各有所處者、言経絡各有所主也。
取五脈者死、言病在中氣不足、但用鍼盡大寫其諸陰之脈也。
取三脉者恇、唯言盡寫三陽之氣、令病人恇然不復也。
奪陰者死、言取尺之五里五往者也。
奪陽者狂、正言也観其色、察其目、知其散微復、
一其形、聴其動静者、言上工知相五色於目、有知調尺寸小大緩急滑濇、以言所病也。
知其邪正者、知論虚邪與正邪之風也。
右主推之、左持而御之者、言持鍼而出入也。
氣至而去之者、言補寫氣調而去之也。調氣在於終始、一者持心也。
節之交三百六十五會者、絡脈之滲灌諸節者也。
所謂五藏之氣已絶於内者、脈口氣内絶不至、反取其外之病處、與陽経之合。有留鍼以致陽氣、陽氣至、則内重竭、重竭則死矣。
其死也、無氣以動、故静。
所謂五藏之氣已絶於外者、脈口氣外絶不至。
反取其四末之輪、有留鍼以致其陰氣。陰氣至、則陽氣反入、入則逆、逆則死矣。其死也、陰氣有餘、故躁。
所以察其目者、五藏使五色循明、循明則聲章。聲章者、則言聲與平生異也。

鍼道五経会 足立繁久

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