霊枢 終始篇第九の書き下し文と原文と

霊枢 終始篇のみどころ

終始の内容は極めて濃厚である。さすが第9番目の篇である。

これまで終始という言葉は、随所に登場してきた。
本輸篇では「凡そ刺の道、必ず十二経絡の終始する所に通ず。」
小鍼解では「調氣とは終始に在る、一とは心を持すること也。」
根結篇では「九鍼の玄、要は終始に在り。故に能く終始を知れば、一言にして畢わる。」

それぞれの篇における終始の意味やニュアンスの違いを理解する必要があるが、いずれも重要性が高いワードであることは一目瞭然であろう。

※『霊枢講義』京都大学付属図書館より引用させていただきました。
※以下に書き下し文、次いで足立のコメントと原文を紹介。
※現代文に訳さないのは経文の本意を損なう可能性があるためです。口語訳は各自の世界観でお願いします。

『霊枢』終始第九の書き下し文

 終始第十
(『甲乙経』巻五  鍼道終始第五、『太素』巻十四 人迎脈口診、巻二十二 三刺、『類經』巻二十 鍼刺類 28 四盛関格之刺 巻二十二 62 得気失気在十二禁)

凡そ刺の道は、終始に畢る。明らかに終始を知り、五藏を紀と為し、陰陽定む。
陰は藏を主とし、陽は府を主とす。
陽は氣を四末に受け、陰は氣を五藏に受ける。
故に寫するはこれを迎え、補するはこれに隨う。迎を知り随を知りて、氣をして和せしむる①
和氣の方とは、必ず陰陽に通ず。五藏を陰と為し、六府を陽と為す①’
これを後世に伝え、血以って盟となす。
これを敬う者は昌(さか)え、これを慢(あな)どる者は亡ぶ。
道無くして私に行えば、必ず夭殃を得る。
謹みて天道を奉じて、請う終始を言わん。終始とは、経脈を紀と為す。
その脈口人迎を持し、以って陰陽の有餘不足、平と不平とを知りて、天道畢る。
所謂、平人とは病まず。病まざる者は脈口人迎が四時に應ずる也。上下も相應して倶に往来する也。六経の脈、結せず動ぜず也。
本末の寒温、これ相い守り司る也。形肉氣血は、必ず相い稱る也、これを平人と謂う。
少氣なる者、脈口人迎は倶に少にして、尺寸稱えざる也。
これの如くなれば、則ち陰陽倶に不足す。
陽を補うときは則ち陰竭き、陰を寫するときは則ち陽脱する。
これの如くなれば、将に甘薬を以ってすべく、至剤を以って飲むべからず。
これの如くなる者は灸せず。
已(い)えざる者、因りてこれを寫するときは、則ち五藏の氣壊する。
人迎一盛するは、病は足少陽に在り。一盛して躁なるは、病は手少陽に在り。
人迎二盛するは、病は足太陽に在り。二盛して躁なるは、病は手太陽に在り。
人迎三盛するは、病は足陽明に在り。三盛して躁なるは、病は手陽明に在り。
人迎四盛にして、且つ大且つ数なるは、名づけて溢陽と曰う。
溢陽を外格と為す。
脈口一盛なるは、病は足厥陰に在り。厥陰一盛にして躁なるは手心主に在り。
脈口二盛なるは、病は足少陰に在り、二盛にして躁なるは手少陰に在り。
脈口三盛なるは、病は足太陰に在り。三盛にして躁なるは、手太陰に在り。
脈口四盛にして、且つ大且つ数なる者は、名を溢陰と曰う。
溢陰を内関と為す。
内関して通ぜざれば、死す治せず。
人迎と太陰脈口倶に盛んにして四倍以上、命じて関格と曰う。
関格なるは、これと短期する。
人迎一盛には、足少陽を寫して足厥陰を補する、
二寫一補、日に一度これを取る。
必ず切してこれを験す。疎してこれを上に取る、氣和して乃ち止む。
人迎二盛には、足太陽を寫して、足少陰を補する、
二寫一補、二日に一度これを取る。必ず切してこれを験す、踈にしてこれを上に取る。氣和して乃ち止む。
人迎三盛には、足陽明を寫して足太陰を補する、
二寫一補、日に二度これを取る。必ず切してこれを験する、踈にしてこれを上に取る、氣和して乃ち止む。
脈口一盛には、足厥陰を寫し、足少陽を補す、
二補一寫、日に一度これを取る。必ず切してこれを験する、踈にしてこれを上に取る、氣和して乃ち止む。
脈口二盛には、足少陰を寫し、足太陰を補す、
二補一寫、二日に一度これを取る。必ず切してこれを験する、踈にしてこれを上に取る、氣和して乃ち止む。
脈口三盛には、足太陰を寫して、足陽明を補す、
二補一寫、日に二度これを取る。必ず切してこれを験する、踈にしてこれを上に取る、氣和して乃ち止む。
日に二度これを取る所以の者は、太陽(※)胃を主とし、大いに穀氣を富む、故に日に二度取るべき也。
(※『太素』『甲乙経』では太陰とある)
人迎と脈口と倶に盛なること三倍以上は、命じて陰陽倶に溢すると曰う。
これの如くなる者、開かざれば則ち血脈閉塞して、氣の行く所無く、中に流淫して、五藏内に傷れる。
これの如くなる者、因りてこれに灸すれば、則ち變易して他病と為す。凡そ刺の理は、氣調えて止む。
陰を補いて陽を寫する、音氣益々彰われ、耳目聡明。(『甲乙経』では音氣を音聲とする)
これに反する者は、血氣行らず。
所謂、氣至りて効ある者は、寫すれば則ち益々虚す。②
虚する者、脈大なることその故の如くにして堅ならざる也。
堅きことその故の如きなる者、適々故と言うと雖も、病未だ去らざる也。
補すれば則ち益々實する、
實する者、脈大なることその故の如くにして益々堅なり。
夫れその故の如くにして堅ならざる者、適々快すと言うと雖も、病は未だ去らざる也。
故に補すれば則ち實し、寫すれば則ち虚する。
痛、鍼に隨わざると雖も、病必ず衰え必ず去る。
必ず先ず十二経脈の生ずる所の病を通じ、而る後に終始に於いて傳するを得るべし。
故に陰陽相い移らざれば、虚實傾せず、これをその経に取る。凡そ刺の属、三刺して穀氣至る、邪僻妄りに合し、陰陽居し易く、逆順相い反す、沈浮處を異にし、四時得ず、稽留浮泆して、鍼を須ちて去る。
故に一刺して則ち陽邪出し、再刺して則ち陰邪出る、三刺すれば則ち穀氣至る、穀氣至りて止む。③
所謂、穀氣至るとは、已に補して實し、已に寫して虚する、故に以って穀氣の至るを知る也。
邪氣獨り去る者とは、陰と陽と未だ調すること能わずして、病の愈を知る也。
故に曰く補すれば則ち實し、寫すれば則ち虚す。
痛、鍼に隨わざると雖も、病必ず衰え去る。
陰盛んにして陽虚なれば、先ずその陽を補して、後にその陰を寫してこれを和す。
陰虚にして陽盛なれば、先ずその陰を補し、後にその陽を寫し、而してこれを和する。
三脈、足大指の間に動ず、必ずその實虚を審らかにす、
虚にしてこれを寫するは、これを重虚と謂う。
重虚すれば病、益々甚し。凡そこれを刺す者、指を以ってこれを按じ、脈動じて實し且つ疾き者は、疾くこれを寫す。
虚にして徐なる者は、則ちこれを補す。
これに反する者は、病益々甚し。
その動ずる也、陽明は上に在り、厥陰は中に在り、少陰は下に在り。膺腧は膺に中(あた)り、背腧は背肩膊に中る。
虚なる者は、これを上に取る。
重舌には、舌柱に刺す、鈹鍼を以ってする也。手屈して伸びざる者は、その病は筋に在り。
伸して屈せざる者は、その病は骨に在り。
骨に在れば骨を守り、筋に在れば筋を守る。補は一たび方に實することを須(ま)ちて、深くこれを取る、稀にその痏を按じて、以って極めてその邪氣を出す。④
一たび方に虚すれば、浅くこれを刺して、以ってその脈を養い、疾くその痏を按じて、邪氣をして入ること得さしむること無し。
邪氣の来たる也、緊にして疾し。穀氣の来たる也、徐にして和なり。
脈、實なる者には、深くこれを刺し、以ってその氣を泄する。⑤
脈、虚なる者には、浅くこれを刺し、精氣をして出づることを得ること無からしむ、以ってその脈を養い、獨りその邪氣を出す。諸痛を刺す者は、その脈皆實す。
故に曰く、腰従(よ)り以上は、手太陰陽明皆これを主とす。腰従り以下は、足太陰陽明皆これを主とする。
病、上に在る者は、下にこれを取り、
病、下に在る者は、高きにこれを取る。
病、頭に在る者は、これを足に取り、
病、腰に在る者は、これを膕に取る。
病、頭に於いて生ずる者は頭重し、
手に於いて生ずる者は臂重し、
足に於いて生ずる者は足重す。
病を治する者は、先ずその病の従(よ)りて生ずる所の者を刺す也。春氣は毛に在り、夏氣は皮膚に在り、秋氣は分肉に在り、冬氣は筋骨に在る。
この病を刺する者は、各々その時を以って齊と為す。
故に肥人を刺す者は、秋冬の齊を以ってし、
痩人を刺する者は、春夏の齊を以ってする。
痛を病む者は、陰なり。
痛みて手を以ってこれを按じて得ざる者は陰なり、深くこれを刺す。
病、上に在る者は陽なり。病、下に在ある者は、陰なり。
癢する者は陽なり、浅くこれを刺す。病、先ず陰に起こる者は、先にその陰を治し、而る後にその陽を治する。
病、先ず陽に起こる者は、先にその陽を治し、而る後にその陰を治する。
熱厥を刺する者は、鍼を留めて反して寒を為す。
寒厥を刺する者は、鍼を留めて反して熱と為す。
熱厥を刺する者は、二陰一陽。
寒厥を刺する者は、二陽一陰。
所謂、二陰とは、二刺陰也。一陽とは、一刺陽也。久病とは、邪氣入ること深し。
この病に刺す者は、深く内れて久しくこれを留む、日を間(へだて)て復たこれを刺す。
必ず先ずその左右を調え、その血脈を去れば、刺道畢わる。凡そ刺の法とは、必ずその形氣を察す。
形肉未だ脱せず、少氣にして脈又躁す。
躁厥する者は、必ずこれを繆刺することを為す、散氣は収むべし、聚氣は布くべし。
深くに居し静かに處して、神の往来を占う。
戸を閉じて牅を塞ぎ、魂魄散ぜず、意を専にし神を一にす。精氣の分なるは、人の声を聞くなかれ、以ってその精を収む。必ずその神を一にして、志をして鍼に在らしむ⑥
浅してこれを留め、微にしてこれを浮し、以ってその神を移す、氣至りて乃ち休す。
男は内、女は外に、堅く拒みて出すこと勿れ、
謹みて守り内(い)れること勿れ、
これを得氣を謂う。凡そ刺の禁、新たに内(い)れて刺すこと勿れ、新たに刺して内(い)れる勿れ。
已に酔すれば刺すこと勿れ、已に刺すれば酔する勿れ。
新たに怒すれば刺すこと勿れ、已に刺すれば怒する勿れ。
新たに勞すれば刺すこと勿れ、已に刺すれば勞する勿れ。
已に飽すれば刺すること勿れ、已に刺すれば飽する勿れ。
已に飢すれば刺すること勿れ、已に刺すれば飢する勿れ。
已に渇すれば刺すること勿れ、已に刺すれば渇する勿れ。
大いに驚き大いに恐るれば、必ずその氣を定めて、乃ちこれを刺す。
車に乘りて来たる者は、臥してこれを休して、食頃の如くにて、乃ちこれを刺す。
出行きて来たる者は、坐してこれを休めること、十里頃を行くが如くにて、乃ちこれを刺す。凡そこれら十二禁なるは、その脈乱れて氣散ず、營衛に逆して、経氣次せず。
因りてこれを刺せば、則ち陽病は陰に入り、
陰病、陽に出づれば、則ち邪氣復た生ずる。
粗工は察すること勿く、これを伐身と謂う、
形體淫泆して、乃ち脳髄は消え、津液は化せず、その五味を脱する、これを失氣と謂う也。
・・・・・(略)・・・・・

補瀉と迎随と和氣

『霊枢』小鍼解第三では「迎えて之を奪うとは瀉なり、追うてこれを濟うは補なり」と補寫と迎随との関係を明確にしている。
また九鍼十二原第一では「これを迎え、これに随い、意を以てこれを和す、鍼道畢ぬ。」とあり、和氣について示唆している。
それを受けての終始篇における補瀉と和氣である。

加えて前文にある「陰者主藏、陽者主府。陽受氣於四末、陰受氣於五藏。」が陰陽の氣の流れを明示している。
陽は氣を四末・四肢に気を受けるとある。
ちなみに「四肢は諸陽の本と為す(四肢為諸陽之本)」とは張景岳(張介賓;1563-1640年)や張志聡(張隠庵;1610-1682年)たちがその著書に記す言葉である。この言葉を基に解釈すると、陽氣は四肢をベースとした氣、陰氣は五臓をベースとした氣となる。

さて下線部①についてである。やや長文になるがここは鍼治の本意を解するためにも腰を据えて読み解いてみよう。

「陽受氣於四末、陰受氣於五藏。」とは、一見すると陰経と陽経はその流注が逆転すると解釈されそうであるが、この文の趣旨はそれだけではないだろう。強調されているのは“臓と四肢との陰陽対比”である。陰臓に属する陰経と陽腑に属する陽経との、“経脈におけると陰陽対比”ではないことが明示されている。
となれば、氣がもつ陰性と陽性の違いを条件とした鍼法として迎随を説いていることがわかる。すなわち陽経陰経の経脈の向きにおける迎随とは別の鍼法として解釈すべきである。(※臨床では氣の性と経脈の流れとの両方を考慮して鍼治を行うべきであるが)

一旦まとめよう。
“氣の陰性・陽性をもとに鍼にて和氣”を行う。その結果として身体の“陰陽を通ずる”こととなる。ここでいう陰陽の解釈は広くとるべきで、それは氣の陰陽であり、経脈の陰陽でもあり、臓腑の陰陽でもある。
このことは続く文にも「五藏を陰と為し、六府を陽と為す。」と明示されている。また、この氣は(たとえ陰陽に区分しようとも)経脈の中の行く氣を示していることが分かる。

営気は「営氣は…五臓に於いて和し調え、六府に於いては陳を灑す。乃ち能く脈に入る。故に脈の上下を循り、五臓を貫き六腑を絡す(營者、水穀之精氣也。和調於五藏、灑陳於六府、乃能入於脉也。故循脉上下、貫五藏、絡六府也。)」(『素問』痺論第四十三・「衛気と営気のトリセツ」を参照のこと)である故、営気すなわち経脈の氣を調和させることで、臓腑の陰陽が調うのである。

こうしてみると終始の本質がみえてくるだろう。
「氣をして和せしむる。和氣の方とは、必ず陰陽に通ず。五藏を陰と為し、六府を陽と為す」(下線部①)の解釈として以下に要約できる。
氣の陰陽の性を知り、経の陰陽を知る。そのことで鍼治は自ずと精妙なものとなる。精妙なる鍼治は必ず陰陽を通じ、氣を和さしめる。その結果として臓腑の陰陽を調えることとなる。また経氣の陰は五臓に根ざす(陰受氣於五藏)ため、それを紀とする鍼治による和氣の影響は環の端の無きが如く続くのである。

まさに冒頭文「凡そ刺の道は、終始に畢る。明らかに終始を知り、五藏を紀と為し、陰陽定む。」とあるとおりである。

氣が至ればどうなるのか?

「之を刺して氣至らざれば、その数を問うこと無し(刺之而氣不至、無問其数)」とは九鍼十二原の言葉である。

鍼をしても氣が至らなければ無効なのだ。鍼の本数を問わず、氣が至るまで鍼をすべしとの意である。では、氣の至りをどこで判断できるのか?
もちろん同じく九鍼十二原には「効の信、風の雲を吹くが若し。明なるかな蒼天を見るが若し。」との答えも記されているが、凡人には今ひとつピンとこない表現である。もう少し凡人に分かりやすい回答を…というのが、本段落の内容である。

「寫すれば則ち益々虚す。」「補すれば則ち益々實する。」
これは簡単にいうと、氣の至りは脈に現れるということだ。
瀉すれば実脈は減り(虚し)、補すれば虚した脈力は増す(実する)のは自明の理である。

この補寫と脈力の増減だけでなく、さらに詳細な説明が本段落には付記されている。

本文には「(瀉法によって、実脈が)虚(減)する者、脈大なることその故の如くにして堅ならざる也。」とある。
ここでの堅は病邪を示す実脈と解している。
つまり、脈力は元の通りに維持されており、堅のみ取れているということである。
言い換えると、邪気は除かれ正気は保たれている状態である。
さらに補足して「脈に堅が残る状態では、自覚症状は感じなくなったとしても、それは仮の治癒であり、病はまだ治っていない状態と言える」と、実践的な検脈法が説かれている。

そして補鍼・補法に関する記述である。
「(補法によって、虚脈が)實する者、脈大なることその故の如くにして益々堅なり。」とある。
補によって脈に力強さが戻り、益々堅実となる。
そして脈に堅がなければ、症状は軽快したようにみえてそれは仮の治癒、即ち「病は未だ去らず」という説明が、瀉法と同様に付記されている。

ただし“堅”の字に対して、瀉法と補法の説明文とは異なる解釈が必要であり、この点に違和感を覚えることは否めない。
強いて表現すると、脈大は脈の幅・太さ、堅は脈状と言ったところであろうか。
ただ、その堅にも表現の幅があるようで、正気と邪気、虚実の指標となる脈状を総称しているように読み取れる。

いずれにせよ、脈診の使い方でより詳細な診断が可能となる好例である。
この話は「脈診三機」に通ずる内容である。

三刺という刺法

一度目の刺鍼にて陽邪を出し、
二度目の刺鍼にて陰邪を出し
三度目の刺鍼にて穀氣至る。

この穀氣の至りをもって氣至るとし、刺鍼を止める。
これもまた前述の話、鍼の本数をいかに決定するか?の答えでもあり

この刺鍼の三層構造は「九鍼十二原」「官鍼」の両篇に記載されている話でもある。

補鍼について

以下の記述に関する考察を行う
ーーーーーーーーーー
補は一たび方に實することを須(ま)ちて、深くこれを取る、稀にその痏を按じて、以って極めてその邪氣を出す。
一たび方に虚すれば、浅くこれを刺して、以ってその脈を養い、疾くその痏を按じて、邪氣をして入ること得さしむること無し。
邪氣の来たる也、緊にして疾し。穀氣の来たる也、徐にして和なり。
ーーーーーーーーーー
「實することを待ちて深くこれを取る」とは補の刺法である。
(※楊上善は補ではなく補瀉とし、張介賓は補を刺とし、一般的な刺法論として展開しているが、一旦ここは置いておこう。)
痏とは傷口を意味する文字であるが、鍼跡を按ずることで邪を出すという。
そのような押し手の使い方がある。
また、虚に対して補鍼を行いその脈を養なうが、それと共に邪氣を侵入させないようにもする。
そのような押し手の用法がある。

鍼刺によって誘導する氣と、押し手によって動かす氣がある。

鍼の補瀉論においては、複数の読み取り方が必要だと思う。
分かりやすいのは技術論である。技術論はテクニカルな説明であり、素直にそのまま読めば良い。
もう一つは結果論というか、経時的な読み取り方が必要である。
つまり補瀉した後の正邪の動きを解する必要がある。

私は常々「補は瀉の補助、瀉は補の結果」と指導しているが、
先人の言葉「補は瀉なり、瀉は補なり」という言葉はこの意があったのではないか?と考察している。

ちなみに「邪氣の来たること、緊にして疾」「穀氣の来たること、徐にして和」とは、
鍼尖の感覚だけでなく、脈の反応にも共通してみられる特性ではないだろうか。

瀉鍼について

瀉鍼における浅刺と深刺の使い分けについて書かれている。

「脈、實なる者には、深くこれを刺し、以ってその氣を泄する。」
「脈、虚なる者には、浅くこれを刺し、精氣をして出づることを得ること無からしむ、以ってその脈を養い、獨りその邪氣を出す。」

脈実なる時には深鍼によって有余の氣を泄するという。
興味深いのは、脈虚なる者に対しての邪の処理法である。
先ず浅鍼によって精氣(正氣)をその部位に集めることで脈を養い、次いで邪氣のみを排出させる。
つまり瀉鍼といっても先補後瀉を極小の刺鍼点の中で行っているのだ。

神を一に…

下線部⑥について考察したい。

騒がしくない場所、静かな屋内にて、神氣の往来を候い、
魂魄を散ずることなく、意に専にすることによって神を一とする。
精と氣とが分なれば、人の声に耳を傾けることなく、精に収める。
それにより神は一として、その志を鍼に在らしむる。
(■原文:深居静處、占神往来、閉戸塞牅、魂魄不散、専意一神、精氣之分、毋聞人聲、以収其精、必一其神、令志在鍼。)

この文は“鍼治療における精神集中・精神統一”と解釈してしまう文にもみえてしまう。しかし九鍼十二原でも書いたが“鍼治において精神散漫な鍼師などいない”のである。よって鍼治における精神統一という解釈はピントがずれていると言わざるを得ない。

ではどのように解釈すべきか?楊上善の註文には以下のようにある。

深くに居し静かに處して、神の往来を占う、
戸を閉じて牅(まど)を塞ぎ、魂魄散ぜず、意を専にし神を一にして、
精氣の分、人聲を聞くなかれ、以ってその精を収め、必ずその神を一にして、志をして鍼に在らしむ。
浅してこれを留め、微にしてこれを浮し、以ってその神を移す、氣至りて乃ち休す。

深居静處〔鍼の調氣を為すには、凡そ六種有り。深静がその一なり。〕、占神往来〔妄りに心の動ずることを去る。その二なり〕、閉戸塞牅、魂魄不散〔馳散を去り、魂魄を守る。その三なり。〕、専意一神、精氣之分〔異思を去り、精神を守る。その四なり〕、毋聞人聲、以収其精〔異聴を去り、精氣を守る。その五なり〕、必一其神、令志在鍼〔平和なり、鍼を平に気を和する。その六也※〕。

■(原文)深居静處〔為鍼調氣、凡有六種。深静一也。〕、占神往来〔去妄心動。二也〕、閉戸塞牅、魂魄不散〔去馳散、守魂魄。三也。〕、専意一神、精氣之分〔去異思、守精神。四也〕、毋聞人聲、以収其精〔去異聽、守精氣。五也〕、必一其神、令志在鍼〔平和也、平鍼和氣。六也※〕。
※「移乖和也、守鍼下和氣、六也。」との説が讀古醫書岐黄會 発行版にはある。

楊上善の意見としては、鍼で調氣を行う際の魂魄・精神・精氣を守る法としている。

この文中に登場する用語には「神」「魂」「魄」「意」「志」そして「精」である。「思」を除いて、五臓に蔵する重要な神がこの短い文の中に集まっている。ちなみに神は4回の登場している。

五神を踏まえてみると、このように考察できるかもしれない。

横の世界観にある肝木と肺金の魂魄は動きやすい。そのために動じやすい魂魄を落ち着かせる必要がある。(本神篇を参照のこと)この魂魄を中央に位する脾・意によって安定させ“一に結ぶ”のである。
意によってその精(腎)を収め、神(心)に帰一する。志は鍼に在らしむ…と、心腎水火の交わりを脾土によって行う…という術者の中の世界観を連想することができる。

鍼術における神、そして移精変気

さらに別の観点から考察を加えたい。
「神を一にする」という表現には個人的に少々違和感を覚える。
しかも「神を一にする」という表現はこの段落にて2回も用いられている。すなわち「専意一神」「必一其神」である。わざわざ繰り返すということは、この「神を一にする」の意は前者と後者では微妙な違いがあると考えられる。

さて本来、神とは一つである(むろん一神教、多神教の意味ではない)。
しかし「神を一にする」という表現であれば、神(もしくはそれに類する存在)が複数あることになる。元々一つのものを一つにする必要はないのだから。

では「神は複数ある」と仮定すれば、どのような神が考えられるだろうか?
まずそもそも論として、術者個人だけの世界には収まらなくなる可能性が生まれる。なぜなら(例えばであるが)仮に術者の精神がいくら馳散し乱れようとも一個人に在る神は一つなのだから。となれば、術者のみの「神」に話を収めることに無理が生じる。
となれば複数の「神」とはどのように解釈できるだろうか?

まず初めに「神」を神氣という言葉に置き換えることが可能であろう。
「神の往来を占う(占神往来)」にある神とは神氣として解釈できる。なぜなら五神として臓に蔵される神があちらへこちらへと往来してしまっては危ういことこの上ない。往来する神といえば「節者、神氣之所遊行出入也。」(九鍼十二原)である。

そして次の「専意一神」は術者個人の神であろう。
意を専にし以て神を一にする、という文意であろうか。これは上記の陽上善の説に近い。
さらに次の「必一其神」に記される「その神」とは何か?
そしてさらに次の文には「以てその神を移す(以移其神)」とあり、前文の「以収其精、必一其神、令志在鍼」と「以移其神、氣至乃休。」と対になっているようにもみえる。
この「令志在鍼」は『素問』宝命全形論の「後に乃ち鍼を存する。(後乃存鍼)」にも通ずる。簡潔ながらも鍼と治神について私見を述べているので『素問』宝命全形論を参考にされたし。

さて、以上をまとめると刺鍼時の要訣として次のような文になるのではないか。(「…」文は霊枢本文、(…)文は足立解釈である)

「深くに居し静かに処して、神気の往来を占う。」
(この時点では、術者と患者の神気を観ているともとれる。患者の神気は経穴部位においては縦にも横にも往来する。)
「戸を閉じて牅を塞ぎ、魂魄散ぜず、意を専にし神を一にす。」
(この段階に至ると術者個人としての内観的な色合いが強くなる)
「精と氣が分かれる場合は、人の声を聞くなかれ。以ってその精に収めよ。必ずその神と一にし、志をして鍼に在らしむる。」
(この段階にて、術者の体内から体外・鍼へと意識を移している。これは表現を変えれば、対象を鍼とした移精変気の一つと言える。)
「浅してこれを留め、微にしてこれを浮し、以ってその神を移す、氣至りて乃ち休す。」
(神を移すとは鍼を介して神気を交流させることであろうか。ここで神の定義の一つ「陰陽不測之謂神」が活きてくる。そもそも我と彼の“氣”は違うものである。その氣を移したところでそれは定着するのか?という疑問が残る。“気の交流”とはいうがそう簡単なものではない。とくに治術においては猶更である。それを越える要が“神”といえるだろう。)

…と、私個人の希望的な解釈として鍼治における神の在り方を述べさせていただいた。
個における精神の集中という話に留まらず、氣と精と神とを段階的な理解には内丹学的でいう三宝などの知識も要するかもしれない。また、個(術者)のみのみの世界に留まらず、患者と術者といった彼我(陰陽)を包括した世界における「神を一に」という段階、そしてさらに上の段階に至る…と、推察することができる。
もちろんそうなると同じ「一」であっても「合一」か「帰一」か、はたまたそれらとは異なる「一」の概念の可能性を踏まえて「一」を考える必要がある。
となれば『霊枢』小鍼解の言葉「調氣とは終始に在る、一とは心を持すること也。」もただのマニュアル的な言葉ではなくなってくる。
いずれにせよ鍼術にはより高次な段階が存在するという可能性を大いに感じさせられる文である。

気の交流には注意が必要

ただ老婆心ながら付け加えると気の交流にも注意点がある。実は初心者ほど気の交流が上手いケースがままある。
「初心の鍼なのになぜかよく効く」等の話を耳にすることがあるが、これは“癒”の一心・一念でもって鍼を介して輸氣し我と彼の境を越える(気の交流を行う)ケースの一つだといえよう。

「…その神と一にし、志をして鍼に在らしむる。…その神を移す。」をナチュラルに行っていると言えるかもしれないが、あまり奨められることではない。ここでの詳述は避けるが、やはり『霊枢』にあるように氣・精・神をよく理解した上で、そして有形と無形の各段階をおって鍼術を磨くべきであろう。

しかしこのように終始篇をふり返ると『素問』移精変気論では不明瞭であった移精変気の法が、鍼を通じて非常に明瞭なものとなり、加えて安全な形でマニュアル化されているように読み取れる。さすがは「鍼経」とも称される『霊枢』終始篇である。

十二禁も大事

禁鍼の条件は営衛が乱れやすい条件を挙げている。
十二禁を理解することで衛氣営氣の特性を理解することにつながる。
また平旦を理解することも重要である。

鍼道五経会 足立繁久

本神篇第八 ≪ 終始篇第九 ≫ 経脈篇第十 ①

『霊枢』終始第九の原文

■原文 霊枢 終始第九
凡刺之道、畢於終始。明知終始、五藏為紀、陰陽定矣。
陰者主藏、陽者主府。
陽受氣於四末、陰受氣於五藏。
寫者迎之、補者隨之。知迎知随、氣可令和。①
和氣之方、必通陰陽、五藏為陰、六府為陽。
傳之後世、以血以盟、敬之者昌、慢之者亡。無道行私、必得夭殃。
謹奉天道、請言終始。終始者、経脈為紀。持其脈口人迎、以知陰陽有餘不足、平與不平、天道畢矣。
所謂平人者不病、不病者脈口人迎應四時也。上下相應而倶往来也。六経之脈、不結不動也。
本末之寒温、之相守司也。形肉氣血、必相稱也、是謂平人。
少氣者、脈口人迎倶少、而不稱尺寸也。
如是者、則陰陽倶不足。補陽則陰竭、寫陰則陽脱。
如是者、可将以甘薬、不可飲以至剤。如此者弗灸。
不已者、因而寫之、則五藏氣壊矣。人迎一盛、病在足少陽。一盛而躁、病在手少陽。
人迎二盛、病在足太陽。二盛而躁、病在手太陽。
人迎三盛、病在足陽明。三盛而躁、病在手陽明。
人迎四盛、且大且数、名曰溢陽。
溢陽為外格。
脈口一盛、病在足厥陰。厥陰一盛而躁在手心主。
脈口二盛、病在足少陰、二盛而躁在手少陰。
脈口三盛、病在足太陰。三盛而躁、在手太陰。
脈口四盛、且大且数者、名曰溢陰。
溢陰為内関。内関不通、死不治。
人迎與太陰脈口倶盛四倍以上、命曰関格。関格者、與之短期。
人迎一盛、寫足少陽而補足厥陰、二寫一補、日一取之。必切而験之、疎取之上、氣和乃止。
人迎二盛、寫足太陽、補足少陰、二寫一補、二日一取之。必切而験之、踈取之上、氣和乃止。
人迎三盛、寫足陽明而補足太陰、二寫一補、日二取之。必切而験之、踈取之上、氣和乃止。
脈口一盛、寫足厥陰、補足少陽、二補一寫、日一取之。必切而験之、踈取之上、氣和乃止。
脈口二盛、寫足少陰、補足太陰、二補一寫、二日一取之。必切而験之、踈取之上、氣和乃止。
脈口三盛、寫足太陰、補足陽明、二補一寫、日二取之。必切而験之、踈而取之上、氣和乃止。
所以日二取之者、太陽主胃、大富於穀氣、故可日二取也。
人迎與脈口倶盛三倍以上、命曰陰陽倶溢。
如是者、不開則血脈閉塞、氣無所行、流淫於中、五藏内傷。
如此者、因而灸之、則變易而為他病矣。凡刺之理、氣調而止。補陰寫陽、音氣益彰、耳目聡明。
反此者、血氣不行。
所謂氣至而有効者、寫則益虚。②
虚者、脈大如其故而不堅也。堅如其故者、適雖言故、病未去也。
補則益實、實者、脈大如其故而益堅也。
夫如其故而不堅者、適雖言快、病未去也。
故補則實、寫則虚。
痛雖不隨鍼、病必衰必去。
必先通十二経脈之所生病、而後可得傳於終始矣。
故陰陽不相移、虚實不傾、取之其経。凡刺之属、三刺至穀氣、邪僻妄合、陰陽易居、逆順相反、沈浮異處、四時不得、稽留浮泆、須鍼而去。
故一刺則陽邪出、再刺則陰邪出、三刺則穀氣至、穀氣至而止。③
所謂穀氣至者、已補而實、已寫而虚、故以知穀氣至也。
邪氣獨去者、陰與陽未能調、而病知愈也。故曰補則實、寫則虚。痛雖不隋鍼、病必衰去矣。
陰盛而陽虚、先補其陽、後寫其陰、而和之。陰虚而陽盛、先補其陰、後寫其陽、而和之。
三脈動於足大指之間、必審其實虚、虚而寫之、是謂重虚。重虚病益甚。
凡刺此者、以指按之、脈動而實且疾者、疾寫之。虚而徐者、則補之。
反此者、病益甚。
其動也、陽明在上、厥陰在中、少陰在下。
膺腧中膺、背腧中背肩膊。
虚者、取之上。
重舌、刺舌柱以鈹鍼也。
手屈而不伸者、其病在筋。伸而不屈者、其病在骨。在骨守骨、在筋守筋。
補須一方實、深取之、稀按其痏、以極出其邪氣。一方虚、浅刺之、以養其脈、疾按其痏、無使邪氣得入。④
邪氣来也、緊而疾。穀氣来也、徐而和。
脈實者、深刺之、以泄其氣。脈虚者、浅刺之、使精氣無得出、以養其脈、獨出其邪氣。⑤
刺諸痛者、其脈皆實。
故曰、従腰以上者、手太陰陽明皆主之。従腰以下者、足太陰陽明皆主之。
病在上者、下取之、病在下者、高取之。
病在頭者、取之足、病在腰者、取之膕。
病生於頭者頭重、生於手者臂重、生於足者足重。
治病者、先刺其病所従生者也。春氣在毛、夏氣在皮膚、秋氣在分肉、冬氣在筋骨。刺此病者、各以其時為齊。
故刺肥人者、以秋冬之齊、刺痩人者、以春夏之齊。病痛者、陰也。痛而以手按之不得者、陰也。深刺之。
病在上者、陽也。病在下者、陰也。癢者、陽也、浅刺之。病先起陰者、先治其陰而後治其陽。
病先起陽者、先治其陽而後治其陰。
刺熱厥者、留鍼反為寒。刺寒厥者、留鍼反為熱。
刺熱厥者、二陰一陽。
刺寒厥者、二陽一陰。
所謂二陰者、二刺陰也。一陽者、一刺陽也。久病者、邪氣入深、刺此病者、深内而久留之、間日而復刺之。必先調其左右、去其血脈、刺道畢矣。
凡刺之法、必察其形氣、形肉未脱、少氣而脈又躁。躁厥者、必為繆刺之、散氣可収、聚氣可布。
深居静處、占神往来、閉戸塞牅、魂魄不散、専意一神、精氣之分、毋聞人聲、以収其精、必一其神、令志在鍼⑥
浅而留之、微而浮之、以移其神、氣至乃休。
男女内外、堅拒勿出、謹守勿内、是謂得氣。凡刺之禁、新内勿刺、新刺勿内。
已酔勿刺、已刺勿酔。
新怒勿刺、已刺勿怒。
新勞勿刺、已刺勿勞。
已飽勿刺、已刺勿飽。
已飢勿刺、已刺勿飢。
已渇勿刺、已刺勿渇。
大驚大恐、必定其氣、乃刺之。
乘車来者、臥而休之、如食頃、乃刺之。
出行来者、坐而休之、如行十里頃、乃刺之。凡此十二禁者、其脈乱氣散、逆於營衛、経氣不次。
因而刺之、則陽病入於陰。
陰病出為陽、則邪氣復生。
粗工勿察、是謂伐身。
形體淫泆、乃消脳髄、津液不化、脱其五味、是謂失氣也。・・・・・(中略)・・・・・

 

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