『九鍼十二原鈔説 補瀉迎髄要略』を読む その1

石坂流の鍼術書『九鍼十二原鈔説』をよむ

石坂流鍼書の第5回です。今回のテーマは『九鍼十二原鈔説』です。
九鍼十二原とは言うまでもなく『霊枢(針経)』の第一篇です。鍼術の要について説かれている篇です。
その九針十二原について、かの石坂宗哲先生はどのように考えておられたのか?

第1回『宗榮衛三氣辨』、第2回『医源』、第3回第4回『石坂流鍼治十二條提要』はともに衛気・榮気・宗気などの解説を主とする生理学的な書でした。
これに比して今回紹介する『九鍼十二原鈔説』は鍼術に関する技術論にあたります。

黄色枠の下線部は霊枢の九鍼十二原の本文およびその下に書き下し文、その後の文章が石坂先生による注釈になります。本文は可能な限り原文に近い表現で載せています。ちなみにこの書は石坂宗哲の口述を筆記したとのことです。
そして枠外には不肖 足立のコメントを付記しております。


臨床実践鍼灸流儀書集成12(オリエント出版社)に収録の『石坂流鍼治十二條提要』より引用させていただいています。

補瀉迎髄要略櫟園先生口述  男 琇筆記

小鍼之要、易陳而難入。麤守形、上守神
小鍼の要は、陳べ易く入り難し、麤は形を守り、上は神を守る。

麤工は、一定の法を守りて、病の形迹(けいせき)、古人の規矩に泥み、或いは疝氣にはこの穴にへ刺す。或いは頭痛にはこの穴へ刺すなどと覚えて、病の名状に拘泥する故、奇妙の療治は出来ぬとぞ。

上工とて、医に上手は然らず。病の機発を具えて、神変不測の療治をなす故、中々形状に泥みて、疝氣と云うは十人が十人同じ穴處へ刺すような拙きことはなし。故に小鍼之術、その簡要なる所は、約にして陳説しやすしと雖も、その妙處に入りことは甚難と也。神を守るとは病人の神色機発を看て、これを補え冩することを云うなり。

麤(そ)とは粗工、まあ三流以下の鍼灸師ということでしょう。

「泥(なづ)み」、「拘泥する」という言葉が出てきますが、
粗工の特徴のひとつに「自分の思いに拘る」「チープな常識に囚われる」といった面があります。

「この症状にはこの経穴に鍼すれば効く」「この治療法なら驚きの効果!」
そんなマニュアルやスキルに振り回される人は粗工レベルだということでしょう。
いつの時代もスキルコレクターはいるのです。

そして上工(名人)は、その治療が融通無碍、自由自在であり、
名人が十人いれば、十人ともに治法が違うことは大いにあり得るのです。

名人と三流の違いは、形を守るか神機・機発を解しそれをつかむことにあるといいます。

神乎、神客在門 未観其疾 悪知其源
神や、神客門に在り、未だその疾を観て、悪にその源を知らん。

神乎の一句は、その神を守るの上工たることを歎義するの詞なり。
下の神字は正気のこと、客とは邪氣のことなり。門とは肌表腠理を云う也。
いかなる上手といえども、その正邪の肌表に在りて相争う時、未だ其の疾を観ざれば、その病源の深浅虚實を知りて、補瀉の術を施すことは出来ぬもの也。
是乃ち上手たる所以也。
麤工は却って病名形迹のみを目的とする故、疝氣と云えば疝氣の療治、頭痛と云えば頭痛の療治と覚えたる故、疾の機発を観て、意外の妙術を施すことは出来ぬなり。

「神とはなにか?」
当会の講座でもよくテーマとして話すことです。神という言葉にはいろいろな意味が込められています。
現代日本人の感覚では理解しにくい言葉かもしれません。

さて、この一行中にある神という文字でも1つ目と2つ目の神ではそれぞれ意味が違います。
文章を読んでの通りですが、同じ文字でも違う意味を持つことは古典ではよくあることです。

神という字、神という働き、神という理は鍼術においては非常に重要なキーワードとなります。
古典でいう神という言葉や文字を、現代に生きる我々の言葉に翻訳すると、どのような意味になるのか?
常々、思考をめぐらす必要はあると思うのです。

刺之微在遅速
刺の微は遅速に在り。

さて又、鍼刺の微妙なる術と云うは、最も針の遅速にあり。
凡そ人の身に針刺すことは、譬えば肉中に竹木の刺(とげ)立てたる如し。
何れの處にても竹木の刺立つときは、身中の宗気、これを外に排出さんと欲し、その處に相い聚りて、忽ち熱を生ず。
右(上記)の道理にて、針を刺す處へ宗気聚りて邪気を逐うなり。
これを経に気至と云う。その気未だ至らざるに針を引くときは、邪気を逐うこと能わずして、病に利なし。
その気已に至りても、尚針を去らずして、留まるときは邪気の出る路なくして益なし。
さればその気の至ること速やかなる者は、針も亦速やかにし、その気至ること遅き者は針も亦遅くす。
その気の至ること至らずとを候いて、刺術の遅速をなすこと最も微妙なり。
幽微にして妙致ある也。

この段落にも重要なことが書かれています。

「鍼術の術は鍼の遅速にあり」

この言葉は至言です。
鍼灸フェスタで発表した『ハリトキト』の内容は、この一節からも強く影響を受けています。

「その気の至ること速やかなる者は、針も亦速やかにし、その気至ること遅き者は針も亦遅くす。」

これは言い換えると、速い鍼で集まる気は速い性質を持つ。遅い鍼で集まる気は遅い性質を持つ。
ここまで書けば後は言うまでもないですね。

この考えを基に、使う鍼や鍼を効かせる時間などが導き出されます。

また石坂氏は、竹木の棘(とげ)が刺さった時の体の反応を鍼刺に喩えています。
棘が刺さる、すなわち異物が体に侵入しようとすると体はその異物を排除しようと反応します。
石坂氏は「熱を生ず」と書いていますが、これを現代医学では炎症反応といい、中国医学では邪正相争といいます。

つまるところ、鍼はどうあっても侵害刺激であり、その邪正相争の仕組みを利用している一面があります。

異物に対し、体が如何に反応するか?ここが鍼にせよ、漢方湯液にせよ重要です。
食物も鍼も、どちらも人体にとっては本来は異物です。
この異物に反応する力の有無がいわゆる胃気でもあるのです。

麤守関 上守機
麤は関を守り、上は機を守る。

これは上文の形を守り神を守ると云う者と同意也。
関とは関節を云いて、人身のふしぶし(節々)つがいめのことにて、即ち形なり。
機とはそのふしぶし・つがいめを、心のままに屈伸自在のはたらきを為さしむる者にて即ち神也。
関を四肢のことと定めて説く者は拙し。

粗工は関を大事にし、上工は機を大事にする。

ただし、この関を関節と解釈する者は拙い=まだまだ勉強不足であると言っています。
下の段落の機の説明と照らし合わせて読んでいきましょう。

機之動、不離其空、空中之機、清浄而微、其来不可逢、其往不可追。
機の動はその空を離れず、空中の機、清浄にして微、その来 逢うべからざる、その往 追うべからざる。

凡そ鍼灸の穴處と云う者は皆その肉隙骨空の間に在り。
如何となれば、これその神氣の往来、血液の滲灌、營衛の循環する所なれば也。
さればその神気の動くも、皆その骨空を離れずといえども、その空中の神機は最も清浄にして幽微なる者なり。
その来とは邪気の来て盛んなる也。
逢うとは此方より迎え手傳て、その病を熾んにすることにて、實病を誤りて補うことを云う。
猶 君の悪に逢うの逢の如し。往とは宗気の去りて衰うる也。追とは追奪の義にて、虚症の者を誤りて瀉することを云う。
治術多端なりといえども、只これ虚實補瀉の両途には過ぎず。

ここでは機の解説です。
特に「機の動」について詳しく説明されています。

「機の動はその空を離れず、空中の機、清浄にして微、その来 逢うべからざる、その往 追うべからざる。」
と、重要な表現なので霊枢の書き下し文をそのまま繰り返しますが、機の動・空中の機・清浄…ともに不可視のものです。
機と神は共通している点ですね。

鍼をするという行為は、この不可視の要素を踏まえて鍼を行う必要があるのです。

たとえ最初は「形」「関」という有形の鍼から入ったとしても、
最終的には「神」「機」という無形の鍼に至る必要があるということです。

知機之道者、不可掛以髪
機を知る者、髪を以て掛けるべからず。

さればその神機の往来、虚実の道を知ると云うことは、至て微にして密なれば、その間に髪一本も掛けられぬ程の者也。

不知機之道叩之不発
機の道を知らずば之を叩くも発せず。

この處に料簡の附かぬ者は何程これを叩くとも、治療の術を発明することは出来ぬ者也。
医は意也とも云いて、簡要の處に料簡を附けて、己が心切を以て学ぶときは、上手名人にもなられる者、無用の事に骨折りて、
いかほど博学に成るとも、簡要の處に料簡が定まらねば、やはり機の道を知らざる者にて、終身苦学しても、治療の妙は得られぬ也。
されば其の要を知らざれば流散して窮まり無しともいわれし也。

機の道、道理を理解しない者は、いかに知識を集めようとも、要となる理を得ない限りは鍼治を理解することはできないと仰っています。
いくら、懇切丁寧に説明されたところで、分からないことなのでしょう。

「秘伝は睫毛(まつげ)のようなもの」という言葉がありますが、
最初から教えてもらっているのに、目の前にあるのに、それに気づけないということです。

その2に続きます。

石坂流鍼術書の記事はコチラ

第1回『宗榮衛三氣辨』
第2回『医源』
第3回『石坂流鍼治十二條提要』前半
第4回『石坂流鍼治十二條提要』後半

 

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