石坂流鍼治十二條提要・後半

衛気に対する鍼術・営気に対する鍼術

久しぶりに石坂流の鍼術書の紹介です。

鍼灸フェスタでは「ハリトキト」のセッションにて、
衛気タイプの鍼術・営気タイプの鍼術について紹介しました。

「衛気・営気に対して如何に働きかけ、どのように作用するか?」
この問いに対して大きなヒントになったのが私にとっては『石坂流鍼術書』なのです。

『石坂流鍼治十二條提要』は鍼術書というよりは生理学の趣きが強いです。
しかし、これらの書を抜きにして石坂流鍼術を理解することは難しいでしょう。

各派の鍼術を理解するには、各派それぞれの人体観・病理観・治術観、すなわち世界観があります。
それらを理解せずに技術だけ学ぼうとしても、それはあくまで表層的なテクニックに終わってしまうことでしょう。

ということで『石坂流鍼治十二條提要・後半』を紹介します。
『石坂流鍼治十二條提要・前半』はコチラを参照のこと。

以下に、第八の「針刺の妙」から第十二の「病の源由を察す」まで各章の書き下し文を紹介します。

黄枠は『石坂流鍼治十二條提要』の本文を、可能な限り原文に近い表現で載せています。
臨床実践鍼灸流儀書集成12(オリエント出版社)に収録の『石坂流鍼治十二條提要』より引用させていただいています。

枠外には不詳 足立がコメントさせていただいています。
また黄枠内の本文の重要部分には私の判断で下線を引いております。

第八 針刺の妙

第八 針刺の妙針医たらん事、薬医より難きことあり。

薬医には上中下の三品あり。
上の品は内経以下古今の医書に博く通達したる也。
中の品はよくそれぞれの師傳を専ら守りたる也。
下の品はやうやう目に人々の黄芩を見覚え、口に脉の大小を云い覚え、
或いは和蘭陀の譯(訳)書を読み、定理もなく只見覚え療治する也。

故に昔日迠鋤を荷いたる人、今日は頭を圓にして薬医となる者多し。針医となる者多し。
針医は然らず。如何となれば、手術のある故なり。

微針 一番より七番までを縦横自在に刺し覚え、
此の押手彼の手の差別なく、管を用い管を用いざるの論なく、
左右上下仰伏側、病人の居なりに随いて自由を得て針刺すに至らざれば病を治す能わず。
響きあるひびきなき、是亦心の欲するに随うを術を得たりとす。

この域に至るは中々二年三年の稽古に得るべきことは非ず。たとえ師傳をきわめ得て精神を竭くして学び習すと雖も、四五年に至り自己の身體に刺すは勿論、多く人に施し、師に従いて種々の病に遭うに非ざれば、病を治すること能わず。
世俗、針医を軽んずる故、苞糈(ほうしょ・おくま=神に供える米)を受けるも少なくして、その謝を得るも針の費に足らず。
たとえば一人の病に針二本曲げたらんにはその日は施針せしなり。隙を費やし心力を労すること薬医に十倍す。

医は仁術と雖も、人各々衣食住この三つに奔走するなれば仁術の人なりとて、衣食住は地よりも湧き出ず天よりも降らざるなり。貧学の針医はこの域に耐えかねて薬医に轉業し、その為し易く人の貴みて寶(宝)の得易きに従うなり。

或いは君に養われ、或いは衣食に乏しからずして、斯の道に執心ある人か、或いは力を竭し身を苦しめ、僕従となりて師に従い、志篤きに非ざれば、針刺の妙を得ること難し。
さて、一度得たる時は死に至るまで忘れる事なく、微針一本持ちたらんには萬病をも治すべきなり。

彼の薬医の寶なく、職なければ一箇の素人に累ならざるとは大いに違わず乎。是他に無し。此れ已に之手に術を得るが故也。

されば能々この理を辨え手に得て心に知り自由に術を至るまでを期として学ぶ可きなり。猶 知要一言に詳らかなり。

ここでは鍼医と薬医(漢方医)との比較を通して、鍼医であること、鍼医術を追窮することの困難さを伝えんとしています。

薬医に上中下の3段階あることを通じて、医のグレードをあらわしています。もちろん、薬医に限った話ではなく、鍼医も同様にみるべきでしょう。
上工、中工、下工といったところでしょうか。

下工の特徴、「書を読んで、ただ見て聞いて覚えた治療をする」これが下の鍼灸師ということです。
この段階には、定理、道理、すなわち理を追窮する姿勢も精神も失われている。と、このような戒めを指摘されています。

そしてまた、鍼医に対する世間の評価が低い!とも石坂先生は嘆いておられます。鍼治の報酬が低く、鍼代の足しにもならない…と。
世の中の鍼医に対する評価、そして治療費の相場、諸条件が鍼医術を窮めること壁となっていて、よほど恵まれた環境にあるか、よほどの篤志家でないと、鍼医術の妙を窮めることは難しいとのこと。

今の鍼灸業界をみて、石坂宗哲先生は何と仰るでしょうか…
「なんだ!?170年経っても、何も変わっていないではないか!?いや、むしろ江戸時代の方がマシじゃないか!?」とお怒りになるのではないかと、心苦しく思うばかりです。

第九 灸法

第九 灸法

第九 灸法
官能篇に曰く、陰陽皆虚すれば火自ずから此に當る、と。針のおさめざる所は灸の宜しき処也、と有りて人の一身動脈の動くべき所に絶えて動かず。
又、大いに動く脉の細微になりたる類に用ゆる也。
則ちこれ陥下すれば此に灸するの法也。その数三七壮に限る。五壮七壮にして効を得るを灸法を得たりとする也。たとえば脊骨の曲がりたるに侠脊の穴に灸し、頭偏痛するに頭上の痛みに灸するの類は目前の効を得る事多し。
大概は皮膚上の病、精神栄衛の細絡、纖状つまりて病をなす。
※纖:セン・こまかい・かよわい
或いは結ぼれたる閉じたる衰弱したるに灸す。
亦浅き痛みに何れの場所にても灸す。熱ある病に灸するは劫法と云い、熱に火を以て刧かす也。能くその理に達して是を行わば功を得ること少なからず。頭より踵に至るまで病のあらん處は何れの場所にても灸して苦しからず。灸に禁穴なしと知るべし。
唯 皮膚の寒温滑濇を能々察して病の深浅新古を量り知るを第一とす。灸を緩くしたるは熨法なり。中寒中暑中風等何れの病にても痠れ痛みある所へ熨法を用ゆべし。
灸熨の法を能く用いるときは必ず奇効を奏することあり。

「鍼のおさめざる所は灸の宜しき処」
鍼と灸は相補的な関係にあるということです。
鍼治と灸治はそれぞれに特性があります。その特性を理解して使い分ける必要があるのです。

同じ灸にも台座灸(温灸)と“ひねりもぐさ”の知熱灸もまたその特性が異なります。
これも使い分けが本来は必要なのです。

「精神栄衛の細絡」という表現が興味深いですね。石坂流の人体観、衛気栄気観には精神宗気の存在が重要な位置を占めています。

灸法に刧法と熨法があるということです。
また「灸法に禁穴なし」ということも鍼治の「針刺に定まりたる穴所はなし」と同じです。

第十 五気五味人を養う

第十 五気五味人を養う天地の間に生ずるもの五穀を始めとして人之食物となり。人を養うもの皆気を味とあり。人得て以て生々の供とす。
気は胃中の霧焦に化して精神を養い、味は小腸の漚焦に化して栄衛精神の根を生ずる故に五味五気は栄衛精神の淵源なればこれより貴き者はなし。この理を明らかにして五穀の口より入り、胃腸の気味を消化し大腸の糟粕を泌別するの理をよく明らかにすべし。故に曰く、神不足する者は是を養うに気を以てし、精不足する者は是を養うに味を以てす。又曰く、天、人を養うに気を以てし、地、人を養うに味を以てす、と古昔聖人の訓なり。

生き物である以上、食べ物は生きるためには必須です。これを生生の供とするわけですが、中国医学では、飲食・水穀からエネルギー(精微)を取り出すシステムとして、胃・腸・三焦の機能があります。

特に三焦は上焦の霧の如し、中焦は漚の如し、下焦を瀆の如しとして、それぞれ上中下焦の機能を譬える表現があります。ここでいう霧焦、漚焦はそれぞれ上焦、中焦ということでしょう。

この辺りのお話は「飲入於胃、遊溢精氣、上輸於脾、脾氣散精、上帰於肺、…」(『素問』経脈別論篇第二十一)や、
「陽は氣と為し、陰は味と為します。また味は形に帰し、形は氣に帰します。そして氣は精に帰し、精は化に帰します。…」(『素問』陰陽應象大論第五)を参考にしてよいのではないでしょうか。

陽である氣は胃中の霧焦(上焦)に化して精神を養い、陰である味は小腸の漚焦(中焦)にて栄衛精神の根として人体に供給されると解釈しています。

胃氣・胃の気についての重要性は過去記事でも「死脈を考えるシリーズ」などで触れておりますので参照してくだされば幸いです。
「死脈を考える4 胃の気と脈」
「死脈を考える5 胃の気と脈-氣と神と精と脈-」

第十一 三百六十節

第十一 三百六十節

経に曰く「三百六十五節、神気の遊行出入する處。皮肉筋骨に非ず」と云うは、乃ちこれ古人栄衛の相交る所、宗脉の會する處をしるし示したる者なれども、後世に至り精神を有形無形の間に置き、宗気宗脉 栄気衛気は何物たることを知らぬように成り行き、骨空論、気府論、気血論等のもの、十四経穴の説に蔽惑せられ、三陰三陽手足十二経任督の十四経へ穴所をわり付け、皆偽り作るの者と也。内経の教えは絶滅したり。

予、上古の針法に復し、古の三百六十節の廃れたるを引き起こし門弟子に示さんと欲す。

内経に肉の大會と谷と云い、小會を谿と云い、肉分の間谿谷の會に栄衛を通行し、宗気を會すとあり、邪気あれば宗気塞がりて脉熱し、肉敗れ、栄衛通行せざれば、骨髄は内に敗れ、大㬷(キン)は外に破れて邪気節腠に留まり、必ず膿をなさんとすと云えり。

又、積寒留りやどり(宿りて)栄衛その所を通ぜざれば肘膝屈伸を得ず、内は骨痺をなし、外は不仁をなすと云えり。

又、三百六十五穴は栄衛を通行するの節なれば、邪気これに客となり栄衛稽留し、衛散じ栄溢るれば、宗気も竭き血も居りつきて、外発熱をなし内は呼吸少気をなす。速やかにその病を瀉して、怠(息む?)ることなく栄衛を通行すべしとあり。

この理を辨へ、惣身 何れの場所にても宗気栄衛の滞りて邪気あるを見出し、その場所に針してこれをすべし。
或いは微針を以て補い、或いは鈹針を以て瀉し、宗気栄衛を通行すべし。
必ず三百六十節の會するところを問うことなく、邪の在るところを節とし、痛むを以て穴とすべし。

精神を有形無形の間に置き…という表現が気になりますね。実に興味深い言葉です。

本文で内経の文が引用されていますので、その出典を以下に挙げておきます。参考までに…。

『霊枢』九鍼十二原第一

「節之交三百六十五會。知其要者、一言而終、不知其要、流散無窮。
所言節者、神氣之所、遊行出入也。非皮肉筋骨也。」

節とは神氣の遊行、出入する所なのです。

『素問』氣穴論篇第五十八

「帝曰、余已知氣穴之處、遊鍼之居。願聞孫絡谿谷、亦有所應乎?
岐伯曰、孫絡三百六十五穴會、亦以應一歳。以溢奇邪、以通栄衛。
栄衛稽留、衛散栄溢、氣竭血著。外為発熱、内為少氣。
疾冩無怠、以通栄衛、見而冩之、無問所會。
帝曰、善。願聞谿谷之會也。
岐伯曰、肉之大會為谷、肉之小會為谿。肉分之間、谿谷之會。以行栄衛、以會大氣。
邪溢氣壅、脈熱肉敗、栄衛不行、必将為膿。内銷骨髄、外破大㬷、留於節湊、必将為敗。
積寒留舎、栄衛不居、卷肉縮筋、肋肘不得伸、内為骨痺、外為不仁。」

今さらな話ではありますが、経穴は365または360あります。
近年、新穴や経外奇穴など、経穴が増えているようですが、私の好みではありませんね。

365または360、この数字に意味があるのです。
天人相応や天人合一の思想が基になっています。
天の数は365または360、すなわち一年の数ですので、その天の運行の数が人体にも投影されているという思想です。
ですので、ただ経穴を増やせば良いというものではなく、天の理、地の理、人の理に法った根拠が必要だと思うのです。
※365または360についてはいずれ別記事にて整理します。

第十二  病の源由を察す

第十二 病の源由を察す

その目を視、顔色を視て、宗気の有餘不足を知るべし。病人はその声音を聴きてこれを深く察すべし。脉の上下左右を診して栄衛の旺衰を知り、病の劇易を察すべし。

諸々痛む者は栄衛滞りて、宗脉自由を得ざる故これを押し通らんとして宗脉栄衛相集まりて力を用ゆる故、皆閉じて熱を生じ痛をなすなり。

癢きは皮膚の下焦分利あしく水道の度を失うと血浮かみ溢れて水道を厭との致す所。又、宗脉の身外に蒸し出る者、滞り自由を得ざるとの致す也所。

悪寒は邪気外より入りて宗脉栄衛の道を塞ぐ故、栄衛度を失い宗気内に潜し、外冷えて戦慄し毛竅ふくるるなり。筋の緩み、或いは引きつるは宗脉の過不及と知るべし。

眩暈は眼に灌ぐ宗脉の変にして邪気脳中に入り、宗脉の源を襲う故也。

鼻の香臭を嗅がぬ、耳の蝉鳴鐘鳴をなし、或いはふっと聞こえぬ等、皆 宗脉の脳より灌ぐ道の不足したる、若しくは絶えたる也。
その外、口の味わいなき、食のむつかしき、胃腸の消化あしき、大小便の利不利に至るまで、皆宗気のわざにて十二官のその職を奉ずること能わざるなり起きる所と知るべきなり。

この章の冒頭も『霊枢』九鍼十二原の文と似ていますが、望聞問切にて宗氣栄氣衛氣の盛衰と偏りを判断せよということなのです。

眼耳鼻舌身、すなわち色聲香味触といった五感は石坂流では宗氣が主宰されるとしています。
五官・五感の異常に対しても、鍼灸が有効であるのでは、この人体観が根拠のひとつであるともいえるでしょう。

右(上記)十二條はその大略を挙げる也。是によりて猶 深く考え博く学べば藍より出て藍より青き譬えの如く、己に勝れる人の出来なば世の為、道の為にも目出事ならん。子たる者、孫たる者は勿論、凡そ予が門に遊べる子弟子、斯道の奥義を胸に極め針刺の手術自由を得てその専門の学に於ける乎。異邦蛮国の人に対すと雖も聊か胡乱義に至らんこと是 予が深く冀(こいねが)う所也。

 

文政九 丙戌 夏五月 竿齋石坂 文和

門人  川瀬宗斉

信州佐久郡鳴瀬村に而
是を書す

(針治提要序は省略いたします。)

 

 

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