如環無端の矛盾 -完成された不完全-

如環無端の矛盾

鍼灸経絡学を学んでいくと「如環無端(環の端の無きが如く)」という言葉を目にすると思います。
経脈を扱う鍼灸師ならば知っておくべき言葉の一つでしょう。

「如環無端とはメビウスの帯のように途切れることなく循環する様子を言う」と私は教わりました。


写真:メビウスの帯(メビウスの輪)状の玩具

人体を流行する経脈は一繋がりであり、滔々と流れ生命を維持している…と考えると『なるほどメビウスの輪か~如環無端とは言い得て妙だな…』と感嘆するのです。

『素問』六節藏象論 では天運天行のことを如環無端という言葉で表しています。そして『霊枢』では人体における循環を如環無端という言葉で表現しています。
また霊枢の内容を受けてか『難経』三十にも同様の記述があります。

『霊枢』邪氣藏府病形第四「陰之與陽也、異名同類、上下相会、経絡之相貫、如環無端
『霊枢』経水第十二「凡此五藏六府十二経水者、外有源泉、而内有所禀、此皆内外相貫、如環無端、人経亦然。」
『霊枢』脈度第十七「氣之不得無行也、如水之流、如日月之行不休、故陰脈栄其藏、陽脈栄其府、如環之無端、莫知其紀、終而復始、」
『霊枢』營衛生会第十八「…営周不休、五十而復大会、陰陽相貫、如環無端」
『霊枢』衛氣第五十二「…陰陽相随、外内相貫、如環之無端。」
『霊枢』動輸第六十二では「營衛之行也、上下相貫、如環之無端、…」「此所謂如環無端、莫知其紀、終而復始、此之謂也。」
難経三十難
…榮行脈中、衛行脈外。榮周不息。五十而復大會。陰陽相貫、如環之無端。故知榮衛相隨也。

他論篇にも循環を表わす類似の言葉がありますが、ここでは省略します。また古文献では孫子 勢編第五にも「戦勢不過奇正、奇正之変、不可勝窮也、奇正還相生、如環之無端、孰能窮之。」と如環無端の言葉が見られ連環の戦術が垣間見ることができますが、やはりここでは割愛。

さて、このように霊枢では各篇にて如環無端が登場し、循環の重要性を示唆しています。

しかしさらに経脈を勉強していくと、ある矛盾に気づくと思います。そうです。経絡は一つながりの存在ではないのです。

歪(いびつ)な如環無端?

経絡の授業を受けると「十二正経は手太陰肺経から始まり、足厥陰肝経に終わる」とイメージしてしまうのではないでしょうか?
しかし、十二正経の始点と終点を正しく覚えるべきです。

十二正経の始点は「手太陰肺経は中焦に起こる」です。
この経脈の源がどこにあるのか?という点を覚えて理解しておくことは非常に重要なことです。
経脈を始め人体を生命として認識しているか否かの大きな差につながるのです。

そして起点が中焦であることを理解したならば、次は終点を理解しましょう。

足厥陰肝経はどのように終わるのか?これが分かれば終始を知ることになります。

『霊枢』経脉篇をみてみましょう。

『霊枢』経脈第十の肝足厥陰之脈を引用してみましょう。

肝足厥陰之脈、起於大指叢毛之際、上循足跗上廉、去内踝一寸、上踝八寸、交出太陰之後、上膕内廉、循股陰、入毛中、過陰器、抵小腹、挟胃属肝絡膽、上貫膈、布脇肋、循喉嚨之後、上入頏顙、連目系、上出額、與督脈會於巓。
其支者、従目系下頬裏、環脣内。
其支者、復従肝別貫膈、上注肺。

…と、以上の肝経流注を見るとわかるように、大陰脾経とは交わっても太陰肺経との直接的なつながりは確認できません。本経においても支脈においてもです。また、胃を侠むという記述はあっても、肺経の始点である中焦にも流れてはいません。

足厥陰肝経から手太陰肺経へと直接的な繋がりがあれば如環無端も分かるのですが、どうやらそうではありません。
念のため肺経流注も引用しましょう。

肺手太陰之脈、起於中焦、下絡大腸、還循胃口、上膈属肺、従肺系横出腋下、下循臑内、行少陰心主之前、下肘中、循臂内上骨下廉、入寸口、上魚循魚際、出大指之端。
其支者、従腕後直出次指内廉、出其端。

【肝経→肺経】ではなく【肝経→肺藏→肺経】…と、十二経を一周した後の経氣は一旦、肺藏に流入します。そこから肺に属する肺経へと接続する流れが経脈篇には記されています。他にも経別・経水・経筋を通覧しても同様の結論となります。

つまり肺経の途中の肺藏から、二周目の後続経氣を迎える形になります。
これは当然と言えば当然で、経脈システムには循環という要素も成立させたいですが、胃氣をベースとして経脈(営気)が成り立っているという人体観をも成立させたいからです。どちらも両立させるにはどこかでスッキリしない所が出てくるのでしょう。

少々細かすぎる考えでしょうか?確かにインフラとしての経絡網に不備があっても営衛の流れがそれを補っている人体観も霊枢・難経から伺えます。

しかし話の流れのため敢えて突っ込ませていただきます。(なぜなら今回は構造の方面にフォーカスを絞りたいからです)

“環の端の無きが如し”に譬えるには、少し歪(いびつ)な環ですね。
経脈学説を説く『霊枢』が歪な如環無端を提唱するとは何事でありましょうか?

永久循環の否定

歪な環だと書きまししたが、私はこれはこれで素晴らしいシステムだと思います。

如環無端とはさながら“永久循環”を象徴するような表現です。
しかし、人の命は有限のものであり、人体は確実に老いていくものです。実際には、エネルギーを日々補給しないと飢えてしまう…という非常に燃費の悪い器でもあります。

もし経脈が如環無端であれば、これらの飢え・老衰などの出来事とは無縁の生命体が出来上がってしまうのではないでしょうか?
もちろん、臓腑病や外傷・事故などで死に至ることは可能でしょうが、かなり死亡率の低い個体が出来上がると思います。

そうなると生物としてはちょっと都合の悪い存在になると思います。自然に於いて生物は循環を司る存在ですから、あまりに長く一個体が存続し続けてもバランスが取りにくい。さっさと交代しないといけないのです。でもその種が簡単に絶えてしまっても困るので自己複製を円滑に行わなければならない。なので生殖を行うのですが。…と話が逸れてしまうので戻ります。

このようにみると、ある意味「歪(いびつ)で不完全な構造」であることが生き物としては良い条件であるとも考えるのです。いわば完成された不完全というところでしょうか。

この「生き物として完成された不完全」が経脈循環システムの中に組み込まれていることに(正経だけでなく奇経にも同様の不完全さがみられる「齗交の扱い」を参照のこと)気づくと経脈学を構築した古代中国の人体観・生命観はそれは素晴らしい観点を持っていたのだと感動するのです。

そしてこの「完成された不完全」という矛盾を解消して、延命長寿・不老不死までを願って解決策を見出そうとしたのが道教・神仙術なのではないでしょうか。

如環無端を完成させた漢(おとこ)

如環無端そして「完成された不完全」についてもう少し続きがあります。
この如環無端の矛盾を解決させようと試みた人がいます。
攖寧生こと滑伯仁です。彼の著書『十四経発揮』の厥陰肝経流注には以下の記述があります。

肝経の支脈は復た肝より別れて膈を貫く、上りて肺に注ぐ。
此れは交経の支脈である。期門 肝に属する處より、別れて膈を貫き、食竇の外 本経の裏を行り、上りて肺中に注ぐ。下行して中焦に至り中脘の分を挟む、以って手太陰と交わる也

(原文)其支者復従肝、別貫膈、上注肺。
此交経之支、従期門属肝處、別貫膈、行食竇之外、本経之裏。上注肺中。下行至中焦挟中脘之分、以交於手太陰也。

足厥陰肝経穴歌より

下線部の内容は厥陰肝経と太陰肺経の交叉について直接的に表現しているものです。(ちなみに『鍼灸甲乙経』にはこの文はありません)

繰り返しますが『霊枢』では「其支者、復従肝別貫膈、上注肺。」と中途半端に終わっていましたが
その続きを滑伯仁は「上注肺中。下行至中焦挟中脘之分、以交於手太陰也。」と補足し、肝経支脈が肺経の起始部である中焦(中脘)に接続する説を提唱しています。

もちろん手太陰肺経にも以下の註を加え、厥陰肝経との連環を説いています。

手の太陰は中焦に起こる。足厥陰の交を受ける也。

(原文)…手太陰起于中焦、受足厥陰之交也。…

十四経脈気所発篇 手太陰肺経穴歌より

(やはり『鍼灸甲乙経』にはこの文はありません)

ともあれ、これにて如環無端・永久循環の出来上がりですね。
個人的には「完成された不完全」モデルの方が生物として理に適っているような気がするので、少し残念な気がします。
さて滑伯仁のおかげで如環無端が完成してしまったのですが、これをどのようにオチをつけましょう…。

如環無端を完成させた人物、滑伯仁に注目してみましょう。
彼、滑伯仁の号 攖寧生に用いられた攖寧という言葉は『荘子』大宗師篇にみられます。欬当部を引用しましょう。

朝徹の後、而して獨を見ること能う。
而る後、古今を無くすこと能う。
古今を無にして而る後、不死不生(死も生もない境地)に入ること能う。
生を殺する者は死せず、生を生する者は生じず。
其れ物を為すは、将いざる(送らざる)こと無き也、迎えざること無き也、毀ざること無き也、成さざること無き也。
其れ名けて攖寧と為す。
攖寧たる者は、攖して後に成る者なり。

(原文)朝徹而後能見獨、見獨而後能無古今、無古今而後能入於不死不生、殺生者不死、生生者不生、其為物、無不將也、無不迎也、無不毀也、無不成也、
其名為攖寧。攖寧也者、攖而後成者也。

攖寧の解釈には諸説あるようですが、「古今(時)無く」「不死不生」というフレーズからは神仙という存在を想起します。
また攖の字には[触れる」という意もあり、攖寧という言葉を「万象(もしくは他者)に触(攖)れて後に成る」と解釈すると、脈診でいうところの神(陰陽不測これを神と謂う)を連想させられます。

いずれにせよ、滑伯仁は老荘思想を嗜み、その号名から無古今、不死不生の境地を包括した攖寧をひとつの理想としたことが推察できます。
人体における経絡循環を如環無端のように整備し直したかったという思想も分からないでもありませんね。

経絡を基盤とした人体観においては、まさに永久循環の完成です。
脈の内外を行る営衛のお仕事(防衛や栄養供給など)を考えると、それ相応の正気の消費消耗は否めませんが、インフラとしての循環網は完璧です。
しかも中焦から継続して水穀の精微が供給され続けるのです。継続的な後天の氣さえ確保すれば、このパーフェクト・ボディで寿命を全うしない人などいるのでしょうか。

もちろん事故や外傷、それに感染症や癌疾患などなど…他にも、「経絡循環網を破綻させる要因」はいくつも考えられると思います。
しかし、人体の五神七情を藏し有する臓、絶妙な完成度の正奇経脈、水穀の精微を取り込むための腑…を備えた人体とは、長寿という可能性を追究することができる器だなぁと感嘆せずにはいられません。

この滑伯仁が提唱した[肝経の支脈が中焦・中脘に接続している説」の真偽は、経絡が視える人でないと確認できない案件ですが、その是非は一旦置いておくとして次のようにまとめます。

『霊枢』の頃の「完成された不完全(歪な如環無端)」が、滑伯仁の手によって「完成された完全(如環無端)」として経絡学説の発展をみた…とする案が一つ。
となれば、金元代では湯液医学だけでなく鍼灸医学も発展したといえます。

もう一つの案としては「ある条件によって如環無端が完成する」という説を攖寧生は暗に示唆しているのでは…というオチ。
この案であれば、「完成された不完全(歪な如環無端)」と「完成された完全(如環無端)」が両立するわけです。
この点は「奇経における歪な如環無端-齗交の扱い-」に書いた私見にも通ずるものがあり、ある一定の条件を満たすことで、如環無端が成立させやすくなるのではないだろうか?とも考えるのです。なにしろ攖寧生ですから。

最後に余談ながら…

もしこの如環無端が完成されているという前提で人の生老病死を見直すと、人間というのは先天の氣ベースで生きる期間よりも後天の氣をベースに生きる期間が(他の生物に比べて)圧倒的に長い生物なのだな…とも思います。
そうなると、他の生物にはできない仕事を万物の霊長として実行する義務があるということなのでしょう。

このように医学を突き詰めていくと、死生観をテーマとする作業にもたどり着きます。
我々鍼灸師は鍼灸医学が基盤としている東洋医学・東洋思想でそれを考察する必要も時にはあると思う今日この頃です。

 

鍼道五経会 足立繁久

おすすめ記事

  • Pocket
  • LINEで送る
  • このエントリーをはてなブックマークに追加

コメントを残す




Menu

HOME

TOP