本記事では鍼・灸・湯液の各治法の比較について、とある医家の言葉を紹介します。
引用元は『十四経発揮』の序…ではなく、「新刊十四経絡発揮序(新刻十四経絡発揮序)」について。ここには鍼・灸・湯液の誤治における反応の遅速を挙げ、そこから鍼灸湯液の三法の効果の遅速・治術の易難を提示しています。
また鍼灸がもつ様々なアプローチについても紹介されています。この点も鍼灸師ならば知っておくべき知識といえましょう。では本文を読んでいきましょう。
※画像は『十四経絡発揮和解』京都大学付属図書館より引用させていただきました。
※以下に書き下し文、次いで足立のコメントと原文を紹介。
※現代文に訳さないのは経文の本意を損なう可能性があるためです。口語訳は各自の世界観でお願いします。
■書き下し文 「新刻十四経絡発揮序」
十四経絡発揮とは、十四経絡を発揮する也。経絡の人身に在ること、手三陰三陽・足三陰三陽、凡(すべ)て十有二、而して十四と云う者は、任督二脈を併せて言う也。
任督の二脈、何を以て併せて言わん。任脈は腹を直行し、督脈は背を直行し、腹背の中行諸穴の系る所を為す也。
手太陰肺経は左右各々十一穴、足太陰脾経は左右各々二十七穴、手陽明大腸経は左右各々二十穴、足陽明胃経は左右各々四十五穴、手少陰心経は左右各々九穴、足少陰腎経は左右各々二十七穴、手太陽小腸経は左右各々十九穴、足太陽膀胱経は左右各々六十三穴、手厥陰心包経は左右各々九穴、足厥陰肝経は左右各々十三穴、手少陽三焦経は左右各々四十六穴、足少陽胆経は左右各々四十三穴、兼ねて任脈の中行二十四穴、督脈の中行二十八穴を以て、而して人身を周(めぐ)る。
医者、此れを明にして以て鍼すべく以て灸すべく以て湯液これを投ずべし。向う所、験を取らずということ無し。
後世の医道明ならず、古先聖王の救世の術は多くは廃れ講ぜず。鍼灸・湯液の法、或いは岐(わ)けて或いは二となり、或いは参じて三となり、其の又最も下りては、則ち鍼を行う者は百に一つ、灸を行う者は什に二つ、湯液を行うの者は什に九にして千万あり。抑々何ぞ多寡の相い懸(へだて)るや?
或る者の以(おもえらく)鍼は誤りて効(しるし)を立つる、灸は之に次ぐ。而して湯液は猶お稍(やや)緩やかなるべきか。是れ故に彼を業とする者、多くは此れを業とする者寡なり。噫、果して是の若きは亦た浅き哉。
其の心を用いる也。
夫れ医の病を治すること、猶(なお)人の水を治むるが如し。水の天地を行くこと、猶(なお)血氣の人身を行くが如し也。溝渠・畎浍・河泖・川瀆、皆な其の流注交際の処、或いは壅ぎ、或塞がり、或溢るる、皆な以て治(治水)を害して病と成すに足れり。苟しくも其の嚮道明らかにせずして、之を治めんと欲せば、其れ泛濫妄行に至らざる者否(あらん)也。
医の治病、一迎一隨、一補一瀉、一汗一下、一宣一導、凡そ其の和平を取る所以の者も亦た是の若きのみ。而(しかるに)経絡を講ぜずして置(捨)つるべけんや。
滑伯仁氏、之を憂うること有り、故に之が図を為し之が註を為し之が歌を為し、以て之を発揮し、周悉、詳盡、曲暢、㫄通す。後の医者、巻を披(ひら)きて焉(これ)を得るべし。伯仁氏の心を用いること亦た深き哉。
伯仁氏に後(おくれ)て興る者に薛良武氏有り。良武氏、心を潜心講究して其の自得する所も亦た已に多し。乃ち復た是の書を校正して諸梓に刊(きざみ)て、以て其の伝を広めんことを欲す。是の心を推す也、即ち伯仁氏の心也。
良武、名は鎧、呉の長洲人為(た)り。子有り(子の名)己と曰う者、今医を以て南京太医事に判たり。尤も外科を以て名あり。而して外科は特(ただ)其の一也。君子、謂其の能く家業を振ると謂う。云。
嘉靖戊子、冬閏十月望日、前進士 姑蘇西閶盛應陽斯顯、書于金陵官舎
※薛鎧、字は良武。
新刊十四経絡発揮序は滑伯仁のものではなく…
この序文は『十四経絡発揮』に収録されているため、滑伯仁の言葉のように見えます。しかし「新刊十四経絡発揮序」本文を読むと、記される年号からは明代(1528年)のものであり、薛鎧による序であることがわかります。
(参考資料として『十四経発揮』(滑伯仁 著)を参照のこと)
ちなみに薛氏は明代の有名な医家で、薛鎧・薛已の親子は多くの医書を残しています。現代も用いられる抑肝散は薛氏の書『保嬰撮要』を出典としていると言われています。
つまりは薛氏も名だたる医家の一人。滑伯仁の序ではないからと言って、見過ごして良い言葉ではないということです。
鍼・灸・湯液、医学の伝承
序文一部を以下に引用します。
この文は“十四経脈の流注を明らかにすることで初めて鍼・灸・湯液を正確に施すことができる”としています。しかし、後の世に至るとその医道(十四経脈の構造を深く解しようする姿勢)も失われてしまいます。
古より伝わる素晴らしい医学が廃れてしまうと、その価値が分からない人も増え、代を重ねるごとに医学の荒廃が進みます。
さらに鍼・灸・湯液は本来一つの医学であったはずが、鍼と灸と湯液に分化されます。これら全てを一貫して学ぼうと志す人材が減ってしまう…という不運が重なる様子が記されているのは、まるで現代日本を指摘しているようでもあります。
そして本文をみるに、医の学術の分化と浅薄化によって鍼術を実践する医家が稀少な存在となっていたことも指摘されています。
「鍼を能くする者は100人にうち1人。灸治を行うことができる者は10人のうち2人。湯液を処方できるものは10人のうち9人。(鍼行者百一、灸行者什二、湯液行者什九而千万)。」
まぁ比率の違和感はさておくとしても、明代当時には鍼術を選択する医家が非常に少なかったことが記されています。
では『なぜこのように鍼を行う者が少なくなったのか?』
なぜ鍼医が減ったのか?
岡本一抱の主張は「謂鍼能殺生人、不能起死人」が原因
この理由について、岡本一抱は、王燾の言葉にあるのでは?と記しています。
『十四経絡発揮和解』の註文を引用しましょう。
➣「唐の王燾と云う者、内経玉版篇の理を悪(あ)しく見て、鍼は生ける人は殺せども、死せる人を活かすこと不能と云るより、遂に鍼を恐れて行う者、寡し。“此れ鍼は生る人を殺す”と、誤りて悪しく其の効をたてたるゆえなり。」
➣「鍼は少しの差にても人を殺すと恐れども、灸は其の恐、鍼よりも寡かるべし。」
➣「煎薬は其の仕損じの見る所が、灸よりも猶稍おそく緩かるべきかと也。」
とのことです。
ちなみに「鍼は生ける人は殺せども、死せる人を活かすこと不能」なる言葉を『外台秘要方』に尋ねると「較正唐王燾先生外臺秘要方序」にあります。(そして『外臺秘要方』本文には見つけられませんでした。)
「……又謂鍼能殺生人、不能起死人。其法云亡且久。故取灸而不取鍼亦醫家之蔽也。……」とあります。
しかし、この序文は孫兆によるものです。なので“王燾の言葉のせいだ!”と岡本氏が指摘はちょっと人違いではないかな…と、王氏を弁護しておきたい気持ちもあります。
人違いとはいえ、『外臺秘要方』ほどの書に「謂鍼能殺生人」なんて言葉を読めば、多くの人が鍼法を警戒することに繋がったのだろうと容易に想像できますね。
「鍼有瀉而無補」も原因ではないだろうか?
また鍼法の特徴を表わす言葉に「鍼に瀉有りて補無し」があります。
かの『医学正伝』の或問の中に「…其鍼刺雖有補瀉之法、予恐但鍼有瀉而無補焉。…」とあります。この言葉の初出は、朱丹渓(1282-1358年)が言い出したもの(「針法渾是瀉而無補」)だと思われます。
いずれにせよ、鍼は瀉には向いているが、補には向いていない…という言葉も、上記の言葉と相まって鍼法から離れる医家を増やす言葉となる可能性を秘めているとは言えるでしょう。
この「鍼に瀉有りて補無し」についても別の機会に記事にしたいと思っています。
治療と治水は相通ずる
次に目を向けておきたい文がこれです。
医之治病、一迎一随、一補一瀉、一汗一下、一宣一導、凡所以取其和平者、亦若是耳。而可置、経絡於不講乎。
この文には“人の体を治療するということは治水に通ずるものがある”としています。
「溝渠・畎澮・河泖・川瀆」と水の流れに関わる言葉を列挙し、人体に於ける営気・氣血の流注や交会を示しています。そしてその流れ・通路が壅塞、または溢れることで病となることも示しています。
この辺りの感覚は鍼灸師ならばイメージしやすいのではないでしょうか。
そして、このような病的状態に対して、「迎随」「補瀉」「汗下」「宣導」の法を提示しています。
迎随・補瀉・汗下はその文字の通り。しかし「宣」「導」については少しわかりにくいですね。
岡本一抱は『十四経絡発揮和解』の註文において「宣は吐法」、「導は小便通利の法」すなわち利尿法だとしています。この文脈をみると確かに“経脈の迎随によって補瀉を行い、汗吐下滲によって通調する”ということになります。
その治療を行うためには、正しく経脈の走行・流注を知っておく必要がある。ということで『十四経絡発揮』本文の導入となるわけですね。
鍼道五経会 足立繁久
原文 新刻十四經絡發揮序
■原文 新刻十四經絡發揮序
十四經絡發揮者、發揮十四經絡也。經絡在人身手三陰三陽足三陰三陽、凡十有二而云十四者、併任督二脉言也。任督二脉、何以併言。任脉直行於腹、督脉直行於背爲腹背中行諸穴所系也。手太陰肺經左右各十一穴、足太陰脾經左右各二十七穴、手陽明大腸經左右各二十穴、足陽明胃經左右各四十五穴、手少陰心經左右各九穴、足少陰腎經左右各二十七穴、手太陽小腸經左右各十九穴、足太陽膀胱經左右各六十三穴、手厥陰心包經左右各九穴、足厥陰肝經左右各十三穴、手少陽三焦經左右各四十六穴、足少陽膽經左右各四十三穴、兼以任脉中行二十四穴、督脉中行二十八穴、而人身周矣。
醫者明此可以鍼可以灸可以湯液投之所向無不取驗。後世醫道不明、古先聖王救世之術多廢不講、鍼灸湯液之法、或岐或二或參或三、其又最下則鍼行者百一、灸行者什二、湯液行者什九而千萬。抑何多寡之相懸耶。或者以鍼誤立効、灸次之而湯液猶可稍緩乎。
是故業彼者多業此者寡也。噫、果若是亦淺矣哉。其用心也、夫醫之治病、猶人之治水水行於天地猶血氣行於人身也。溝渠畎澮河泖川瀆、皆其流注交際之處、或壅焉、或塞焉、或溢焉。皆足以害治而成病、苟不明其嚮道而欲治之、其不至於泛濫妄行者否也。
醫之治病、一迎一隨、一補一瀉、一汗一下、一宣一導、凡所以取其和平者、亦若是耳。而可置、經絡於不講乎。滑伯仁氏有憂之故爲之圖爲之註爲之歌、以發揮之周悉詳盡曲暢㫄通。後之醫者可披巻而得焉。伯仁氏之用心亦深矣哉。後伯仁氏而興者、有薛良武氏焉。良武氏潜心講究其所自得亦已多矣。乃復校正是書而刊諸梓欲以廣其傳焉。推是心也、即伯仁氏之心也。良武名鎧爲呉之長洲人有子曰己者、今以醫判南京太醫事尤以外科名、而外科者特其一也。君子謂其能振家業云。
嘉靖戊子冬閏十月望日前進士姑蘇西閶盛應陽斯顯書于金陵官舎