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『一本堂行余医言』の著者、香川修庵について
『一本堂行余医言』という書は、かの香川修庵(1683-1755年)によるものだと言われています。
香川先生は、その名を修徳、字を太冲、号を修庵、堂号を一本堂としたとのこと。彼は儒学を伊藤仁斎から、医学を後藤昆山から学びました。
後藤昆山なる人物は、「一気留滞説」を唱えた医家であり、また“湯の熊灸庵”先生の愛称で呼ばれた人物です。ちなみに香川修庵、後藤昆山ともに古方四大家に名を連ねる人物です。(後藤艮山について紹介記事はコチラ)
本シリーズ記事では、香川修庵先生が伝える診察術に関する記事を紹介します。しかしその前に序文から紹介しましょう。香川先生の気構えがみえてくるようです。
※本文は早稲田大学図書館所蔵の『一本堂行余医言』より引用させていただきました。
※以下に書き下し文、次いで足立のコメントと原文を紹介。
※現代文に訳さないのは原文の本意を損なう可能性があるためです。口語訳は各自の世界観でお願いします。
『一本堂行余医言』 序
書き下し文・行余医言序
予、播州在りて、幼にして読書を受け、未だ向かう所知らず。十四五に朱晦菴の学を聴講するを、亦た未だ得る所有らず。十八に笈を負い京師に来たり、仁齊伊藤先生に従い、学ぶこと五年。志始めて立つ所有り。乃ち自ら以為(おもえらく)、将に我の知る所聞く所を以て諸人に施さんとす。
叵奈、母一人、予一人、決して離索すべからず。竟に望を絶ちて四方の志を遂げることを得ず。又、以為(おもえら)く聖賢千言万語、皆以て身を修するを本と為す。其の身を修せずんば何ぞ他に遑あらん。身を修するに及びて、病無きを以て要と為す。其の身に病有れば、忠孝俱に為すべからず。豈に又、人を治する遑あらんや。
乃ち医を養庵に於いては後藤先生に学ぶ。先生、初め教えるを肯ぜず。曰く、恐くは子、医を為すこと願いの如きことを得ざらん。再三(にわたり)推辞し、医を為さざることを欲す。予、強いて教えを請い、一意に之を学ぶこと三年。
古今の医籍を渉猟し殆ど尽くすも、而して予が心に当る者無し。再び『素問』『霊枢』『八十一難』を取りて、始終縦横、誦読すること数遍。乃ち書を擲ちて憤起して曰く邪説なる哉。奚ぞ用いることを是れ為ん。若し此れに據るに非ざれば則ち医は終に為すべからずと謂うときは、則ち已ぬ。奚ぞ用いること是れ為さん。歴歴堂堂たる、聖賢の徒、反て異端邪説に頼りて、身を修し人を治ることは人、縦(たと)い使い変じて岐伯扁鵲と成れとも、固より望む所に非ず。何ぞ希(こいねが)うに足るや。
次に張機(張仲景)『傷寒雑病論』を取りて、反覆熟読すること四三年。以為く古今医人中の翹楚たり、復た其の右に出る者無し。大奇薬方、信に之至れり。惜いかな。其の論、全く『素問』に出で、陰陽者流に混ずることを免れず。且つ一二の謬妄有る也。吁、千載の一大遺憾に非ざるを得んや!況んや其の下なる者をや!
晋・斉・隋・唐、葛洪・皇甫謐・褚澄・巣元方・孫思邈・王燾の徒、皆な同じ意趣。宋・元以下、益々議論に随い、取るに足る者無し。上下古今の二千年、未だ嘗て一人一書の祖述憲章すべき者を見ず。是に於いて乎、創りて一本の宗旨を発明することを得て、之を先生に質す。
先生曰く、我も亦た久しく旧医説を疑う。然りと雖も此れ乃ち古今の一大結構にして、老子の及ぶ所に非ず。故に未だ決せざる也。爾後、講習討論、略々緒に就くことを得たり。惟だ恐らくは、我より古を作るは、人々の憚る所。然りと雖も愚者の一得、殆んど已むべからず。若し是に因りて罪を得るは、我は辞せざる所也。倘(も)しくは正学人の為に取る所なるときは、則ち幸い甚だし。決して医家者流の知る所に非ざる也。乃ち為吾が黨(ともがら)小子の為に『行余医言』若干巻を著わす。漸次に櫻板に刻し、諸々を子孫に貽(のこ)し、以て青氊に擬する。今より以後、吾門に入る者に、是の『医言』を用いて基址と為し、之を精し、又転じて深く蘊奥に到ることを得ること有るときは、則ち我が死すと雖も、而して猶お生くるが如し也。此れ深く望む所也。此れ深く望む所也。
一本堂主人、香川修徳誌(しる)す。
香川先生の熱い言葉
無病を要とする
まず最初にこの言葉を紹介しましょう。
「皆以修身為本。其身不修何遑他。及修身以無病為要。其身有病、忠孝俱不可為。豈又遑治人乎。」
「修身を本と為す」
四書五経のひとつ『大学』には「修身斉家治国平天下」という言葉があります。ここでの「修身」は学問としての意味合いですが、香川先生の言葉には学問としてのみならず、医学としての「修身」も含まれています。心身ともに平でなければ、その道を極め、医術によって人を救うことはできない、という教えです。医療に携わる全ての人に通ずることばですね。
と称し、望診・聞診・問診・切診の四診を参え考証することとされていました。しかし香川一門では、四診ではなく六診・六候を行うといいます。
『素問』『霊枢』『難経』に対する姿勢
医学を学ぶ香川先生は古今の各医書を読み進め、学びを深めます。そして東洋医学の原典ともいえる『素問』『霊枢』『難経』に立ち戻り、学びを深めることになりました。その結果、香川先生が得た境地とは…
「再取素問靈樞八十一難。始終縱横、誦讀數遍。乃擲書憤起曰邪説哉。」
「書を擲(なげうち)て(擲書)」「曰く邪説かな!(曰邪説哉)」と荒れ狂う香川先生。
「反頼異端邪説、修身治人、縦使變成岐伯扁鵲。固非㪽望、何足希哉。」
「異端邪説に頼って、身を修め人を治し、たとえ岐伯扁鵲のように成ったとしても、それは望むところではない」という香川先生。
『素問』『霊枢』『難経』の医を異端邪説よばわりです。香川先生は古方家に名を連ねる人物ですので、陰陽五行説に対してどうも強く否定する立場にあるようです。
一本を創始し、我より古を作る
陰陽五行的な医学観を是としない香川先生は、自身の医学を探究した結果、「一本の宗旨を発明を得る(創得發明一本宗旨)」という境地に至ります。一本堂の名の由来というべきものでしょう。
そして香川先生の言葉で有名なものに「自我作古(我より古を作る)」があります。
この言葉は、不明瞭な思想を排し、新しい伝統医学を創成していかんとする香川先生の強い意志を感じます。しかし、それと同時に『素問』『霊枢』『難経』を否定し、黄帝・岐伯・扁鵲に成り代わろうとするかのような言葉としても曲解されることもあるでしょう。そしてその覚悟を持っていることも、次の一節から伝わってきます。
「惟恐自我作古人人㪽憚。雖然愚者一得、殆不可已。若因是得罪、我所不辭也。」
「我より古を作る」
一見すると、反骨精神に満ちた力強い言葉にもみえますが、「自我作古」に続く文には、謙遜の気持ちを忘れず、已む已まれずにここに至ったという少し弱気な気持ちも感じとれるようでもあります。
「僕の前に道はない 僕の後ろに道はできる ああ、自然よ 父よ ……」という高村光太郎の詩『道程』を思い浮かべる一節でもあります。
さて、現代の日本鍼灸においても、『内経』『難経』の不可解な点を排し、現代に則した医術を再構築しようという傾向はあると思います。もちろん、その努力や姿勢は大切なものです。しかし、新世界を切り拓く熱意と、古来より医学・医術・医法を絶えることなく脈々と伝えてくれた先人に感謝の気持ち・敬意を忘れていけないと思うのです。
鍼道五経会 足立繁久
行余医言序 ≫ 診候・望診 ≫ 問証 ≫ 聞声 ≫ 切脈 ≫ 按腹 ≫ 視背
原文 行餘醫言序
■原文 行餘醫言序
予在播州、幼受讀書、未知所向。十四五、聴講朱晦菴學、亦未有㪽得。十八負笈來京師、從仁齊伊藤先生、學五年、志始有㪽立、乃自以為、將以我㪽知㪽聞施諸人。叵奈母一人、予一人、決不可離索矣。竟絶望不得遂四方之志。又以為聖賢千言萬語、皆以修身為本。其身不修何遑他。及修身以無病為要。其身有病、忠孝俱不可為。豈又遑治人乎。乃學醫於養菴後藤先生。先生初不肯。教曰、恐子為醫不得如願再三推辭欲不為醫。予強請教、一意學之三年、古今醫籍、渉獵殆盡、而無當予心者。再取素問靈樞八十一難。始終縱横、誦讀數遍。乃擲書憤起曰邪説哉。奚用是為、若謂非據此則醫終不可為則已。奚用是為。歴歴堂堂、聖賢之徒、反頼異端邪説、修身治人、縦使變成岐伯扁鵲。固非㪽望、何足希哉。
次取張機傷寒雜病論、反覆熟讀四三年、以為古今醫人中之翹楚、無復出其右者。大奇藥方、信之至矣。惜乎其論全出于素問。不免混乎陰陽者流、且有一二謬妄也。吁得非千載一大遺憾乎哉。
況其下者邪、晋齊隋唐葛洪、皇甫謐、褚澄、巣元方、孫思邈、王燾之徒、皆同意趣。宋元以下益隋議論、無足取者。
上下古今二千年、未嘗見一人一書可祖述憲章者。於是乎、創得發明一本宗旨、質之先生。先生曰、我亦久疑舊醫説。雖然此乃古今一大結構、非老子所及。故未決也。爾後講習討論、畧得就緒。惟恐自我作古人人㪽憚。雖然愚者一得、殆不可已。若因是得罪、我所不辭也。倘為正學人所取、則幸甚矣。決非醫家者流㪽知也。乃為吾黨小子、著行餘醫言若干巻。漸次刻櫻板、貽諸子孫、以擬青氊。自今以後、入吾門者、有得用是醫言為基址、精之又轉深到蘊奥、則我雖死、而猶生也。
此所深望也。此所深望也。一本堂主人香川修徳誌。。
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