華佗の伝説 『三国志』と『三国志演義』の比較

華佗は史書でも小説でも活躍する

華佗伝シリーズ記事が続きますが、今回は少し趣向をかえて『三国志演義』にも触れてみましょう。
『三国志演義(三國演義)』は、明代に羅貫中によって創作された小説です。中国三代奇書に属する作品とも言われています。日本でも昔から人気があり、現代においても人気コンテンツの一つです。その『三国志演義(三國演義)』においても華佗は神医として活躍します。
つまり華佗の活躍は『三国志』『三国志演義』の両書ともに記されているのです。となると、人によっては両書の情報が混同されて記憶されている恐れもあるだろう…と。ですので、本記事にて両書の情報を比較しておこうと思います。

まずは史書『三国志』における「関張馬趙黄伝 第六」から、関羽の右腕を治療する華佗の逸話をみてみましょう。『三国志演義』では、華佗が毒矢にて負傷した関羽将軍の右腕を外科治療するシーンとして有名なところです。関羽の豪胆さ、華佗の医術の凄さがともに伝わる名シーンが、史書ではどのように記されているのでしょう。


イラスト:ChatGPTにつくってもらった毒矢に負傷した関羽の治療イメージ画像。

※本記事では『三国志』陳壽 撰述,裴松之 集註 (早稲田大学図書館 所蔵)を参考引用させていただきました。
※以下に書き下し文、次いで足立のコメントと原文を紹介。
※現代文に訳さないのは経文の本意を損なう可能性があるためです。口語訳は各自の世界観でお願いします。

書き下し文 『三国志』蜀六 関張馬趙黄伝 第六

■書き下し文 関張馬趙黄伝 第六
……羽(関羽)嘗て流れたる矢に中る所、左臂を貫く、後に創は愈えると雖も、陰雨に至る毎に、骨常に疼き痛む。
医曰く、矢鏃に毒有り、毒骨に入る。當に臂を破り創(きず)を作りて骨を刮り毒を去るべし。然して後、此の患いは乃ち除かれるのみ。関羽、便り臂を伸し、医をして之(臂)を劈(さ)かしむ。時に関羽、適に諸将を請うて、飲食相い対す。臂血、流離して、盤器を盈つ、而して関羽は炙(炙肉)を割き、酒を引き、言笑すること自若たり。

■原文 關張馬趙黃傳 第六
……羽嘗爲流矢所中、貫左臂、後創雖愈、毎至陰雨骨常疼痛。醫曰、矢鏃有毒、毒入于骨。當破臂作創刮骨去毒。然後此患乃除耳。羽便伸臂、令醫劈之。時羽適請諸將、飲食相對。臂血流離、盈於盤器、而羽割炙引酒、言笑自若。

関羽の治療を行ったのはダレ!?

史書『三国志』には、上記のような内容で関羽の外科手術に関する逸話が記されています。

左臂(左腕)に矢傷を受け、その傷が陰雨のたびに(古傷として?)疼き痛むといいます。
医の診たてでは、矢鏃には毒があったといい(但し毒は種類や性質は不明)、その毒が骨に残ること、その毒を除去すべきであり、その治療によって症状は治るといいます。
関羽はその外科手術ともいえる治療を受けますが、酒を飲みながら、諸将と談笑しながら悠然として手術を受けたようです。

しかし、ここで注目したいのは『三国志』の中では、関羽の治療を行った医家の名が記されていないということです。この点は、華佗ファンにとっては驚きのことかもしれません。

では小説『三国志演義』の該当箇所をみてみましょう。

『三国志演義』に描かれる華佗の治療

『三国志演義』の登場人物の中で、関羽雲長は常に人気ランキング上位に位置する人物といえるでしょう。「美髯公」とも称され、見事な髭のキャラクターとして、漫画やアニメでも描かれています。その関羽将軍が樊城の戦いでその腕に毒矢を受けてしまいます。

『三国志演義』では「関雲長刮骨療毒」の回です。

引用『三国志演義』関雲長刮骨療毒より

下線部が『三国志演義』本文です。(※『三国志演義』は『三國演義』(伝 羅貫中 著)原文(坂口丈幸氏作成)を参考にしています)
全文ではなく該当部分のみ引用、本文下に足立粗い書き下し文?意訳?を添えています。

「原来箭頭有薬、毒已入骨、右臂青腫、不能運動。」
箭頭(矢じり)に毒薬あり、その毒はすでに骨にまで至る。右臂は青く腫れ、動かすこと能わず。

…(略)…

忽一日、有人従江東駕小舟而来、直至寨前。小校引見関平。平視其人、方巾闊服、臂挽青嚢、自言姓名。「乃沛国譙郡人、姓華、名佗、字元化。因聞関将軍乃天下英雄、今中毒箭、特来医治。」平曰「莫非昔日医東呉周泰乎。」
佗曰「然。」平大喜、即與衆将同引華佗入帳見関公。

江東より小舟に乗りて来たる人ありて、城塞の前に至る。小校(兵)は(その者を)関平に引きてみる。関平、その者をみるに、頭巾をかぶり…青い嚢(袋)を携えており、自ら姓名を名乗る。
「沛国譙郡の人、姓は華、名は佗、字は元化。関将軍、乃ち天下の英雄が今、毒箭に中(あた)ると聞くに因りて、特(ただ)将軍を医治せんと来たる。」

関平曰「昔日に東呉の周泰を医したる者か?」
華佗曰「然り。(そうである)」
関平は大いに喜び、即ち衆将とともに華佗を引きて帳に入りて関羽将軍に見(まみ)える。

…佗請臂視之。公袒下衣袍、伸臂令佗看視。
華佗は請うて、関羽の臂を視る。関公は衣を袒(かたぬぎ)、臂を伸ばし華佗に看せしむ。

佗曰「此乃弩箭所傷、其中有烏頭之薬、直透入骨。若不早治、此臂無用矣。」
公曰「用何物治之。」
佗曰「某自有治法。但恐君侯懼耳。」
公笑曰「吾視死如帰、有何懼哉。」
華佗がいう「これ乃ち弩箭の傷、その中に烏頭の薬(毒)あり、直に骨に透入す(達す)。もし急ぎ治せざれば、この臂(腕)は用いること無し(使い物にならなくなる)。」
関公がいう「何を用いて之を治す?」
華佗がいう「某(それがし)に自ら治法あり(独自の治法がある)。但、君侯を懼れさせんのみを恐る。」
関公は笑っていわく「吾、死(死の淵)を視て生還することあり、何を懼れることあらん。」

佗曰「當於静處立一標柱、上釘大環、請君侯将臂穿於環中、以縄繋之、然後以被蒙其首。吾用尖刀割開皮肉、直至於骨、刮去骨上箭毒、用薬敷之、以線縫其口、方可無事。但恐君侯懼耳。」
公笑曰「如此、容易。何用柱環。」

華佗がいう「そこに立つ柱の大環に、君侯にはその環中に臂(腕)を穿(通)します。さらに縄で以って腕を縛り固定します。吾(華佗)は尖刀を用い皮肉を割き開き、骨まで至りて、骨上の矢毒を削り去ります。その後、薬を敷き(塗布し)、線(絲)を以てその傷口を縫い合わせます。方に無事になるべし(大丈夫です)。但、関公を懼れさせないかを恐れるのみ。」
関公、笑いて曰く「この如きは(その程度なら)容易い。柱・環など何ぞ用いん。」

令設酒席相待。公飲数杯酒畢、一面仍與馬良弈棋、伸臂令佗割之。佗取尖刀在手、令一小校、捧一大盆於臂下接血。

(関羽は)酒席を設けせしめ、相い待つ。関公、数杯の酒を飲み干し、馬良と弈棋(囲碁)をうつ。(関羽)臂を伸ばし、華佗をして之を割かしむ。華佗、尖刀を手に取り、一小校に大盆を抱えさせ、臂の出血に備える。

佗曰「某便下手。君侯勿驚。」
公曰「任汝医治。吾豈比世間俗子、懼痛者耶。」

華佗がいう「某、便ち手を下す(手術を行いますが)、君侯は驚くなかれ。」
関公がいう「汝に任ず。吾、豈に痛苦に懼れる世間の俗子ならん(痛苦に懼れる者ではない)」

佗乃下刀、割開皮肉、直至於骨、骨上已青。佗用刀刮骨、悉悉有声。帳上帳下見者皆掩面失色。公飲酒食肉、談笑弈棋、全無痛苦之色。須臾、血流盈盆。佗刮盡其毒、敷上薬、以線縫之。

華佗が尖刀を下し(メスを入れる)皮肉を割き開き、骨に至る。骨上は已に青なり(青く変色)。
華佗は刀を用いて骨を削る、忽忽(コツコツ)なる声あり(骨を削る音)。帳の中にいる者は皆、その面を掩い、色を失う。関公だけは酒を飲み肉を食らい、談笑しながら弈棋(囲碁)をうつ。まったく痛苦の色無し。須臾にし血流れ大盆を盈たす。華佗、その毒を刮り尽くし、薬を敷き上す(塗布す)、線(絲)を以て之を縫合す。

公大笑辞起、謂衆将曰「此臂伸舒如故、並無痛矣。先生真神医也。
関公、大いに笑い、衆将に謂う「この臂、故の如く(以前のように)伸舒す、並びに痛み無きなり!華佗先生、真に神医なり!」と。

……

小説『三国志演義』では、関羽将軍が毒矢にて右腕(右臂)を負傷したこと(史書では左臂)、その治療に華佗が小舟に乗って、名医らしい雰囲気を醸し出しながら登場します。華佗の診たてでは、矢鏃に塗ってあった毒はじ烏頭(トリカブト)であると診断しています。手術・治療の流れは、より臨場感を増す文章で、さすが小説『三国志演義』だなぁ…と感じます。

周泰という人物は、呉の武将のひとり、やはり勇猛な人物であったようです。『三国志』呉書第十巻の「程黄韓蒋周陳董甘凌徐潘丁伝第十」には周泰に関する記述がありますが、そこでは華佗に治療を受けたという記述は確認できませんでした。

曹操を診断する華佗の運命やいかに?

さて、次に曹操の頭痛(頭脳疼痛)を診断する華佗のエピソードをみてみましょう。史書『三国志』魏書における該当箇所は前回の記事『華佗伝その2 『三国志』魏書より』にて紹介しています。
そして小説『三国志演義』では「治風疾神医身死」の回にあたります。該当箇所を以下に引用します。
引用部分の冒頭は、頭痛に苦しむ曹操に、華歆という人物が華佗を紹介するところから始まります。

華歆の言葉のはじめの2/3は史書『三国志』にほぼ則しており(麻沸湯を麻肺湯に変えているが)、後半の1/3は創作パートになるのでしょう。眉間から雀が飛んででたり、犬の咬傷痕に鍼や碁石が入っているなどのエピソードは、羅貫中がイメージする華佗伝説なのでしょう。ただでさえ眉唾に思われる傾向にある華佗の逸話を、さらに創作テイストを強めています。では『三国志演義』をみてみましょう。

引用『三国志演義』治風疾神医身死より

以下の引用文のうち下線部が『三国志演義』本文です。(※『三国志演義』は『三國演義』(伝 羅貫中 著)原文(坂口丈幸氏作成)を参考にしています)
全文ではなく該当部分のみ引用、本文下に足立粗い書き下し文?意訳?を添えています。

……華歆入奏曰「大王知有神医華佗否。」操曰「即江東医周泰者乎。」歆曰「是也。」操曰「雖聞其名、未知其術。」
華歆が奏上する「大王(曹操)は神医華佗のことをご存じか。」曹操いわく「江東にて周泰を治療し人物か?その名は聞き及んでいるが、その医術については知らぬ。」

歆曰「華佗、字元化、沛国譙郡人也。其医術之妙、世所罕有。但有患者、或用薬、或用鍼、或用灸、隋手而愈。若患五臓六腑之疾、薬不能効者、以麻肺湯飲之、令病者如酔死、却用尖刀剖開其腹、以薬湯洗其臓腑、病人略無疼痛。洗畢、然後以薬線縫口、用薬敷之。或一月、或二十日、即平復矣。其神妙如此。一日、佗行於道上、聞一人呻吟之声。佗曰「此飲食不下之病。問之、果然。佗令取蒜齏汁三升飲之、吐蛇一條、長二三尺、飲食即下。広陵太守陳登、心中煩懣、面赤不能飲食、求佗医治。佗以薬飲之、吐蟲三升、皆赤頭、首尾動揺。登問其故。佗曰「此因多食魚腥、故有此毒。今日雖可、三年之後、必将復発、不可救也。」後陳登果三年而死。
華歆が曰う「華佗、字は元化。沛国譙郡の人です。その医術の妙たるや、世に罕なるである。或いは薬、或いは鍼、或いは灸を用いて、手に随いて病を愈す。若し五臓六腑の疾を患えば、薬の効くこと能わざる者にも、麻肺湯を以て之を飲ませ、病者をして酔死の如くせしむ。却りて尖刀を用いてその腹を剖開き、薬湯を以ってその臓腑を洗い、病人はほぼ痛むこと無く。治療しおえる。然る後に薬線を以って口を縫い、薬を用いて之に敷く。或いは一月、或いは二十日に、即ち平復せん。その神妙なること此れの如し。
(たとえば)道を行く華佗が、一人の呻吟する声を聞く。華佗いわく「これは飲食不下の病である。これに問うに、果して然り。華佗は蒜齏汁三升をとりて之に飲ましめば、蛇一條、長さ二三尺を吐して、飲食は即ち下る。
広陵太守であった陳登が、心中煩懣し、面赤く、飲食すること能わずして、華佗に医治を求めた。華佗は薬を以て之を飲ませ、蟲三升を吐した。(蟲は)皆な頭赤く、首尾は動いていた。陳登はその故を問うた。華佗が曰う「これ多食魚腥に因る。故にこの毒あり。今日は治すること可と雖も、三年の後、必ず将に復発せん。そのときは救うこと不可也。」後に陳登、果して三年にして死す。

又有一人眉間生一瘤、痒不可当、令佗視之。佗曰「内有飛物。」人皆笑之。佗以刀割開、一黄雀飛去、病者即愈。有一人被犬咬足指、随長肉二塊、一痛一痒、俱不可忍。佗曰「痛者内有針十個、痒者内黒白棋子二枚。」人皆不信。佗以刀割開、果応其言。此人真扁鵲倉公之流也。見居金城、離此不遠。大王何不召之。」
又、一人眉間に一瘤を生じる有り、その痒み当(耐える)すべからず。華佗にこれを視さしむ。
華佗いわく「内に飛ぶ物あり。」人は皆なこれを笑う。華佗は刀を以て割開けば、一匹の黄雀が飛び去った。病者は即ち愈えた。
一人、足指を犬に咬まれた者がいた。随いて長肉二塊、一つは痛み、一つは痒み。俱に忍ぶべからず。
華佗いわく「痛む者は内に針十個あり、痒む者は内に黒白棋子二枚あり。」人は皆な信ぜず。華佗は刀を以って割開く、果してその言に応ず。
この人(華佗)は、真に扁鵲・倉公の流れをつぐ也。金城に居しており、距離は此れより遠からず。大王(曹操)、何ぞこれ(華佗)を召さざるや。」

操即差人星夜請華佗入内、令診脈視疾。
佗曰「大王頭脳疼痛、因患風而起。病根在脳袋中、風涎不能出。枉服湯薬、不可治療。某有一法。先飲麻肺湯、然後用利斧砍開脳袋、取出風涎、方可除根。」
操大怒曰「汝要殺狐耶」
佗曰「大王嘗聞関公中毒箭、傷其右臂、某刮骨療毒、関公略無懼色。令大王小可之疾、何多疑焉。」
操曰「臂痛可刮、脳袋安可砍開。汝必與関公情熟、乗此機会、欲報讐耳。」呼左右拏下獄中、拷問其情。賈詡諌曰「似此良医、世罕其匹、未可廃也。」操叱曰「此人欲乗機害我、正與吉平無異。」急令追拷。
曹操は即ち人を差(つか)わし、華佗を請い内に入れ、脈を診て疾を視さしむる。
華佗いわく「大王の頭脳の疼痛は、風を患うに因りて起きる。病根は脳袋の中に在りて、風涎を出すこと能わず。枉(無理に)湯薬を服しても、治療すること不可。しかし某に一法あり。先ず麻肺湯を飲み、然る後に利斧を用い脳袋を砍開き、風涎を取り出し、方に病根を除くべし。」
曹操は大いに怒りていわく「汝、わたしを殺すつもりか!?」
華佗いわく「大王は嘗て、関公に毒箭あたりてその右臂を傷つけるを聞かん?某、骨を刮りてその毒を療す。関公はほぼ懼れの色無し。大王の場合は小可の疾(毒箭傷に比べて軽度の病)なり、何ぞ多疑することがあろうか。」
操曰「臂痛ならば刮ればよい、脳袋は安んぞ砍開せんや。汝は関羽のために、この機会に乗じ、復讐せんと欲するのみであろう。」
曹操は左右の者を呼び、拏(とらえて)、華佗を獄中に投じ、その情を拷問す。賈詡(かく)は曹操を諌めていわく「このような良医に似た者は、華佗に匹敵する医は世に罕(まれ)なり。まだ廃するべからざる也。」と。
曹操は叱していわく「この者、医する機に乗じて我を害せんと欲す、正に吉平(※)と異なること無し!」急令してさらに拷を追う。(※吉平とは、『三国志演義』において曹操暗殺を計画した医師)

華佗在獄、有一獄卒、姓呉、人皆称爲「呉押獄」。此人毎日以酒食供奉華佗。佗感其恩、乃告曰「我今将死、恨有青嚢書未伝於世。感公厚意、無可爲報。我修一書、公可遣人送與我家、取青嚢書、来贈公、以継吾術。」
呉押獄大喜曰「我若得此書、棄了此役、医治天下病人、以伝先生之徳。」
華佗が獄中にあるとき、一人の獄卒あり。姓を呉という。人は皆な称して「呉押獄」という。この人物、毎日酒食を以って華佗に供奉す。華佗はその恩に感じて、乃ち告げていわく「我、今まさに死なんとす。恨めしいことは我が医書『青嚢書』が世に伝えられぬことだ。公(呉)の厚意に感じるも、なにも報と為すべく無し。我は一書(青嚢書)を修めている、公(呉)は人を遣してわが家に送りて『青嚢書』を取らしめよ。来りて公に贈らん、以て吾術を継げ。」
呉押獄は大いに喜びていわく「我、もしその書を得れば、この役(獄卒)を棄ててしまい、天下の病人を医治して、以て華佗先生の徳を伝えん。」

佗即修書付呉押獄。呉押獄直至金城、問佗之妻取了青嚢書、回至獄中、付與華佗。検看畢、佗即将書贈與呉押獄。呉押獄持回家中藏之。
華佗は即ち修書を呉押獄に付(あたえ)る。呉押獄、直に金城に至り、華佗の妻に問うて『青嚢書』を取りしまう。回りて獄中に至り、華佗にその書を付(あた)える。華佗は書を検看し畢(お)え、華佗は即ち将にその書を呉押獄に贈り与えた。呉押獄持は回家中に回りて書を藏(かく)す。

旬日之後、華佗竟死於獄中。呉押獄買棺殯㱨訖、脱了差役回家、欲取青嚢書看習、只見其妻正将書在裏焚焼。呉押獄大驚、連忙搶奪、全巻已被焼毀、只剰得一両葉。呉押獄怒罵其妻。
妻曰「縦然学得與華佗一般神妙、只落得死於牢中、要他何用。」呉押獄嗟歎而止。因此青嚢書不嘗伝於世、所伝者止閹雞豬等小法、乃焼剰一両葉中所載也。
旬日の後、華佗は竟(つい)に獄中に於いて死する。呉押獄は棺を買いて殯㱨(かりもがり・埋葬)し訖(おわり)、(獄卒の)役をおえて家にもどる。『青嚢書』を取り看習せんと欲するに、只、その妻が正しく将に家の裏にて『青嚢書』を焚焼せんとするを見た。呉押獄は大いに驚き、急いで焼かれんとする書を奪うも、全巻は已に焼毀され、只、剰(のこり)一両葉を得るのみであった。呉押獄は妻を怒り罵るも、妻は曰うのだった。「縦(よしんば)然して、華佗先生の神妙なる医術を学び得たとして、只、牢獄の中で死するを得ん。要は他に何の用いんや。」
それを聞いた呉押獄は嗟歎して止む。これに因りて『青嚢書』は世に伝わらず。伝わる所のものも“閹雞豬”などの小法に止まる。乃ち焼け剰(のこった)一両葉の中に載る所なり。……

後人有詩歎曰「華佗仙術比長桑、神識如窺垣一方。惆悵人亡書亦絶、後人無復見青嚢。」
…後人たちは詩に歎じて曰く「華佗の仙術は長桑君に比する。その神識、垣一方を窺うが如し。惆悵(かなしみなげく)書を亡い亦(華佗の術が)絶えることを。後の人は復た青嚢を見ることは無い…。」

却説曹操自殺華佗之後、病勢愈重、又憂呉蜀之事。……
曹操は華佗を殺して後より、彼の病勢は愈(いよいよ)重くなり、又、呉蜀の事にも憂うことになった。……

上記引用文の後半では、華佗が曹操を診察し、外科手術の必要があるとの診断内容を曹操に伝えたシーンです。

「頭を利斧で開く」というショッキングな治療方針を聞いた曹操は、華佗が治療にかこつけて自分を殺害するつもりなのか…と、華佗を疑い、捕えて投獄します。この点、『演義』では史書と違って曹操は疑心暗鬼に陥った暗愚な人物として描かれているようにも感じます。
その理由として、前例の吉平という医家が曹操を暗殺しようとした(未遂に終わっている)というエピソードが華佗捕縛の伏線にあるようです。

『演義』では、投獄されてから処刑までの流れは驚くほど速やかです。
牢屋番であった「呉(周りには“呉押獄”と呼ばれている)」という人物が、なにかと華佗の面倒をみてくれたようで、華佗先生はその恩義を返すため、華佗流医術の伝書『青嚢書』を呉という人物に託そうとします。“青嚢”とは華佗が登場した際に描かれていたトレードマークともいえるアイテムですね。
この流れからみて、この「呉押獄」なる人物が華佗の弟子のひとり「呉普」に相当するのか?と思いきや、定番のエンディングに帰着すべく呉夫人がきっちり仕事してくれます。

まさかの呉夫人の行動に、呉押獄は婦人に詰め寄りなじるのですが、婦人の主張がまさにド正論。呉押獄はなるほどと引き下がります。弟子の呉普とは別の世界線のようでした。かくして華佗の医書は失われ、彼の医術も部分的にしか世に残りません。事実上の失伝となります。

そのことを惜しんで世の人は詩にして伝えたとあります。また曹操の頭風疾は華佗の死後、ますます酷くなったというテンプレ通りのストーリーも描かれています。史書では息子が病歿した際、華佗を処刑したことを曹操が後悔したと記されていますね。

鍼道五経会 足立繁久

原文 魏書 國志二十九 方技伝

方技傳第二十九 魏書 國志二十九

華佗傳
華佗字元化、沛國譙人也、一名旉(臣松之案、古敷字與尃相似、寫書者多不能別、尋佗字元化、其名宜爲旉也。)游學徐土、兼通數經。沛相陳珪舉孝廉、大尉黃琬辟、皆不就。暁養性之術、時人以爲年且百歳而貌有壯容。又精方藥、其療疾、合湯不過數種、心解分劑、不復稱量、煑熟便飮、語其節度、舎去輒愈。若當灸、不過一兩處、毎處不過七八壯、病亦應除。若當針、亦不過一兩處、下針言當引某許、若至語人。病者言已到、應便㧞針、病亦行差。若病結積在内、針藥所不能及、當須刳割者、便飲其麻沸散、須臾便如醉死無所知、因破取病。若在膓中、便斷膓湔洗、縫腹膏摩、四五日差、不痛、人亦不自寤、一月之間、即平復矣。 故甘陵相夫人有娠六月腹痛不安、佗視脉曰、胎已死矣。使人手摸知所在、在左則男在右則女。人云在左。於是爲湯下之果下男形、即愈。 縣吏尹世、苦四支煩、口中乾、不欲聞人聲、小便不利。佗曰、試作熱食得汗則愈。不汗後三日死。即作熱食而不汗。佗曰、藏氣已絶於内。當啼泣而絶。果如佗言。 府吏兒尋李延共止、俱頭痛身熱、所苦正同。佗曰、尋當下之、延當發汗。或難其異。佗曰尋外實、延内實、故治之冝殊。卽各與藥、明旦並起。 鹽瀆嚴昕與數人共候佗、適至、佗謂昕曰、君身中佳否。昕曰自如常。佗曰、君有急病、見於面、莫多飲酒。坐畢歸行數里、昕卒頭眩墮車。人扶將還載歸家中宿死。 故督郵頓子獻得病已差、詣佗、視脉曰尚虚未得復、勿爲勞事、御内即死、臨死、當吐舌數寸。其妻聞其病除、從百餘里來省之、止宿交接、中間三日發病、一如佗言。 督郵徐毅得病、佗往省之、毅謂佗曰、昨使醫曹吏劉租針胃管訖、便苦欬嗽、欲卧不安。佗曰、刺不得胃管誤中肝也。食當日減、五日不救。遂如佗言。 東陽陳叔山小男二歳得疾、下利常先啼、日以羸困、問佗。佗曰、其母懐軀、陽氣内養、乳中虚冷、兒得母寒、故令不時愈。佗與四物女宛丸。十日即除。 彭城夫人夜之厠、蠆螫其手、呻呼無賴。佗令温酒近熱漬手其中、卒可得寐、但旁人數爲易湯、湯令煖之其旦即愈。 軍吏梅平得病、除名還家、家居廣陵、未至二百里、止親人舎、有頃、佗偶至主人許、主人令佗視平、佗謂平曰、君早見我、可不至此、今疾已結、促去可得與家相見、五日卒。應時歸、如佗所刻。 佗行道、見一人病咽塞、嗜食而不得下、家人車載、欲往就醫。佗聞其呻吟、駐車往視、語之曰、向來道邊有賣餅家蒜韲大酢、從取三升飲之、病自當去。即如佗言。立吐虵一枚、縣車邊、欲造佗、佗尚未還、小兒戯門前、逆見、自相謂曰、似逢我公車邊病是也。疾者前入坐、見佗北壁縣此蛇輩約以十數。 又有一郡守病佗以爲其人盛怒則差乃多受其貨而不加治、無何棄去、畱書罵之、郡守果大怒、令人追捉殺佗。郡守子知之、屬使勿逐、守瞋恚既甚、吐黑血數升而愈。 又有一士大夫不快、佗云君病深、當破腹取、然君壽亦不過十年、病不能殺君。忍病十歳、壽俱當盡。不足故自刳裂。士大夫不耐痛癢、必欲除之、佗遂下手、所患尋差、十年竟死。 廣陵太守陳登得病、胷中煩懣、面赤不食、佗脉之曰、府君胃中有蟲數升、欲成内疽、食腥物所爲也。即作湯二升、先服一升、斯須盡服之。食頃吐出三升許蟲、赤頭皆動、半身是生魚膾也。所苦便愈。佗曰此病後三期當發、遇良醫乃可濟救。依期果發動、時佗不在、如言而死。 太祖聞而召佗、佗常在左右、太祖苦頭風、毎發心亂目眩。佗針鬲隨手而差(佗別傳曰、有人病兩脚躄不能行。轝詣佗、佗望見云、已飽針灸服藥矣。不復須看脉。便使解衣、點背數十處、相去或一寸、或五寸、縱邪不相當、言灸此各十壯、灸創愈即行、後灸處夾脊一寸、上下行端直均調、如引縄也。) 李將軍妻病甚、呼佗視脉、曰、傷娠而胎不去。將軍言、聞實傷娠、胎已去矣。佗曰、案脉胎未去也。將軍以爲不然。佗舎去、婦稍小差、百餘日復動。更呼佗。佗曰、此脉故事有胎、前當生兩兒、一兒先出、血出甚多、後兒不及生、母不自覺、旁人亦不寤、不復迎、遂不得生、胎死、血脉不復歸、必燥著母脊、故使多脊痛、今當與湯并針一處、此死胎必出。湯針既加、婦痛急如欲生者。佗曰此死胎久枯、不能自出、宜使人探之。果得一死男、手足完具、色黑、長可尺許。佗之絶技凡此類也。然本作士人、以醫見業、意常自悔、後太祖親理、得病篤重。使佗専視。佗曰、此近難濟恒事、攻治可延歳月。佗久遠家思歸、因曰、當得家書、方欲暫還耳。到家、辭以妻病、數乞期不反。太祖累書呼、又勑郡縣發遣、佗恃能厭食事、猶不上道。太祖大怒使人往檢。若妻信病、賜小豆四十斛、寛假限日、若其虚詐、便収送之、於是傳付許獄、考驗首服。荀彧請曰、佗術實工、人命所縣、冝含宥之。太祖曰、不憂、天下當無比䑕輩耶。遂考竟佗、佗臨死、出一巻書與獄吏、曰、此可以活人。吏畏法不受。佗亦不彊、索火焼之。佗死後太祖頭風未除。太祖曰、佗能愈此、小人養吾病、欲以自重、然吾不殺此子、亦終當不爲我斷此根原耳。及後愛子倉舒病困、太祖歎曰、吾悔殺蕐佗、令此兒彊死也。 初軍吏李成若欬嗽、晝夜不寤、時吐膿血、以問佗。佗言、君病膓臃、欬之所吐、非從肺來也。與君散兩錢、當吐二升餘膿血。訖、快。自養、一月可小起、好自將愛、一年便健。十八歳當一小發、服此散、亦行復差。若不得此藥、故當死。復與兩錢散、成得藥去。五六歳親中人有病如成者、謂成曰、卿今彊健、我欲死、何忍無急去藥。(臣松之案、古語以藏爲去)以待不祥。先持貸我、我差、爲卿從華佗㪅索。成與之。已故到譙、適值佗見収、忽忽不忍從求。後十八歳、成病竟發、無藥可服、以至於死(佗別傳曰、人有在青龍中見山陽太守廣陵劉景宗、景宗説中平曰、數見華佗、其治病手脉之候、其驗若神。琅琊劉勲爲河内太守有女年幾二十、左脚膝裏上有瘡、癢而不痛、瘡愈數十日復發、如此七八年。迎佗使視、佗曰、是易治之。當得稻糠黃色犬一頭、好馬二疋。以繩繋犬頸、使走馬牽犬、馬極輒易。計馬走三十餘里、犬不能行、復令歩人拖曵、計向五十里。乃以藥飲女、女即安卧不知人。因取大刀斷犬腹近後脚之前、以所斷之處向瘡口、令去二三寸、停之須臾、有若虵者從瘡中而出、便以鐵椎横貫蛇頭、蛇在皮中動揺良久、須臾不動、乃牽出、長三尺許、純是蛇、但有眼處而無童子、又逆鱗耳。以膏散著瘡中、七日愈。又有人苦頭眩、頭不得舉、目不得視、積年。佗使悉解衣倒懸、令頭去地一二寸、濡布拭身體、令周帀、候視諸脉、盡出五色。佗令子弟數人以鈹刀决脉、五色血盡、視赤血、乃下以膏摩被覆、汗自出周帀、飲以𠅘歴犬血散、立愈。又有婦人長病經年、世謂寒熱注病者。冬十一月中、佗令坐石槽中、平旦用寒水汲灌、云當滿百、始七八灌、會戰欲死。灌者懼、欲止。佗令滿數。將至八十灌、熱氣乃蒸出嚻嚻髙二三尺。滿百灌、佗乃使然火温牀、厚覆、良久汗洽出、著粉、汗燥便愈。又有人病腹中半切痛十餘日中、鬢眉墯落。佗曰是脾半腐、可刳腹養治也。使飲藥令卧、破腹就視、脾果半腐壊。以刀斷之、刮去悪肉、以膏傳瘡、飲之以藥、百日平復。)
廣陵吳普、彭城樊阿皆從佗學。普依準佗治、多所全濟。佗語普曰、人體欲得勞動、但不當使極耳。動揺則穀氣得消、血脉流通、病不得生。譬猶戸樞不朽是也。是以古之仙者爲導引之事、熊頸鴟顧、引輓腰體、動諸關節、以求難老。吾有一術、名五禽之戯、一曰虎、二曰鹿、三曰熊、四曰猨、五曰鳥。亦以除疾、並利蹄足、以當導引。體中不快、起作一禽之戯、沾濡汗出、因上著粉、身體輕便、腹中欲食。普施行之、年九十餘、耳目聦明、齒牙完堅。阿善針術。凡醫咸言背及胷藏之間不可妄針、針之不過四分。而阿針背入一二寸、巨闕胷藏針下五六寸、而病輒皆瘳。阿從佗求可服食益於人者。佗授以漆葉青黏散。漆葉屑一升、青黏屑十四兩、以是爲率、言久服去三蟲、利五藏、輕體、使人頭不白。阿從其言、壽百餘歳。漆葉處所而有青黏生於豐、沛彭城及朝歌云。(佗別傳曰、青黏者一名地節、一名黃芝、主理五臓、益精氣。本出於迷入山者、見仙人服之、以告佗。佗以爲佳、輒語阿、阿又秘之。近者人見阿之壽而氣力彊盛、惟之、遂責阿所服、因醉亂誤道之。法一施、人多服者、皆有大驗。 文帝典論論郤儉等事曰、潁川郤儉能辟穀、餌茯苓。甘陵甘始亦善行氣、老有少容。廬江左慈知補導之術、並爲軍吏。初儉之至市、茯苓價㬥數倍。議即安平李覃學其辟穀、餐茯苓、飲寒水、中泄利、殆至隕命。後始來、衆人無不鴟視狼顧、呼吸吐納。軍謀祭酒弘農董芬爲之過差、氣閉不通、良久乃蘇。左慈到、又競受其補導之術、至寺人嚴峻、往從問受、閹豎眞無事於斯術也。人之逐聲、乃至於是。光和中、北海王和平亦好道術、自以當仙。濟南孫邕少事之、從至京師。會和平病死、邕因葬之東陶、有書百餘巻、藥數嚢、悉以送之。後弟子夏榮言其尸解。邕至今恨不取其寳書仙藥。劉向惑於鴻寶之説、君游眩於子政之言、古今愚謬、豈惟一人哉。東阿王作辯道論曰、世有方士、吾王悉所招致、甘陵有甘始、廬江有左慈、陽城有郤儉、始能行氣導引、慈暁房中之術、儉善辟穀、悉號三百歳卒。所以集之於魏國者、誠恐斯人之徒、接姦宄以欺衆、行妖慝以惑民。豈復欲觀神仙於瀛州、求安期於海島、釋金輅而履雲輿棄六驥而美飛龍哉。自家王與太子及余兄弟咸以爲調笑不信之矣。然始等知上遇之有恒奉不過於員吏、賞不加於無功、海島難得而游、六黻難得而佩。終不敢進虚誕之言、出非常之語。余嘗試郤儉絶穀百日、躬與之寢處行歩起居自若也。夫人不食七日則死、而儉乃如是。然不必益壽、可以療疾、而不憚饑饉焉。左慈善修房内之術、差可終命、然自非有志至精、莫能行也。甘始者、老而有少容、自諸術士咸共歸之。然始辭繁寡實、頗有恠言。余常辟左右、獨與之談、問其所行、温顔以誘之、美辭以導之、始語余、吾本師姓韓字世雄、嘗與師於南海作金、前後數四、投數萬斤金於海。又言、諸梁時、西域胡來獻香罽、腰帶割玉刀、時悔不取也。又言、車師之西國、兒生、擘背出脾、欲其食少而弩行也。又言、取鯉魚五寸一雙、合其一煑藥、俱投沸膏中、有藥者奮尾鼓腮、游行沈浮、有若處淵、其一者已熟而可噉。余時問言、率可試不。言、是藥去此逾萬里、當出塞、始不自行不能得也。言不盡於此、頗難悉載、故粗舉其巨恠者、始若遭秦始皇漢武帝、則復爲徐市、欒大之徒也。

 

 

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