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伝説の名医、華佗
中国医学における名医と言えば、医和・医緩・扁鵲・倉公などが有名です。彼らが活躍した時代は春秋戦国時代のころ。さらに時代が下り、後漢末から三国時代にかけては、華佗・張仲景・董奉といった名医が知られています。
本記事では建安三名医のうち、華佗について紹介します。華佗に関する情報は、『三国志』にある「魏書(魏志)」方技伝第二十九に「華佗伝」の章があり、多くの逸話が記されています。その治療エピソードには華佗の神技とも称賛されるべき医術が記されています。
そのため、かの『三国志演義(三國演義)』にも登場し、神医として大いに活躍しています。歴史小説である『三国志演義(三國演義)』の華佗のエピソードと、史書である『三国志・魏書』にある華佗伝の逸話は、もしかしたら混同されて記憶されているかもしれません。ですので、一度は史書『三国志』魏書にある華佗伝に目を通しておくことも必要かもしれませんね。
とはいえ華佗伝とはいえ『三国志』は史書であり、医書ではありません。医学情報としての信頼度は高くはないでしょうが、それも頭に入れた上で名医華佗の伝説を楽しむとしましょう。

イラスト:ChatGPTにつくってもらった華佗のイメージ画像。
※本記事では『三国志』陳壽 撰述,裴松之 集註 (早稲田大学図書館 所蔵)を参考引用させていただきました。
※以下に書き下し文、次いで足立のコメントと原文を紹介。
※現代文に訳さないのは経文の本意を損なう可能性があるためです。口語訳は各自の世界観でお願いします。
書き下し文 魏書 方技伝 華佗伝
■書き下し文 華佗伝 裴松之の註文はフォントを小さくしています。
華佗、字は元化。沛国、譙の人也、一名を旉。
(臣松(裴松之)の案ずるに、古は敷の字、尃と相い似たり。寫書する者、多くは別つこと能わず、尋ねるに、佗の字は元化。其の名、宜しく旉と為す也。)
徐土に游学し、数経に兼通す。沛の相、陳珪は孝廉に挙ぐる。大尉、黄琬も辟(めす)も、皆な就かず。養性の術を暁(さと)り、時の人以爲(おもえらく)年且(まさに)百歳、而して貌に壮容あり。
又、方薬に精し、其の疾を療するに、合湯の数種を過ぎず、心に分剤を解して、復た量を稱(はか)らず、煮熟して便ち飲む、其の節度を語り、舎り去りて輒(すなわ)ち愈ゆる。若し當に灸すべきには、一両処に過ぎず、毎処七八壮を過ぎずして、病亦た応じて除かれる。若し當に鍼すべきも、亦た一両処に過ぎず、鍼を下して言う當に某許を引くべし、若し至らば、人に語れよ。病者は已に到ると言えば、応じて便ち鍼を抜く。病も亦た行きて差ゆる。若し病が結積して内に在れば、鍼薬の及ぶこと能わず。當に須く刳割する者には、便ち其の麻沸散を飲ましむ。須臾に便ち酔死するが如くに知る所無し。因りて(皮肉を)破りて病を取るべし。若し腸中に在れば、便ち腸を断ちて湔い洗いて、腹を縫い、膏摩すれば、四五日に差えて、痛まず。人も亦た自ら寤(さめ)ず、一月の間に、即ち平復す。
故の甘陵の相夫人、娠すること有り、六月腹痛みて安からず。華佗、脈を視て曰く、胎は已に死したり。人をして手摸りにて在る所を知れ、左に在れば則ち男児、右に在れば則ち女児なり。人云う、左に在り。是に於いて湯薬を為して之を下す。果して男形を下す、即ち愈えたり。
縣吏の尹世、四支(四肢)煩、口中乾き、人の声を聞くを欲せず、小便不利に苦しむ。華佗曰く、試みに熱食を作し、汗を得れば則ち愈ゆ。不汗なれば後三日に死す。即ち熱食を作し而して汗せず。華佗曰く、臓氣已に内に於いて絶す。當に啼泣して絶すべし。果して華佗が言の如し。
府吏の兒である尋が李延と共に止まる。俱に頭痛み身熱し、苦しむ所は正に同じ。華佗曰く、(李延の子)尋は當に之を下すべし。(父)延は當に汗を発すべし。或る人、其の異を難(なじ)る。華佗曰く、尋は外実し、延は内実す。故に之を治するに宜しく殊とすべし。即ち各々に薬を与え、明旦に並び起く。
鹽瀆厳昕、数人と共に(華佗を)候う、華佗は適(たまたま)至る、華佗、昕に謂いて曰く、君の身中は佳否なるや。昕が曰く自より常の如し。華佗曰く、君に急病あり、面に見わる、多く酒を飲むこと莫れ。坐畢して帰り、数里を行くこと、昕卒かに頭眩みて、車より堕ちる。人扶けて、将に還(ま)た載せて家に帰る中に宿にして死す。
故の督郵頓子献、病を得て已に差ゆ。華佗詣(まい)りて、脈を視て曰く尚(なお)虚して未だ復することを得ざる、労事を為すこと勿れ。内を御せば即ち死し、死に臨んで、當に舌を数寸吐くべし。其の妻、其の病を除かるるを聞きて、百余里より来りて之を省(みま)い、宿に止まりて交接す。間三日に中りて、病を発す、一つに華佗が言の如し。
督郵徐毅、病を得る。華佗往きて之を省(みま)う。毅は華佗に謂いて曰く、昨(昨日)医曹吏の劉租をして胃管に鍼せしむ。訖(おわり)て、便ち欬嗽に苦しみ、卧戔と欲して安からず。華佗曰く、刺するも胃管を得ず。誤りて肝に中る也。食は當に日に減ずべし、五日救わざる。遂に華佗が言の如し。
東陽陳叔山の小男二歳が疾を得。下利して常に先啼く。日に以て羸困す。華佗に問う。華佗曰く、其の母懐躯(妊孕)して、陽氣内養し、乳中虚冷なり。児は母の寒を得る、故に時にして愈えず。華佗は四物女宛丸を与う。十日に即ち除く。
彭城の夫人、夜に厠に之(ゆ)く。蠆(さそり)其(夫人)の手を螫(さ)す。呻呼して無頼(頼るところ無し)。華佗、温湯(温酒と記述もあり?)をして熱に近せしめ、手を其の中に漬さば、卒に寐ることを得るべし。但だ旁人数(しばしば)為に湯を易(かえ)、湯、之を煖にせしむ。其の旦に即ち愈る。
軍吏梅平、病を得。(軍より)除名し家に還る。家は広陵に居り、未だ二百里に至らず、親人の舎に止まる。頃有りて、華佗、偶(たまたま)主人の許(もと)に至る。主人、華佗をして平(梅平)を視さしむ。華佗、平に謂いて曰く、君は早く我に見えば、此に至らざるべし。今、疾は已に結れり、促やかに去りて家(家族)と相い見ることを得るべし。(梅平の余命)五日にして卒せん。時に応じて帰るも、華佗の刻する所の如し。
華佗、道を行くに、一人の咽塞を病むを見る。食を嗜みて而して下ることを得ず。家人、車に載せ往きて医に就んと欲す。華佗、其の呻吟を聞く。車を駐して往きて視、之を語りて曰く、向来道辺の売餅家に蒜齏大酢あり。従りて三升を取りて之を飲まば、病は自ら當に去るべし。即ち華佗の言が如くすれば、立ろに虵一枚を吐す。車辺に縣(かける)、華佗に造んと欲す。華佗尚(なお)未だ還らず。小児、門前に戯れ、逆え見て、自相謂いて曰く、我が公に逢うに似たり。車辺の病、是れ也。疾める者、前にして入りて坐す。華佗が北壁に此の蛇(虵)輩を縣るを見るに、約するに十を以て数う。
又、一郡守の病める有り。華佗以爲(おもえらく)、其の人は盛んに怒らば則ち差えん。乃ち多く其の貨を受け、而して治を加えず。何も(治すること)無くして棄て去る。書を留めて之を罵る。郡守、果して大いに怒り、人をして追い捉えて華佗を殺さしめん。郡守の子、之を知り、属(たのみ)て逐うことを勿らしむ。守の瞋恚、既に甚しく、黒血数升を吐し而して愈ゆる。
又、一士大夫の快ならざる有り。華佗が云う、君の病は深し。當に腹を破りて(病を)取るべし。然ども君の寿も亦た十年を過ぎず。病、君を殺すこと能わず。病を忍ぶこと十歳、寿俱に當に盡るべし。故に自ずから刳裂するに足らず。士大夫、痛癢に耐えず、必ず之を除ずことを欲す。華佗、遂に手を下し、患う所尋ねて差ゆ。(しかし華佗が言の如くに)十年にして竟に死す。
広陵の太守、陳登が病を得。胸中煩懣、面赤不食。華佗、之を脈して(脈を診て)曰く、府君の胃中に蟲数升ありて、内疽を成さんと欲す。腥物を食うか為とする所也。即ち湯二升を作し、先ず一升を服せしむ、斯須(ししゅ・しばらくありて)盡く之を服す。食頃に三升許の蟲を吐き出す。赤頭皆な動く。半身は是れ生魚の膾也。(陳登の)苦しむ所便ち愈ゆ。華佗が曰く此の病、後三期に當に発すべし。良医に遇わば乃ち済救すべし。期に依りて果して発動す。時に華佗不在にて、言の如くにして死す。
華佗の伝説の数々
華佗の鍼術
『華佗伝』には、華佗が鍼治・灸治・薬方を自在に使いこなしていたことが伝えられています。
「若當灸、不過一兩處、毎處不過七八壯、病亦應除。」という記述から、おそらくですが、灸治(鍼治もともに)の際は左右の経穴を対で使用していたようにも読み取れます。
「若當針、亦不過一兩處」この記述は鍼治に関するものです。「不過両処」の記述から、左右ともに鍼治に用い、一対穴のみの鍼術であったとも読み取れます。
「下針言當引某許、若至語人。病者言已到、應便㧞針、病亦行差。」
この記述からは、鍼の手応えを患者に確かめているようにも解釈できます。今の中国鍼灸でいう得気(酸・重・鈍・麻)に相当するものでしょうか。この“得気に応じて病が癒える”という鍼治の原型がこの言葉にみえるように思います。
しかし「某許を引く」という言葉をどのように解釈すべきか、まだよく分かっていないところもありますが…。
華佗が行ったとされる外科手術
また鍼・灸・薬の及ばない“結積”の病に対する治療が記されています。これこそが華佗が神医と呼ばれる所以でもあります。
『華佗伝』では、麻沸散という麻酔薬を用い外科手術を行うと記されています。
原文「若病結積在内、針藥所不能及、當須刳割者、便飲其麻沸散、須臾便如醉死無所知、因破取病。若在膓中、便斷膓湔洗、縫腹膏摩、四五日差、不痛、人亦不自寤、一月之間、即平復矣。 」
残念なことに麻沸散の処方箋(生薬構成)は記されておりません。仮に伝説であったにしても、当時の医学の水準で、麻酔薬によって痛覚を麻痺させ外科的に摘出手術を行い、術部を縫合し、麻酔から覚め、回復に向かうという一連の流れを言語化できることも凄いものだ、と個人的には感じます。このような治療イメージは古くから存在していたものなのでしょうか。
華佗の医案から分かること
上記書き下し文の中には、13の医案が記されています。そのうち7症例は、役職や名が記録されています。これら情報の詳細確認はしていませんが、これも興味深い医案情報といえるのではないでしょうか。
医案から分かることは、華佗が行った選穴法だけでなく、診法として華佗は脈診に重きを置いていたことも推測できます。この点、望診が得意であったと伝えられる扁鵲とは異なるようにみえます。それだけに華佗の医術(診法・鍼術・薬方など)が実在するとして、それが書として残らなかったことは残念なことです。
また医案によっては「同病異治」「母子同病(ここでは「母の体質が子に影響する」の意)」の概念が確認できたりします。また、七情を利用して治する華佗の治法(敢えて患者を大怒させて治する)なども興味深い資料といえます。
同病異治に関する医案について、少し触れておきましょう。
三国志に記される同病異治
「府吏兒尋李延共止、俱頭痛身熱、所苦正同。佗曰、尋當下之、延當發汗。或難其異。佗曰尋外實、延内實、故治之冝殊。卽各與藥、明旦並起。」
とある府吏(役人)、李延さんとその息子・尋クンが病になります。その症状は父子ともに「頭痛・身熱」です。症状は2人ともまったく同じ。「熱が出て、頭が痛い…」と訴えられれば、通常であれば、同じ処方が選択されそうです。しかし華佗先生の診断は一味違います。
「尋クンは下法。お父さんの李延どのは発汗法ですな。」
それみて、ある人は「同じ症状なのに、治療は違うんかーい!」とツッコミを入れます。ボケずに応える華佗先生「尋クンは外実証、延どのは内実証ですからな。」「そのため治療法が違うのです。」と説明し、それぞれに薬方を処方し治療します。もちろん、その効果は翌朝にはあらわれ、尋クン、李延さんともに復活しています。
しかし、ここで一つ疑問・ツッコミがあります。
「頭痛・身熱」といえば、傷寒論医学にいう“太陽病・陽明病”を連想します(※とはいえ、華佗と張仲景はほぼ同時代に生きた人物ですが、華佗は主に魏に、張仲景は南陽長沙にいたとされ、両者の医学交流があったという記録はありませんが…)。
さて、カルテ(医案)では尋(息子)クンは下法、李延(父)さんは発汗法が有効でした。
しかし華佗先生の説明文では「佗曰尋外実、延内実」と書かれています。説明と処方が合っていないと思うのは私だけでしょうか。尋クンが外実なのであれば、尋クンにこそ発汗法が適するのであり、内実の延さんにこそ下法が適応されるべきでしょう。
とはいえ、『三国志』は史書であり、医書ではありませんので、そこまで詳細にこだわって書かれていないのでしょう。(私の解釈が間違っている可能性もありますし)
とまあ、無粋なツッコミを入れましたが、数々の医案には、神医とも称される華佗の医術には、医学的な背景があることも確認できます。このように華佗の医学が、なぜ医書として残らなかったのでしょうか?
華佗医術の失伝について『華佗伝その2 『三国志』魏書より』にて紹介しましょう。
鍼道五経会 足立繁久
原文 魏書 國志二十九 方技伝
方技傳第二十九 魏書 國志二十九
華佗傳
華佗字元化、沛國譙人也、一名旉(臣松之案、古敷字與尃相似、寫書者多不能別、尋佗字元化、其名宜爲旉也。)游學徐土、兼通數經。沛相陳珪舉孝廉、大尉黃琬辟、皆不就。暁養性之術、時人以爲年且百歳而貌有壯容。又精方藥、其療疾、合湯不過數種、心解分劑、不復稱量、煑熟便飮、語其節度、舎去輒愈。若當灸、不過一兩處、毎處不過七八壯、病亦應除。若當針、亦不過一兩處、下針言當引某許、若至語人。病者言已到、應便㧞針、病亦行差。若病結積在内、針藥所不能及、當須刳割者、便飲其麻沸散、須臾便如醉死無所知、因破取病。若在膓中、便斷膓湔洗、縫腹膏摩、四五日差、不痛、人亦不自寤、一月之間、即平復矣。 故甘陵相夫人有娠六月腹痛不安、佗視脉曰、胎已死矣。使人手摸知所在、在左則男在右則女。人云在左。於是爲湯下之果下男形、即愈。 縣吏尹世、苦四支煩、口中乾、不欲聞人聲、小便不利。佗曰、試作熱食得汗則愈。不汗後三日死。即作熱食而不汗。佗曰、藏氣已絶於内。當啼泣而絶。果如佗言。 府吏兒尋李延共止、俱頭痛身熱、所苦正同。佗曰、尋當下之、延當發汗。或難其異。佗曰尋外實、延内實、故治之冝殊。卽各與藥、明旦並起。 鹽瀆嚴昕與數人共候佗、適至、佗謂昕曰、君身中佳否。昕曰自如常。佗曰、君有急病、見於面、莫多飲酒。坐畢歸行數里、昕卒頭眩墮車。人扶將還載歸家中宿死。 故督郵頓子獻得病已差、詣佗、視脉曰尚虚未得復、勿爲勞事、御内即死、臨死、當吐舌數寸。其妻聞其病除、從百餘里來省之、止宿交接、中間三日發病、一如佗言。 督郵徐毅得病、佗往省之、毅謂佗曰、昨使醫曹吏劉租針胃管訖、便苦欬嗽、欲卧不安。佗曰、刺不得胃管誤中肝也。食當日減、五日不救。遂如佗言。 東陽陳叔山小男二歳得疾、下利常先啼、日以羸困、問佗。佗曰、其母懐軀、陽氣内養、乳中虚冷、兒得母寒、故令不時愈。佗與四物女宛丸。十日即除。 彭城夫人夜之厠、蠆螫其手、呻呼無賴。佗令温酒近熱漬手其中、卒可得寐、但旁人數爲易湯、湯令煖之其旦即愈。 軍吏梅平得病、除名還家、家居廣陵、未至二百里、止親人舎、有頃、佗偶至主人許、主人令佗視平、佗謂平曰、君早見我、可不至此、今疾已結、促去可得與家相見、五日卒。應時歸、如佗所刻。 佗行道、見一人病咽塞、嗜食而不得下、家人車載、欲往就醫。佗聞其呻吟、駐車往視、語之曰、向來道邊有賣餅家蒜韲大酢、從取三升飲之、病自當去。即如佗言。立吐虵一枚、縣車邊、欲造佗、佗尚未還、小兒戯門前、逆見、自相謂曰、似逢我公車邊病是也。疾者前入坐、見佗北壁縣此蛇輩約以十數。 又有一郡守病佗以爲其人盛怒則差乃多受其貨而不加治、無何棄去、畱書罵之、郡守果大怒、令人追捉殺佗。郡守子知之、屬使勿逐、守瞋恚既甚、吐黑血數升而愈。 又有一士大夫不快、佗云君病深、當破腹取、然君壽亦不過十年、病不能殺君。忍病十歳、壽俱當盡。不足故自刳裂。士大夫不耐痛癢、必欲除之、佗遂下手、所患尋差、十年竟死。 廣陵太守陳登得病、胷中煩懣、面赤不食、佗脉之曰、府君胃中有蟲數升、欲成内疽、食腥物所爲也。即作湯二升、先服一升、斯須盡服之。食頃吐出三升許蟲、赤頭皆動、半身是生魚膾也。所苦便愈。佗曰此病後三期當發、遇良醫乃可濟救。依期果發動、時佗不在、如言而死。 太祖聞而召佗、佗常在左右、太祖苦頭風、毎發心亂目眩。佗針鬲隨手而差(佗別傳曰、有人病兩脚躄不能行。轝詣佗、佗望見云、已飽針灸服藥矣。不復須看脉。便使解衣、點背數十處、相去或一寸、或五寸、縱邪不相當、言灸此各十壯、灸創愈即行、後灸處夾脊一寸、上下行端直均調、如引縄也。) 李將軍妻病甚、呼佗視脉、曰、傷娠而胎不去。將軍言、聞實傷娠、胎已去矣。佗曰、案脉胎未去也。將軍以爲不然。佗舎去、婦稍小差、百餘日復動。更呼佗。佗曰、此脉故事有胎、前當生兩兒、一兒先出、血出甚多、後兒不及生、母不自覺、旁人亦不寤、不復迎、遂不得生、胎死、血脉不復歸、必燥著母脊、故使多脊痛、今當與湯并針一處、此死胎必出。湯針既加、婦痛急如欲生者。佗曰此死胎久枯、不能自出、宜使人探之。果得一死男、手足完具、色黑、長可尺許。佗之絶技凡此類也。然本作士人、以醫見業、意常自悔、後太祖親理、得病篤重。使佗専視。佗曰、此近難濟恒事、攻治可延歳月。佗久遠家思歸、因曰、當得家書、方欲暫還耳。到家、辭以妻病、數乞期不反。太祖累書呼、又勑郡縣發遣、佗恃能厭食事、猶不上道。太祖大怒使人往檢。若妻信病、賜小豆四十斛、寛假限日、若其虚詐、便収送之、於是傳付許獄、考驗首服。荀彧請曰、佗術實工、人命所縣、冝含宥之。太祖曰、不憂、天下當無比䑕輩耶。遂考竟佗、佗臨死、出一巻書與獄吏、曰、此可以活人。吏畏法不受。佗亦不彊、索火焼之。佗死後太祖頭風未除。太祖曰、佗能愈此、小人養吾病、欲以自重、然吾不殺此子、亦終當不爲我斷此根原耳。及後愛子倉舒病困、太祖歎曰、吾悔殺蕐佗、令此兒彊死也。 初軍吏李成若欬嗽、晝夜不寤、時吐膿血、以問佗。佗言、君病膓臃、欬之所吐、非從肺來也。與君散兩錢、當吐二升餘膿血。訖、快。自養、一月可小起、好自將愛、一年便健。十八歳當一小發、服此散、亦行復差。若不得此藥、故當死。復與兩錢散、成得藥去。五六歳親中人有病如成者、謂成曰、卿今彊健、我欲死、何忍無急去藥。(臣松之案、古語以藏爲去)以待不祥。先持貸我、我差、爲卿從華佗㪅索。成與之。已故到譙、適值佗見収、忽忽不忍從求。後十八歳、成病竟發、無藥可服、以至於死(佗別傳曰、人有在青龍中見山陽太守廣陵劉景宗、景宗説中平曰、數見華佗、其治病手脉之候、其驗若神。琅琊劉勲爲河内太守有女年幾二十、左脚膝裏上有瘡、癢而不痛、瘡愈數十日復發、如此七八年。迎佗使視、佗曰、是易治之。當得稻糠黃色犬一頭、好馬二疋。以繩繋犬頸、使走馬牽犬、馬極輒易。計馬走三十餘里、犬不能行、復令歩人拖曵、計向五十里。乃以藥飲女、女即安卧不知人。因取大刀斷犬腹近後脚之前、以所斷之處向瘡口、令去二三寸、停之須臾、有若虵者從瘡中而出、便以鐵椎横貫蛇頭、蛇在皮中動揺良久、須臾不動、乃牽出、長三尺許、純是蛇、但有眼處而無童子、又逆鱗耳。以膏散著瘡中、七日愈。又有人苦頭眩、頭不得舉、目不得視、積年。佗使悉解衣倒懸、令頭去地一二寸、濡布拭身體、令周帀、候視諸脉、盡出五色。佗令子弟數人以鈹刀决脉、五色血盡、視赤血、乃下以膏摩被覆、汗自出周帀、飲以𠅘歴犬血散、立愈。又有婦人長病經年、世謂寒熱注病者。冬十一月中、佗令坐石槽中、平旦用寒水汲灌、云當滿百、始七八灌、會戰欲死。灌者懼、欲止。佗令滿數。將至八十灌、熱氣乃蒸出嚻嚻髙二三尺。滿百灌、佗乃使然火温牀、厚覆、良久汗洽出、著粉、汗燥便愈。又有人病腹中半切痛十餘日中、鬢眉墯落。佗曰是脾半腐、可刳腹養治也。使飲藥令卧、破腹就視、脾果半腐壊。以刀斷之、刮去悪肉、以膏傳瘡、飲之以藥、百日平復。)
廣陵吳普、彭城樊阿皆從佗學。普依準佗治、多所全濟。佗語普曰、人體欲得勞動、但不當使極耳。動揺則穀氣得消、血脉流通、病不得生。譬猶戸樞不朽是也。是以古之仙者爲導引之事、熊頸鴟顧、引輓腰體、動諸關節、以求難老。吾有一術、名五禽之戯、一曰虎、二曰鹿、三曰熊、四曰猨、五曰鳥。亦以除疾、並利蹄足、以當導引。體中不快、起作一禽之戯、沾濡汗出、因上著粉、身體輕便、腹中欲食。普施行之、年九十餘、耳目聦明、齒牙完堅。阿善針術。凡醫咸言背及胷藏之間不可妄針、針之不過四分。而阿針背入一二寸、巨闕胷藏針下五六寸、而病輒皆瘳。阿從佗求可服食益於人者。佗授以漆葉青黏散。漆葉屑一升、青黏屑十四兩、以是爲率、言久服去三蟲、利五藏、輕體、使人頭不白。阿從其言、壽百餘歳。漆葉處所而有青黏生於豐、沛彭城及朝歌云。(佗別傳曰、青黏者一名地節、一名黃芝、主理五臓、益精氣。本出於迷入山者、見仙人服之、以告佗。佗以爲佳、輒語阿、阿又秘之。近者人見阿之壽而氣力彊盛、惟之、遂責阿所服、因醉亂誤道之。法一施、人多服者、皆有大驗。 文帝典論論郤儉等事曰、潁川郤儉能辟穀、餌茯苓。甘陵甘始亦善行氣、老有少容。廬江左慈知補導之術、並爲軍吏。初儉之至市、茯苓價㬥數倍。議即安平李覃學其辟穀、餐茯苓、飲寒水、中泄利、殆至隕命。後始來、衆人無不鴟視狼顧、呼吸吐納。軍謀祭酒弘農董芬爲之過差、氣閉不通、良久乃蘇。左慈到、又競受其補導之術、至寺人嚴峻、往從問受、閹豎眞無事於斯術也。人之逐聲、乃至於是。光和中、北海王和平亦好道術、自以當仙。濟南孫邕少事之、從至京師。會和平病死、邕因葬之東陶、有書百餘巻、藥數嚢、悉以送之。後弟子夏榮言其尸解。邕至今恨不取其寳書仙藥。劉向惑於鴻寶之説、君游眩於子政之言、古今愚謬、豈惟一人哉。東阿王作辯道論曰、世有方士、吾王悉所招致、甘陵有甘始、廬江有左慈、陽城有郤儉、始能行氣導引、慈暁房中之術、儉善辟穀、悉號三百歳卒。所以集之於魏國者、誠恐斯人之徒、接姦宄以欺衆、行妖慝以惑民。豈復欲觀神仙於瀛州、求安期於海島、釋金輅而履雲輿棄六驥而美飛龍哉。自家王與太子及余兄弟咸以爲調笑不信之矣。然始等知上遇之有恒奉不過於員吏、賞不加於無功、海島難得而游、六黻難得而佩。終不敢進虚誕之言、出非常之語。余嘗試郤儉絶穀百日、躬與之寢處行歩起居自若也。夫人不食七日則死、而儉乃如是。然不必益壽、可以療疾、而不憚饑饉焉。左慈善修房内之術、差可終命、然自非有志至精、莫能行也。甘始者、老而有少容、自諸術士咸共歸之。然始辭繁寡實、頗有恠言。余常辟左右、獨與之談、問其所行、温顔以誘之、美辭以導之、始語余、吾本師姓韓字世雄、嘗與師於南海作金、前後數四、投數萬斤金於海。又言、諸梁時、西域胡來獻香罽、腰帶割玉刀、時悔不取也。又言、車師之西國、兒生、擘背出脾、欲其食少而弩行也。又言、取鯉魚五寸一雙、合其一煑藥、俱投沸膏中、有藥者奮尾鼓腮、游行沈浮、有若處淵、其一者已熟而可噉。余時問言、率可試不。言、是藥去此逾萬里、當出塞、始不自行不能得也。言不盡於此、頗難悉載、故粗舉其巨恠者、始若遭秦始皇漢武帝、則復爲徐市、欒大之徒也。
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