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伝説の名医、華佗
華佗伝シリーズ第3回目となる本記事では、魏の太祖・曹操に処刑された後のエピソードを引用・紹介しています。生前の華佗の治療を受け、病が治まったものの、病が再発してしまった患者が為すすべもなく…といったエピソードもあります。

イラスト:GoogleGeminiに作ってもらった「中国の名医 華佗のイラスト」
※本記事では『三国志』陳壽 撰述,裴松之 集註 (早稲田大学図書館 所蔵)を参考引用させていただきました。
※以下に書き下し文、次いで足立のコメントと原文を紹介。
※現代文に訳さないのは経文の本意を損なう可能性があるためです。口語訳は各自の世界観でお願いします。
書き下し文 魏書 方技伝 華佗伝
■書き下し文 華佗伝 裴松之の註文はフォントを小さくしています。
初軍吏、李成、欬嗽を苦しむ。昼夜不寤、時に膿血を吐す。以て華佗に問う。華佗言く、君は膓臃(腸癰)を病む。欬の吐する所、肺より来たるに非らざる也。君に散両銭を与えん。當に二升余の膿血を吐すべし。訖(おわり)て、快ならん。自ら養うこと、一月、小しく起つ。好く自ら将に愛せば、一年にして便ち健ならん。十八歳にして當に一たび小しく発す。此の散を服して、亦た行く、復た差えん。若し此の薬を得ざれば、故より當に死すべし。復た両銭散を与う。成(李成)、薬を得て去る。五六歳ありて親中の人に病、成(李成)が如き者あり。成に謂いて曰く、卿(李成)今、彊健なり、我れ死せんと欲す、何をか忍びて急無きに薬を去るは(臣松の案ずるに、古語に藏を以て去と為す。「去藥」→「藏藥」)、以て不祥を待なり。先ず持して我に貸せよ。我が差えば、卿がために華佗に従いて更に索(もとめ)ん。成(李成)之を与う。已故、譙に到る、適(たまたま)華佗が収する(考竟・曹操に捕まる)を見るに值(あう)。忽忽として従い(薬を)求むるに忍ばず。後に十八歳ありて、成(李成)が病竟(つい)に発す。薬の服すべき無くして、以て死に至る。
(佗が別伝に曰く、人、青龍の中に在りて有り。山陽の太守、広陵の劉景宗に見る。景宗、中平に説きて曰く、数(しばしば)華佗を見るに、其の病を治する、手脈の候、其の験は神の若し。
琅琊の劉勲、河内太守たるとき女あり年幾二十、左脚膝の裏上に瘡あり、癢して痛まず。瘡の愈えて数十日に復た発す。此の如きこと七八年。華佗を迎えて視せしむ。華佗曰く、是れ之を治すこと易し。當に稲糠黄色犬一頭、好馬二匹を得るべし。縄を以て犬の頚に繋ぎ、走馬をして犬を牽きせしむ。馬極(つかれ)れば輒(すなわち)(馬を)易(かえる)。馬の走るを計えて三十余里にして、犬は行くこと能わず。復た歩人をして拖(ひ)き曳かば、計えて五十里に向かわんとす。乃ち薬を以て女に飲ましむ。女、即ち安卧して人を知らず。因りて取て大刀にて犬腹を断ちて後脚の前に近づけ、以て断つ所の処を瘡口に向け、二三寸を去りて、之を停して須臾にして、虵の如き者有りて、瘡中より出づ。便ち鉄椎を以て横に虵頭を貫く。虵、皮中に在りて動揺すること良久。須臾にして動かず。乃ち牽き出す。長さ三尺許り、純に是れ虵なり。但だ眼処有りて童子(瞳子)無し。又、鱗の逆むくのみ。膏散を以て瘡中に著く、七日にして愈る。
又、人あり頭眩に苦しむ。頭を挙げることを得ず、目は視ることを得ずして、年を積めり。華佗、悉く衣を解かしめて倒(さかさま)に懸ける、頭をして地より去ること一二寸、布を濡して身体を拭う。周帀をして、諸脈を候視するに、盡く五色を出す。華佗、子弟数人をして鈹刀を以て脈を决せしむ。五色の血盡きて、赤血を視る、乃ち下すに膏摩を以て被覆、汗自出して周帀、飲しむるに𠅘歴(葶藶)犬血散を以てして、立ろに愈ゆ。
又、婦人あり、長病年を経る。世に謂ゆる寒熱注病なる者。冬十一月中、華佗、(婦人をして)石槽中に坐せしむる。平旦、寒水を用いて汲み灌ぎて、云く當に百に満つるべし。始め七八灌、戦(おののき・戦慄)て死せんと欲するに会いぬ。灌く者、懼れて、止めんと欲す。華佗、(灌者をして)数に満たしむ。将に八十灌に至るに、熱氣乃ち蒸出す、嚻嚻たること高さ二三尺。百灌に満つるとき、華佗は乃ち火を然(もやし)牀を温めむる。覆を厚くす。良久して汗洽(あまねく)出て、粉を著く。汗の燥きて便ち愈ゆる。
又、人あり腹中半切痛を病む。十余日の中、鬢眉堕落す。華佗が曰く、是れ脾半ば腐る。腹は刳きて養治すべき也。(患者をして)薬を飲ましめ、卧さしむ。肚を破りて就きて視るに、脾は果して半ば腐壊す。刀を以て之を断ち、悪肉を刮り去り、膏を以て瘡に傳(つけ)、之を飲ましむるに薬を以てす。百日にして平復す。)
華佗の症例
本記事(書き下し文)の医案は、5例あります。患者は、李成、劉勲の娘(別伝)、𠅘歴犬血散の症例、水治法を施された一婦人、そして腹中半切痛の症例、計5名です。
一旦は快癒したものの、華佗の死後に再発
最初の症例、軍吏 李成の症状は、欬嗽・吐膿血です。華佗の処方によって李成は快癒します。さらに華佗は後の再発を見越して、その処方を先に手渡しておくという名医ぶりを発揮します。
しかし李成の親族に、同症状を発症する者が現れます。親族は李成に華佗処方を譲るよう、李成に迫ります。落ち着いたらまだ華佗先生に処方してもらえばいいじゃないか、まずはその薬を譲ってくれ…と。
しかし、再び華佗に同処方を依頼しようとするも、曹操の令によって華佗が連行されていく最中。そのゴタゴタで結局、華佗に処方を頼むことができず…。さらに18年後、とうとう李成は病を再発してしまいます。服するべき薬方はすでに手元になく、李成はそのまま亡くなってしまいます。
華佗の医術・医書が継承されていれば…と、つい思ってしまうエピソードですね。
犬と馬を使って蛇を誘い出す治療
劉勲の娘の症例は、非常に呪術的な趣きを感じる内容です。また現在では動物愛護団体に責められること請け合いの治術です。
その治術の手順は次の通り。まず犬一頭、馬二頭を用意します。そして犬を首にリードを繋ぎ、もう一方のリードを馬につなぎます。そして馬を走らせ犬を引っ張ります。馬を走らせること三十里以上。当時の中国の距離単位の“里”の詳細はわかりませんが、まあまあな距離を走らせます。そして犬がもうこれ以上は走れない…という状態になったら、次は人が歩く速度でさらに二十里追加です。そして疲労物質を蓄積させたおした犬の腹を大刀で…そして、その迸る鮮血でもって…というなんとも荒々しく、紅に染まる治術です。そして、その血の匂いに反応して、病処からはなんと…。と非常に呪術的な印象を強く感じる症例です。
脈が五色に?
この次の症例もなかなかのものです。
頭眩(眩暈)に苦しむ患者さんの症例ですが、まずは衣を脱がせて、逆さに吊るし…、その脈を診ると五色あり、と記述にはあります。脈が五色あるというのも、五行思想や望診を知らなければ、いかにも迷信のようにみえることでしょう。
しかし東洋医学を学ぶ者ならば、いきなり迷信として否定して切り捨てることもしないと思います。
「候視諸脉、盡出五色(諸脈を候視するに、盡く五色を出す)」という記述からは、『素問』三部九候論や『傷寒論』弁脈法のような脈診部位を連想します。
また、五色を出すという情報も、一般の人であれば「血管が五色にみえるなんてありえない!」なんて思うでしょうが、少しでも東洋医学を学んでいれば、その解釈への姿勢は変わることでしょう。
一例ですが、脈を候い診るといっても、脈管だけをみるわけではありません。脈の周辺部位を望診として診る法もあり得ます。現代でも細絡を診ることも、血脈を望診として診る診法です。このように氣色として五色(青・赤・黄・白・黒)をみた診法を記しているのか…。
それとも脈診で得た脈状を五行(木・火・土・金・水)に分類し、五色と隠語で表現していたのか…、と東医的に解釈することも不可能ではありません。
しかし治術の記載「佗令子弟數人以鈹刀决脉、五色血盡、視赤血」をみると、本症例ではまず瀉血治療を行っています。ここでの五色は、血の色そのものをみているようです。血色の赤や黒は、実際にみることはありますが、血色としての青・黄・白(薄い血色としての白なら不可ではないが)はお目にかかるものではありません。
寒熱に病む婦人への治療
4つめは水治法の症例です。長年、寒熱に苦しむご婦人が患者さん。悪寒と発熱を繰り返す病態に、華佗先生はどのような治術で臨むのでしょう。記録には、まず患者さんを石槽(石で作った浴槽)に座らせます。それも冬11月に。旧暦の11月でしょうから、今の11月下旬から1月上旬にあたる季節です。どの街で行われた症例かはわかりませんが、三国の中でも北方に位置する魏国で、寒風吹きすさぶ季節に、石槽に入り、さらに日出の時間から寒水を灌ぐのです。
これも現代人からみれば、呪術的なものや苦行にしかみえないと思います。しかし、この時代(近代まで)は水治法は伝わっている治の一つですし、『傷寒論』にも水治法に関する記載は端々にみられます。
一見すると、難行苦行のようにみえる行為も、治療としての機序は想定できます。この記事では詳細は割愛しますが、平旦という時間帯に行ったことも意味のあることでしょう。
脾半腐に対して外科手術
本記事で紹介する最後の症例は、華佗が行った外科手術に関する記録です。
「10日あまり腹中半切痛に病む人」が患者さん、華佗先生の診たては「脾半腐」であり、治療法(術式)は「刳腹」すなわち開腹手術です。「使飲薬令卧」とあり、湯液を服用させて寝かせます。この湯液名(薬方名)は記されていませんが、麻沸散のことを指しているのでしょう。その後、刀で以って開腹、悪肉を刮り去り(摘出)、術後に膏薬を塗布し、回復目的の薬方を投与し、100日(約三カ月)で回復…といった一連の経過が記載されています。
以上は、麻沸散の詳細には触れずに、華佗の神技としての逸話・伝説の記録となります。しかし上記のように“外科手術に伴う一連の流れ”を書き表わすこと自体が凄いことだと思われます。
鍼道五経会 足立繁久
原文 魏書 國志二十九 方技伝
方技傳第二十九 魏書 國志二十九
華佗傳
華佗字元化、沛國譙人也、一名旉(臣松之案、古敷字與尃相似、寫書者多不能別、尋佗字元化、其名宜爲旉也。)游學徐土、兼通數經。沛相陳珪舉孝廉、大尉黃琬辟、皆不就。暁養性之術、時人以爲年且百歳而貌有壯容。又精方藥、其療疾、合湯不過數種、心解分劑、不復稱量、煑熟便飮、語其節度、舎去輒愈。若當灸、不過一兩處、毎處不過七八壯、病亦應除。若當針、亦不過一兩處、下針言當引某許、若至語人。病者言已到、應便㧞針、病亦行差。若病結積在内、針藥所不能及、當須刳割者、便飲其麻沸散、須臾便如醉死無所知、因破取病。若在膓中、便斷膓湔洗、縫腹膏摩、四五日差、不痛、人亦不自寤、一月之間、即平復矣。 故甘陵相夫人有娠六月腹痛不安、佗視脉曰、胎已死矣。使人手摸知所在、在左則男在右則女。人云在左。於是爲湯下之果下男形、即愈。 縣吏尹世、苦四支煩、口中乾、不欲聞人聲、小便不利。佗曰、試作熱食得汗則愈。不汗後三日死。即作熱食而不汗。佗曰、藏氣已絶於内。當啼泣而絶。果如佗言。 府吏兒尋李延共止、俱頭痛身熱、所苦正同。佗曰、尋當下之、延當發汗。或難其異。佗曰尋外實、延内實、故治之冝殊。卽各與藥、明旦並起。 鹽瀆嚴昕與數人共候佗、適至、佗謂昕曰、君身中佳否。昕曰自如常。佗曰、君有急病、見於面、莫多飲酒。坐畢歸行數里、昕卒頭眩墮車。人扶將還載歸家中宿死。 故督郵頓子獻得病已差、詣佗、視脉曰尚虚未得復、勿爲勞事、御内即死、臨死、當吐舌數寸。其妻聞其病除、從百餘里來省之、止宿交接、中間三日發病、一如佗言。 督郵徐毅得病、佗往省之、毅謂佗曰、昨使醫曹吏劉租針胃管訖、便苦欬嗽、欲卧不安。佗曰、刺不得胃管誤中肝也。食當日減、五日不救。遂如佗言。 東陽陳叔山小男二歳得疾、下利常先啼、日以羸困、問佗。佗曰、其母懐軀、陽氣内養、乳中虚冷、兒得母寒、故令不時愈。佗與四物女宛丸。十日即除。 彭城夫人夜之厠、蠆螫其手、呻呼無賴。佗令温酒近熱漬手其中、卒可得寐、但旁人數爲易湯、湯令煖之其旦即愈。 軍吏梅平得病、除名還家、家居廣陵、未至二百里、止親人舎、有頃、佗偶至主人許、主人令佗視平、佗謂平曰、君早見我、可不至此、今疾已結、促去可得與家相見、五日卒。應時歸、如佗所刻。 佗行道、見一人病咽塞、嗜食而不得下、家人車載、欲往就醫。佗聞其呻吟、駐車往視、語之曰、向來道邊有賣餅家蒜韲大酢、從取三升飲之、病自當去。即如佗言。立吐虵一枚、縣車邊、欲造佗、佗尚未還、小兒戯門前、逆見、自相謂曰、似逢我公車邊病是也。疾者前入坐、見佗北壁縣此蛇輩約以十數。 又有一郡守病佗以爲其人盛怒則差乃多受其貨而不加治、無何棄去、畱書罵之、郡守果大怒、令人追捉殺佗。郡守子知之、屬使勿逐、守瞋恚既甚、吐黑血數升而愈。 又有一士大夫不快、佗云君病深、當破腹取、然君壽亦不過十年、病不能殺君。忍病十歳、壽俱當盡。不足故自刳裂。士大夫不耐痛癢、必欲除之、佗遂下手、所患尋差、十年竟死。 廣陵太守陳登得病、胷中煩懣、面赤不食、佗脉之曰、府君胃中有蟲數升、欲成内疽、食腥物所爲也。即作湯二升、先服一升、斯須盡服之。食頃吐出三升許蟲、赤頭皆動、半身是生魚膾也。所苦便愈。佗曰此病後三期當發、遇良醫乃可濟救。依期果發動、時佗不在、如言而死。 太祖聞而召佗、佗常在左右、太祖苦頭風、毎發心亂目眩。佗針鬲隨手而差(佗別傳曰、有人病兩脚躄不能行。轝詣佗、佗望見云、已飽針灸服藥矣。不復須看脉。便使解衣、點背數十處、相去或一寸、或五寸、縱邪不相當、言灸此各十壯、灸創愈即行、後灸處夾脊一寸、上下行端直均調、如引縄也。) 李將軍妻病甚、呼佗視脉、曰、傷娠而胎不去。將軍言、聞實傷娠、胎已去矣。佗曰、案脉胎未去也。將軍以爲不然。佗舎去、婦稍小差、百餘日復動。更呼佗。佗曰、此脉故事有胎、前當生兩兒、一兒先出、血出甚多、後兒不及生、母不自覺、旁人亦不寤、不復迎、遂不得生、胎死、血脉不復歸、必燥著母脊、故使多脊痛、今當與湯并針一處、此死胎必出。湯針既加、婦痛急如欲生者。佗曰此死胎久枯、不能自出、宜使人探之。果得一死男、手足完具、色黑、長可尺許。佗之絶技凡此類也。然本作士人、以醫見業、意常自悔、後太祖親理、得病篤重。使佗専視。佗曰、此近難濟恒事、攻治可延歳月。佗久遠家思歸、因曰、當得家書、方欲暫還耳。到家、辭以妻病、數乞期不反。太祖累書呼、又勑郡縣發遣、佗恃能厭食事、猶不上道。太祖大怒使人往檢。若妻信病、賜小豆四十斛、寛假限日、若其虚詐、便収送之、於是傳付許獄、考驗首服。荀彧請曰、佗術實工、人命所縣、冝含宥之。太祖曰、不憂、天下當無比䑕輩耶。遂考竟佗、佗臨死、出一巻書與獄吏、曰、此可以活人。吏畏法不受。佗亦不彊、索火焼之。佗死後太祖頭風未除。太祖曰、佗能愈此、小人養吾病、欲以自重、然吾不殺此子、亦終當不爲我斷此根原耳。及後愛子倉舒病困、太祖歎曰、吾悔殺蕐佗、令此兒彊死也。 初軍吏李成若欬嗽、晝夜不寤、時吐膿血、以問佗。佗言、君病膓臃、欬之所吐、非從肺來也。與君散兩錢、當吐二升餘膿血。訖、快。自養、一月可小起、好自將愛、一年便健。十八歳當一小發、服此散、亦行復差。若不得此藥、故當死。復與兩錢散、成得藥去。五六歳親中人有病如成者、謂成曰、卿今彊健、我欲死、何忍無急去藥。(臣松之案、古語以藏爲去)以待不祥。先持貸我、我差、爲卿從華佗㪅索。成與之。已故到譙、適值佗見収、忽忽不忍從求。後十八歳、成病竟發、無藥可服、以至於死(佗別傳曰、人有在青龍中見山陽太守廣陵劉景宗、景宗説中平曰、數見華佗、其治病手脉之候、其驗若神。琅琊劉勲爲河内太守有女年幾二十、左脚膝裏上有瘡、癢而不痛、瘡愈數十日復發、如此七八年。迎佗使視、佗曰、是易治之。當得稻糠黃色犬一頭、好馬二疋。以繩繋犬頸、使走馬牽犬、馬極輒易。計馬走三十餘里、犬不能行、復令歩人拖曵、計向五十里。乃以藥飲女、女即安卧不知人。因取大刀斷犬腹近後脚之前、以所斷之處向瘡口、令去二三寸、停之須臾、有若虵者從瘡中而出、便以鐵椎横貫蛇頭、蛇在皮中動揺良久、須臾不動、乃牽出、長三尺許、純是蛇、但有眼處而無童子、又逆鱗耳。以膏散著瘡中、七日愈。又有人苦頭眩、頭不得舉、目不得視、積年。佗使悉解衣倒懸、令頭去地一二寸、濡布拭身體、令周帀、候視諸脉、盡出五色。佗令子弟數人以鈹刀决脉、五色血盡、視赤血、乃下以膏摩被覆、汗自出周帀、飲以𠅘歴犬血散、立愈。又有婦人長病經年、世謂寒熱注病者。冬十一月中、佗令坐石槽中、平旦用寒水汲灌、云當滿百、始七八灌、會戰欲死。灌者懼、欲止。佗令滿數。將至八十灌、熱氣乃蒸出嚻嚻髙二三尺。滿百灌、佗乃使然火温牀、厚覆、良久汗洽出、著粉、汗燥便愈。又有人病腹中半切痛十餘日中、鬢眉墯落。佗曰是脾半腐、可刳腹養治也。使飲藥令卧、破腹就視、脾果半腐壊。以刀斷之、刮去悪肉、以膏傳瘡、飲之以藥、百日平復。)
廣陵吳普、彭城樊阿皆從佗學。普依準佗治、多所全濟。佗語普曰、人體欲得勞動、但不當使極耳。動揺則穀氣得消、血脉流通、病不得生。譬猶戸樞不朽是也。是以古之仙者爲導引之事、熊頸鴟顧、引輓腰體、動諸關節、以求難老。吾有一術、名五禽之戯、一曰虎、二曰鹿、三曰熊、四曰猨、五曰鳥。亦以除疾、並利蹄足、以當導引。體中不快、起作一禽之戯、沾濡汗出、因上著粉、身體輕便、腹中欲食。普施行之、年九十餘、耳目聦明、齒牙完堅。阿善針術。凡醫咸言背及胷藏之間不可妄針、針之不過四分。而阿針背入一二寸、巨闕胷藏針下五六寸、而病輒皆瘳。阿從佗求可服食益於人者。佗授以漆葉青黏散。漆葉屑一升、青黏屑十四兩、以是爲率、言久服去三蟲、利五藏、輕體、使人頭不白。阿從其言、壽百餘歳。漆葉處所而有青黏生於豐、沛彭城及朝歌云。(佗別傳曰、青黏者一名地節、一名黃芝、主理五臓、益精氣。本出於迷入山者、見仙人服之、以告佗。佗以爲佳、輒語阿、阿又秘之。近者人見阿之壽而氣力彊盛、惟之、遂責阿所服、因醉亂誤道之。法一施、人多服者、皆有大驗。 文帝典論論郤儉等事曰、潁川郤儉能辟穀、餌茯苓。甘陵甘始亦善行氣、老有少容。廬江左慈知補導之術、並爲軍吏。初儉之至市、茯苓價㬥數倍。議即安平李覃學其辟穀、餐茯苓、飲寒水、中泄利、殆至隕命。後始來、衆人無不鴟視狼顧、呼吸吐納。軍謀祭酒弘農董芬爲之過差、氣閉不通、良久乃蘇。左慈到、又競受其補導之術、至寺人嚴峻、往從問受、閹豎眞無事於斯術也。人之逐聲、乃至於是。光和中、北海王和平亦好道術、自以當仙。濟南孫邕少事之、從至京師。會和平病死、邕因葬之東陶、有書百餘巻、藥數嚢、悉以送之。後弟子夏榮言其尸解。邕至今恨不取其寳書仙藥。劉向惑於鴻寶之説、君游眩於子政之言、古今愚謬、豈惟一人哉。東阿王作辯道論曰、世有方士、吾王悉所招致、甘陵有甘始、廬江有左慈、陽城有郤儉、始能行氣導引、慈暁房中之術、儉善辟穀、悉號三百歳卒。所以集之於魏國者、誠恐斯人之徒、接姦宄以欺衆、行妖慝以惑民。豈復欲觀神仙於瀛州、求安期於海島、釋金輅而履雲輿棄六驥而美飛龍哉。自家王與太子及余兄弟咸以爲調笑不信之矣。然始等知上遇之有恒奉不過於員吏、賞不加於無功、海島難得而游、六黻難得而佩。終不敢進虚誕之言、出非常之語。余嘗試郤儉絶穀百日、躬與之寢處行歩起居自若也。夫人不食七日則死、而儉乃如是。然不必益壽、可以療疾、而不憚饑饉焉。左慈善修房内之術、差可終命、然自非有志至精、莫能行也。甘始者、老而有少容、自諸術士咸共歸之。然始辭繁寡實、頗有恠言。余常辟左右、獨與之談、問其所行、温顔以誘之、美辭以導之、始語余、吾本師姓韓字世雄、嘗與師於南海作金、前後數四、投數萬斤金於海。又言、諸梁時、西域胡來獻香罽、腰帶割玉刀、時悔不取也。又言、車師之西國、兒生、擘背出脾、欲其食少而弩行也。又言、取鯉魚五寸一雙、合其一煑藥、俱投沸膏中、有藥者奮尾鼓腮、游行沈浮、有若處淵、其一者已熟而可噉。余時問言、率可試不。言、是藥去此逾萬里、當出塞、始不自行不能得也。言不盡於此、頗難悉載、故粗舉其巨恠者、始若遭秦始皇漢武帝、則復爲徐市、欒大之徒也。
(ここから)
https://www.shidianguji.com/zh/book/LS0004/chapter/1j7fnuvnx03so_175
(このサイトで確認)
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