Contents
今回は華佗と曹操のはなし
本記事では建安三名医のひとり、華佗について紹介します。『三国志』に収録される「魏書(魏志)」方技伝第二十九には「華佗伝」の章があり、多くの逸話が記されています。
華佗伝シリーズ第2回となる本記事では、魏の太祖である曹操孟徳に見出された華佗が曹操に召し抱えられ、そして投獄処刑されるまでを紹介します。

イラスト:GoogleGeminiに作ってもらった頭痛に悩む曹操のイラスト
※本記事では『三国志』陳壽 撰述,裴松之 集註 (早稲田大学図書館 所蔵)を参考引用させていただきました。
※以下に書き下し文、次いで足立のコメントと原文を紹介。
※現代文に訳さないのは経文の本意を損なう可能性があるためです。口語訳は各自の世界観でお願いします。
書き下し文 魏書 方技伝 華佗伝
■書き下し文 華佗伝 裴松之の註文はフォントを小さくしています。
太祖聞きて華佗を召し、華佗を常に左右に在す。太祖、頭風に苦しみ、発する毎に心乱れ目眩す。華佗、鬲に鍼し、手に随いて差えたり。
(華佗別伝に曰く、人有り、両脚躄りて行くこと能わずを病む。輿りて華佗に詣る。華佗、望み見て云う、已に鍼灸服薬に飽きけり。須らく脈を看ることを復びせず。便ち衣を解きしめ、背の数十処に点し、相い去ること或いは一寸、或いは五寸(五分ではないか?)。縦(火をつけて)邪に相い當らず。言う、灸すること此に各十壮、灸創(瘡)愈えば即ち行かん。後に灸処、脊を夾むこと一寸、上下行、端直均調なること、繩を引くが如し也。)
李将軍が妻、病むこと甚し。華佗を呼びて脈を視せしむ。(華佗)曰く、娠を傷りて胎去らず。将軍言う、聞かん実(まこと)に娠が傷れ(るも)、胎は已に去らん。華佗曰く、脈を案ずるに胎は未だ去らざる也。将軍、以爲(おもえらく)然らず。華佗は舎りて去る。婦、稍小し差ゆ。百余日ありて復た動く。更に華佗を呼ぶ。華佗曰く、此の脈、故事に胎有り、前に當に両児(双子)を生ずるべし。一児先ず出でて、血を出すこと甚だ多し。後の児は生ずるに及ばず、母は自覚せず、傍人も亦た寤(悟)らず。復た迎えず、遂に生ることを得ず、胎死す。血脈、復た帰らず、必ず母の脊に燥著す。故に多く脊痛せしむ。今、當に湯を与え并びに一処に鍼し、此の死胎を必ず出さん。湯・鍼既に加える、婦、痛むこと急にして生まんと欲する者の如し。華佗が曰く、此の死胎、久しく枯れて、自ら出でること能わず。宜しく人をして之を探りしめるべし。果して一死男(死胎)を得たり。手足完く具わり、色黒く、長じて尺許なるべし。
華佗の絶技、凡そ此の類也。然れども本(もと)士人が作す。医を以て業を見わし、(華佗の)意は常に自ら悔いる。
後に太祖は親(みずか)ら病の篤重なるを得ることを理して、華佗をして専ら視せしむ。華佗が曰く、此れ済(すくう)こと難く恒事に近く、治を攻めども、(いたずらに)歳月を延ぶべし。華佗、久しく家を遠くして(離れて)帰らんと思う。因りて曰く、當に家書を得るべし。方に暫く還らんと欲する耳。家に到りて、辞するに妻の病を以てし、数(しばしば)期を乞いて反(返)らず。太祖、書を累して呼ぶ。又、郡県に勑(勅)して発遣せしむ。華佗、恃みて能く食事に厭くこと、猶(なお)道に上らざるが如し。太祖、大いに怒り人をして往して検(しらべる・あらためる)せしむ。若し妻が信に病まば、小豆四十斛を賜い、限日を寛仮せよ。若し其れ虚詐ならば、便収して之を送れ。是に於いて許獄に傳付す。考験して首服す。
荀彧、請うて曰く、華佗が術実に工(たくみ)、人命の縣けし所、宜しく之を含宥すべし。太祖の曰く、不憂。天下當に比の䑕輩を無かるべんや。遂に華佗を考竟す。華佗、死に臨みて、一巻の書を出して獄吏に与えて曰く、此れ以て人を活すべし。吏、法を畏れて受けず。華佗も亦た彊(しい)ず、火を索して之を焼く。華佗の死後、太祖の頭風は未だ除かれず。太祖曰く、華佗能く此れを愈さん。小人(華佗のこと)、吾病を養いて、以て自ら重せんと欲す。然れども吾、此の子を殺さずとも、亦た終に當に我(己)のために此の根原を断ぜざる耳。後に愛子倉舒の病困じるに及びて、太祖歎じて曰く、吾れ華佗を殺したことを悔いる、此の児をして彊(しい)て死さしむる也。
華佗が行った医術
華佗伝には華佗が行った医術が数多く記載されています。とはいえ『三国志』は史書であり医書ではありません。医学情報を得るためとしては、その信頼度は不明ですが、そのことを頭に入れた上で華佗伝を楽しむとしましょう。
曹操の頭風疾患に対する華佗の治療
文中にある「太祖」とは、曹操のことです。
『三国志演義』では、曹操といえば丞相という役職が思い出されますが、丞相とは漢帝を補佐する役職のこと。しかし216年、漢帝(献帝)から曹操は魏王に封じられます(魏の建国)。ゆえに『魏書』では、太祖と記されるのでしょう。
さて、太祖曹操の悩みのひとつが病です。「太祖苦頭風、毎發心亂目眩。」とあるように、「頭風」に苦しみ、ひとたび発症すると「心乱・目眩」に襲われます(それはツラそうだ…)。この病に対し、華佗は「佗針鬲隨手而差」とあり、鬲(膈)に対し鍼治を行っていたようです。
腹部からの治療であったのか、背部からの治療であったのか…気になるところです。
華佗夾脊穴に関する情報か…
上記書き下し文の範囲で確認できる症例は、曹操の治療を含めて、3例(その内、華佗別伝にあるものが1例)
華佗別伝にあるとされる「両脚躄不能行」に病む人は、その名は記されていませんが、地位のある人物だったのではないでしょうか。「轝」という文字から、輿に乗って華佗を訪れる、地位のある人物だと解釈します。
この医案においては、華佗は脈診ではなく望診によって診断を下しています。
「佗望見云、已飽針灸服藥矣。不復須看脉。」とあり、望診によって判断し、脈診で再度確認する必要なしと断じているようです。
ここで用いた治術が灸治です。
「後灸處夾脊一寸、上下行端直均調、如引縄也。」という記述から思い浮かぶのは、あの「華佗夾脊穴」です。
「灸処は脊を夾むこと一寸、上下に行り、端直にして均調」という表現は、椎骨間の傍ら一寸(現行の華佗夾脊穴は傍ら五分)に整然と並んだ灸点が目に浮かびます。
どうやら華佗夾脊穴は、『魏書』華佗伝においては“灸治”に用いられたものであり、鍼治ではないようです。(もちろん、鍼治にも応用可能なのかもしれませんが。)
「両脚躄、不能行」という症状、病因病理は不明ですが、治法は「灸治」であり、穴処(灸点)は「夾脊一寸、上下行端直均調」という医案情報はなかなか興味深く、意義あるものに感じます。
死胎を脈診で見抜く華佗
3例目の患者は、李将軍の奥さんです。
具体的な症状は書かれておらず「李將軍妻、病甚」とあるのみです。この医案では、華佗はやはり脈診を用いています。脈を診た結果、華佗は「傷娠而胎不去。」と断言します。
この診断を聞いた夫、李将軍は「聞實傷娠、胎已去矣。(たしかに娠は傷れたが、胎はすでに去っている)」と、李将軍は納得いかない様子に、華佗は一旦引き下がります。しかし100余日絶って、また婦人の体調が崩れ、華佗が呼ばれます。
華佗の脈診による診たては前と同じく「此脉故事有胎」です。李将軍に説明した言葉が「前當生兩兒、一兒先出、血出甚多、後兒不及生」、つまり双子を妊娠していたのです。李将軍が言っていた「胎児は已に去る」というのは、双子のうちの一児、またもう一人の胎児(死胎)が婦人の中に残っているのです。そのため何カ月たっても婦人の体調が崩れたままなのだ…と。
さて、この病理「胎死、血脉不復歸、必燥著母脊、故使多脊痛」にも注目です。
「死胎(=瘀血)」)が脊に着き、脊痛・腰痛の原因となる病理は重要だと思います。死胎・流産のみならず月経に由来する瘀血が腰脊に着き、痛みや不調の因となる病理は臨床でもみられるものです。これも鍼灸師として、史書を読んでいても楽しめる点でしょう。
李夫人に対する華佗の治術として「今當與湯并針一處、此死胎必出。湯針既加、婦痛急如欲生者。」と記されています。
湯液と鍼治で催生を行っています。どのような薬方を用いたのか?やはり鍼治はセオリー通り三陰交だったのか三陰交だったのか?…などなど気になりますね。
投獄された華佗
曹操に侍り、常に常勤しないといけない境遇に嫌気がさした華佗、自身の妻の病を理由にして、故郷に一時帰省します。
しかし…故郷にかえった華佗は、いつまで経っても曹操の元に戻ってきません。
再三にわたる職場復帰の要請に応えない華佗に曹操は苛立ちます。そんな状況だと余計に頭風が悪化するでしょうに…。
とはいえ、曹操も上司として器の大きさをみせます。
「若妻信病、賜小豆四十斛、寛假限日、若其虚詐、便収送之、於是傳付許獄。」とあり、もし本当に妻が病気であれば、華佗には小豆四十斛を賜い、復帰要請の限日をゆるくしてあげなさい、と指示しています。
しかし、もしも虚詐(嘘)であったならば、便ちに華佗を捕えて送りつけよ…との指令。華佗を信じようとする少しの気持ちも曹操にはあったようです。(もちろん、『魏書』なので曹操の狭量な記述は控えめになるのかもしれませんが)
調査の結果、虚偽がばれて、華佗獄につながれます。
魏の軍師としても名高い荀彧は華佗の功績と実力を重視し、彼を赦すよう助言を行った記述が『魏書』にはあります。しかし、荀彧の言葉も空しく華佗は処刑されてしまいます。その最期に及んで華佗がとった行動は…
「佗臨死、出一巻書與獄吏、曰、此可以活人。吏畏法不受。佗亦不彊、索火焼之。」
これは有名な一節です。華佗は一巻の医書を取り出し、獄吏に渡そうとします。医書を伝えることで、華佗の医術を遺し伝えようとしたようです。しかし、後難を畏れた獄吏は受け取りを拒否します。華佗も獄吏の気持ちをわかっていたのでしょう。「佗亦不彊」と、強いて(医書を)渡そうとせずに、諦め、医書を燃やした…と、記しています。
一般的には、獄吏が華佗の書を燃やしたという逸話が伝わっているようですが、これには『三国志演義』の影響もあるのかもしれません。
しかし原文「佗亦不彊、索火焼之。」をみる限りは、華佗本人が燃やしたようにも見受けられます。(とはいえ、獄中で火を自由に使えることもなさそうですけども…)
華佗の処刑を悔やむ曹操
荀彧の助言を退け、華佗を処刑を命じた曹操ですが、その判断を悔やむときが訪れます。それは曹操の愛児、曹沖が病死したときです。
原文「及後愛子倉舒病困、太祖歎曰、吾悔殺蕐佗、令此兒彊死也。 」
曹沖とは字を倉舒といい、才にも恵まれた人物であったことが知られています。才覚・人格ともに優れた人物であったようで、それもあり曹操自身もかなり倉舒(曹沖)に期待を寄せていたようです。
『魏書』巻二十 武文世王公傳第二十「鄧哀王沖」の項には曹沖の病没したことが書かれています。
「…年十三、建安十三年、疾病。太祖親爲請命、及亡、哀甚。…」の記述からは、太祖曹操が親(みずか)ら請命を為したとあります。曹操の想いも空しく曹沖は亡くなるのですが、『魏書』の記述には「年十三……疾病」のみとあり、詳しい病症はわかりません。
鍼道五経会 足立繁久
原文 魏書 國志二十九 方技伝
方技傳第二十九 魏書 國志二十九
華佗傳
華佗字元化、沛國譙人也、一名旉(臣松之案、古敷字與尃相似、寫書者多不能別、尋佗字元化、其名宜爲旉也。)游學徐土、兼通數經。沛相陳珪舉孝廉、大尉黃琬辟、皆不就。暁養性之術、時人以爲年且百歳而貌有壯容。又精方藥、其療疾、合湯不過數種、心解分劑、不復稱量、煑熟便飮、語其節度、舎去輒愈。若當灸、不過一兩處、毎處不過七八壯、病亦應除。若當針、亦不過一兩處、下針言當引某許、若至語人。病者言已到、應便㧞針、病亦行差。若病結積在内、針藥所不能及、當須刳割者、便飲其麻沸散、須臾便如醉死無所知、因破取病。若在膓中、便斷膓湔洗、縫腹膏摩、四五日差、不痛、人亦不自寤、一月之間、即平復矣。 故甘陵相夫人有娠六月腹痛不安、佗視脉曰、胎已死矣。使人手摸知所在、在左則男在右則女。人云在左。於是爲湯下之果下男形、即愈。 縣吏尹世、苦四支煩、口中乾、不欲聞人聲、小便不利。佗曰、試作熱食得汗則愈。不汗後三日死。即作熱食而不汗。佗曰、藏氣已絶於内。當啼泣而絶。果如佗言。 府吏兒尋李延共止、俱頭痛身熱、所苦正同。佗曰、尋當下之、延當發汗。或難其異。佗曰尋外實、延内實、故治之冝殊。卽各與藥、明旦並起。 鹽瀆嚴昕與數人共候佗、適至、佗謂昕曰、君身中佳否。昕曰自如常。佗曰、君有急病、見於面、莫多飲酒。坐畢歸行數里、昕卒頭眩墮車。人扶將還載歸家中宿死。 故督郵頓子獻得病已差、詣佗、視脉曰尚虚未得復、勿爲勞事、御内即死、臨死、當吐舌數寸。其妻聞其病除、從百餘里來省之、止宿交接、中間三日發病、一如佗言。 督郵徐毅得病、佗往省之、毅謂佗曰、昨使醫曹吏劉租針胃管訖、便苦欬嗽、欲卧不安。佗曰、刺不得胃管誤中肝也。食當日減、五日不救。遂如佗言。 東陽陳叔山小男二歳得疾、下利常先啼、日以羸困、問佗。佗曰、其母懐軀、陽氣内養、乳中虚冷、兒得母寒、故令不時愈。佗與四物女宛丸。十日即除。 彭城夫人夜之厠、蠆螫其手、呻呼無賴。佗令温酒近熱漬手其中、卒可得寐、但旁人數爲易湯、湯令煖之其旦即愈。 軍吏梅平得病、除名還家、家居廣陵、未至二百里、止親人舎、有頃、佗偶至主人許、主人令佗視平、佗謂平曰、君早見我、可不至此、今疾已結、促去可得與家相見、五日卒。應時歸、如佗所刻。 佗行道、見一人病咽塞、嗜食而不得下、家人車載、欲往就醫。佗聞其呻吟、駐車往視、語之曰、向來道邊有賣餅家蒜韲大酢、從取三升飲之、病自當去。即如佗言。立吐虵一枚、縣車邊、欲造佗、佗尚未還、小兒戯門前、逆見、自相謂曰、似逢我公車邊病是也。疾者前入坐、見佗北壁縣此蛇輩約以十數。 又有一郡守病佗以爲其人盛怒則差乃多受其貨而不加治、無何棄去、畱書罵之、郡守果大怒、令人追捉殺佗。郡守子知之、屬使勿逐、守瞋恚既甚、吐黑血數升而愈。 又有一士大夫不快、佗云君病深、當破腹取、然君壽亦不過十年、病不能殺君。忍病十歳、壽俱當盡。不足故自刳裂。士大夫不耐痛癢、必欲除之、佗遂下手、所患尋差、十年竟死。 廣陵太守陳登得病、胷中煩懣、面赤不食、佗脉之曰、府君胃中有蟲數升、欲成内疽、食腥物所爲也。即作湯二升、先服一升、斯須盡服之。食頃吐出三升許蟲、赤頭皆動、半身是生魚膾也。所苦便愈。佗曰此病後三期當發、遇良醫乃可濟救。依期果發動、時佗不在、如言而死。 太祖聞而召佗、佗常在左右、太祖苦頭風、毎發心亂目眩。佗針鬲隨手而差(佗別傳曰、有人病兩脚躄不能行。轝詣佗、佗望見云、已飽針灸服藥矣。不復須看脉。便使解衣、點背數十處、相去或一寸、或五寸、縱邪不相當、言灸此各十壯、灸創愈即行、後灸處夾脊一寸、上下行端直均調、如引縄也。) 李將軍妻病甚、呼佗視脉、曰、傷娠而胎不去。將軍言、聞實傷娠、胎已去矣。佗曰、案脉胎未去也。將軍以爲不然。佗舎去、婦稍小差、百餘日復動。更呼佗。佗曰、此脉故事有胎、前當生兩兒、一兒先出、血出甚多、後兒不及生、母不自覺、旁人亦不寤、不復迎、遂不得生、胎死、血脉不復歸、必燥著母脊、故使多脊痛、今當與湯并針一處、此死胎必出。湯針既加、婦痛急如欲生者。佗曰此死胎久枯、不能自出、宜使人探之。果得一死男、手足完具、色黑、長可尺許。佗之絶技凡此類也。然本作士人、以醫見業、意常自悔、後太祖親理、得病篤重。使佗専視。佗曰、此近難濟恒事、攻治可延歳月。佗久遠家思歸、因曰、當得家書、方欲暫還耳。到家、辭以妻病、數乞期不反。太祖累書呼、又勑郡縣發遣、佗恃能厭食事、猶不上道。太祖大怒使人往檢。若妻信病、賜小豆四十斛、寛假限日、若其虚詐、便収送之、於是傳付許獄、考驗首服。荀彧請曰、佗術實工、人命所縣、冝含宥之。太祖曰、不憂、天下當無比䑕輩耶。遂考竟佗、佗臨死、出一巻書與獄吏、曰、此可以活人。吏畏法不受。佗亦不彊、索火焼之。佗死後太祖頭風未除。太祖曰、佗能愈此、小人養吾病、欲以自重、然吾不殺此子、亦終當不爲我斷此根原耳。及後愛子倉舒病困、太祖歎曰、吾悔殺蕐佗、令此兒彊死也。 初軍吏李成若欬嗽、晝夜不寤、時吐膿血、以問佗。佗言、君病膓臃、欬之所吐、非從肺來也。與君散兩錢、當吐二升餘膿血。訖、快。自養、一月可小起、好自將愛、一年便健。十八歳當一小發、服此散、亦行復差。若不得此藥、故當死。復與兩錢散、成得藥去。五六歳親中人有病如成者、謂成曰、卿今彊健、我欲死、何忍無急去藥。(臣松之案、古語以藏爲去)以待不祥。先持貸我、我差、爲卿從華佗㪅索。成與之。已故到譙、適值佗見収、忽忽不忍從求。後十八歳、成病竟發、無藥可服、以至於死(佗別傳曰、人有在青龍中見山陽太守廣陵劉景宗、景宗説中平曰、數見華佗、其治病手脉之候、其驗若神。琅琊劉勲爲河内太守有女年幾二十、左脚膝裏上有瘡、癢而不痛、瘡愈數十日復發、如此七八年。迎佗使視、佗曰、是易治之。當得稻糠黃色犬一頭、好馬二疋。以繩繋犬頸、使走馬牽犬、馬極輒易。計馬走三十餘里、犬不能行、復令歩人拖曵、計向五十里。乃以藥飲女、女即安卧不知人。因取大刀斷犬腹近後脚之前、以所斷之處向瘡口、令去二三寸、停之須臾、有若虵者從瘡中而出、便以鐵椎横貫蛇頭、蛇在皮中動揺良久、須臾不動、乃牽出、長三尺許、純是蛇、但有眼處而無童子、又逆鱗耳。以膏散著瘡中、七日愈。又有人苦頭眩、頭不得舉、目不得視、積年。佗使悉解衣倒懸、令頭去地一二寸、濡布拭身體、令周帀、候視諸脉、盡出五色。佗令子弟數人以鈹刀决脉、五色血盡、視赤血、乃下以膏摩被覆、汗自出周帀、飲以𠅘歴犬血散、立愈。又有婦人長病經年、世謂寒熱注病者。冬十一月中、佗令坐石槽中、平旦用寒水汲灌、云當滿百、始七八灌、會戰欲死。灌者懼、欲止。佗令滿數。將至八十灌、熱氣乃蒸出嚻嚻髙二三尺。滿百灌、佗乃使然火温牀、厚覆、良久汗洽出、著粉、汗燥便愈。又有人病腹中半切痛十餘日中、鬢眉墯落。佗曰是脾半腐、可刳腹養治也。使飲藥令卧、破腹就視、脾果半腐壊。以刀斷之、刮去悪肉、以膏傳瘡、飲之以藥、百日平復。)
廣陵吳普、彭城樊阿皆從佗學。普依準佗治、多所全濟。佗語普曰、人體欲得勞動、但不當使極耳。動揺則穀氣得消、血脉流通、病不得生。譬猶戸樞不朽是也。是以古之仙者爲導引之事、熊頸鴟顧、引輓腰體、動諸關節、以求難老。吾有一術、名五禽之戯、一曰虎、二曰鹿、三曰熊、四曰猨、五曰鳥。亦以除疾、並利蹄足、以當導引。體中不快、起作一禽之戯、沾濡汗出、因上著粉、身體輕便、腹中欲食。普施行之、年九十餘、耳目聦明、齒牙完堅。阿善針術。凡醫咸言背及胷藏之間不可妄針、針之不過四分。而阿針背入一二寸、巨闕胷藏針下五六寸、而病輒皆瘳。阿從佗求可服食益於人者。佗授以漆葉青黏散。漆葉屑一升、青黏屑十四兩、以是爲率、言久服去三蟲、利五藏、輕體、使人頭不白。阿從其言、壽百餘歳。漆葉處所而有青黏生於豐、沛彭城及朝歌云。(佗別傳曰、青黏者一名地節、一名黃芝、主理五臓、益精氣。本出於迷入山者、見仙人服之、以告佗。佗以爲佳、輒語阿、阿又秘之。近者人見阿之壽而氣力彊盛、惟之、遂責阿所服、因醉亂誤道之。法一施、人多服者、皆有大驗。 文帝典論論郤儉等事曰、潁川郤儉能辟穀、餌茯苓。甘陵甘始亦善行氣、老有少容。廬江左慈知補導之術、並爲軍吏。初儉之至市、茯苓價㬥數倍。議即安平李覃學其辟穀、餐茯苓、飲寒水、中泄利、殆至隕命。後始來、衆人無不鴟視狼顧、呼吸吐納。軍謀祭酒弘農董芬爲之過差、氣閉不通、良久乃蘇。左慈到、又競受其補導之術、至寺人嚴峻、往從問受、閹豎眞無事於斯術也。人之逐聲、乃至於是。光和中、北海王和平亦好道術、自以當仙。濟南孫邕少事之、從至京師。會和平病死、邕因葬之東陶、有書百餘巻、藥數嚢、悉以送之。後弟子夏榮言其尸解。邕至今恨不取其寳書仙藥。劉向惑於鴻寶之説、君游眩於子政之言、古今愚謬、豈惟一人哉。東阿王作辯道論曰、世有方士、吾王悉所招致、甘陵有甘始、廬江有左慈、陽城有郤儉、始能行氣導引、慈暁房中之術、儉善辟穀、悉號三百歳卒。所以集之於魏國者、誠恐斯人之徒、接姦宄以欺衆、行妖慝以惑民。豈復欲觀神仙於瀛州、求安期於海島、釋金輅而履雲輿棄六驥而美飛龍哉。自家王與太子及余兄弟咸以爲調笑不信之矣。然始等知上遇之有恒奉不過於員吏、賞不加於無功、海島難得而游、六黻難得而佩。終不敢進虚誕之言、出非常之語。余嘗試郤儉絶穀百日、躬與之寢處行歩起居自若也。夫人不食七日則死、而儉乃如是。然不必益壽、可以療疾、而不憚饑饉焉。左慈善修房内之術、差可終命、然自非有志至精、莫能行也。甘始者、老而有少容、自諸術士咸共歸之。然始辭繁寡實、頗有恠言。余常辟左右、獨與之談、問其所行、温顔以誘之、美辭以導之、始語余、吾本師姓韓字世雄、嘗與師於南海作金、前後數四、投數萬斤金於海。又言、諸梁時、西域胡來獻香罽、腰帶割玉刀、時悔不取也。又言、車師之西國、兒生、擘背出脾、欲其食少而弩行也。又言、取鯉魚五寸一雙、合其一煑藥、俱投沸膏中、有藥者奮尾鼓腮、游行沈浮、有若處淵、其一者已熟而可噉。余時問言、率可試不。言、是藥去此逾萬里、當出塞、始不自行不能得也。言不盡於此、頗難悉載、故粗舉其巨恠者、始若遭秦始皇漢武帝、則復爲徐市、欒大之徒也。
TOP