伝説の名医、華佗
華佗伝シリーズ第5回目となる本記事では、華佗や弟子たちではなく、当時の道士について触れられています。前回に紹介した呉普や樊阿も医術を収めつつも、導引や方薬でかなりの長寿を保ったことから、その流れを受けて道士の紹介となったのでしょうか。
ちなみに、三国志演義での道士といえば左慈や于吉といった名が有名です。華佗伝では、左慈、郤儉、甘始といった名が著名な道士として紹介されています。それでは本文をみてみましょう。

イラスト:ChatGPTにつくってもらった三国志の道士・左慈のイメージ画像。
※本記事では『三国志』陳壽 撰述,裴松之 集註 (早稲田大学図書館 所蔵)を参考引用させていただきました。
※以下に書き下し文、次いで足立のコメントと原文を紹介。
※現代文に訳さないのは経文の本意を損なう可能性があるためです。口語訳は各自の世界観でお願いします。
書き下し文 魏書 方技伝 華佗伝
■書き下し文 華佗伝 (裴松之の註文の続き)
文帝典論に郤儉(卻儉?)等が事を論じて曰く、潁川郤儉、能く辟穀して、茯苓を餌(くう)。甘陵の甘始も亦た善く行氣す(方術・道術を行う)。老いて少容(若々しい容貌)有り。廬江の左慈は補導の術を知り、並に軍吏を為す。初め儉(郤儉・卻儉)の市に至るとき、茯苓の價(価)暴かに数倍す。議郎安平の李覃、其の辟穀を学び、茯苓を餐(くい)、寒水を飲む。中りて泄利し、殆ど命を隕(おとす)に至んとす。後に始(甘始)来たりて、衆人、鴟視狼顧、呼吸吐納せざること無し。軍謀祭酒弘農の董芬は之が為に過差し、氣閉不通して、良久して乃ち蘇る。左慈到りて、又、競いて其の補導の術を受け、寺人厳峻に至る。往き従いて問い受けるに、閹堅(宦官)真に斯の術に於いて事無き也。人の声を逐うこと、乃ち是に至る。
光和中、北海 王和平も亦た道術を好む、自ら以て當に仙とすべし。済南の孫邕、少(幼小)より之(王和平)に事(つかえ)、従いて京師に至る。和平が病死するに会いて、邕(孫邕)は因りて之を東陶に葬る、書百余巻、薬数嚢あり。悉く以て之を送る。後に弟子、夏栄が言う、其れ尸解すと。邕(孫邕)今に至りて、其の宝書仙薬を取らざることを恨(くやむ)。
劉向は鴻寳の説に惑い、君游は子政の言に眩む。古今の愚謬、豈に惟だ一人ならんや。
東阿王、辯道論を作りて曰く、世に方士あり。吾王、悉く招致する所、甘陵に甘始あり、廬江に左慈あり、陽城に郤儉(卻儉)あり。始(甘始)は能く行氣導引す。慈(左慈)は房中の術を曉(さとる)。儉(郤儉・卻儉)は辟穀を善す。悉く三百歳を号して卒(おえる・歿)する。
之を魏国に集める者の所以は、誠に恐くは斯の人の徒、姦宄に接し以て衆を欺き、妖慝を行い以て民を惑わす。豈に復た神仙を瀛州に観、安期を海島に求め、金輅を釈きて雲輿を履み、六驥を棄てて飛龍を美せんと欲せんや。
家王と太子、及び余兄弟より咸な以て調笑を為し之を信ぜず。
然るに始(甘始)等、上遇の恒あるを知る。奉ずるも員吏に過ぎず、賞するも功無きに加えず。
海島は得て游し難し、六黻は得て佩し難し。終に敢て虚誕の言を進め、非常の語を出すことをせず。
余、嘗て試むるに郤儉の絶穀を百日す。躬は之を與(とも)に寝処行歩起居、自若たり。夫れ人は不食七日なれば則ち死す。而れども儉(郤儉・卻儉)は乃ち是(自若)の如し。然も必ずしも寿を益して以て疾を療す可からず、而して飢饉を憚らず。
左慈、善く房内の術を修む。差(たが)えば命を終うべし。然れども至精に志あるに非ざれば、能く行わるること莫き也。
甘始は、老いて少容(若々しい容貌)あり。諸術士より咸く共に之に帰する。
然も始(甘始)の辞は繁ぐ実は寡し、頗る怪言あり。余、常に左右を辟(ひらき)て独り之と談し、其の行わる所を問う。顔を温め以て之を誘い、辞を美して以て之を導く。始(甘始)、余に語れり。吾れ本師、姓は韓。字は世雄。嘗て師と南海に於て金を作す。前後数四(何度も・数多の)、数万の金を海に投ず。
又、言う、諸梁の時、西域の胡、来たりて香罽、腰帯割玉刀を献ず。時に(それを)取らざることを悔いる也。
又、言う、車師の西国、児生れて背を劈(ひら)きて脾を出だし、其の食を少くくして而して弩く行かんことを欲する也。
又、言う、鯉魚五寸一雙を取りて、合し、其の一つは薬に煮て、俱に沸膏の中に投ず。薬(薬効)有る者は尾を奮い腮を鼓ち、游行沈浮すること、淵に処(お)るが若き有り。其の一つは已に熟して噉(くらう)べし。
余、時に問うて言う、率(すべて)に試むべきかべからずか。言う、是の薬、此(此の地)を去りて萬里を逾(こえ)、當に塞(国境)を出でるべし。始(甘始)自行せざれば、得ること能わざる也。言は此に盡きず、頗なるは悉く載せるに難し。故に粗として其の巨怪の者を挙げ、始、若し秦の始皇・漢の武帝に遭わば、則ち復た徐市(徐福)、欒大の徒たる也。
三人の道士、それぞれの特徴
郤儉・甘始・左慈・王和平といった道士たちの名が挙げられています。
本文には「始能行氣導引、慈暁房中之術、儉善辟穀、悉號三百歳卒。」とあり、甘始は導引、左慈は房中術、郤儉は辟穀を能くしたと記されています。道士にもそれぞれの特徴があるものなのですね。そして彼らはそれぞれ百歳前後まで生きたと、その長寿ぶりが記録されています。
また、裴松之の註文にある「所以集之於魏國者、誠恐斯人之徒、接姦宄以欺衆、行妖慝以惑民。」からは、曹操が魏国に道士を集めた訳が記されています。この点、不老不死を求めた秦の始皇帝や漢の武帝とは異なり、まだ道半ばであるためか曹操には政治に対する合理性を感じます。
いずれにせよ、この時代の記録をみると、方術と医術、道士と医家の境界線が現代に比べて不明瞭であったと感じます。脈を診て、経穴経絡を介して、営衛を調和させる仕事を生業とする鍼灸師だからこそ思えるのですが、(誤解を恐れずに言うならば)方術と医術の境界を厳密に区分することに拘泥しても非なのだと思います。方術と医術、医と巫とを自在に逍遥できることが、伝統医学の魅力のひとつといえるでしょう。
鍼道五経会 足立繁久
原文 魏書 國志二十九 方技伝
方技傳第二十九 魏書 國志二十九
華佗傳
華佗字元化、沛國譙人也、一名旉(臣松之案、古敷字與尃相似、寫書者多不能別、尋佗字元化、其名宜爲旉也。)游學徐土、兼通數經。沛相陳珪舉孝廉、大尉黃琬辟、皆不就。暁養性之術、時人以爲年且百歳而貌有壯容。又精方藥、其療疾、合湯不過數種、心解分劑、不復稱量、煑熟便飮、語其節度、舎去輒愈。若當灸、不過一兩處、毎處不過七八壯、病亦應除。若當針、亦不過一兩處、下針言當引某許、若至語人。病者言已到、應便㧞針、病亦行差。若病結積在内、針藥所不能及、當須刳割者、便飲其麻沸散、須臾便如醉死無所知、因破取病。若在膓中、便斷膓湔洗、縫腹膏摩、四五日差、不痛、人亦不自寤、一月之間、即平復矣。 故甘陵相夫人有娠六月腹痛不安、佗視脉曰、胎已死矣。使人手摸知所在、在左則男在右則女。人云在左。於是爲湯下之果下男形、即愈。 縣吏尹世、苦四支煩、口中乾、不欲聞人聲、小便不利。佗曰、試作熱食得汗則愈。不汗後三日死。即作熱食而不汗。佗曰、藏氣已絶於内。當啼泣而絶。果如佗言。 府吏兒尋李延共止、俱頭痛身熱、所苦正同。佗曰、尋當下之、延當發汗。或難其異。佗曰尋外實、延内實、故治之冝殊。卽各與藥、明旦並起。 鹽瀆嚴昕與數人共候佗、適至、佗謂昕曰、君身中佳否。昕曰自如常。佗曰、君有急病、見於面、莫多飲酒。坐畢歸行數里、昕卒頭眩墮車。人扶將還載歸家中宿死。 故督郵頓子獻得病已差、詣佗、視脉曰尚虚未得復、勿爲勞事、御内即死、臨死、當吐舌數寸。其妻聞其病除、從百餘里來省之、止宿交接、中間三日發病、一如佗言。 督郵徐毅得病、佗往省之、毅謂佗曰、昨使醫曹吏劉租針胃管訖、便苦欬嗽、欲卧不安。佗曰、刺不得胃管誤中肝也。食當日減、五日不救。遂如佗言。 東陽陳叔山小男二歳得疾、下利常先啼、日以羸困、問佗。佗曰、其母懐軀、陽氣内養、乳中虚冷、兒得母寒、故令不時愈。佗與四物女宛丸。十日即除。 彭城夫人夜之厠、蠆螫其手、呻呼無賴。佗令温酒近熱漬手其中、卒可得寐、但旁人數爲易湯、湯令煖之其旦即愈。 軍吏梅平得病、除名還家、家居廣陵、未至二百里、止親人舎、有頃、佗偶至主人許、主人令佗視平、佗謂平曰、君早見我、可不至此、今疾已結、促去可得與家相見、五日卒。應時歸、如佗所刻。 佗行道、見一人病咽塞、嗜食而不得下、家人車載、欲往就醫。佗聞其呻吟、駐車往視、語之曰、向來道邊有賣餅家蒜韲大酢、從取三升飲之、病自當去。即如佗言。立吐虵一枚、縣車邊、欲造佗、佗尚未還、小兒戯門前、逆見、自相謂曰、似逢我公車邊病是也。疾者前入坐、見佗北壁縣此蛇輩約以十數。 又有一郡守病佗以爲其人盛怒則差乃多受其貨而不加治、無何棄去、畱書罵之、郡守果大怒、令人追捉殺佗。郡守子知之、屬使勿逐、守瞋恚既甚、吐黑血數升而愈。 又有一士大夫不快、佗云君病深、當破腹取、然君壽亦不過十年、病不能殺君。忍病十歳、壽俱當盡。不足故自刳裂。士大夫不耐痛癢、必欲除之、佗遂下手、所患尋差、十年竟死。 廣陵太守陳登得病、胷中煩懣、面赤不食、佗脉之曰、府君胃中有蟲數升、欲成内疽、食腥物所爲也。即作湯二升、先服一升、斯須盡服之。食頃吐出三升許蟲、赤頭皆動、半身是生魚膾也。所苦便愈。佗曰此病後三期當發、遇良醫乃可濟救。依期果發動、時佗不在、如言而死。 太祖聞而召佗、佗常在左右、太祖苦頭風、毎發心亂目眩。佗針鬲隨手而差(佗別傳曰、有人病兩脚躄不能行。轝詣佗、佗望見云、已飽針灸服藥矣。不復須看脉。便使解衣、點背數十處、相去或一寸、或五寸、縱邪不相當、言灸此各十壯、灸創愈即行、後灸處夾脊一寸、上下行端直均調、如引縄也。) 李將軍妻病甚、呼佗視脉、曰、傷娠而胎不去。將軍言、聞實傷娠、胎已去矣。佗曰、案脉胎未去也。將軍以爲不然。佗舎去、婦稍小差、百餘日復動。更呼佗。佗曰、此脉故事有胎、前當生兩兒、一兒先出、血出甚多、後兒不及生、母不自覺、旁人亦不寤、不復迎、遂不得生、胎死、血脉不復歸、必燥著母脊、故使多脊痛、今當與湯并針一處、此死胎必出。湯針既加、婦痛急如欲生者。佗曰此死胎久枯、不能自出、宜使人探之。果得一死男、手足完具、色黑、長可尺許。佗之絶技凡此類也。然本作士人、以醫見業、意常自悔、後太祖親理、得病篤重。使佗専視。佗曰、此近難濟恒事、攻治可延歳月。佗久遠家思歸、因曰、當得家書、方欲暫還耳。到家、辭以妻病、數乞期不反。太祖累書呼、又勑郡縣發遣、佗恃能厭食事、猶不上道。太祖大怒使人往檢。若妻信病、賜小豆四十斛、寛假限日、若其虚詐、便収送之、於是傳付許獄、考驗首服。荀彧請曰、佗術實工、人命所縣、冝含宥之。太祖曰、不憂、天下當無比䑕輩耶。遂考竟佗、佗臨死、出一巻書與獄吏、曰、此可以活人。吏畏法不受。佗亦不彊、索火焼之。佗死後太祖頭風未除。太祖曰、佗能愈此、小人養吾病、欲以自重、然吾不殺此子、亦終當不爲我斷此根原耳。及後愛子倉舒病困、太祖歎曰、吾悔殺蕐佗、令此兒彊死也。 初軍吏李成若欬嗽、晝夜不寤、時吐膿血、以問佗。佗言、君病膓臃、欬之所吐、非從肺來也。與君散兩錢、當吐二升餘膿血。訖、快。自養、一月可小起、好自將愛、一年便健。十八歳當一小發、服此散、亦行復差。若不得此藥、故當死。復與兩錢散、成得藥去。五六歳親中人有病如成者、謂成曰、卿今彊健、我欲死、何忍無急去藥。(臣松之案、古語以藏爲去)以待不祥。先持貸我、我差、爲卿從華佗㪅索。成與之。已故到譙、適值佗見収、忽忽不忍從求。後十八歳、成病竟發、無藥可服、以至於死(佗別傳曰、人有在青龍中見山陽太守廣陵劉景宗、景宗説中平曰、數見華佗、其治病手脉之候、其驗若神。琅琊劉勲爲河内太守有女年幾二十、左脚膝裏上有瘡、癢而不痛、瘡愈數十日復發、如此七八年。迎佗使視、佗曰、是易治之。當得稻糠黃色犬一頭、好馬二疋。以繩繋犬頸、使走馬牽犬、馬極輒易。計馬走三十餘里、犬不能行、復令歩人拖曵、計向五十里。乃以藥飲女、女即安卧不知人。因取大刀斷犬腹近後脚之前、以所斷之處向瘡口、令去二三寸、停之須臾、有若虵者從瘡中而出、便以鐵椎横貫蛇頭、蛇在皮中動揺良久、須臾不動、乃牽出、長三尺許、純是蛇、但有眼處而無童子、又逆鱗耳。以膏散著瘡中、七日愈。又有人苦頭眩、頭不得舉、目不得視、積年。佗使悉解衣倒懸、令頭去地一二寸、濡布拭身體、令周帀、候視諸脉、盡出五色。佗令子弟數人以鈹刀决脉、五色血盡、視赤血、乃下以膏摩被覆、汗自出周帀、飲以𠅘歴犬血散、立愈。又有婦人長病經年、世謂寒熱注病者。冬十一月中、佗令坐石槽中、平旦用寒水汲灌、云當滿百、始七八灌、會戰欲死。灌者懼、欲止。佗令滿數。將至八十灌、熱氣乃蒸出嚻嚻髙二三尺。滿百灌、佗乃使然火温牀、厚覆、良久汗洽出、著粉、汗燥便愈。又有人病腹中半切痛十餘日中、鬢眉墯落。佗曰是脾半腐、可刳腹養治也。使飲藥令卧、破腹就視、脾果半腐壊。以刀斷之、刮去悪肉、以膏傳瘡、飲之以藥、百日平復。)
廣陵吳普、彭城樊阿皆從佗學。普依準佗治、多所全濟。佗語普曰、人體欲得勞動、但不當使極耳。動揺則穀氣得消、血脉流通、病不得生。譬猶戸樞不朽是也。是以古之仙者爲導引之事、熊頸鴟顧、引輓腰體、動諸關節、以求難老。吾有一術、名五禽之戯、一曰虎、二曰鹿、三曰熊、四曰猨、五曰鳥。亦以除疾、並利蹄足、以當導引。體中不快、起作一禽之戯、沾濡汗出、因上著粉、身體輕便、腹中欲食。普施行之、年九十餘、耳目聦明、齒牙完堅。阿善針術。凡醫咸言背及胷藏之間不可妄針、針之不過四分。而阿針背入一二寸、巨闕胷藏針下五六寸、而病輒皆瘳。阿從佗求可服食益於人者。佗授以漆葉青黏散。漆葉屑一升、青黏屑十四兩、以是爲率、言久服去三蟲、利五藏、輕體、使人頭不白。阿從其言、壽百餘歳。漆葉處所而有青黏生於豐、沛彭城及朝歌云。(佗別傳曰、青黏者一名地節、一名黃芝、主理五臓、益精氣。本出於迷入山者、見仙人服之、以告佗。佗以爲佳、輒語阿、阿又秘之。近者人見阿之壽而氣力彊盛、惟之、遂責阿所服、因醉亂誤道之。法一施、人多服者、皆有大驗。 文帝典論論郤儉等事曰、潁川郤儉能辟穀、餌茯苓。甘陵甘始亦善行氣、老有少容。廬江左慈知補導之術、並爲軍吏。初儉之至市、茯苓價㬥數倍。議即安平李覃學其辟穀、餐茯苓、飲寒水、中泄利、殆至隕命。後始來、衆人無不鴟視狼顧、呼吸吐納。軍謀祭酒弘農董芬爲之過差、氣閉不通、良久乃蘇。左慈到、又競受其補導之術、至寺人嚴峻、往從問受、閹豎眞無事於斯術也。人之逐聲、乃至於是。光和中、北海王和平亦好道術、自以當仙。濟南孫邕少事之、從至京師。會和平病死、邕因葬之東陶、有書百餘巻、藥數嚢、悉以送之。後弟子夏榮言其尸解。邕至今恨不取其寳書仙藥。劉向惑於鴻寶之説、君游眩於子政之言、古今愚謬、豈惟一人哉。東阿王作辯道論曰、世有方士、吾王悉所招致、甘陵有甘始、廬江有左慈、陽城有郤儉、始能行氣導引、慈暁房中之術、儉善辟穀、悉號三百歳卒。所以集之於魏國者、誠恐斯人之徒、接姦宄以欺衆、行妖慝以惑民。豈復欲觀神仙於瀛州、求安期於海島、釋金輅而履雲輿棄六驥而美飛龍哉。自家王與太子及余兄弟咸以爲調笑不信之矣。然始等知上遇之有恒奉不過於員吏、賞不加於無功、海島難得而游、六黻難得而佩。終不敢進虚誕之言、出非常之語。余嘗試郤儉絶穀百日、躬與之寢處行歩起居自若也。夫人不食七日則死、而儉乃如是。然不必益壽、可以療疾、而不憚饑饉焉。左慈善修房内之術、差可終命、然自非有志至精、莫能行也。甘始者、老而有少容、自諸術士咸共歸之。然始辭繁寡實、頗有恠言。余常辟左右、獨與之談、問其所行、温顔以誘之、美辭以導之、始語余、吾本師姓韓字世雄、嘗與師於南海作金、前後數四、投數萬斤金於海。又言、諸梁時、西域胡來獻香罽、腰帶割玉刀、時悔不取也。又言、車師之西國、兒生、擘背出脾、欲其食少而弩行也。又言、取鯉魚五寸一雙、合其一煑藥、俱投沸膏中、有藥者奮尾鼓腮、游行沈浮、有若處淵、其一者已熟而可噉。余時問言、率可試不。言、是藥去此逾萬里、當出塞、始不自行不能得也。言不盡於此、頗難悉載、故粗舉其巨恠者、始若遭秦始皇漢武帝、則復爲徐市、欒大之徒也。
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