和田東郭の医則八條

和田東郭とは

和田東郭(1743-1803)は江戸期の名だたる医家の一人です。
生れは摂津の国(今の大阪府高槻市あたり)、幼少の頃は、伊丹の竹中節齋に学び、長じて後は大阪の戸田旭山に入門。さらに二十六才になり吉益東洞の門人になったという。しかし東洞の衣鉢は伝えず(免許皆伝など伝承せず)、後に折衷派としての大家となった。和田東郭は「一切の疾病の治療は古方を主として、その足らざるを後世方等を以て補うべし」という医学的姿勢であった。
二条公(二条治孝か???)に仕え1797年に御医となり、法橋に叙せられた…とある。

※参考資料:『蕉窓雑話』近世漢方医学書集成15(名著出版)および同書収録の解説(松田邦夫氏による)


※『蕉窓雑話』京都大学付属図書館より引用させていただきました。
※以下に書き下し文、次いで足立のコメントと原文を紹介。
※現代文に訳さないのは経文の本意を損なう可能性があるためです。口語訳は各自の世界観でお願いします。

東郭先生医則『蕉窓雑話』より

東郭先生医則 

医の任と為すは、唯だ病を察するのみ。富貴を視ること勿れ、唯だ病之(これ)察す。貧賤を視ること勿れ、唯だ病これ察す。劇病を劇視すること勿れ、必ずや劇中の易を察す。軽病を軽視すること勿れ、必ずや軽中の危を察す。斯くに於いて克察し而して彼を視ること勿れ。亦た唯だ医の任也。察病の道也。

医の心を用うべき所の者は、其れ唯だ変なるか。未だ変ぜざるに於いて変を揣(はか)り、而して変に非ざるを以て変を待つ、此れこれを能く変に応ずると謂う也。
彼の変を視、而して我その変に動かば、此れ之を変に眩(まど)うと謂う。変に眩う者は、翅(ただ)その変に処すること能わざるのみ、亦らその常を全うすること能わず。能く変に応ずる者は、既已に其の変を知る故、其の方を処するや、殆からず。

凡そ病の情たるや、二つ有り。故に薬の用も亦た二つ有り、曰く剛、曰く柔。柔を以て柔に当たる、剛を以て剛に当たる。剛の柔を制する者有り。柔の剛を制する者有り。剛や柔や、二つにして百。柔や剛や、百にして二つ。唯だ智者はこれを知り、而して愚者はこれに反する。
易に曰う剛柔相摩と、我が道は小なりと雖も亦た復爾(またしかり)。

古人の病を診るや、色を望むに目を以てせず、声を聴くに耳を以てせず。夫れ唯だ耳目を以てせざる故に能く大表に於ける病応を察する。

古人の病を診るや、彼を視て彼を以てせず、乃ち彼を以て我を為す。其れ既に彼我の分無し。是れ以て能く病の情に通ずる。

方を用いること簡なる者は、其の術日に精(くわし)い。方を用いること繁なる者は、其の術日に粗し。世の医、動(ややもすれ)ば輙(すなわち)簡を以て粗と為し、繁を以て精と為す、哀しむべき哉。

活路を得んと欲する者、必ず死地に陥る。死地に陥らんと欲する者は、必ず活路を得る。

医の劇病に臨む也、彼をして我が手に於いて活かさんと欲する者は、我を愛する也。彼をして我が手に於いて死さんと欲する者は、彼を愛する也。我を愛する者は、終に我を尽くすに能わず。彼を愛する者は誠に我を能く尽くす。古語に曰う、虎穴に入らずんば虎子を得ず。余、医に於いても亦た云う。

右(上)の医則八條、通計すること三百八十四の言、簡にして要を以て、先生遺稿中を取る、巻首に掲げ、以て同志に示す。

謙誌

和田東郭先生の医則に学ぶ

劇中の易、軽中の危をみるということ

まず第一の条文である。文中には「劇病を劇視すること勿れ、必ずや劇中の易を察す。軽病を軽視すること勿れ、必ずや軽中の危を察す」とある。
なるほど、現場において陥りそうな心理である。
激しい症状(高熱や痙攣や激しい痛み・嘔吐・意識障害・衰弱・危篤状態……)に臨んで劇視、つまり重症な部分だけに囚われてはいけない。もちろんシビアな状況であるだけに、どのような情報も見落としてはならない。が、情報を集めれば集める程、深刻な状況であることが否が応にも認識させられる。そうなるとプラスの面が見えなくなってしまう。死中に活を求めるにはこの観点は必要である。
「軽中の危を察す」については言うまでもないだろう。

臨床における応変とは

第二条「未だ変ぜざるに於いて変を揣(はか)り、而して変に非ざるを以て変を待つ、此れこれを能く変に応ずると謂う也。」
臨床における応変について具体的に示してくれている。まだ変化していない段階から前もって変化の可能性を測り、異変を迎え撃つ…といったところであろうか。
事態が異変を起こしてから対応するということは(彼の変を視、而して我その変に動かば)、異変に振り回される(此れ之を変に眩う)だけである。

治における剛柔

第三条は病の剛柔、治の剛柔について言及している。
方薬の配剤・処方にも剛柔があるように、鍼灸の治療や配穴にもまた剛柔がある。この剛柔を自在に組み合わせることで、剛柔の二者は百とも千ともなり千変万化の病変に対応できるという。
機に臨んで使いわけるべきであろう。

望聞は耳目に頼らず

第四条は望診聞診における姿勢についてである。
望診は見る診法であり、聞診は声を聴く診法である。しかし患者をみるのに目に頼らず、声を聴くのに耳に頼ってはいけないという。
一見すると頓智(とんち)問答のようであるが、そのココロは次の文にある。耳目に頼らないからこそ、大表の病応を察することができるのである。耳目に頼った診察では“表面のみ”の“病症しか”知ることができないだろう。

彼我の分かち無し…とは

第五条は彼我を超えるという話である。この彼我の分かち無しの解釈にも、その人の段階レベルによって色々な解釈があるだろう。

治療とは、相手(患者)がいてこそできる業である。相手の病情・状態を診て理解し、それに対応するのだが、そうなると彼我を分かつ結果となる。しかしこの文には、その先に次の段階があることを示唆している。
この「彼我の分無し」の境地については、患者の身体に直接触れる鍼灸師や按摩マッサージ師・指圧師にとってより実感できるテーマだと思われる。
個人的には『素問』にある治神がこの陰陽不可分に近づく思想かと考えている。

ちなみに『東郭医談』には「病人を診するに、医者とくと心をしづめて呼吸を靜にして大叓にすべし。医者が病人に成り、病人が医者になる様にすべし
脉と云うは真彩と云者也。真彩とは胃気脉也。たとい劇病の人、沈微細の脉を見すとも医者とくと心をしずめ、呼吸大叓にして、数辺取かへし見れば、底に言語に述べがたき気味ある者也。心得べし。是劇病を劇治するヿ勿れとの謂也。故に心得ある者は平生呼吸くるわざる様にすべし。然ざるときは脉の真彩有ることを知れず故に微妙有る脉と云、いかにも微妙なる者也。」とある。

下線部は東郭先生が説く「彼我の分かち無し」である。その鍵となるのは呼吸である。さらにこの呼吸は続く脈診においても重要な鍵となることを記している。

技の簡と繁は精と粗に通ずる

第六条は処方の簡と繁についてである。
複雑な処方、凝った処方だから精妙で高度な医術というわけではない。むしろ簡素に見える処方が要処を押さえたものであるという。
これもまた鍼灸にも通ずる。奇を衒い特殊な経穴を使わずとも、誰もが知る経穴を用いることで十分に治療ができるものである。特殊経穴よりも、どう組み合わせ、どの層に効かせ、どのタイミング(機)で鍼をするか?を工夫するのが臨床の醍醐味である。

死中に活を求める

第七条は死中に活を求める…の話。
活路を欲する者は死地に向かい、死中に活を求める者は活路を得るという。
この趣旨については、急性病や生死の関わるシビアな病態を日常的に診る機会が少ない者としては、言及を控えようと思う。

殺さんとするとは彼を愛する?

第八条は一見すると、なんだかよく分からない話にもみえる。
患者を治し生かそうとする者は己を愛する者であり、患者を我が手で殺さんとする者は彼(患者)を愛する者であり、我を尽くす者であるという。このことに関する話は次の初編に記されている。

鍼道五経会 足立繁久

原文 腹候 『蕉窓雑話』より

■原文  

東郭先生毉則

毉之為任、唯察病而已矣。勿視富貴、唯病之察。勿視貧賤、唯病之察。勿劇視劇病、必也察劇中之易矣。莫輕視輕病、必也察輕中之危矣。克察之於斯而勿視彼、亦唯毉之任也。察病之道也。

毉之所可用心者、其唯變乎。揣變於未變而以非變待變、此之謂能應變也。
視彼之變、而我動乎其變、其變此之謂眩乎變。眩乎變者、不翅不能處其變、亦不能全其常。能應變者、既已知其變故、其處方也、不殆矣。

凡病之為情也、有二。故藥之用亦有二、曰剛曰柔。柔以當柔、剛以當剛。剛之制柔者有焉。柔之制剛者有焉。剛耶柔耶、二而百。柔耶剛耶、百而二。唯智者知之、而愚者反焉。易曰剛柔相摩、我道雖小亦復爾矣。

古人之診病也、望色不以目、聽聲不以耳。夫唯不以耳目、故能察病應於大表矣。

古人之診病也、視彼不以彼、乃以彼為我。其既無彼我之分。是以能通病之情矣。

用方簡者、其術日精。用方繁者、其術日粗。世毉動輙以簡為粗、以繁為精、哀矣哉。

欲得活路者、必陷死地。欲陷死地者、必得活路。

毉之臨劇病也、欲使彼活於我手者、愛我也。欲使彼死於我手者、愛彼也。愛我者、終不能盡我矣。愛彼者誠能盡我。古語曰、不入虎穴不得虎子。余於毉亦云。

右毉則八條通計三百八十四言、以簡而要、取先生遺稿中、掲于巻首、以示同志。

謙誌

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