万葉集によむ病の歌その1 -山上憶良の悲哀-

鍼道五経会の足立です。

令和という新年号に代わり『万葉集』に注目が集まっています。
私は『万葉集』といえば防人歌をまっ先に連想しますが、これからはまた新しいイメージが万葉集に対して生まれるのでしょうね。

写真:『補訂版 萬葉集』本文篇 佐竹昭広 木下正俊 小島憲之 共著
当記事の沈痾自哀文はこの書から引用させていただきました

防人歌や令和とは別にして『万葉集』には病に関する歌や記載も収録されています。今回の記事はこの病と治病に関する『万葉集』の記述を紹介します。

皆さんもご存知、扁鵲、華佗、陶弘景、張仲景の名も登場します。

沈痾自哀文を書いた山上憶良

しかしそれより先に…山上憶良(やまのうえのおくら)という人物を復習しておきましょう。
この名前に見覚えはありませんか?国語(古文)の時間を思い出す人もいるでしょう。

山上憶良(660?~733?)は奈良時代の貴族の方。従五位下の官位を叙された人物。
(官位の比較から杉山和一・正五位がどれほどの功績を残したかもイメージできるかもしれない。もちろん時代背景が全く異なるので単純に比較することはできないが)

また遣唐使の一人でもあり、かつ社会派歌人としても知られ、貧困や病、老いや死を見つめる歌を多く読んだとされています。
実際に以下の沈痾自哀文を読むと、医学や仏教、道教、儒教の知識もふんだんに盛り込まれており、各分野の専門知識を備えた人物であることが分かります。

また詳しくは調べていませんが、山上憶良の父、山上憶仁は百済の宮廷医であったという説もあります。
もしそうであれば、憶良が生老病死にフォーカスを当てていたこともうなづける情報だと思うのです。

それでは以下に沈痾自哀文(書き下し文)を紹介します。少々長いかもしれませんが、一通り載せておきます。

沈痾自哀文(書き下し)


『補訂版 萬葉集』本文篇 佐竹昭広 木下正俊 小島憲之 共著から写真引用させていただきました。
※書き下し文はうまく古文調?にできませんでした。随所におかしな表現があるかもしれませんが、ご容赦の上ご指摘ください。

沈痾自哀文
山上憶良(やまのうえのおくら)作竊(ひそか)に以(おもいみる)に、朝に夕に山野に佃食(でんしょく)する者すら、猶(なお)灾害(災害)無くして世を度(渡)るを得、
(常に弓箭(弓矢)を執り、六齋(※)を避けず、値(あ)う所の禽獣、大小、孕及び不孕なるを諭さず並びに殺食し、此れを以て業と為す者を謂う也。)

※六齋:仏教に基づく齋日のひとつ。律令制における令にもこの日は殺生を禁じる規定があった。

晝夜に河海に釣魚する者すら、尚お慶福有りて経俗を全うす。
(漁夫、潜女、各々勤める所有り、男は手に竹竿を把み能く波浪の上に釣り、女は腰に鑿(のみ)籠(かご)帯びて、深潭の底に潜り採る者なり)況んや我、胎生より今日にまで、自ら修善の志有り、曽て作悪の心無し。
(諸悪莫作、諸善奉行の教えを聞くことを謂う也)

※諸悪莫作(しょあくまくさ):七仏通戒偈の偈文「諸悪莫作、衆善奉行(諸善奉行)、自浄其意、是諸仏教」
仏の教えである、諸々の悪を作(な)すこと莫(な)く、衆(おおく)の善を奉り行い、自らその意(こころ)を浄めよ。これが御仏の教えである。との意。
経典によっては、衆善奉行と記されているが正蔵などでは諸善奉行と記されているとのこと。
このことから山上憶良がどの経典を学んだかも推測できるのではないだろうか。

所以、三寶を礼拜し、日として勤ざること無し(毎日誦経して発露懺悔(ほつろざんげ)する也)。百神に敬重し、夜として闕(か)く有る鮮(な)し。
(天地諸神等を敬拜するを謂う也)

嗟乎(ああ)婢しき哉。我、何の罪を犯して此の重疾に遭へる。
(未だ過去に造る所の罪か、若しくは是れ現前にて犯す所の過なるかを知らず、罪過を犯すこと無く、何ぞこの病を獲る乎を謂う)

初め痾に沈みし已来、年月稍(やや)多し(十餘年を経るを謂う也)。
この時、年七十有四、鬢髪は斑白し、筋力は尫羸す。(※尫:オウ)
ただ年の老いによらず、復た斯(か)の病を加う。

諺に曰く、痛瘡に塩を灌ぎ、短材の端を截ると、此のことの謂い也。
四支(四肢)は動かず、百節は皆な疼き、身體(身体)太だ重く、猶お鈞石を負うが如し。
(廿四銖を一両と為す、十六両を一斤と為す、卅斤を一鈞と為す、四鈞を一石と為す、合せて一百廿斤也)

布に懸りて立たんと欲すれば、翼の折れたる鳥の如く、杖に倚りて歩んとすれば、此れ足を跛く驢の比(ごと)し。
吾(われ)身已(すで)に俗を穿ち、心も亦た塵を累るを以て、禍の伏する所、祟の隠れる所を知らんと欲し、龜卜(きぼく)の門、巫祝(かんなぎ・ふしゅく)の室とを、往きて問わざる無し。

實の若くか妄の若くか、其の教える所に随いて、幣帛(ぬさ・へいはく)を奉り、祈禱せざること無し、然れども弥(いよいよ)増苦有り、曽て減り差(い)えること無し。

吾聞く、前代に多く良醫(良医)有り、蒼生(あおひとくさ)の病患を救療す。楡柎、扁鵲、華他(華佗)、秦和緩、葛稚川(葛洪)、陶隠居(陶弘景)、張仲景などの若(ごと)きに至りては、皆なこれ世に在りし良醫にして除癒さざること無き也。
(扁鵲の姓を秦、字は越人、勃海郡の人也。胸を割り心を採り易(あらため)て之を置き、投(い)るるに神薬を以てすれば即ち寤めること平の如し也。
華他(華佗)の字は元化、沛國、譙の人なり。若し病結し積沈重して内に在る者有れば、腸を刳(さ)きて病を取り、縫いて復た膏を摩(ま)すること四五日にして差(い)え定む。)

件の醫を追い望むとも、敢えて及ぶ所に非らず。若し聖醫神薬に逢うは、仰ぎて願はくば、五藏を割刳し、百病を抄探し、膏肓の隩處に尋ね達す。
(肓は鬲也。心下を膏と為す。之を攻めて可ならず、之に達す(鍼する)も及ばず。薬も至らず。)
二豎子の逃れ匿れるを顯さんと欲す(謂晉の景公の疾、秦の醫緩、視て還える者、鬼の為に煞(殺)せられる所を謂うべき也。)※煞はれんが無、殺の異体字

病、膏肓に入るのエピソードは鍼灸師にはおなじみ。春秋左氏伝 巻十二成公に記載されている。
医緩が活躍するエピソード。
病を豎子(子ども)に喩えた物語にみえるが、攻める、達する、薬治と治病観を三層に分け診断していることに注目すべきであろう。
なお、達するを鍼するに意訳しているのは、国立図書館デジタルコレクションの『春秋左氏伝』(解題 中村久四郎、有明堂書店 発刊)を参考にしている。

命根既に盡(尽)き、その天年を終えるは、尚お哀しと為す。
(聖人、賢者、一切の含霊、誰がこの道を免れようか)
何ぞ况んや生録未だ半ば為らずして鬼に枉煞(おうさつ)され、顔色壮年にして病の為に横困される者をや。

世に在る大患の、孰(いず)れか此れより甚しきか。
(志恠記に云う、廣平の前(さき)の大守、北海の徐玄方の女(むすめ)、年十八歳にして死す。
その霊が謂うに、馮馬子が曰く、我が生録を案ずるに、當に壽八十餘歳にならん。今、妖鬼の為に枉煞される所、已(すでに)四年を経る。
この(馮)馬子に遇いて乃(すなわ)ち更に活きるを得たり是也。

内教に云う、瞻浮州人、壽百二十歳。謹んで案ずるに、此の數必ずしもこれを過ぎるを得ぬに非ず。

故に壽延経に云う、比丘有り、名を難達と曰う。
命終る時に臨みて、佛(仏)に詣で壽を請えば則ち十八年延びたり。

但、善を為す者は天地と相い畢(お)える。その壽夭は業報の招く所、その脩(なが)き短きに随いて半ばと為す也。
未だこの笇(算)に盈たずして還りて死去する。故に曰く、未だ半ならずと也。

任徴君曰く、病は口より入る。故に君子はその飲食を節す。
斯れより之を言えば、人、疾病に遇うは、必しも妖鬼によらず。
夫(そ)れ醫方諸家の廣説(広説)、飲食禁忌の厚訓、知り易(やす)く行い難きの鈍き情、
(これらの)三者は目に盈ち耳に満つるの由来久しい。

抱朴子に曰く、人はただその當に死するべきの日を知らざる故に憂へずのみ。
若し誠に羽翮(うかく)して(死)期を延べ得るべきを知る者は、必ず将に之を為さんとす。
此れを以て観れば、乃(すなわ)ち我が病は蓋し斯の飲食の招く所にして自ずと治する者に能わざる乎。)

帛公略説に曰く、伏して思う自ら勵(励)み斯の長生を以てす。
生は貧るべき也、死は畏れるべき也。
天地の大いなる徳を生と曰う。故に死人は生鼠に及ばず。
王侯と為ると雖も、一日氣を絶たてば、金を積むこと山の如しとも、誰の富と為さん哉。威勢なること海の如しとも、誰が貴と為らん哉。

遊仙窟に曰く、九泉の下の人は、一銭に直(値)せず。

孔子曰く、之を天に受け、變易すべからざる者を形(という)也。之を命に受け、請益すべからざる者を壽(という)也。(鬼谷先生相人書に見えたり)

故に生の極貴、命の至重を知る。
言わんと欲して言窮まる。何を以って之を言う。
慮を欲して慮絶す、何に由りて之を慮らん。
惟だ以(おもいみれ)ば人の賢愚無く、世の古今無く。咸悉(ことごとく)に嗟歎く。歳月は競い流れて、晝夜息まず。
(曽子曰く、往きて反せざる者は年也。宜尼、川に臨みて之を歎くも亦これ也。)
※宜尼:孔子の別名、褒成宣尼公のことか。

老疾相い催して、朝に夕に侵し動く。
一代の歓楽、未だ席前に盡きぬ。
(魏文の時賢を惜しむ詩に曰く、未だ西苑の夜の盡きざるに劇(にわか)に北邙の塵と作(な)す也)

千年の愁苦は更に坐の後に継ぐ。
(古詩に云う、人生、百に満たず何を千年の憂を懐かしむのか。)

若し夫の群生品類、みな盡(限り)有るの身を以て、並びに窮まり無き命を求めざること莫(な)し。
所以、道人方士、自ら丹経を負うて名山に入りて薬を合する者、性を養い神を怡(よろこ)び以て長生を求む。

抱朴子に曰く、神農が云う、百病癒えずして、安んぞ長生を得んや。

帛公また曰く、生は好(よ)き物なり、死は悪(あ)しき物なり。
若し幸ならずして長生を得ざる者は、猶(なお)生涯病患無きを以て、福の大と為る哉。
今、吾(われ)病の為に悩み見(あらわ)れ、臥坐すること得ず。
向東向西、為す所を知らず。福の無きこと至りて甚しく惣べて我に集まる。
人願えば天従う(というが)、如(も)し實(実)有れば、仰ぎて願う。頓ろに此の病を除きて頼に平の如くなるを得ん。
鼠を以て喩と為すは、豈に愧(は)じとすること乎(已に上に見える也)

後半の病身に対する嘆きっぷりが余韻を残します。
しかし考えてみますに、山上憶良はこのとき74歳。(この翌年に彼は亡くなったという)
肉体の衰えに加え、諸々の愁訴がまとわりつけば、当時の生活環境や医療レベルからみても不安にさいなまされるのも避けられないことでしょう。

山上憶良は腎虚だった?

「四肢の動きが悪く」
「身体の節々の疼痛」
「身体は甚しく重い」
山上憶良はこれらの病症を列挙しています。

以上の病状群から『素問』上古天真論第一の一節を連想してしまいますね。

「48歳にして陽氣衰え上に於いて竭きる、面焦げ、髪鬢は頒白す。
56歳にして肝氣が衰え、筋は動すこと能わず、天癸が竭き、精少なく、腎藏も衰え、形體皆な極まる(あとは下降の一途)。
64歳になると則ち歯も髪も去る。腎は水を主り、五藏六府の精を受けてこれを藏する。
故に五藏盛んであれば乃ち能く冩するが、今、五藏は皆な衰えて、筋骨は解堕し、天癸も盡きている。
故に髪鬢は白く、身體は重く、行くも歩くも正からず、子をなすこともできない。
六八陽氣衰竭於上、面焦、髪鬢頒白。
 七八肝氣衰、筋不能動、天癸竭、精少、腎藏衰、形體皆極。
 八八則歯髪去、腎者主水、受五藏六府之精而藏之。
 故五藏盛乃能冩、今五藏皆衰、筋骨解堕、天癸盡矣。
 故髪鬢白、身體重、行歩不正、而無子耳。)」

補腎を中心に治療を組み立てるべきか…
また、関節疼痛がきついのであれば骨熱を冷ます要素を組み込むべきか…
と、治療家ならついつい思案してします。

おまけ 時代背景を医学史的に

万葉集の成立した年は定かではありませんが、奈良時代のものとされています。
その編纂にかかわった大伴家持(718-785)や山上憶良の生きた時代を考え、奈良時代後期に成立したと言われています。

ちなみに医学の歴史からみると、
808年『大同類聚方』が安倍真直、出雲広貞の撰により平城天皇に上奏されたとあり、
984年『医心方』が丹波康頼の撰により朝廷に献上されたとあります。

このようなこともマメ知識として知っておくことも、東洋医学を学ぶ者として必要なことかと思います。

沈痾自哀文(原文)

以下に原文を載せておきます。(『補訂版 萬葉集』本文篇 佐竹昭広 木下正俊 小島憲之 共著(上写真)から引用させていただきました)

沈痾自哀文  山上憶良作

竊以朝夕佃食山野者、猶無灾害而得度世
(謂常執弓箭不避六齋所値禽獣不諭大小孕及不孕並殺食、以此為業者也。)

晝夜釣魚河海者、尚有慶福而全経俗
(謂漁夫潜女各有所勤、男者手把竹竿能釣波浪之上、女者腰帯鑿籠潜採深潭之底者也)

況乎我従胎生迄于今日、自有修善之志、曽無作悪之心
(謂聞諸悪莫作諸善奉行之教也)

所以礼拜三寶、無日不勤(毎日誦経発露懺悔也)、
敬重百神、鮮夜有闕(謂敬拜天地諸神等也)。

嗟乎婢哉。
我犯何罪遭此重疾(謂未知過去所造之罪、若是現前所犯之過、無犯罪過何獲此病乎)

初沈痾已来、年月稍多(謂経十餘年也)、是時年七十有四、鬢髪斑白、筋力尫羸、不但年老復加斯病。
諺曰、痛瘡灌塩、短材截端、此之謂也。四支不動、百節皆疼、身體太重、猶負鈞石
(廿四銖為一両、十六両為一斤、卅斤為一鈞、四鈞為一石、合一百廿斤也)
※尫:オウ

懸布欲立、如折翼之鳥、倚杖且歩、比跛足之驢。
吾以身已穿俗、心亦累塵、欲知禍之所伏、祟之所隠、龜卜之門、巫祝之室、無不往問。
若實若妄、随其所教、奉幣帛、無不祈禱、然而弥有増苦、曽無減差、

吾聞、前代多有良醫、救療蒼生病患。
至若楡柎、扁鵲、華他(華佗)、秦和緩、葛稚川、陶隠居、張仲景等、皆是在世良醫無不除患也
(扁鵲姓秦字越人、勃海郡人也、割胸採心易而置之投以神薬即寤如平也。華他字元化、沛國譙人也。若有病結積沈重在内者刳腸取病、縫復摩膏四五日差定)

追望件醫、非敢所及、若逢聖醫神薬者、仰願、割刳五藏、抄探百病、尋達膏肓之隩處。
(肓鬲也、心下為膏。攻之不可、達之不及、薬不至焉。)
欲顯二豎子之逃匿。
(謂晉景公疾、秦醫緩視而還者可謂為鬼所煞也。
※煞:原文ではれんがは無し。殺の異体字。

命根既盡、終其天年、尚為哀(聖人賢者一切含霊誰免此道乎)。
何况生録未半為鬼枉煞、顔色壮年、為病横困者乎。
在世大患、孰甚于此。
(志恠記云、廣平前大守北海徐玄方之女、年十八歳而死、
其霊謂、馮馬子曰、案我生録當壽八十餘歳、今為妖鬼所枉煞已経四年。
此遇馬子乃得更活是也。
内教云、瞻浮州人壽百二十歳、謹案此數非必不得過此。
故壽延経云、有比丘名曰難達、臨命終時、詣佛請壽、則延十八年。
但善為者天地相畢、其壽夭者業報所招、随其脩短而為半也。
未盈斯笇而還死去。故曰未半也。
任徴君曰、病従口入、故君子節其飲食。
由斯言之、人遇疾病不必妖鬼。
夫醫方諸家之廣説、飲食禁忌之厚訓、知易行難之鈍情、
三者盈目満耳由来久矣。
抱朴子曰、人但不知其當死之日、故不憂耳。
若誠知羽翮可得延期者、必将為之。
以此而観、乃知我病盖、斯飲食所招而不能自治者乎。)

帛公略説曰、伏思自勵以斯長生。生可貧也、死可畏也。
天地之大徳曰生。故死人不及生鼠。
雖為王侯、一日絶氣、積金如山、誰為富哉。威勢如海、誰為貴哉。

遊仙窟曰、九泉下人、一銭不直。

孔子曰、受之於天、不可變易者形也。受之於命、不可請益者壽也。(見鬼谷先生相人書)

故知生之極貴命之至重、欲言々窮、何以言之。欲慮々絶、何由慮之。
惟以人無賢愚。世無古今咸悉嗟歎。
歳月競流、晝夜不息。
(曽子曰、往而不反者年也。宜尼臨川之歎亦是矣也)

老疾相催、朝夕侵動、一代歓楽、未盡席前。
(魏文惜時賢詩曰、未盡西苑夜劇作北邙塵也)

千年愁苦更継坐後(古詩云、人生不満百何懐千年憂矣)

若夫群生品類、莫不皆以有盡之身並求無窮之命。
所以道人方士、自負丹経入於名山而合薬者、養性怡神以求長生。

抱朴子曰、神農云、百病不癒、安得長生。
帛公又曰、生好物也、死悪物也。
若不幸而不得長生者、猶以生涯無病患者為福大哉。

今吾為病見悩不得臥坐、向東向西莫知所為、無福至甚惣集于我。
人願天従、如有實者、仰願、頓除此病頼得如平。
以鼠為喩。豈不愧乎(已見上也)

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