目次
予想を超えた充実の遠足
先日の日曜日(1月14日)は今年初の「鍼灸師の遠足」でした。今回の遠足は「医史蹟を巡る京都の旅」でした。この旅のナビゲーター講師はおなじみ濱口昭宏先生です。濱口先生は生薬探偵の活動もさることながら、墓マイラーとしての実績を十二分にお持ちの方、この遠足を率いる人物として他にない先生です。
引率されるメンバーは私、足立をはじめ鍼道五経会(「医書五経を読む」メンバー)と、蓬庵(橋本市)の和田智義先生、天王寺花梨堂(大阪市天王寺区)の盧嘉林先生です。
当日のプランは以下のような簡素なもの。
―――――――――――――
10:00…京阪東福寺駅集合
16:00…終了
17:00…打ち上げ(京都駅周辺)
―――――――――――――
この簡素なプランから、あの濃密な遠足を予想できた人は果たしていたでしょうか?
わたし自身、過去に何度か濱口先生率いる薬草見学会(『金匱植物同好会』)に参加体験していますが、正直言って、予想をはるかに超えた遠足といえる回でしたね。
さて、集合場所にて年始挨拶と顔合わせもそこそこに、全員集合するや否や出発です。
写真:出発まもない頃、皆が最も元気だったときの写真(photo by 足立繁久)
毎回思うのですが、濱口先生の引率イベントでは、オープニングスピーチはほぼありません。
それは何故かって?
“時間が惜しいから”でしょう。このことは本記事を最後まで読むと分かるかと思います。さてスタートしてから徒歩10分(体感)で、到着したのはこちら、東福寺荘厳院さん。
写真:荘厳院入口の写真、青空に映える(photo by 足立繁久)
写真:入口にはこの案内石碑が「吉益東洞先生墓 在當院」と刻まれている
ここには吉益東洞の墓所、そして吉益南涯、そして弟子の中西深斎のお墓もありました。この御三方の経歴は紹介するまでもないでしょうが、以下に簡単なプロフィールを…
(※本記事では、僭越ながら歴代医家の先生方に対して敬称を省略させていただきます。予めここでお詫びいたします。)
「万病一毒説」を唱えた吉益東洞の墓所
日本医学史には「古方派」と称される医流があります。古方すなわち『傷寒論』『金匱要略』の教えに立ち返ろうとした動きが江戸の頃に興りました。中でも中心人物となった人物が「古方四大家」と呼ばれています。この古方四大家の分類には諸説ありますが、一説にはこの吉益東洞を含めるものもあります。その説では「香川修庵・山脇東洋・松原一閑斎・吉益東洞」の四人を挙げています。ちなみに古方四大家の他の説については、名古屋玄医の前章「古方四大家について」にて紹介します。
写真:吉益東洞・吉益南涯・吉益羸斎・吉益樗斎・吉益洞嶽の御墓。東洞の子、南涯は京都吉益家を、羸斎は大阪吉益家を継いだ。その奥には中西深斎の御墓もあり、こうしてみると壮観である。(photo by 足立繫久)
※吉益樗斎(ちょさい)は、吉益羸斎の養子。吉益洞嶽は不明。東岳と音は似ているような気もするが…。
吉益東洞について
吉益東洞(1702-1773年)
名を為則(ためのり)、号を東庵、のちに東洞となる。生まれは安芸の国の人である。
19歳で金創学(外科医学)を学び、さらに『素問』『難経』などの諸医書を学んだが、これらに疑問をもつことで、とくに『傷寒論』を中心とする古医方に注力したという。
37歳のときに京に上るも、京都では彼の医業は振るわず、人形を造る内職の日々をが続いたという。
44歳のとき、偶然が重なり傷寒に患う老女の脈を診たところ「脈と処方をみたところ、今が石膏を控えどきである」と進言。この老女は山脇東洋の患者であったという。さらに偶然が重なり、吉益東洞の進言は山脇東洋の耳に届き、これまた偶然にも山脇東洋は「確かにその通り!」だとして、東洞の進言を採用したという。
ここまで偶然に偶然が重なるともはや奇跡的ともいえる話の流れであるが、まだお話は続く。山脇東洋は吉益東洞を呼び寄せ、彼の才を認め吉益東洞を山脇東洋の門下に向かい入れた。
その結果、江戸期の古方派の隆盛に繋がったわけである歴史をみると、以上のような奇跡的な偶然の連鎖も、まるで都合のよい昔話をみているような気持ちにもなる。しかし、この「去石膏」を転機として、東洞の運命が変わったという点も重要な点である。東洞の書『薬徴』では、最初に記される生薬が、この「石膏」である。それだけに石膏の扱いにはよほどの自信と技量があったのであろう。
また吉益東洞は「万病一毒説」を唱え、腹診でもって診断を行った。「腹は生あるの本、故に百病は此に根ざす。是を以て、病を診するには、必ずその腹を候う」(『医断』)との言葉を用いた。この言葉は『百腹図説』(曲直瀬玄朔)にある言葉とのことである。腹診を重視する姿勢はこのような言葉にも表れている。「証を先にして脈を先にせず。腹を先にして証を先にせず。」(『医断』)という。
陰陽五行を廃し、実践的な治療体系を組み上げた吉益東洞の業績は今の時代にも伝えられている。
吉益東洞の著書には『方極』『類聚方』『医事或問』『薬徴』『医断』『建殊録』などが知られている。
参考資料:大塚敬節『復古の旗幟をひるがえして医学を革新せんとした吉益東洞』(近世漢方医学書集成10『吉益東洞』に収録)
生まれが安芸の国(今の広島県)ですので、広島大学をはじめ、広島にはいくつかの場所に吉益東洞の顕彰碑が確認できます。(吉益東洞先生の顕彰碑はコレだ!)
吉益南涯について
吉益南涯(1750-1813年)
吉益東洞の長男、京都の生まれ、名を猷、はじめは兼斎と号し、後に南涯に改めたという。東岳と羸斎の二人の弟がいた。
24歳のときに父、東洞が没したためその跡を継いだ。
33歳のとき、京都にて起こった火災で家財産を失ったため、大阪は船場伏見街堺筋に移った。そこでも南涯の治療を請うものが数百人及んだという。浪華は京の南にあって水の涯(ほとり)にあることから南涯と号を改めたのだという。
43歳のとき、京都三条東洞院に居を構え、京都に戻る。大阪の居は弟の羸斎に譲る(この墓所にあった樗斎は、吉益羸斎の養子とのこと)。そしてこの頃に氣血水説を唱えたのだそうだ。南涯の書『氣血水薬徴』は今もよく知られている。
また、南涯には男子はなく、門人の青沼道立を娘婿として家業を継がせた。彼は号を北洲とし、後年金沢に移り加賀藩医にまでなった。
このように京都吉益家(吉益南涯)、大阪吉益家(吉益羸斎)、金沢吉益家(吉益北洲)とわかれ、吉益家の隆盛ぶりがうかがえる。
また金沢吉益家の墓所は金沢市の野田町野田山にある加賀藩主 前田家墓所のすぐ近くにある。金沢吉益家の墓所参り、および吉益北洲、西洲に関する情報は「吉益家の墓所にお参り」の記事をご覧ください。
南涯の著書には『氣血水薬徴』『続医断』『医範』『観證弁』『観證弁疑抄』『続建殊録』がある。
参考資料:松田邦夫『父東洞の偉業を発展させた南涯』(近世漢方医学書集成37『吉益南涯』に収録)
そして同じ敷地内には中西先生の墓石も安置されていました。
写真:中西深斎の御墓(photo by 足立繁久)
中西深斎について
中西深斎(1724-1803年)
名を惟忠、深斎と号した。京都の生まれであるが、もとは伊賀十八族の一家であったが、曽祖の頃に京に移ったという。
38歳のときに吉益東洞に師事する。
深斎は非常な篤学なる人物だったようで、そのエピソードとして、その理を得るには難解にして深遠なる『傷寒論』の註解するために三十年間かけて、門を閉ざし、客を謝して、一心に研究したとのこと。その末に完成したのが『傷寒論弁正』と『傷寒名数解』である。
と、このような中西先生の医学に対する篤い姿勢を知ると、改めてわが身の引き締まる思いになる。
上記のように著書には『傷寒論弁正』『傷寒名数解』がある。
参考資料:寺師睦宗『中西深斎 小伝』(近世漢方医学書集成35『中西深斎』に収録)
上記引用の『中西深斎 小伝』では、『傷寒論』を学ぶ上で読むべき三大註解書として『傷寒論弁正』(中西深斎)『傷寒論集成』(山田正珍)『傷寒論輯義』(多紀元簡)を寺師先生は挙げています。これらの書も必学の書として海馬領域に収納しておきましょう。
写真:吉益家の墓所にて皆で記念撮影(photo by 濱口昭宏)
折衷派と呼ばれる和田東郭の墓所はココにあった
さて荘厳院さんを後に、そこから電車移動(鳥羽街道—清水五条)して大谷墓地の近く、鳥辺山旧延年寺墓地に向かいます。まだ遠足の序盤、軽く歓談に興じながらも坂道を上ります。
写真:鳥辺山墓地の入り口にはこのような案内石碑が…(photo by 足立繁久)
墓所の入り口にはこのように刻まれた案内石碑があります「忠誠の名醫 和田東郭先生墓所入口」
この刻文の意味は、和田東郭の生い立ちを調べていくことなんとなく納得できた次第です。
写真:医としての「法眼」にまで上りつめた和田東郭のお墓(photo by 足立繁久)
写真:和田東郭のお墓の墓石・裏面
和田東郭について
和田東郭(1743-1803)
名を璞(はく)、号を東郭、または含章斎とした。摂津の国、高槻の生まれである。父(祇忠)は瘍科(外科)医官であったため、末子であった東郭は、内科(本道)を選ばされた。幼少の頃は伊丹の竹中節斎に学び、長ずるに大坂に出て戸田旭山の門に入った。戸田旭山は後世方家であり、忠の義に篤い人物であった。戸田旭山という人物にも文末にふれておきたい。
1768年(東郭26歳)、吉益東洞の門人となる。しかし、東洞の衣鉢を伝えず(東洞の流儀を伝授せず)、折衷派の大家となっている。和田東郭と吉益東洞の有名なエピソードに二本棒の腹証の逸話(『蕉窓雑話』編三-五・p239)がある。
1797年(東郭54歳)、二条公(二条治孝か?)に仕え御医となり、法橋に叙せられた。
1799年(東郭56歳)、中宮の不妊治療に関わり、皇子の御誕生にも貢献した。その功もあって法眼に叙せられた。法眼とは医人の位として上から二番目の位、法印が最高位である。
1803年(東郭60歳)、東郭は病没す。京都東鳥部山に葬られた。
彼の書には『導水瑣言』『蕉窓方意解』『蕉窓雑話』『傷寒論正文解』『腹診録』『腹診後録』がある。
参考資料:松田邦夫『和田東郭 小伝』(近世漢方医学書集成15『和田東郭』に収録)
とあります。
付;和田東郭の師、戸田旭山について
戸田旭山は和田東郭の少年~青年期の師である。
1695年、彼は備前の生まれた。名は斎、または斎宮ともいった。旭山はその号である。また無悶子、百卉園とも号した。
彼は剛直の士であり、熊沢流の学問を受け、鎗術を好んだ。しかし体躯は小さく非力であったため、武術を以て君恩に報ずることが難しいと考え、或いは家名を損なうことを恐れ、家督を弟に譲り、故郷を去り、京に出て医業を始めた。しかし京での医業は振るわず、按摩などで糊口をしのぎつつ三年間いたが、自分の性に合うとみた浪華(大阪)に移り住んだ。そこである後援者を得て医業を始めた。これを機に戸田氏の治療に来る者が増え、海内にその名声が知れ渡るようになった。しかし、一日10人以上の病人を診察することはなかった。その理由として、10人以上になると診察が粗漏になりがちであるからと云う。
また戸田氏はその晩年に、秘蔵していた鎗と甲冑を故郷の弟に贈っている。その時の手紙には次のような趣旨のことが書かれていたという。
家督を弟に譲って郷里を出て、医業を行うようになっても、国恩の重いことは一日も忘れたことはない。もし国に一大事が起こった時は、この甲冑を着て、鎗を携えて国難に赴き、田畑の溝の埋草にでもなる覚悟を決め、片時も忘れなかった。それ故、赤貧を洗うような困苦の中にあっても、これを売って飢渇を救うようなことはしなかった。しかし、今はもはや死期の近い老人であるから、これを秘蔵していても何の役にも立たない。弟がこの私の志をついで国恩を忘れなければ、もうこれ以上何も云うことはない。
と、以上のエピソードから、戸田旭山の人柄を解することができよう。そして、彼の人格・人品が、青年期の和田東郭に強い影響を与えたであろうことも容易に想像できる。
そして、戸田旭山の教えである忠義・忠誠を志を強く持ち続けていたことは、現在も鳥辺山墓地の入り口にある石碑「忠誠の名醫 和田東郭先生墓所入口」という刻文からも伺い知れるのである。
参考資料:松田邦夫『和田東郭 小伝 (附)戸田旭山について』(近世漢方医学書集成15『和田東郭』に収録)
和田東郭と吉益東洞のエピソード
和田東郭が吉益東洞の門下生となったいきさつ「腹毒の二本棒について」
『蕉窓雑話』編三には次のような話が記されている。東郭が吉益東洞に入門することになった経緯である。以下に抜き出してみよう。
【和田東郭と吉益東洞の問答】
予、往年に東洞先生を師とせる。その初めは議論よりして取かかれり。その議論と云うは、先ず凡て腹裏の毒は下して取り尽さるる者なりと云わるるが、彼の家(流派・流儀)の立て方也。この毒と云うもの別にコロリ(ゴロリ?)としてある物は下しても取らるべし。
彼の“二本棒”と唱られし処の二行通に引き張りたるものなどは、一身をからむ処の力ら筋なり。氣滞などすれば、是へ引き張り付いて色々宿飲なども凝結する故、是をゆるむればその宿飲などもさばけ(捌け)引き張りも緩みてよきことなるべし。
(東郭云)「去りながら是の毒も取り尽くさるものにや?」と云いしかば、その答えに
(東洞云)「尤も然ることにて、毒はなしての如くなりて下るもの也。毒尽くしたる腹はふっくりとして麩を押す如く軟になるもの也」と云れたり。
(東郭云)「然らば先生は年来の養生にて、定めて自ら毒をば取り尽くし玉わん?」と云は、(東洞云)「勿論左様にて、もはや麩の如くなりてあり」と也。
そこで(東郭)「左もあらば、その毒尽きてふうはり(ふんわり)と成りたる処を見て、是まで疑える処を明らかにすることを得れば大幸なり。願くば先生の腹を見せ玉え」と云えば、色々よりもつかぬ他の話のみして、中々見せられず。毎々この如くなりし故、後に(東郭云)「門下へ来る病人の毒の尽きたる処を見せ玉え」と云えば、(東洞云)「是はこの方の門人にあらざれば見せぬ」と云われしより、(東郭云)「然らば」とて門人と成れり。
或る時、らく焼(楽焼のことか)の薬茶碗にて薬を湯にたてて飲まるるを見て、
(東郭云)「何を召し上がるにや?」と云しかば、
(東洞云)「黄鐘なり(※)」と云われたる故、
(東郭云)「先生の腹には毒は尽きたる由は、兼ねて聞ける処なり。然るに何故に今またこの薬(黄鐘丸)を用い玉うや?」と云えば、
(東洞云)「これは三十年来用いること此の如し。今に始らざること」と也。
(東郭云)「然らば毒は尽きて、もはや今日左様の薬には及ばぬ処なるべきに、何ゆえに毒なき処へ、かようの薬を用い玉うや?これ定めて毒の未だ尽きざる故ならん!?若し三十年の薬力にて取れざる処の毒ならば、何の年何の日にか尽きんや!?世間より門下に来て治を請う者も亦いかなる長病たりとも、豈よく三十年の間の療治を受んや!」
是(以上の問答)を以て見れば、この毒は尽くすべからざるに似たり。我見る処は是と異なる也。……(後略)……
■原文
予往年東洞先生を師とせる其初は議論より乄取かヽれり。其議論と云は先凢て腹裏の毒は下乄取盡さるヽ者也と云るヽか彼家の立て方也。此毒と云もの別にコロリとしてある物は下乄も取らるへし。彼二本棒と唱られし處の二行通に引はりたるものなとは一身をからむ處の力ら筋也。氣滞なとすれは是へ引はり付て色々宿飲なとも凝結するゆへ是をゆるむれは其宿飲などもさばけ引はりも緩みてよきヿなるへし。去ながら是の毒も取盡さるものにやと云しかは、其答に尤然るヿにて毒はな乄の如くなりて下るもの也。毒盡たる腹はふつくりと乄麩をおす如く軟になるもの也と云れたり。然らは先生は年來の養生にて、定めて自ら毒をは取盡し玉ん、と云は、勿論左様にてもはや麩の如くなりてありと也。
そこて左もあらは、其毒盡てふうはりと成りたる處を見て是まて疑へる處を明らかにするヿを得は大幸也。願くは先生の腹を見せ玉へと云へは、色々よりもつかぬ他の話のみして、中々見せられす。毎々此の如くなりし故、後に門下へ來る病人の毒の盡たる處を見せ玉へと云へは、是は此方の門人にあらざれは見せぬと云れしより、然らはとて門人と成れり。
或時らく焼の薬茶碗にて薬を湯にたてヽ飲るヽを見て、何を召上るにやと云しかは、黄鐘也と云れたるうゆえ、先生の腹には毒は盡たる由、兼て聞ける處也。然るに何故に今又此薬を用ひ玉ふやと云へは、是は三十年來用ゆるヿ此の如し。今に始らさるヿと也。然らは毒は盡て、もはや今日左様の薬には及はぬ處なるへきに、何ゆえに毒なき處へかやうの薬を用ひ玉ふや。是定めて毒の未だ盡さる故ならん。若三十年の薬力にて取さる處の毒ならは何の年何の日にか盡んや。世間より門下に來て治を請者も亦いかなる長病たり𪜈豈よく三十年の間の療治を受んや。
是を以て見れは、此毒は盡すべからざるに似たり。我見る處は是と異也。……(後略)……
※黄鐘…黄鐘丸。三黄丸、大黄・黄芩・黄連の三味からなる。東洞家には十二律方と分類された丸散方があるらしく、黄鐘丸はその名の通り、十二律方に属する方である。
参考資料:(近世漢方医学書集成15『和田東郭』「蕉窓雑話」より)
とあります。この師弟問答のエピソードから、東郭の生真面目な性分や、弟子の鋭い指摘に矛盾をつかれタジタジとなっている師、東洞の姿を思い浮かべる人も多いでしょう。
しかし、この問答は非常に意義あるテーマが含まれています。
和田東郭は、東洞の言動の矛盾をついていると思っているかもしれませんが、東郭の指摘にも不備はあります。和田東郭の指摘は死物においてならば成り立つ疑問・指摘でありましょう。
とはいえ、このように鋭い視点から質問を行う弟子東郭の存在は、吉益東洞にとっても大きなものであったことでしょう。
鳥辺山の墓地にはまだまだ医家の墓所が他にもあります。
竹中南峰のお墓
写真:竹中南峰の御墓(photo by 足立繁久)
竹中南峰について
竹中南峰(1766-1836年)
名は温、字は子良、南峰・済美堂・時為斎と号したという。
濱口先生の解説では、和田東郭に医学を学び、天然痘の治療は池田瑞仙に学んだという。
師、和田東郭の墓と近い場所に埋葬されている点は何か両氏のご縁を感じる次第でありました。
浅学にして竹中南峰の名は初耳であった。竹中先生に関する詳しい情報は『蒼流庵随想』の「竹中南峰の墓~京都漢方史跡~」をご覧ください。
そして次なる医家は刺絡編の著者としても知られる荻野元凱の御墓です。
荻野元凱のお墓
写真:荻野元凱の御墓(photo by 足立繁久)
この荻野元凱の墓石は、一度建て直しの際に墓石の下部を余分に埋められているとか…。
荻野元凱について
荻野元凱(1737-1806年)
名は元凱、号が台州、鳩峰である。荻野台州の名で知っている方もいるかもしれません。
加賀の生まれで、医学を奥村良竹に学んでいる。この奥村良竹なる医家も、医学界では有名な人物です。奥村先生の弟子で有名な医家には、永富独嘯庵がいます。
永富独嘯庵といえば、吐方の大家であり、『吐方考』の著者としてよく知られています。ちなみに、当会サイト記事「永富独嘯庵の墓所」にも永富先生について触れています。
そしてこの荻野元凱なる人物、刺絡にも精通しておられたようで、彼の著書に『刺絡編』があります。また奥村先生の弟子であるため、吐方への造詣も深く『吐方編』との医書も残しておられます。本書『吐方編』は奥村良竹の医学観を知るのに、独嘯庵の『吐方考』と共に重要な資料とされています。
参考記事:濱口昭宏.「荻野元凱の墓~京都漢方史跡~」.蒼流庵随想より
鳥辺山の墓地では、和田東郭、竹中南峰、荻野元凱の三医家の墓所に参ることができました。しかし、この鳥辺山の上り下りの坂道で、何人かの足膝にダメージが蓄積していくのです。
ここで電車移動(清水五条—出町柳)です。次の目的地は十念寺です。
…と、その前にマックでカロリー摂取です。和田先生いわく「いい大人がマクドで並んで昼食をするのも、良い思い出でした」とのコメント、確かに仰る通り非日常!(笑)
曲直瀬道三の墓所は十字架と関係がある!?
さて次なるポイントは十念寺です。
写真:十念寺入口にある「曲直瀬道三墓所」の案内(photo by 足立繁久)
濱口先生いわく「十念寺と曲直瀬道三の関係は、その寺名からわかりますよ」とのこと。どういうことかというと、十念寺の十とは“クルス(十字架)”とのこと。なるほど曲直瀬道三は晩年クリスチャンになり、洗礼を受けているからなのですね。
墓地へと到る道の入り口にはなんとも大きな顕彰碑が。裏の刻文もなかなか立派、このような曲面に文字を刻むのも大変だったのではないでしょうか。
写真:曲直瀬道三の顕彰碑・表(photo by 足立繁久)
写真:曲直瀬道三の顕彰碑・裏(photo by 足立繁久)
そして濱口先生は顕彰碑には目もくれず(本命は御墓ですから)奥の墓地にズンズン迷わず進みます。そして示された曲直瀬道三のお墓はコチラ!
写真:初代曲直瀬道三の御墓「一渓道三居士」と刻まれてあるようだ(photo by 足立繁久)
ちなみに、道三先生の墓石のお隣には奥方のお墓なのだそう。ここに刻まれているのは「景福院介石宗祐大姉」の文字が。
濱口先生いわく、これも『易経』からの引用で雷地預の二爻爻辞「 介(かた)きこと石の于(ごと)し。日を終えず。貞にして吉。( 介于石。不終日。貞吉。)」とのこと。ちなみに蒋介石の名もこの爻辞より採っているのだそうです。
曲直瀬道三について
曲直瀬道三(1507-1594年)
名は正盛(まさもり)、または正慶(まさよし)。字(あざな)は一渓(いっけい)。号は雖知苦斎(すいちくさい)。院号は翠竹院、後に亨徳院(こうとくいん)といった。その祖は宇多源姓佐々木に遡ることができる。父は堀部姓と名乗って数代後の堀部左門親真、母は目賀多氏の出である。
初代道三は永正四年に京都の柳原に生まれた。
1517年、道三が10歳のとき江州(滋賀県)守山の天光寺に入り、13歳のときに相国寺に移り、蔵集軒というところに住んでいた。
22歳のとき、遊学の志をたて、関東下野(栃木県)の足利学校に入り学んだ。この頃に明より帰国した田代三喜が李朱医学を日本に伝えていた。道三が田代三喜に面会し、彼の門下に入ったのは1531年のことであった。
1545年、田代三喜より諸論諸方を伝授された道三は、京都に戻り医業を行う。
同年(1545年)、室町13代将軍、足利義輝に謁見して、その治療に功あることを評価され、碾壺茶碗の名器、富士茄子の茶入、蓼冷汁と名付けられた天目引両の釜を賜ったという。
1549年、足利義輝および佐々木義実に推脈の意味を伝え、これ兵家の奥義に等しいという。
1566年、雲州白方に赴き、毛利元就の病を治し、『雲陣夜話』を著す。
足利将軍の他にも、細川晴元、三好長慶(修理)、松永久秀(弾正)などの当時の有力者が、道三を厚遇し、道三も彼らの病をよく治し効験がみとめられた。
また道三は京都に啓迪院を開き、門人弟子を育成し、医業とともに力を尽くした。また察証弁治という方針をもとにした医書『啓迪集』を完成させたのが1574年のことであった。『恵迪集』を正親町天皇の叡覧に供したところ大いに喜ばれ、雖知苦斎の名から「翠竹」の二字を下賜された。
1575年(天正三年)道三69歳、織田信長が来臨、蘭奢待の伽羅香木を賜る。これも歴史的に大事件ともいえる出来事であった。
晩年の道三は、号を亨徳院と改め、豊臣・徳川の二氏に重んじられた。しばしば招かれたが、それを断り、深く医業に隠れ出仕しなかったという。
1584年(天正二年)、道三78歳のとき、耶蘇教(キリスト教)に帰依し、オルガンチノより洗礼を受けベルショールの教名を受けた。
そして1594年(文禄三年)、88歳で病没したという。
初代道三の墓は十念寺にあり、碑面にはただ「一渓道三居士」の六字が刻まれているばかりであるが、1608年(慶長十三年)に後陽成天皇より「正二位法印」を贈られた。
曲直瀬道三の著書には次のようなものがある。
上記『恵迪集』(1574年)の他にも『雲陣夜話』(1566年)『鍼灸集要』(1567年)『遐齢小児方』(1568年)『診脈口伝集』(1577年)『出証配剤』(1577年)『切紙』(1581年)……などよく知られている書を挙げても多数ある。この他にも多数の著書があることは言うまでもなり。
ちなみに、曲直瀬家は三代目より勅旨によって今大路家と改む。三代目の玄鑑は今大路道三とも呼ばれ、法印に叙せられている。曲直瀬家はこの「今大路」の系譜の他に、亨徳院・養安院・寿徳院がある。亨徳院の曲直瀬正純の高弟の一人が、大阪の禅林寺に墓参した古林見宜である。(関連記事「古林見宜のお墓」)
参考資料:矢数道明『日本医学中興の祖 曲直瀬道三』(近世漢方医学書集成2『曲直瀬道三』に収録)
写真:墓石の土台部分には「今大路○○」の文字も刻まれている。この「今大路」は奥方「景福院介石宗祐大姉」の墓石土台部分にも刻まれていた。(photo by 足立繁久)
写真:曲直瀬道三の御墓でも全員で記念撮影。(photo by 濱口昭宏)
曲直瀬家と吉益家
この日、最初に墓参した吉益氏、そしてここ十念寺の曲直瀬氏を祖とする両派は、江戸期の日本医学界を牽引したツートップと言っても過言ではありません。今では「古方派」と「後世方派」として両派を呼称していることはよく知られています。
また曲直瀬家・吉益家の医家たちは金沢にも招聘されています。
金沢曲直瀬家の墓所は金沢市全性寺にあり、また吉益家の墓所は「国史蹟 加賀藩主前田家墓所」の近くにあります。詳しくは当サイト記事『曲直瀬家と吉益家のお墓参り・金沢市』をご覧ください。
金沢といえば、2024年1月に起こった北陸震災の被災の苦しみを思うと、彼の地の早期復興を願わずにはいられません。
さて、遠足の話に戻ります。十念寺からは徒歩にて阿弥陀寺に移動します。
織田信長と森蘭丸の墓所には…皆川淇園のお墓が
ここ阿弥陀寺は織田信長公と森蘭丸の墓所がある所として有名だそうです。
しかし、我々が阿弥陀寺に訪れた目的は彼らではなく、皆川淇園の墓所。濱口先生いわく京の学問界のドンとのこと。また実は産科学で有名な賀川玄悦とも密接な関係があるとのこと。
しかし京の都における学問の偉大なる指導者とだけあって、今回みた中で最も立派なお墓でした。
写真:皆川淇園のお墓(photo by 足立繁久)
大阪の墓マイル旅(『藤沢東畡先生のお墓にマイル』)の時にも思いましたが、昔の教育者のお墓は立派なものが多いですね。往時の教え子たちが政界や経済界などを支えるようになり、その人たちが恩師の墓所建立に尽力するからなのでしょう。
ここから察するに、当時の教育はしっかりしていたのだな…とも思う次第です。翻って平成~令和の教育はどうだろうか…別の意味での「卒業式でのお礼参り」などの言葉もありました。教え子たちがいつまでも恩義や感謝を持ち続けるに相当するだけの教育を、指導者が施したということがこのような墓所の規模からも分かるような気がします。
皆川淇園について
皆川淇園(1735-1807年)
皆川先生は、医家ではなく儒者であります。また弘道先生とも呼ばれ、かの弘道館の設立者だそうです。弘道館で検索すると「江戸時代最大規模の藩校~江戸時代の総合大学~」とのフレーズが登場します。とにかく江戸時代の最大規模の学問所であったようで、その生徒数たるや3,000人を超えたとのこと。その門弟も幅広く、庶民から大名まで広く人材を募り、学問を広めていたようです。
また、医学に関する業績の一つとしては、江戸期の産科学の書『産論』があるが、一般的にはその著者として賀川玄悦として知られているが、実際には賀川氏は学に暗く、皆川弘道先生が『産論』の執筆に深く関わったという。そして賀川玄悦は皆川先生に深い恩義を感じていたとのことです。
参考記事:濱口昭宏.「皆川淇園~京都易儒墓参録~」.蒼流庵随想より
さて次なる人物は芳村玄恂と和久田叔虎のお二方。和久田叔虎は皆川淇園の弟子でもあった人物です。そして芳村玄恂の父は彼の有名な書物の著者とのこと。これは期待値がありますね~。
芳村玄恂のお墓
写真:芳村玄恂のお墓(photo by 和田智義)
残念ながら無縁墓域の中に整理されて、壁際の奥に安置されています。現在はかろうじて「法眼」の“法”の文字のみが見える状態になっており、これは濱口先生でないと、見つけられない状態ですね…。
芳村玄恂について
芳村玄恂(1678-1757年)
名は、通称を玄恂とした。法橋、そして法眼にまで出世したという。
かの『二火弁妄』は、玄恂の父、芳村恂益の手によるものです。この『二火弁妄』、いずれ本サイトでも紹介したいと思っておりますが、いつになることやら…。中国、日本ともに読むべき歴代医家たちの書は果てしなく存在しますね。
「東洋医学を修めた」といえるようになる時は、生きている間にやってくるのでしょうか…。
同じ西園寺墓地にある次なる和久田叔虎も日本漢方の世界では有名な人物です。また漢方医に限らず鍼灸師でもその名を知る先生方は多いと思います。
和久田叔虎のお墓
写真:和久田敬簡(叔虎)のお墓(photo by 和田智義)
和久田叔虎について
和久田叔虎(1768-1824年)
和久田氏の出生地および生年は不明、稲葉文礼と出会ったのが遠州浜松であったため、その地の人だと推測されています。その時、稲葉文礼をして「わが術を伝えるに足る人物である」と言わしめているのです。また、上記の皆川淇園にも漢学を学んでいるとのこと。
ちなみに、診腹術の師、稲葉文礼との出会いから『腹証奇覧翼』執筆までの経緯が『腹証奇覧翼』の自序に記されており、以下に引用します。この序文の内容から和久田氏の謙虚で思慮深く、そして情に篤い人柄であったことが想像できます。
…(略)…寅(和久田叔虎)、未だ弱冠ならずして、父兄の喪に再服す。その病に侍り薬餌を執るの間、凡そ六年になるも、未だ嘗て良医の診を遇わず。是より先、長兄は外に出仕す。寅、単身にて母に奉じ、居常より禀質の孱弱を慮る。誤りてその身を墜つる、母は老い且つ病み、朝夕に庸医の恃むべからざることを恨む。是に於いて、慨然として始めて医を志し、好んで古方書を読み、以て身を保ち(医を以て)親に事(仕える)の用に供せんことを求むる。仍りて庸医の為す所を倣うも、范乎として自ら修むるの寸も得ざる也。有年なり。不遇と謂うべき也。
已にして寛政癸丑(1793年)の春、湖南稲葉文礼翁(湖南は稲葉氏の号)に友人の悳(徳)田東溟の家に於いて邂逅す。譚(はなし)は医事に及び、翁は寅に謂いて曰う、吾(われ)曩(さき)に雲州の鶴泰栄に従り、診腹の法を学ぶ。遂に以てその術を修むる、而して四方を遊歴すること幾二十年、未だ嘗て同志の人に遇わず。子の如き者は、与(とも)に言(かた)るべき也。乃ち偕(とも)に草盧に帰り、医を講究す。
翁の淹留すること数月、(稲葉氏の)修める所の診腹の法を悉く挙げ、以て寅(和久田氏)に授けて去る。爾来、寅は診腹の法に従事し、以て医方を試み、併せて仲景の書を読み、以てその義を研究し、積むに歳月を以てす。稍(やや)得る所の有るを覚えるも、猶(なお)病の未だ其の奥に至る能わざるがごときのみ。後に翁は西遊して以て診腹を唱う。寅は故ありて以て家を提(たずさ)え東都に遷る。相い距(へだ)てること千里にして翁の所在を知らず。
庚申(1800年)の冬、坊間を過ぎて、書肆に就(ゆ)き、偶(たまたま)題『腹証奇覧』なる者を見て、巻を展(ひら)きて之を読む。則ち翁の著わす所なり。
翁、天資(天来の資質)狂簡にして、文辞を学ばずに、診腹の術のみを専修す。而してその著わす所の書は、皆な門人をして代録せしむ。故にその書には遺闕の無きことを得ず。
寅、是に於いて上国に遠遊し、翁の所在を索(もとめ)て、親しく討論し、以てその遺闕を拾補せんと欲す。方(まさ)に世事身に纏わりて、その志を遂げること能わず。徒らに書に臨んでは歎息して已まず。
亨和癸亥(1803年)秋、寅に浪華に適(ゆ)くの役あり、至りて則ち翁の浪華に僦居するを聞く。乃ち往きて之を訪ねる。相い見て喜ぶこと甚し。寅、幸いに京摂の間に留まることを得、因りて数(しばしば)相い往来すること以て譚ずること、診腹の事に匪らざる事莫し。
後に翁は病を得て、自ら分けて起きるべからず。寅に後事を嘱して、但だ奇覧の補翼を言う。翁、文化乙丑(1805年)の夏六月に、浪華に没し、遺言を存するのみ。
丁卯(1807年)秋、寅は京師に卜居し、世事頗に間を得て、因りて翁の志を追い成して『腹證奇覧翼』四編、合八巻を作する。
寅、歎じて曰く、嗚呼、翁の医に於けること、篤と謂うべきなり。その臨終の顧嘱する所、また他に及ばざるは、以て観るべきのみ。且つ翁の寅に於けるは、これ遇と謂うべきか。抑々天なる耶。何ぞ、その離合の期を定むこと有らず、而して顧嘱の前約有るに似たる也。因りて思う、世間に亦た寅の如き不遇の者有りて、偶(たまたま)此の書を読み、以て自ら修むるの方を得、而して保身事親の用に供すれば、則ち亦た猶(なお)翁の寅に於ける如きならんことを也。
書肆「積玉圃」の主人(おそらくは柳原喜兵衛のことか)、翁の奇覧の故(もと)を刻するを有するを以て、来たりて此の書を刻せんことを請う。因りて、その始末を叙して以て授けて爾と云うなり。
時、文化己巳(1809年)孟春、望
遠州 和久田寅、平安の僑居にて書する。
■原文
…(略)…寅、未弱冠、再服父兄之喪。其侍病執藥餌之間、凡六年。未嘗遇良毉之診。先是、長兄出仕外。寅、単身奉母、居常慮禀質之孱弱。誤墜其身、母老且病。朝夕恨庸毉之不可恃。於是、慨然始志于毉、好讀古方書、以求供保身事親之用焉。仍倣庸毉之㪽爲、范乎不得自脩之寸也。有年矣。可謂不遇也。已寛政癸丑春、邂逅湖南稲葉文禮翁於友人悳田東溟家。譚及毉事、翁謂寅曰、吾曩従雲州鶴泰榮、學診腹之法。遂以脩其術、而遊歴四方。幾二十年、未嘗遇同志之人。如子者、可與言也。乃偕帰于草盧。講究毉。
翁淹畱數月、悉擧㪽修之診腹㳒、以授寅而厺。爾来寅従事於診腹之㳒、以試毉方、併讀仲景之書、以研究其義、積以歳月、稍覚有㪽得、猶病未能至其奥耳。後翁西遊以唱診腹。寅有故以提家遷於東都。相距千里不知翁㪽在。
庚申冬、過坊間、就書肆、偶見題腹證奇覧者、展巻讀之、則翁所著也。翁天資狂簡、不學文辭、専脩診腹之術、而其㪽著書、皆令門人代録。故其書不得無遺闕。寅於是欲遠遊上國、索翁㪽在、親討論以拾補其遺闕。方世事纒身、而不能遂其志。徒臨書歎息不已。亨和癸亥秋、寅有適浪蕐之役、至則聞翁僦居浪蕐。乃徃訪之。相見喜甚。寅幸得畱京摂之間、因数相徃来以譚。莫匪診腹之事。
後翁得病、自分不可起。嘱寅後事、但言奇覧之補翼、翁以文化乙丑夏六月、没于浪蕐、遺言存耳。
丁卯秋、寅卜居京師、世事頗得間、因追成翁志、作腹證奇覧翼四編、合八巻。
寅歎曰、嗚呼、翁之於毉、可謂篤矣。其臨終所顧嘱、亦不及他、可以観已。且翁之於寅、謂之遇耶。抑天耶、何其離合之不有定期、而顧嘱之似有前約也。因思世間亦有如寅不遇者、而偶讀此書、以得自修之方、而供保身事親之用、則亦猶翁之於寅也。
書肆積玉圃主人以有刻翁之奇覧之故、来請刻此書。因叙其始末以授云爾。
時 文化己巳孟春望
遠州 和久田寅書于平安僑居
とあります。また和久田氏に診腹の術を伝えた稲葉文礼の自序(一部)についてはコチラの記事「『腹証奇覧』の著者、稲葉文礼の半生」に触れています。
古方四大家について
名古屋玄医は「古医方の祖」として称されています。古医方または古方派については、上記 吉益東洞の紹介にて触れ「古方派の四大家」についても一部紹介しました。しかし実際には、その分類にも諸説あります。ここでは「古方派四大家」に関してもう少し触れておきましょう。主に挙げられる医家の名を(安易ではありますが)生まれ年の順に並べてみます。
・名古屋玄医(1628-1696年)
・後藤艮山 (1659-1733年)
・香川修庵 (1683-1755年)
・松原一閑斎(1689-1765年)
・吉益東洞 (1702-1773年)
・山脇東洋 (1706-1762年)
後藤艮山の弟子に、香川修庵や山脇東洋がいます。そして前述のとおり山脇東洋は吉益東洞の師です。浅田宗伯は『皇国名医伝』(松原慶輔の項)において「世稱名護屋玄醫後藤達及慶輔與山脇尚徳為古方四家」と記し、当時は名古屋玄医・後藤艮山・松原一閑斎・山脇東洋を「古方の四家」としていたようです。
さてその一人、名古屋玄医のお墓を参るために浄福寺に引率していただきました。
名古屋玄医のお墓
写真:名古屋玄医のお墓、玄医の墓石の隣りには謎の風化した墓石が…。(photo by 和田智義)
墓石には「冝春庵 観翁丹水先生墓」とあります。
そしてこの名古屋玄医という人物、「古医方の祖」といった言葉だけでは、彼の医学を表現するには不足かと思われます。少し調べてみましょう。
名古屋玄医について
名古屋玄医(1628-1696年)
名は玄医、字を閲甫、号を丹水、宜春庵に居し、晩年は丹水子とも号した。玄医の“玄”は、彼が曲直瀬家の系譜であることを示しているようです。(※a)
名古屋玄医に関しては“従来の陰陽五行説・臓腑経絡を基盤とする曲直瀬流を否定して古医方・張仲景の教えに戻ることを唱えた”という人物像が主に知られています。しかし、上記の玄医の名の由来をみれば、そのような単純なものではないことが分かります。この点において花輪氏は「……名古屋玄医の医説は、曲直瀬一門の「学説」を否定して自説を主張したのではなく、李東垣・朱丹渓以降の学説、特に李東垣の学統下の薛己、李中梓、張景岳、趙献可といった、いわゆる「易水学派」の学説を、日本的に受容したのであった。……」として、名古屋玄医の医学の重層性を示しています。
また名古屋玄医の医学観の基盤のひとつは『易』にもあるとされています。彼は経学(孔子の教え)を羽川宗純に学び(※b)、後に医学を学んだといいます。その易経の影響として「抑陰扶陽」の思想が確認できます。『金匱要略註解』の序(門人、奥三璞による)には「…易之為道抑陰扶陽…」とあります。
また玄医の著書には『金匱要略註解』『医方問余、また同書の中に(続方考医読註)がある』『丹水子』『脈学源委』『難経註疏』『閲甫食物本草』などがある。
また濱口先生によると、名古屋玄医は『易経集註抄』(稿本)なる書も残したそうであるが、現在のところ未発見だとか…。
※a;花輪壽彦.漢方の基本概念と病態把握に関する研究;
花輪氏論文の①名古屋玄医について 2.略歴の項にては「…玄医の医の師は定かではないが、『金匱要略註解』中に吾師、福井慮庵とある。福井慮庵は曲直瀬寿徳院玄由の門人で、名古屋玄医の「玄」は曲直瀬玄朔の一門の名に由来する。玄医の師は初め彼に「玄怡」という名を与えたが、父の諱を犯すのをさけて「玄医」に改めたという。「玄医(玄人の医師)」という名に恥じぬよう自らを常に誡慎することを誓ったという。…」とある。
※b:羽州宗純との説もある(浄福寺のサイトの紹介文など)が、墓石裏面の刻文では羽川宗純と読める。
写真:名古屋玄医の墓石裏面の刻文、羽川宗純の名が刻まれている。(photo by 足立繁久)
参考論文:花輪壽彦.「漢方の基本概念と病態把握に関する研究」
参考記事:濱口昭宏.「名古屋玄医と易学」および「名古屋玄医の墓~京都漢方史跡~」.蒼流庵随想より
名古屋玄医の墓所の謎
名古屋玄医の墓所には1つミステリーがあり、また師弟愛があるのです。
1つは名古屋玄医の隣にある墓石。この砂岩からなる墓石は風化によってもはや誰のお墓かわからない状態になっています。上記の花輪先生の引用論文(2011年)にも「「宜○○○」とあるが表面がくずれて判読できない」とあります。我々が墓参したのが2024年という13年後ではこの「冝」の字すらみえない状態となっていました…。
しかし濱口先生の調査によると、墓石の質や形状の類似点、そして刻まれていた文字は「冝春庵東湖先生之墓」だったとのこと。ゆえに玄医とかなり近しい間柄の人物であった可能性が高いのは…とのことでした。
また、名古屋玄医のお墓に向かい合うように設置されている墓石があります。これは菅隆珀という人物のお墓。墓面には「鳴鶴菅先生之墓」と刻まれています。花輪先生論文によると「名古屋玄医の嗣、玄篤に師事した鳴鶴菅隆珀のもの」だとのこと。
写真:鳴鶴 菅隆珀のお墓。向かい合うように安置される墓石は名古屋玄医玄篤の父子に対する敬慕の念によるもの(photo by 足立繁久)
墓マイラー活動だけでなく「易」の勉強も
そして「鳴鶴」という言葉は『易』の中孚卦の二爻辞にある言葉「鳴鶴在陰…。」から用いられているとの濱口先生の解説でした。
なるほど「鳴鶴在陰、其子和之。我有好爵、吾與爾靡之。」という爻辞からも親(師)に対する深い敬慕の想いが伝わってくるようです。
勝手な想像ですが、玄医は墓石に風地觀の名(観翁)を刻んでいます。そして弟子、菅隆珀は風沢中孚(二爻)から「鳴鶴」を採っています。となれば両者の間を埋めるように、風雷益の卦爻から号名をとった人物がいたのでしょうか?なんて、想像が捗る次第であります。
まだまだ墓マイルは続きます。次はその号に卦名が用いられている医家、後藤艮山です。艮山先生の墓所は上品蓮台寺にあります。
後藤艮山のお墓
写真:後藤艮山のお墓(photo by 足立繁久)
後藤艮山について
後藤艮山(1659-1733年)
名は達、号は養菴または艮山としました。
元々は江戸の生まれでしたが、度重なる火災によって家財を尽く失い、祖先の郷里である京都に移住したとのこと。そのような経緯があり、その生活は貧困を究め、医学を学ぼうと名古屋玄医に教えを乞うも入門を断られたのだとか(玄医先生…奇貨を失いましたね…)。
艮山は臨床家としても指導者としても優れていたようで、艮山の治療を乞う患者で門前市をなす程の人気であったとか。また彼の弟子には香川修徳(修庵)や山脇東洋がいます。
仮にですが…もしも玄医先生が後藤艮山を弟子にしていれば、古方四大家のラインナップは玄医の学統で統一できたのでは?と思う次第です。
さて、後藤艮山の医学についてですが、最も有名なのは「一氣留滞説」でしょう。
『艮山先生遺教』には「識百病生於一氣留滞則思過半云。(百病は一氣留滞に於いて生ずることを識らば思い半ばに過ぎんと云う。)」「…然外感内傷皆在一氣。一氣者元氣也。…上下左右表裏前後、彼為有餘此為不足、而其見證。亦有淺深久近輕重緩急之不同耳。…(…然るに外感内傷は皆な一氣に在り。一氣とは元氣なり。…上下左右表裏前後、彼れ有余を為せば此れ不足と為す、而して其の証が見わる。(病には)亦た浅深久近軽重緩急の不同が有るのみ。…)」とあります。
一氣留滞説の他にも「熊胆」や「温泉」「灸治」を重用したこともあり「湯熊灸庵(ゆのくまきゅうあん)」と呼ばれたそうです。「ゆのくまきゅーあんセンセー」なんて、患者さんから親しみ込めて呼ばれるシーンを想像してしまいますね。
そして「熊胆」「温泉」「灸治」を多用する理由は、なるほど「一氣留滞説」ですからね…と納得できるわけです。となると選択される「灸法」も自ずと推測できますね。少なくとも一般的に連想されるような当時の灸治ではないだろうと推察できますね。
艮山先生の書には『艮山腹診図説』『五極灸法』『(校正)病因考』『六氣弁』などがある。
※『五極灸法』は『痘瘡新論』内に「異人秘授五極」として収録されている
参考記事
今井秀.『医学史探訪(5)後藤艮山 1659-1733』(大阪臨床整形外科医会会報 第47号,p78-84)
濱口昭宏.「後藤艮山の墓~京都漢方史跡~」および「医家後藤家墓所整備事業のこと」.蒼流庵随想より
この墓所はこの日まわった中で最も整ったお墓でした。
聞くところによると、日本医史学会関西支部さんの手によって、令和二年(2020年)に整備されたとのこと。濱口先生もこの整備に関わったらしく、その経緯についても説明してくださいました。
写真:後藤家の墓所整備に尽力した日本医史学会関西支部の石碑(photo by 足立繁久)
左写真:墓石右には「後藤家墓所整備記念碑」と立派な石碑がある。
右写真:墓石足元にも「後藤家墓所平面図」の金属プレートが設置されている。
「後藤家墓所平面図」には艮山墓石からみて左側に艮山妻の御墓、右側に次男の椿庵の御墓があるとのこと。
この整備に関する経緯は、上記参考記事「医家後藤家墓所整備事業のこと」および『医学史探訪(5)後藤艮山 1659-1733』に詳しい情報が記載されています。
さてお次のポイントが、この遠足の最後の墓所です。上品蓮台寺から北上して北大路通を横切り、佛教大学の前を通過、源光庵付近にまで移動します。バス停から坂道を下り、安泰寺旧跡を過ぎて、閑静な住宅街を抜け、その奥の家間の細道を抜けるとそこは・・・
御園家の墓所
我々日本の鍼灸師なら知らぬ人もいないであろう、御園家の墓所でした!
とはいえ、では意齊流・夢分流の道統について詳しく知っているのか?と問われると、「Yes!」と答えられないのがイタイところ…。そこで専門に研究されている先駆者の先生方の知識を拝借させていただきましょう。
『日本腹診の源流-意仲玄奥の世界-』収録の「『意仲玄奥』『陰虚本病』解題」(長野仁 著)から引用しますと…
御園家の家系について
(当流鍼法祖)御園意済常心-(二世)意済常正-(三世)意済常憲-(四世)意済常倫-(五代)常尹…
※家系図は「『意仲玄奥』『陰虚本病』解題」(長野仁 著)から引用。
※但し、「(五代)常尹」に関しては、解題文中から補足した。
濱口先生いわく「初代御園意斎の墓はなく、二代目から埋葬されている」とのこと。初代意斎先生の御墓はなくとも、皆のテンションが上がったのは言うまでもありません。手を合わせて後に撮影させていただきました。
写真:御園家之御墓(photo by 足立繁久)
写真:御園家墓所にある石碑(photo by 足立繁久)
中央初代俊正院幻如意斎大居士
二代 清芳院念□常正居士
三代 冬嶺院心□常憲居士
四代 遵池院□□常倫居士
五代 春□院□□斉郷居士
六代 温恭院誠斉□郷居士
七代 大天入道□王□□居士
……
とある。(写真での確認のため上記の文字解読に誤りがある可能性があります)
写真:お墓中央は「法眼意齊常憲之墓(三代目)」、手前のお墓は「従四位下鍼師兼主計□□□□御□」か?
写真:「法眼意齊常倫之(墓)御園」(四代目)、「安住院覺圓浄那居士」…でしょうか(photo by 足立繁久)
写真:最後に皆で記念撮影もさせていただきました(photo by 濱口昭宏)
この墓所は管理人がおられるらしく、濱口先生が事前に連絡・ご許可をいただいていたのでしょう。私がバス停にたどり着いたときには既に門の鍵を手にしておられました。また墓参の後にも何処かへと鍵を返却されに行きました。(濱口先生、色々な段取りやご配慮に感謝いたします)
ですので、この記事をみて御園家の墓参に行きたいと思った方、ノンアポで行くことは不可ですので、ご注意ください。
ここを本日の最終ポイントとし、「医史蹟を巡る京都の旅」の幕と相いなりました。バス停(釈迦谷口)から京都駅まで一気に南下。久しぶりの遠足で疲れが出た人もいたのでしょう。各自ウトウトする人もチラホラ。私はバス待ちの間、阿野先生に鍼をしてもらったので、比較的元気よくバス旅も楽しむことができました。
以上の記事の文量から分かると思いますが、「今回の遠足は本当に情報量が多い!」このひと言に尽きます。
振り返り記事を書くのに、二週間かかりました(笑)
そしてこれだけの墓所を回るのに、さすが当時の都・京都です。濱口先生いわく「時間の都合上、かなり素っ飛ばした」のだとか…
それでも、これだけの墓所を最短で巡るのに“最上最善のプラン”を事前に準備してくださったことに、濱口先生に対し多大なる感謝の意をここで改めて伝えさせていただきます。
そして、この遠足に参加し、一日ともに京のまちを歩き勉強し、疲れた足を引きずりながらも、この遠足を修了した先生方にも感謝いたします。
打ち上げは京都駅近くの「馬鹿凡人(バカボンド)」さんにて乾杯、一日の労を労いつつ、普段会えない先生たちとの交流を楽しみました。
写真:お疲れさまの乾杯。いやーこの日の酒は美味かった(photo by 川合真也)
鍼道五経会 足立繁久