栗園医訓五十七則(橘窓書影より)その5


※『橘窓書影』画像は京都大学付属図書館より引用させていただきました。
※以下、青枠内が本文です。

その49、急則治標、緩則治本ということ

一、 病に標本と云うことあり。標は現今の急證なり。
本は本源の病なり。
時に臨みてはその本源を捨て、急を救うべし。
故に急則救其標と云うなり。

「急則治標、緩則治本」という言葉があります。簡単にいうと治療の優先順位を指しています。
鍼灸師は緊急度の高い急症を診る機会が少ないので、ピンとこないことも多いかもしれません。

よく講座では次のような譬え話で伝えています。
「徹夜で酒を大量に呑んで二日酔い…。今さっきまで吞んでました。で、吐き気がひどくなって気持ち悪い、吐きそうだと言ってる。こんな人にどうしてあげる?」
まず吐かせますよね。酒毒が胃に残ってるんですから。
でも「緩則治本」しか知らない思考だと「徹夜して睡眠不足…だから補腎します!」という耳を疑うような診断が出てくるものなんです。

極端な譬えにしてますから「この局面で補腎はないでしょ~(笑)」となるでしょうが、このような緩急と標本を弁じないケースというのは、意外とよくあるものです。

標本に対する治療の先後は『素問』標本病伝論が参考になります。この標本病伝論の先後概念は『傷寒論』にもみられます。

『素問』標本病伝論第六十五

知標本者、萬擧萬當。不知標本、是謂妄行。夫陰陽逆従、標本之為道也。小而大、言一而知百病之害。少而多、浅而博、可以言一而知百也。以浅而知深、察近而知遠。言標與本、易而勿及。治反為逆、治得為従。
先病而後逆者、治其本。先逆而後病者、治其本。
先寒而後生病者、治其本。先病而後生寒者、治其本。
先熱而後生病者、治其本。先熱而後生中満者、治其標。
先病而後泄者、治其本。先泄而後生他病者、治其本。必且調之、乃治其他病。
先病而後生中満者、治其標。先中満而後煩心者、治其本。
人有客氣、有同氣。小大不利、治其標、小大利、治其本。
病発而有餘、本而標之、先治其本、後治其標。
病発而不足、標而本之、先治其標、後治其本。
謹察間甚、以意調之。間者并行、甚者獨行。
先小大不利、而後生病者、治其本。…

・・・・・・
夫れ陰陽逆従、標本の道と為る也。小にして大、一を言いて百病の害を知る。
少にして多く、浅にして博し、以って一を言いて百を知る可し也。
浅を以て深を知り、近を察して遠を知る。標と本とを言うこと易くして及ぶこと勿れ。反を治して逆と為し、得て治して従と為す。
先ず病みて後に逆する者、其の本を治す。
先ず逆して後に病む者は、其の本を治す。
先ず寒して後に病を生ずる者、其の本を治す。
先ず病みて後に寒を生ずる者、其の本を治す。
先ず熱して後に病を生ずる者、其の本を治す。
先ず熱して後に中満を生ずる者、其の標を治す。
先ず病みて後に泄する者は、其の本を治す。
先ず泄して後に他病を生ずる者、其の本を治す。必ず且つ之を調え、乃ち其の他病を治す。
先ず病みて後に中満を生ずる者、其の標を治す。
先ず中満して後に心煩する者、其の本を治す。
人に客氣有り、同氣有り。小大利せずは、其の標を治し、小大利せば、其の本を治す。
病発して有餘せば、本にして之を標とし、先ず其の本を治し、後に其の標を治す。
病発して不足せば、標にして之を本とし、先ず其の標を治し、後に其の本を治す。
謹んで間甚を察し、意を以て之を調う。間なる者は并して行き、甚なる者は獨り行く。
先に小大不利にして後に病を生ずる者、其の本を治す。

その50、病理の要、治療の要、戦略の要

一、 病に主客の別あり。故に一方中にても主客の差別あり。
桂枝は解肌を主とす。
桂枝にて解肌すれば、頭痛 身疼 発熱 悪寒等の客證は癒ゆるなり。
小柴胡湯は胸脇の邪を清解するを主とす。
柴胡にて胸脇苦満 心煩を治すれば、往来寒熱 或證など幾多の候は治するなり。
又、宿食 腹満なれば、先ずその食滞を去れば腹満は癒るなり。
宿食を捨て腹満薬を用いるときは癒ることなし。
是を主客の別とするなり。
又、一證の中にも主客の別あり。
吐而渇する者は吐を以て主とす。
満而吐する者は満を以て主とす。
此の類尤も多し。

主客の話です。
治療における主客、証における主客、病症における主客。それぞれに主客があります。
治療するには、この主を見抜けないといけません。主とは要(かなめ)、カギとなるポイントとイメージすると良いでしょう。

多愁訴の患者さんを治療をする場合、一つ一つの症状を追いかけて治療するわけにはいきません。これをすると病理ストーリーを見失う可能性が高く、それを繰り返すほどに道に迷ってしまいます。特に多愁訴の治療をすることの多い鍼灸では注意を要するでしょう。

また治療の主客も重要です。鍼灸治療では複数経穴を使うことが多いかと思います。
もちろん一本鍼治療、一穴治療を流儀とする派もありますが、私は多数穴派です。複数経穴を使うだけに、経穴の順番や主客を考慮して鍼灸を行う必要があるのです。治療を組み立てるというイメージです。治療の組み立ては漢方薬の処方構成に似ていると思います。

上記の「桂枝で解肌」「柴胡で胸脇苦満、心煩を治す」というのは治療の組み立てではなく、攻略すべき要衝を言っておられます。
病理の要所、治療構成の要点、治療戦略の要衝を考えるべしということでしょう。

その51、方・証に劇と易あり

一、 一方中に劇易ということあり。
大柴胡湯は心下急鬱 鬱微煩 等を易證とす。
心下痞鞕 嘔吐而下利 等を劇證とす。
小建中は悸而煩を易とす。腹中急痛を劇とす。
呉茱萸湯は嘔而胸満、或いは乾嘔 吐涎沫 頭痛を易とす。
吐利 手足厥冷 煩燥欲死を劇とす。此の類尤も多し。

一方、一証の中にも劇易の別があります。劇易とは、劇症と易症・急症と慢症との別としてみると良いでしょう。

この点は前述(その50)の病証と治療の主客・要を知ることに共通すると思います。

その52、諸症の有る無しから証を正しく理解する

一、 證の有無ということも心得べし。
桂枝湯は悪寒ありて喘なし。麻黄湯は喘ありて悪寒なし。
桂枝湯、発熱あれば身疼痛あり。もし痛あれば発熱なし。
麻黄湯は発熱して疼痛あり。もし発熱 悪寒 身疼痛する者は大青龍湯なり。
葛根湯は項強ありて頭痛なし。
桂枝湯は頭痛ありて項強なし。
発熱の一證も頭痛 悪寒あれば桂枝湯。
嘔あれば小柴胡湯ただ発熱ばかりなれば調胃承気湯なり。
これ目的を失うべからず。

各湯液の証には特有の病症があります。
上記には「桂枝湯は悪寒ありて喘なし」「桂枝湯、発熱あれば身疼痛あり。もし痛あれば発熱なし。」「桂枝湯は頭痛ありて項強なし。」と“●●はあって■■は無い”と症状の整理から、桂枝湯証だと分析することができます。

さらに各証を比較し鑑別することで、詳細に各病証を理解できるようになります。

その53、提因とは

一、 提因と云うこと知るべし。
咳喘の證、表邪によらざるものは心下有水気と因を提るなり。
少腹満の症も小便不利によらざるものは熱結膀胱と因を提るなり。
此の類猶多し、研究すべし。

「提因」も見慣れない言葉です。「逐機・持重」や「医自易」のように歴代医家の言葉なのか、それとも浅田先生の言葉でしょうか…不勉強にして分かりません。

上記文では「表邪を病因としない咳喘は心下に水気有りを(心下有水気)を病因(の可能性あり)とみるべし」(※1、2)とあるように、「因を提る」病因を提示・提案するべしということでしょうか。
この医則について、傷寒論に関してもまだまだ自身の理解が浅いことを痛感します。

※1:「傷寒、表不解、心下有水氣、乾嘔、発熱而欬、或渇、或利、或噎、或小便不利、少腹満、或喘者、小青龍湯主之。(太陽病中編 40条文)」
※2:「傷寒、心下有水氣、欬而微喘、発熱不渇。服湯已、渇者、此寒去欲解也、小青龍湯主之。(太陽病中編 41条文)」

※3:「太陽病不解、熱結膀胱、其人如狂、血自下、下者癒。其外不解者、尚未可攻、當先解其外。外解已、但少腹急結者、乃可攻之、宜桃核承氣湯。(太陽病中編 106条文)」

その54、病の所在と方向性を知る事

一、 病の所在と云うことあり。
表裏内外を以て分かつべし。一身頭項背腰等は表なり。鼻口咽喉胸腹前後竅は裏なり。外體に専らなるものを外證と云う。外面にあずからず内に充満するものを内症と云う。
此の四證を區別して方を處するを病の所在を知ると云うなり。

病の所在とはすなわち病位です。病位を明確にすることは診断において必須の条項なのです。

浅田宗伯先生は病位を表裏内外の四証に別けています。
「一身、頭項、背、腰」に現れる病を表証、「鼻口、咽喉、胸腹、前後竅(二陰)」に現れる病を裏証としています。
また外体に主に出る病症を外証とし、内に充満する病症を内証としています。

この内外をどう解釈するかは個々で意見の分かれるかもしれませんが、私は「病のベクトル」「氣の方向性」を指していると解釈します。病の方向性や動きを把握することは病邪を排除・駆邪する上で必要な情報なのです。
病の動き・氣の方向性を考慮して診ることは、その41「死物ではなく活物をみよ」に通ずるものがあります。

その55、法が決まってからの方

一、 病證の診察に熟する上は方と法とを審らかにするを要とす。
薬に方といい、治に法と云う。
法定めて而して後に方定まるものなれば、先に其の治法の先後 順逆 主客を審らかにして處方を定むべし。
方と云うは易に謂う所の立不易方の方にて、桂枝湯は桂枝の主證あり。麻黄湯は麻黄の主證あり。
柴胡承氣四逆、皆 各主證ありて變易すべからず。
これを失誤せぬように治療するを吾が道の大成と云うなり。

方と法を審らかにすること、方とは薬方であり、法とは治法です。
治法が決まり、その後に薬方が決まるもの。当たり前のことですが、意外と逆になることが多いのでは?と思います。

気づかぬ内に“方処して後に法定める”ことにならないように「先後」「順逆」「主客」を明確にすることで法を正しく定めることができると説かれています。
以上のように確たる治法が定まれば、治方(薬方や鍼灸)がぶれることはなく、その33のように「故無く処方を転ず」ることはなくなります。
易に謂う「君子以立不易方(君子、以て立ちて方を易(か)えず)」(雷風恒の象辞を参考のこと)にあるように、妄りに変易してならない。ただ不易(変わらないこと)を堅持するのではなく、易える際には理にかなった由と機を要するということです。

これはどの医学にも通用することでしょう。

吾、栗園先生以醫居於東都五十年焉、其治病 歳不下萬餘人、聲名施及薄海之内外、治効為最多矣。
今茲丙戌之冬、同志相謀、刻其治験之一斑、因掲恒常所示子弟之醫則、以代凡例庶幾足以見先生学殖之所根抵云。輔仁社同校謹識

吾、栗園先生、医を以って東都に居すること五十年。其の治病 歳に萬餘人を下らず、聲名は薄海の内外に施及す、治効は最多を為す矣。
今茲(ここ)に丙戌の冬、同志と相い謀りて、其の治験の一斑を刻む、恒常に子弟の醫則を示す所を掲げるに因り、凡例に代わるを以て庶幾(こいねがう)先生の学殖の根抵とする所を見わすを以て足ると云。

ちょっと心許ない書き下し文ですが…

それ以上にムムッとなることが…五十七則が五十五則しかないゾ…。
本記事「栗園醫訓五十七則」は名著出版の近世漢方医学書集成の浅田宗伯に収録されている『橘窓書影』を基にしています。漏れなく書き写したハズなのですが、京都大学図書館の『橘窓書影』を確認しても二則足りないようです。若しお気づきの方がいましたら、ご助言ご指導いただけると幸いです。

鍼道五経会 足立繁久

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