「心持の大事」と「三清浄」『鍼道秘訣集』より

学と術と心

治療者としての心持ちを非常に重視すると序に書かれていました。
『人を癒す心なら私、十分に持ってます!』と思う人もいるかもしれませんが、ただ癒したいという気持ちだけでは治療はできません。
学と術そして心の三位一体といえる境地を本書『鍼道秘訣集』では提示しています。

その三、夢分流の大事


写真:『鍼道秘訣集』京都大学付属図書館より引用させていただきました

三、心持之大事

他流には何れの病には何れの處に何分針立てるなどと云う事計(ばかり)に心を盡し、一大事の處に眼(まなこ)を付けず。
當流の宗とする處は針を立る内の心持を専らとす。

語に、
事(わざ)に於いて無心にして、心に於いて無事なれば、自然に虚にして靈空にして妙(無心於事無地於心、自然虚而靈空而妙)

挽かぬ弓 放(はなさ)ぬ矢にて射(いる)日(とき)は 中(あたら)ず  しかもはづさざりけり。

是、當流心持の大事也。此の語歌を以て工夫し針す可き也。

「挽かぬ弓 放たぬ矢にて 射る日は 中ずしかも はづさざりけり」

道歌というものはその時の段階で受ける印象・得られる理解が異なると思います。特にこの歌はその最たるものといえるのではないでしょうか。
道歌を読んで、去年と同じ理解しか得られない…というのはなんとか避けたいものです。

その四、三清浄

『鍼道秘訣集』京都大学付属図書館より引用させていただきました

四、三つの清浄(すまし)

此の三の清浄(すまし)心法の沙汰也。

【写真中の絵図を参照のこと】 維(これ)心の字の形也。

三つの輪は 清浄(きよくきよき)そ 唐衣 くると念(おもう)な 取ると念(おも)わし

三つの輪と云うは貪欲(とんよく・むさぼる)、瞋恚(しんい・いかる)、愚癡(ぐち・おろか)の三毒心の清き月を暗(くもら)す悪雲なり。

歌に、

貪欲心(むさぼりおもう心)
貧欲の 深き流れに 沈まりて 浮瀬(うかぶせ)も無き 身ぞいかんせん

瞋恚心(いかる心)
燃出る 瞋恚の炎に 身を焼きて 己と乗れる 火の車哉

愚癡心(おろかなる心)
愚癡無智の 理非をも分けず 僻みつつ 僻むは一(おなじ) 僻むなりけり

第一の貪欲心 變じて一切の禍となる。此れ欲を離れざるがゆえに針も下手の名を取る事あきらか也。
譬えば病人に逢うて腹を診(うかがい)、我心に乗り、加様にせば癒ゆ可きと念う病者の有り。又、療治の行(てだて)心中に移り浮かぶ事なく、腹の體(てい)、吾心に乗らぬ病人数多あり。加様の心に移らず腹の様子、合㸃行かざるは、百日千日針するとも吾心に合㸃のゆかぬは癒ざる物なれば、餘人へ御頼みあれとて療治せざる物也。
しかるに我心に合㸃行かざれども、病人福祐(ふくゆう)なるか貴人等なれば、合㸃は行かねども先ず一廻りも針せば、譬えば病人死したりとも、針の禮は受く可きなど念(おも)い取り掛かり、療治すれども元来(もとより)合㸃の行かぬ病なれば痊(いえ)ず。
しかれば此れ針立 下手にて針の験なしとて針立を替える者也。
又、重病にて我心に乗らねども欲心に引被(ひかされ)取り掛かり針する内に病彌(いよいよ)重り終に死すれば、下手の名を取る事は、我欲心熾なるがゆえ也。

人間と生れ欲の無きと云う者あらざれども、重欲心を嫌う也。此の欲の雲、心中に強き時は心鏡の明らかなるを蓋(おお)い暗(くらま)す故に病、心の鏡に移り観ゆる事、少しも無きにより生死病証の善悪も辨え難し。欲の炎熾ならざる時は吾心清(すん)で曇り無き秋の月 明なる鏡の如くなるに依りて病の吉凶生死の去来 善く浮かびしるる也。
是三つの清浄(すまし)の第一也。

次に瞋恚(いかる)氣、心にある時は前の如く、亦 心鏡を暗(くらま)す。是、瞋恚(いかる)氣の出ると云うは愚かなる意より出るは、元来 我を立るが故也。
木火土金水の五行と陰陽の二つを借り出て生ず。皆以て借物也。身の中の五藏六腑、五行に配す。五つの物を借り得たるが故に死期を望みて一つ一つ元の方へ返す。然れば我とすべき物なし。又、頼みをなし千萬年とも念うべからず。
歌に、

地水火風 集り生(なせ)る 空(あだ)な身に 我と頼まん 物あればこそ

暫時(しばらく)生のある間にて焼けば灰、埋めれば土と成るからは、我と立つべき物なし。

大水の 先に流るる 橡がらも 身を捨ててこそ 浮かぶ瀬もあれ

然れば我を捨て無我の心になる時は瞋(いかる)氣も人を恨む意もなし。我を立てるがゆえに恨(うらみ)瞋(いかる)心も又 欲の意も出る。是、元を知らざれば愚癡の暗(やみ)に迷うがゆえに色の道に耽(ふけ)る。物毎に愛著(あいじゃく)執心(しっしん)深くして背く物を恨(うらみ)瞋(いかり)、貴人高位福人に諂(へつら)い、金銀米銭を得んと欲(おも)う。賤しき者 貧しき者をば、目にも掛けざる様にするは、襊(えり)に付く虱根性とて大愚癡より生ずる是(この)心少しもありては中なか病を痊す事 憶(おもい)も寄らず。貴き人にも諂わず、賤しき者をも撰ばず、福人貧者の隔て無く、唯 病苦を救わんと念い、慈悲強く正直にして邪見欲心を離れたる處、即心即佛なれば天道佛神の護(まもり)ありて其の業(わざ)に自然と妙を現す。
歌に、

慈悲佛 正直は神 邪見者(ひと) 心一つを 三つに云うべき

是歌を以て能く心得、貧(むさぼる)心なく、無我の心にならんと念(おもわば)、十が十ながら無我無欲にならずとも、半分にても心清(すみ)て病を痊(いや)さん事は疑い無し。
是、貪欲、瞋恚、愚癡の三つの念あらざる日(とき)は心清(きよし)。
此れ故に心を清浄に持つを三つの清浄(すまし)と云う。是の心持、諸藝に用いる事也。

殊に神へ参詣するにも身を清むるは次にて心の清浄を専とす。心清ければ神清きがゆえに向いの神も又清く納受ある也。

往古(いにしえ)栂尾(とがのお)の明慧上人と、笠置(かさぎ)の解脱上人と、此れ両(ふたり)の名僧をば、春日大明神 雙(そう)の御眼(まなこ)、雙の御手の如く思召しけるに、明慧参詣の日は御簾上り、直に明慧と春日 御物語被成(なさ)れ、解脱参詣し玉うには御簾を隔て御物語被成(なさ)る。
或日、解脱上人参籠有りて春日へ御申し有りけるは、神と申し奉るも佛の垂跡(すいじゃく)なり。佛は降る雨の草木國土を漏さず濕(うるお)すが如く、平等にして隔て更に無し。然るに明慧と我と別の違い有る可からざるに、明慧の参詣には直に御對面(たいめん)あり、我の詣(もうで)ぬるには御簾を隔て御物語し玉う事 心得難し、と問い玉う。
明神 仰(おっしゃり)けるは、我に何の隔てし事の有る可きか。其の方、左様に念う心、御簾の隔てとなる也、と御返答御座(おわしまし)けると。是、解脱房の心に慢心の我あるゆえ也。

又、古 美濃の國、加納の城に於伊茶(おいちゃ)と申す女の母、重病を受け苦しむ。於伊茶 餘りの悲しみに関と云う處に龍泰寺の全石(ぜんせき)と申す僧を請(しょう)し、祈禱(きとう)の為に陀羅尼を読みてもらいける。
全石、一心不亂に陀羅尼を読むこと暫く有りて、母 頭(こうべ)をあげ、やれやれ嬉しや、頃(このごろ)心(むね)の内に苦しみありて悲しかりけるに、御経の力に依り、苦しみ無し、と悦ぶ事 涯(かぎり)無し。厥(その)時、全石 憶(おもう)様、最早 布施をもらい帰るべきか 今少し逗留すべきか、と思う心 出来ける時に、母、やれやれ悲しや還(また)心苦しく成りて候…と悲しむ。
全石 是を聞き、扨は我に欲心出る故と念(おもい)とり、前の如く一心不亂に陀羅尼を読みければ、母も病 漸漸に軽く成り、終に痊けると也。
此れも皆、我心の清浄と不清浄との謂(いわれ)にて、加様の善悪あり。

又、病者に向かいて憶病(おくびょう)出る人有り。
是は我藝(わざ)の至らざる者は心に動轉 出(いで)易し。去(され)ば不動明王の背なる迦楼羅炎は心火をあらわす。其の火の内に不動、御座(おわします)は、人人の心の動ぜざる體也。諸藝共に不動の體とならざれば其の事(わざ)成り難し。
歌に、

鳴子をば 己が羽風に 任(まかせ)つつ 心と騒ぐ 村雀哉

此の叚、能能心掛け工夫を成す可し。是、心持第一の事也。

明慧上人と解脱上人の件は臨床家として身につまされる話です。
相手は自分を映すかがみであること、我をなくすことの大事ですね。

ともあれ本書では「道歌」という手段を用いて治療家の精神面における成長や成熟を導いていることに注目すべきである。
中国針灸では歌賦でもって要訣を伝承していたことと同様、日本鍼灸古流派の中にはこのような道歌にて伝承していた流儀書がいくつか残されている。

『鍼道秘訣集』に記載されている各道歌についての考察はすでに別記事『鍼道秘訣集に伝わる道歌』にて挙げていますので、本文のみの紹介とさせていただきます。

鍼道五経会 足立繁久

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