『鍼道秘訣集』に伝わる道歌

『鍼道秘訣集』は打鍼術を伝える夢分流の書として有名である。

古文が苦手でもおススメ『鍼道秘訣集』

鍼道五経会講座の【医書五経を読む】の9月回から、抄読会テキストとして使用させていただいている。
当会は古典文献を読むときは基本的に原文を読むようにしている。

しかし『鍼道秘訣集』は比較的 読みやすい。カナも多く、レ点一二点も少ない。『漢字漢文が苦手…』という古文初心者に易しい医古典といえるだろう。

『鍼道秘訣集』のお薦めする点として2つある。

まず一つは、夢分流腹診、打鍼のキホンが学べること。
もう一つは、治療家としての精神性を学ぶことができること。
治療家の精神・こころを学ぶというより、自ずと考え直すことなる…と言うべきか。

同書上巻には「三清浄」「心持ちの大事」という章があり、治療家として人として“心の持ちよう”を考えさせられる内容がある。
その中に道歌がいくつか載せられている。短歌俳句の形で道の教えを説くのが道歌である。

『鍼道秘訣集』にある道歌を以下に紹介したい。道歌には下線を引いてある。
なお詳細な解釈説明は講座にて行っているのでダイジェストという形で紹介する。


『鍼道秘訣集』京都大学付属図書館より引用させていただきました

挽かぬ弓 放たぬ矢にて 射るときは…

「挽かぬ弓 放たぬ矢にて 射る日(とき)は 当たらず しかも外さざりけり」

引かない弓、放たない弓で射るときは当たらないが外すことはない。現代語にしてもそのままである。

この道歌を毎年、講座では当会メンバーに考えてもらうことにしている。
なぜなら歌の解釈はその年ごとに解釈は違うのだ。去年と同じ解釈であるということは、一年前の自分と比べてあまり成長してない…と言える。

私が思うに、この歌には表と裏の表現がある。主観と客観の世界を共に観て見ることが肝要である。
剣術の世界では、かの有名な宮本武蔵や柳生三厳(柳生十兵衛)がそれぞれの書『五輪書』、『月之抄』において言及していることでもあると思う。

当然、打鍼のみならず毫鍼に置き換えても、この道歌の真意は通ずるのである。

三つの輪は清く清きぞ からごろも…

この道歌は「三清浄(三のすまし)」に登場する。

「三清浄」には冒頭にて「この三の清浄(すまし)、心法の沙汰なり」とある。

沙汰とは「善悪、理非を分けること」である。
心の法の沙汰…とはいかに?これが三清浄のテーマなのだ。

「三の輪は清浄(きよくきよき)ぞ 唐衣(からころも) くると念(おもう)な取ると念(おも)わし。」

この歌の元となるエピソードは能の演目「三輪」に於いて伝えられている。神と人との物語が綴られている。興味ある人は各自調べられたし。

夢分流をはじめ日本古流の鍼術には、そして能の世界にも、神道と仏教の教えが織り込まれている。
仏教の言葉に「三輪清浄(さんりんしょうじょう)」の教えがあり、お布施を行う時、施す人・施される人・施す物の三つが清浄でなければならない。
また、三輪は三業でもあり身業・口業・意業を示し、所作・言葉・意識の三業が揃って清浄でなければならない。
前者と後者では視点をずらしてみる必要があるが、この視点をずらして教えを説くのはいかにも東洋的なビジョンだと思える。まさしく「清く清き」なのである。

そしてこれは心持ちだけでなく、医学と医術に反映させているのが夢分流の真骨頂ともいえよう。
基本的な人体観と病理観に、この三つの輪は適応できるし、私自身の臨床でしばしば用いる病理観・治病観である。

浮かぶ瀬もなき身ぞいかんせん…

貪欲心(むさぼりおもうこころ)
「貧欲の 深き流れに 沈まりて 浮かぶ瀬も無き 身ぞいかんせん」

深い欲は自分の身と心を囚えて縛り付けてしまう。心身を軽やかに自在となるには執着しない心が肝要である。
後出の「大水の先に流るる橡(とち)からも 身を捨ててこそ 浮かぶ瀬もあれ」と同義の道歌でもある。

瞋恚の炎に身を焼きて…

瞋恚心(いかるこころ)
「燃え出づる 瞋恚(しんい)の炎に 身を焼きて 己と乗れる 火の車かな」
火の車とは火車のこと、仏教における火車とは罪人を地獄に連行する際に現れるという。
『平家物語』では、平清盛の妻、平時子の夢に、清盛が無限地獄に連行するため火車が現れたという記述がある。

愚痴無智の理非をも分けず…

愚痴心(おろかなるこころ)
「愚痴無智の 理非をも分けず 僻(ひが)みつつ 僻むは一(おなじ) 僻むなりけり」

愚痴は三毒心のひとつ“痴”にあたり、無知で愚かなことを示す。仏教が伝えんとする真理を知らぬ無明の人をいう。
後出のエピソード「全石(僧の名) 憶様(おもうよう) 最早(もはや) 布施をもらい帰るべきか今少し逗留すべきかと思う心出来ける…」これも愚痴なる人の心のあらわれであり、我々臨床家が少なからず日々頭に浮かんでいる心のひとつでもある。
理と非、道理にかなっているのか否か?常に考え自問自答することが大切なのだ。

貪欲・瞋恚・愚痴の三つの毒心を振り返るに、
「人として生まれた以上は欲の無きことはありえない。しかし、重欲心を嫌うのだ。」というように、欲を否定することはない。
欲は希望にもなり、前に進む原動力にもなる。しかし、過ぎたる欲は執着となり、執着に囚われた人は前に進めず後ろ向きになる。

病者を導く治療家としては常に自身を見つめ直すことが大切なのである。

「欲の雲、心中に強きときは心鏡の明なるを覆い暗ますがゆえに、病 心の鏡に移り観える(乗る)こと少しも無し」
「欲の炎 熾(さかん)ならざる時は 吾が心 曇りなき秋の月、明なる鏡の如くなるに依りて、病の吉凶、生死の去来、よく浮かび知るる也」
まさに明鏡止水の言葉である。

地水火風 集まりなせる空な身に…

「地水火風 集まり生(な)せる空(あだ)な身に 我と頼まん物あらばこそ」

地大・水大・火大・風大・空大の五大により死生観を表わす歌。

人の命、肉体は本来 借り物なのである。空は“あだ”と読ませて、空大であり空虚でもある。命はいずれ虚空に還るものであり、老いて死に近づく、死に臨むということは、借りたものをひとつひとつ返している行為なのである。

初めから我が物とすべき命ではない。しかし、人の性として我が命は我が物として執着してしまうもの。特に老いて死が近づくにつれて、その傾向は強くなるのが常である。生老病死の四苦ささらに八苦に寄り添う治療家として、この令和の時代にあった自分なりの死生観を考え直す必要があるのです。

焼けば灰 埋づめば土となるからは…

「暫時(しばらく) 生ある間にて 焼けば灰 埋(うづめ)ば土と成るからは我と立つべき物なし」
執着を捨て去る死生観。前の道歌と同じく。

身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ…

「大水の先に流るる橡(とち)からも 身を捨ててこそ 浮かぶ瀬もあれ」

「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」このフレーズをみたことがある人は多いと思います。時代小説・剣術小説などによく使われていますね。今の子たちはあまり読まないか…。

命を懸けた瞬間だからこそ、生に執着してしまうのが人の性。

しかし、こと勝負に臨んだ局面では、生への執着は却って敗北、すなわち死につながります。そのことを戒めた歌でありますが、これは今の時代でも通用します。
歌に詠まれた通り、溺れる者は藁をもつかむ…ですが、藻掻けばもがくほど溺れてしまうもので、フッと力を抜き流れに身を任せることで浅瀬にたどり着き助かった…そんなエピソードは実際にもよくあることです。

執着を手放すことで、がんじがらめになった状態から抜け出し俯瞰的に自由に物事を見渡すことができる。これは生き方にも治療においても当てはまることです。
治療家も同様に、現場で不自由になる心境はどのような状態か、もしくは自在の境地とはどのような状態なのか?また、そこに至るにはどうしたら良いのか?

死生観から現場の自身の処し方まで学ぶことは多いと言えます。

慈悲 佛、正直は神、邪見ひと、心ひとつを…

「慈悲佛(ほとけ) 正直(しょうじき)は神 邪見者(じゃけんひと) 心一つを三つに云うべき」

これも表と裏の表現があるようにもみれます。
慈悲の心は仏のこころ、正直の心は神のこころ、そして邪見は人のこころ。この仏・神・邪(人)の三つを併せ持つのが人間である。

この神仏人の三要素は、三輪にも通ずる。そして邪正一如の教えにも通ずると言えるだろう。
治療に転じると、この夢分流は邪正一如を体現した鍼法の流派といえる。「邪気をあるべき所に復せば、正気となる」この思想に立った鍼法が伝えられている。

※邪見とは、心理に背いた考え方のこと。自分がいつも一番正しいと思っている人のこと。
この状態になると、自分は悪くないと他者のせいにしたり、自分の正当性に固執し、人の意見に耳を貸さなくなってしまう。

自分自身が“邪見”という要素を持つと自覚することが大事なのである。「自分には邪見がない」と思っている人ほど危険なのだ。
この邪見を否定せずに向き合うことが大切であり、迦楼羅炎と不動明王のエピソードに通ずるものがある。

心と騒ぐ村雀かな…

「鳴子をば 己が羽音に任せつつ 心と騒ぐ 村雀かな」

諸芸に通ずる心得を説く歌とのこと。不動の心境を説く。
この歌の前文に「芸(わざ)の至らない者は心が動転しやすい。不動明王の背にある炎は迦楼羅炎といい心の火をあらわす。その火の中に不動明王は居わす。」とあり、動中の静、転じて静中の動を説いている。臨床家の心境はまさにこの歌の通りとも思う。

心中で鳴子の音が聴こえなくなってしまったら、それはそれで危険なことである。

自分自身の羽風で鳴子を鳴らしてしまう雀、その音のせいで心は騒ぐのだが、それでいて己のすべきことをチュンチュンとやり遂げる(稲穂をついばむ)情景を通して、技芸を行うための心持ちをよく表している歌である。

以上、最初から通覧すると、我欲、執着、愚か、そして臆病・恐れといった人間らしい感情をテーマにしていおり、臨床家のみならず、文中の言葉のとおり「諸藝」に通ずる教えを説く道歌でもある。

 

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