四つの脈の大事
腹診を推しますが脈診についても触れられています。重要です。
目次
その五、四つの脈の大事
『鍼道秘訣集』京都大学付属図書館より引用させていただきました
五、四つの脉之大事
脉は往古(いにしえ)より、七表八裏九道と分つといえども、加様に細かに採り知る人無し。ようよう浮沈遅数の四つを採り知る人も稀也。しかるに、當流の四つの脉は數千萬人の奇特あり。先ず動氣、動氣の亂(みだる)、相火、相火の亂(みだる)と號して四つなり。
動氣と云うは遅からず、トントントンと打ち来たる脉也。
世上にて平脉と號す是也。
動氣の亂とは右述ぶる平脉の内に打ち切れあり。譬えば、トントントンと来たる脉、トントントトントントントトンと加様に打切れする。是の脉を無病なる人得る日は必ず災難に逢うか、扨は大病を得る事、猜(うたがい)無し。
舊(むかし)意齊と古道三、同時の人にて、殊に朋友たりし間。意齊、夢分より傳授し玉う是の四つの脉を古道三へ傳え給(たま)う。其の後、道三、用ありて関東へ下向の折節(おりふし)、道中の今の新井に泊り、日暮れて主の脉をとり観(み)玉うに動氣の亂打ち来たる。道三、下人共を呼び、一人づつ脉を観玉うに何れも災難に逢う脉なりしかば、道三、不思議の念をなし、其の儘(まま)宿を立ち、夜と共に五六里、関東の方へ下向して宿を借り、心を静めて上下の者共迠(まで)残らず脉を観玉うに平脉也。扨も不思議の事哉…と思い給う。
其の夜、新井の山よりして螺(ほらがい)抜け出て、新井の諸人災難に逢うて死する者、數を知らず。其の日、道三 死を逃れ給うも、是の脉 相傳の印也。夫れよりして道三、是の四つの脉を秘して輙(たやす)く相傳し玉う事無くして終に秘し失せぬ。
今、意伯家に傳る此の外加様の奇特、筆紙に盡し難し。仍(よ)りて略す。
扨又、相火(しょうか)と云う脉は、トントントンと成程早く来たる脉也。維(これ)を病人の脉と號す。
相火の亂と云うはトントントトントントントトンと早く来たる脉の内に打ち切れあり。此れを死脉とする。
加様の脉は十人が十人は死すると知るべし。此れ當流の大事なれども、是の四つの脉を知って療治する本道、針醫、謬(あやまり)をせざれば非業の死無き時は大いなる善根と念(おも)い書き記す。
扨、是の脉の観處は手に非ず。臍中神闕に指の腹をあてて打ち来たる脉を観る可き也。是の神闕を當流に三焦の腑と號す。維(これ)又、相傳事也。奥に記す故に略す。
当時の脈診家のレベルはそんなに低かったのか?
夢分流にも脈診術が伝えられている点は実に興味深く、かつ臍中は神闕を中心に脈を診るという。
私自身も一時期、臍の脈を必ず診るようにしていた時期があった。
さて、文中の記述を読んで思うのは、医師・鍼灸師にピンからキリまであるのはいつの時代も共通のこと…とはいえ「浮沈遅数の四つ脈をとる人も稀…」というのは話を盛り過ぎではないか?とも思うところ。
…まぁ四つの脈(動氣・動氣の乱れ・相火・相火の乱れ)と対応させているのだろうと自分に納得させるような解釈をしておく。
御園意斎と曲直瀬道三は朋友だったのか?
さて本項目で最も目を引くのが、御園意齊と曲直瀬道三の両者に接点があり、技術交換をするほどの親交があったというエピソードである。両医ともに正親町天皇、後陽成天皇と同じくして仕えていた(?)ので接点はあったのであろう。
御園意齊(1557-1616年)と古道三こと初代 曲直瀬道三(1507-1594年)、それぞれご存命の年代としては重なり合っているともいえる。
曲直瀬道三は御園意齊から本章の「四つの脈」を教え受けたと本文にはあるが、それが可能となるのは御園意齊が相応の力を備えると推測される1570-1580年以降であろうか。五十も離れている若者から初代道三が脈診の教えを受ける程の朋友ぶりであったのであろうか…。
本書『鍼道秘訣集』以外の両医の交流を記す記録を見つけられなかったため、何とも言えない。
道三の奇妙な冒険~DOSAN’S BIZARRE ADVENTURE~は実話だったのか?
御園意齊直伝の脈診を使って曲直瀬道三は危難から回避、生き延びる事ができた…というエピソードが本項には記されている。これは実話だったのか、賢明なる読者の皆様は気にならないのだろうか?
私は気になる!ということで、ネット情報で分かる範囲で調べてみた。
まず、新井の宿に泊ろうとしたという情報はかなり重要な手がかりである。
京都と江戸を結ぶ東海道に、新井(荒井・新居)宿がある。ちょうど浜名湖付近だ。
さらに「螺(ほらがい)抜け出て」と貴重なヒントが記されている。
法螺貝(ほらがい)と災害の関係については、『繪本百物語』 桃山人夜話にある出世法螺(しゅっせぼら)に記されている。他にも様々な伝承が残されている。(※1)
つまりは地震・津波・高潮・洪水などの災害が起こった可能性が高い。
この地域の歴史を辿ると、1498年に明応地震が最も大きな被害であったようである。
その規模はM(マグニチュード)8.2-8.4。死者は3万-4万人以上になったという。また地形を変える程の被害であったという。この地震によって浜名湖と海がつながったと言われる。(※2)浜名湖と海がつながる場所を今切という。
明応地震以降もこの地域は災害に度々見舞われており、1510年は高潮(暴風雨という説もあり)で今切口が広がる程の被害を受け、1578年には地震が起こっている。(※3)
以上の災害記録から絞っていくと…
1498年の明和地震は論外。道三、意齊ともに出生すらしていない頃である。
1510年も道三は齢三才、脈を診る事はおろか、関東へ下向することも難しい。
「曲直瀬道三は22歳の時に遊学の志を立て、…関東に遊び、…足利学校に入った」とある(※4)が、22歳のときは1529年であり、青年道三が災害に遇うことも難しく、この時はまだ医術を本格的に学んでいない。
となれば、1578年の地震が古道三が遭遇可能な災害であるといえる。道三71歳の頃である。
1545-46年以降、道三は京都に戻り医業に専念し、多くの実績をあげている。その功績を基にやんごとない方々を介して、若き意齊と知りあうことも有り得たかもしれない。
とはいえ1578年に道三が江戸に向かったという記録は見つけられなかったため、逸話の最終的な真偽の判定は難しい。
ちなみに、死脈に気づき難を逃れるというこの逸話はかなり有名な話であったようで、江戸期の書『耳嚢(耳袋)』にも収録されている。以下に抜粋、紹介しよう。
ある医の語りけるは、道三、諸国遍歴の時、ある浦方を廻りしが、
一人の漁家の男、その血気はなはだ衰えたるあるゆえ
その家に立ち寄り、家内の者を見るにいずれも血色枯衰せしゆえ
脈をとり見るに、いずれも死脈なれば
その身の脈をとりて見るに、これもまた死脈なり。
大いに驚き
「かく数人死脈のあるべきようなし。
浦方なれば津浪などの愁いあらん。
早々この所を立ち去りて山方へなりとも引き越すべし。」
と、漁夫が家内をすすめて連れ退きしが、
果たしてその夜、津浪にて浦の家々は流れうせ
多く溺死せるもありしとや。
「病だに知れがたきに、かかる神脈はまことに神仙ともいうべきや」と語りぬ。
以上の逸話では「諸国遍歴」や「浦方」といったようにフワッとした表現になっている。
また登場人物が宿場の(旅籠の)主(あるじ)や下人ではなく、漁師とその家族が死脈を呈する役となっている。
津浪(つなみ)という具体的な災害表現がされているが、ストーリー上に大きな差異はない。伝聞・言い伝えとして話すには、要所をボカしつつもドラマティックに仕上げていると言えよう。
『鍼道秘訣集』と大きく異なるのは「漁師とその家族を引き連れ一緒に避難した」点だと思う。
一人でも多くの命を救った『耳嚢』の道三像に対して、宿の人には何も告げず(実際には何らかの警告はしたかもしれないが)自分だけ五六里も先に避難し、避難先の人間の脈をサンプルとして検脈(ここはまだ良いとして)、挙句の果てに信頼・実績ともに抜群の脈法を秘中の秘とした末に失伝させてしまった…という『鍼道秘訣集』の道三像とは違いがあるように思える。
失伝という点で、道三を弁護するならば死脈の伝承は彼の著書に遺されている。機会があれば触れてみたいと思う。
さて『鍼道秘訣集』に収録されている道三の死脈にまつわるエピソード、この“あげておとす”という展開からはほのかなイメージ戦略が見え隠れするように感じるのは私の愚癡心(おろかなる心)が心鏡を暗ましているからであろうか、反省…。
今回は前記事の「医学観を構築する」というテーマとは関係のない趣旨となったが、こういう調べものも医学を学ぶ上で楽しい要素となる。
但し注意すべきは、本記事後半のように“証拠集め”というスタンスで古典を調べていくと、徐々に見えなくなってしまうものが出てくる。それは脈の本質である。
そもそも「脈とは死生吉凶を占う」ものであり、そのエッセンスはやはり存在すると思われる。「脈に神有るを貴ぶ」もまた然り、心に繋がる脈は則ち神にも繋がるのだ。
『腑に落ちない…』と思う人は、面相に死相があるのと同様、脈にも死脈があるという事でもあると納得するのも一つの方便であろう。
ともあれ災害大国に住む以上、頭の片隅に置いておくべき逸話の一つである。
鍼道五経会 足立繁久
※1;法螺抜け伝承の考察-法螺と呪宝-(リンク)
※2;【時代別】日本の過去の主な地震,ORIGAMI 日本の伝統・伝承・和の心 (リンク)
※3;村櫛の歴史,静岡県浜松市西区村櫛町自治会(リンク)
※4;矢数道明,日本医学中興の祖 曲直瀬道三,近世漢方医学書集成2 曲直瀬道三,名著出版