促脉説(『医学警悟』収録)

促脈に関する情報をいくつかみた中で丁寧かつ分かりやすく記されているものに五足斎を称する宇津木昆台の『医学警悟』収録の促脉説があります。

昆台先生は促脈の端的に表現すると「近・短・蹙・迫・速・催」であるとし、単純に“一止”と解釈するのではないと主張されています。最も促脈のイメージとして分かりやすかったのが本文中の下線部文です。ということで、促脈説を書き下し文にして以下に引用紹介させていただきます。

なお同書は京都大学貴重資料デジタルアーカイブ(富士川文庫)にて閲覧可能です。以下にリンクも貼付しておきます。


以下が『医学警悟』促脉説の書き下し文です。

■附 促脉説

余、嘗て謂らく古今の促脉の解、字義と合せず、又病情と相失せり也。
何となれば古人の所謂二十四脉なる者を観るに両々相い反して、陰陽虚実内外の理、自ずからその中に瞭然たり。
而るに説く者、独り結促二脉を以って同じく一止する者と為す。則ちこれ陰陽相い紊れ、表裏相い混じて、病情字義両(ふた)つながら相い失せり也。
是を以って古人、親験の名状、世に明らかならずや、将に二千年にならんとす。悲夫(かなしきかな)。按ずるに字書に促は近なり、密なり、短なり、蹙なり、迫なり、速なり、催なり。
而して漢晋以来、晩近の脉論方書に至るまで、咸(みな)、脉来たること数、時に一止、復た来たる者を名けて促と曰う、脉来たること遅、時に一止、復来たる者を名けて結と曰う、と謂う。
夫れ結これ止結を為すなり。病情字義、固より自ずから明らかなり。
促を以って止促の義と為すは、大いにその解を失うなり。

余、諸病の者に親しく験ること数十年、頗るその状を得る也。
今、その説を敷演して以てこれを同志に告ぐ。冀(こいねがわく)は病に臨むの際、諸 三指挙按の間に験れば、則ち促脉の義、復た世に明らかなり。
夫れ促脉の状たるや、往来数急、その中時に小数有りて相い間雑せり。
その勢いたるや、蹙促急速、三五不斎なるかな。
而して病たるや、猶(なお)力を極めて奔走する者の状のごとし。
気短胸満、心中不安なり沈黙潜思、これが呼吸を調えてその微妙を察する者に非ざるよりは、豈に能くその髣髴たるを得んや!
凡そ病者、陽気沸騰して外に盛んなるときは則ちその脉、必ず蹙促す。
陰血下陥して裏に澁するときは則ちその脉、必ず止結す。此れ結と促、自ずから陰陽表裏気血の別あり。
豈、陰血と陽気、内外相い隔てて、同じく一止を作するの理有らんや!!
その往来遅渋の中、時に一止する者 乃ち結脉なるときは、則ち流動数急の間、一蹙する者、安んぞ促脉たらざることを得んや!
(脈の往来が遅渋の中に一止するのが結脈であれば、脈の流動の数急の間に一蹙するのが促脉でないなどあり得るか!)

これ陰陽反作変化の由る所にして、所謂二十四脉、相い反して相い紊れざる者なり。
然りと雖も、その時に一蹙する者、甚だ微少にして察し易からず為、指頭が能く意を致すに非ずんば、或いは以って数中の時に一止有る者と為さん。
宜しくそのこれを能く察し、泛然として止促の義と為すことを以ってすべしなり。
唯、字義の不通のみにせずは、又、大いに病情に誤る。病情一誤なるときは則ち治術必ず違う。治術違うときは則ち遂に病者を不可起(起きることができない)に至らしむる。慎まずんばあるべからず。

且つ夫れ古人、唯だ脉促と言いて、その形状を説かざる者は、促の字、以ってその義を盡すに足る也。
然れども説く者の言、一唱して天下後世が悉くその虚声に和し、後進をして促脉の状、何等形容たるかを知らざるに至らしめる。
余、これを以ってその名状を詳審して、以ってこれを同志に告ぐ。こいねがわくば世に促脉の復明されんことを欲する也。

若し後進が諸々の事実を親験して、その病情と字義が相い失わずせしむるときは則ち、余の説 治術に於いて少補と無くんばなし。
又、数にして一止する者あり。真陽外に漏れ、陰血内に亡て而して然るなり。
此れ陽盛の促脈に非ず。結脈の一変する者にして代脈の類なり。

促脈に関するまとめ・考察は『診家枢要』の脈陰陽類成の促脈の項に記載しております。興味のある方はコチラ(促脈とは『診家枢要』より)をご覧ください。
ということで、本記事は引用文のみの紹介とさせていただきます。

鍼道五経会 足立繁久

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