脈がとぶ脉
促脈は“時に一止する脈”と言われています。一般的には「脈がとぶ」といわれる現象ですね。このように「脈がとぶ」脈には結脈や代脈があります。
“脈がとぶ”となると「不整脈かっ!?」「期外収縮というヤツか!」と思いますが、脈がとぶことは東洋医学でみても実に様々な原因や意味があります。
このことを本項の促脈、そして結脈、代脈を通じて学んでいきましょう。まずは促脈の解説から。
脈の陰陽類成 促
促脈とは、陽脈の極み也。
脈の来たること数、時に一止して復た来たる者を促と曰う。
陽独り盛んにして陰と相い和すること能わざる也。
或いは怒氣逆上しても亦 脈促ならしめる。
氣粗を為し、狂悶を為し、瘀血発狂を為す。
又、氣と為し、血と為し、飲と為し、食と為し、痰と為す。
蓋し先ず気熱して脈数なるを以って而して五の者、或いは一つでもその間に留滞有るときは則ちこれに因りて促と為す、悪脈に非ざる也。
然りと雖も、加われば即ち死し、退けば則ち生く、亦(また)畏(おそる)可き哉。
※一有;据文義当作“有一”
促脈の形状
ベースの脈は数脈で時に一止する、これが促脈です。
数脈ベースであるため、陽脈に属します。しかも“陽脈の極み”と称されていますので、ただの陽熱・陽実を示す数脈ではないのです。
促脈があらわす証は「陽が独り盛んな状態で、陰と和することができない状態」です。つまり陰と陽が相い和すことなく拒み合う状態です。この陰陽否格の話は動脈・伏脈でも登場しましたね。陰陽否格に加えて、そのベースに陽熱・陽実があるため「狂悶」や「発狂」といった激しい症状が多いです。なので陽脈の極みなのです。
しかし陰陽否格とはいえ、悪証悪脈ではないケースもあります。陽脈の極みが常とすれば、悪脈ではないケースは変に当たります。
どのようなケースかというと、先ず熱証が土台にあります。その上さらに気・血・飲・食・痰などの病邪が乗っかかり留滞することで促脈が現れるケースです。
宿(元々の体質)に熱を持ち、その上に気実(気滞)や血実(瘀血や血熱)、飲(湿痰・痰飲)、食(宿食)、痰(湿痰・痰飲・湿熱)などが加わります。
このような体質の複層構造化は通常の臨床でもよく遭遇します。元々、内熱伏熱を持ち、気滞や湿熱が加わる…と、そのような病態モデルです。
これだけだと促脈レベルには及びませんが、後から重なる病邪(追い病邪)が一つのみならず二つ三つ四つと重なった場合、もしくは追い病邪が非常に強く重いグレードだとしたら…と考えると促脈の証をイメージしやすいと思います。
とはいえ、この変のケースは悪脈ではありません。ですが病邪の留滞・病毒の痞塞なのでそれが増加すれば、やはりよろしくありません。「加われば即ち死し、退けば則ち生く」とはそういうことなのです。
傷寒論における促脈
また促脈は『傷寒雑病論』にも登場しますので参考までに以下に引用します。
脈来緩、時一止復来者、名曰結。脈来数、時一止復来者、名曰促。脈陽盛則促、脈陰盛則結、此皆病脈。■太陽病上編
21)太陽病、下之後、脈促、胸満者、桂枝去芍薬湯主之。
■太陽病中編
34)太陽病、桂枝証、医反下之、利遂不止、脈促者、表未解也。喘而汗出者、葛根黄芩黄連湯主之。
■太陽病下編
140)太陽病、下之、其脉促(一作縦)、不結胸者、此為欲解也。…
「ベースが数脈で時に一止する脈を促脈という(脈来数、時一止復来者、名曰促)」という点では『傷寒論』と『診家枢要』の間に差異はありません。また陽盛の脈であることも同じ趣旨であると思われます。
しかし傷寒論を解釈する歴代医家たちには「一止する」という表現に異を唱える方が多いようです。
宇津木昆台や浅田宗伯、森立之はその代表といえるでしょう。(敬称略)
浅田宗伯は「…(略)…促とは、脈来数時一止復来の促に非ず、又、数脈の謂に非ず。即ち短・促・蹙の義…」(『傷寒論識』桂枝去芍薬湯の条文)という註文を遺しています。
「促脈の一止に異議有り説」で特に丁寧かつ分かりやすく説明されているのは宇津木昆台の『医学警悟』脉候辨の中に附記されている「促脉説」です。
これは長文になりますので、別記事にて紹介させていただきます。
『促脉説』(宇津木昆台 著)の言葉を引用させていただくと「脈の往来が遅渋の中に一止するのが結脈」「脈の流動の数急の間に一蹙するのが促脉」という、この対比は非常に分かりやすいと思います。
同じ“一止”という言葉でも、互いの条件が異なります。促脈の条件は「流動の数急」であり、結脈の条件は「往来の遅渋」です。それぞれの「止」の意味するところがまったく異なるということでしょう。
脈数や拍動といった“数字の意味で脈がとぶ”ことを示す言葉として、現代でも結代脈が使われていますが、促脈が用いられないのはこのような意味もあるのかもしれませんね。
ジブリ絵から促脈をイメージしてみよう!
促脈は数脈がベースにあります。陽熱のため脈が速いのです。しかもただ速いでなく脈と脈の感覚が狭まりつっかえるようなイメージです。浅田宗伯先生のいう「短・促・蹙」といった文字から私はそのようなイメージを受けました。
数脈を“走ること”に譬えるとするなら、促脈のイメージはこんな感じ
ジャスト!なシーンではないのですが『千と千尋の神隠し』より
イラストa、千が雨どい?パイプの上を走るシーン。
これと類似のイメージに「千が階段を駆け下りるシーン」もあります。
ただ普通に走るのと、これらシーンのように足場が限定されるのとでは走り方が異なります。
普通に走るのはこんな感じ ↓ 『となりのトトロ』より
イラストb、中小トトロを追いかけるメイちゃん
足場が少々デコボコしようが トンネル内であろうが、制約制限を受ける印象はない。
しかし、イラストaのように、足場が限定されると足運びや足の回転数が変わります。
もしくはラダー・トレーニングのイメージの方が分かりやすいでしょうか。
但し、千のパイプ疾走にせよ、ラダートレーニングにせよ、元気な人が走ると病的なイメージを持つことは難しいですね。
そんな場合は「運動会あるある・父兄の徒競走」を思い出してみてください。
毎年必ず1人2人はコーナーあたりで足がついてこずに転倒しますよね。
この時の足がもつれて、つんのめる直前あたりの足運びが促脈イメージに近いと言えましょう。
鍼道五経会 足立繁久
以下に原文を付記しておきます。
■原文 脉陰陽類成 促
促、陽脉之極也。脉来数、時一止復来者、曰促。
陽獨盛而陰不能相和也。
或怒氣逆上、亦令脉促。
為氣粗、為狂悶、為瘀血発狂。
又為氣、為血、為飲、為食、為痰。
蓋先以氣熱脉数、而五者或一有(※)留滞乎其間、則因之而為促、非悪脉也。
雖然、加即死、退則生、亦可畏哉。
※一有;据文義当作“有一”