栗園医訓五十七則(橘窓書影より)その2

鍼灸師も必見!の医訓

浅田宗伯の「栗園医訓五十七則」の二回目です。
漢方のことをよく知らない鍼灸師でも読みやすいかと思います(たぶん…)。

それにこの「医訓」を読む目的は漢方の勉強ではありません。臨床現場における診断について、そして治療家としての心構えを学ぶのです。
ですから鍼灸師は自身の現場に置き換えて読むもよし、鍼灸に置き換えて読むもよし。東洋医学全般に通ずる医訓を浅田先生は遺してくれています。


『橘窓書影』画像は京都大学付属図書館より引用させていただきました。
※以下、青枠内が本文です。

その18、治療とは偏性を持つ

一、 薬は偏性の者なり。無毒平淡の品と雖も、攻むべきの病なければ妄りに用ゆべからず。況や有毒酷烈の品に於いてをや。

薬は毒。これは『素問』にも書かれています。
なぜ毒なのか?
浅田宗伯が書いてあるように「偏性」を持つからです。

薬性・薬能を持つ以上は何か偏りを持っています。
病という偏った状態を反対方向に動かすことが治療だといえます。
虚から補へ、寒から熱へ、といった具合です。

もちろん、これは刺鍼、施灸も同じ。
このように考えると、鍼するたび灸するたびに「人体の気水血は振り回されている…」ということを認識する必要があると言えるでしょう。

その19、病の宿を知ること

一、 病者は必ず其の宿疾を詳らかにすべし。風家、喘家、淋家、酒客の類、是れなり。

宿疾を把握することは診断に於いて重要です。鍼灸師の世界では診断用語に「本治」とあります。概ね根本的な体質を指して言うことが多いように感じます。しかし、根本的な体質とは何を指しているのでしょう?

現症状の本体となる原因体質なのか?
それ以前の素体として体質なのか?
両者を不明瞭のままに診断を終わらせている感は否めません。

この問題が浮き彫りになるのは外感病の時です。そのため「風家」「喘家」「淋家」「酒客」の類、と挙げられていますが、これらは『傷寒論』太陽病編に登場する言葉で、外感病に罹る以前の体質を指しています。

『傷寒論』ではこの他にも「瘡家」「衄家」「亡血家」「汗家」などが記されています。これらの情報から、この患者さんは平素からどのような状態(表裏や上中下における氣血津液の虚実)にあるかがある程度は把握できるのです。

慢性疾患の治療経験が多く、外感病を治療する経験が少ない方だとちょっとイメージしにくいかもしれませんが、この観かたになれると外感病に限らず病態把握に関して立体的かつ経時的に捉えることができるようになります。

体質というのは年輪や地層のように積み重なっているものです。それでいて正氣・病邪は生き物のように動き変化しますから、その変化の軌跡をトレースして、居場所を検証把握し、且つ動きを予測する必要があるのです。それが診断というものだと思います。本治とひと言にいっても、実に奥が深いものですね。

その20、他山の石とは木組みに通ず

一、 貴薬を重して賤味を軽すべからず。
他山の石 玉を攻むと云うこと苓 時ありて帝と云うを玩味すべし。

薬品・生薬の貴賤で効能を判断することを戒めています。当然、鍼灸の治療にも通用する言葉だと思います。

他山の石、玉を攻む(※1)とは『詩経』の言葉で、現在でも慣用句「他山の石」として使われます。
「価値の低いものでも、自分の徳を積むため、自分を磨くための助けや糧となる」と、そんな意味でしたね。

これと同様に「どんな安価な生薬でもそれなりの役割を果たす」…という解釈すべきでしょうか?
この解釈には私はどうもしっくりきませんでした。
代わりに思い浮かんだ言葉が「堂塔の木組は寸法で組まず 木の癖で組め」「木の癖組は工人の心組み。」という宮大工の教え・口伝です。(※2)
経穴にも鍼にも、さらに言うと鍼灸師にも、それぞれに癖(特性)があります。それらをすべて把握して一つの治療を組み上げるのがプロフェッショナルの仕事であり、治療の醍醐味でもあるのだと思います。

※1;「它山之石、可以攻玉」他山の石、以って玉を攻(みがく)べし『詩経』より
※2;『木のいのち木のこころ 』新潮文庫、『棟梁-技を伝え、人を育てる-』文藝春秋 より、法隆寺大工、斑鳩大工に伝えられる口伝として紹介されています。

その21、胃気の重要性は湯液も鍼灸も

一、 諸病ともに胃氣の旺衰を視るべし。故に傷寒論中、往々 胃気を論じて諸症の段落とす。

胃氣の旺衰は非常に重要です。

内服する湯液は胃腑にまず入ってから薬効を発揮するため、胃氣に拠る治法といえます。
体躯四肢の経穴に刺激する鍼灸であっても、胃氣に拠る治法だといえます。経絡の流注を考えるとそれは一目瞭然と言えるでしょう。
鍼灸医学がどのような生理学を基に構築されているかを理解すると鍼・お灸の用い方が自ずと変わることでしょう。

その22、脈を診るということは…

一、 病は気血の變なり。脈を診する尤も氣血の盛衰を察すべし。

夫れ病の虚實、邪の進退及び生死之訣、皆 脉に於いて之を験するときは氣血の先規と謂わざるを得ず。且つ脉の變を知るとは裏熱外熏の證、邪結上焦の症、血分灼熱の證、虚寒陽越の症、皆 脉をして浮ならしむ。病 表に在りて、熱 外に盛にして浮を為す者と自ずから異なり。是、其の一端なり。

病とは氣血の変調、不和、虚実で起こります。このことを言い換えると、病の萌芽(いわゆる未病の状態)であっても、終末期・ターミナルの状態であっても、同じく氣血の偏差をみるしかありません。

氣血という単位でみると脈を診るという診察法は、氣血を一つの最小単位としてみる病理観・治病観において、非常に優れた診法となるのです。このことを浅田宗伯は言及しています。

そもそも東洋医学の人体観において「脈を診る」ということの本質を我々鍼灸師は理解すべきでしょう。

これが分かれば、氣・水・血の変動、表裏、内外、上中下、臓腑と経絡…の詳細な病位や虚実の偏差が理解できるようになるでしょう。

その23、湯液と鍼と灸と、それぞれの機能を理解すべし

一、鍼灸は輔治の要術なり。痼疾もっともその治効を明にすべし。
按ずるに鍼は瀉に属し、灸は補に属す。
千金 小児門 炙癇 當に先に下し、児を虚せしむ。すなわち虚を承り之に灸す。
未だ下さざるは実あり、
而して灸する者は気が逼迫して前後通ぜず。人を殺すと徴すべし。

漢方(湯液)と鍼灸の併用において、浅田宗伯は鍼灸治療は補助的な治療として非常に有効であるとしています。
そして「鍼は瀉法に属し」とも言っており「鍼に瀉ありて補なし」のスタンスに近しい立場のようです。

そして灸治は補法に属するとみています。『備急千金要方』の小児門の一文を引用しています。(※)

千金方の唐代、そして浅田宗伯の頃の江戸期と、そして現代とで比べると、鍼の質は大きく変質しています。
ですので「鍼は瀉に属する」も良くも悪くも変わっているでしょう。このことを踏まえつつ、鍼・灸の本質や機能を考えるべきでしょう。

※「凡そ癇に灸するに、當に先に下して児を虚さしむるべし、乃ち虚を承けて之に灸せよ。未だ下さざるは実有り、而して灸する者は、氣逼して前後通ぜず、人を殺す。(■原文 凡灸癇、當先下兒使虚、乃承虚灸之。未下有實而灸者、氣逼前後不通殺人。)」(『備急千金要方』巻五 少小嬰孺方 驚癇第三より)

その24、不治と不順

一、 諸病に不治の證、不順の脉と云うことあり。心得うべし。

14則目にあった、「順険逆(易治・難治・不可治)」のことを指しているのでしょうか。

不治の証とは、不可治。どのような症状であっても不可治(逆証)はあるということ。
そして不順とは順ならず、14則でいうと険(難治)にあたるのでしょうか。

いずれにしても、油断することなく脈を診、診断せよということでしょう。

その25、判断がつかないときにしてはならないこと

一、診定しがたき病人に妄りに薬を施すべからず。

最終的な判断がつかないとき、迷いのあるときは安易に処方してはならぬ!と戒めています。

とはいえ、臨床の現場では『最終的な判断を下すためには、あと一つ…確証が欲しい!』というときもあります。
そのような時には私は「かけ引き」をします。
「この経穴にこのような鍼をしたら、脈はこのように反応するはず…」と、その反応の次第で『あー、この人は今このような病態にあるのだな。』と判断できます。

夢分流『針道秘訣集』にある「問い鍼」ですね。

このような手は漢方にもあるようです。
「中将湯診療所の吉村得二という医師が、慢性で治りにくい患者にまず1週間桂枝茯苓丸料を飲ませて、その後の随証の漢方を投与したことも記されている。」(※)

以上のように“かけ引き”としての読み・計算された上での一手は可だと思いますが、訳も分からず「とりあえず…」という選択は鍼でも灸でも漢方でもアウトでしょう。

※引用文献;「症例により漢方治療の実際」創元社、松田邦夫 より

その26、小児特有の生理と病理を知るべし

一、 小児に専疾あり。亦 専薬を施すべからず。
胎毒、解顱、癇、馬脾の類これなり。薬も亦 巴豆、馬明、鼹鼠の類。大人に用いるときは効を異にするものあり。

医学に小児科があるように、鍼灸には小児はりのジャンルがあります。

とはいえ、小児科医学を基盤とした小児はりが現在行われているケースは稀少かもしれません。
浅田先生が仰るように、小児には専疾があります。その原因となる要因の一つが「胎毒」という病因(伏在性の邪気)、そして小児特有の体質が重なることで、大人には見られない症状が発生するのです。

老若男女で同じ症状でも治療が異なる。これは譬え発熱でも同じことが言えます。いわゆる「同病異治」ですね。

※鼹鼠(あんそ)とはモグラのことです。
※胎毒については『医道の日本』最終巻で「胎毒からみえてくる伝統医学の小児科」前編後編を寄稿しています。小児はり・小児科医学に興味のある方はぜひご一読ください。(関連記事はコチラ

 

おすすめ記事

  • Pocket
  • LINEで送る
  • このエントリーをはてなブックマークに追加

コメントを残す




Menu

HOME

TOP